・・・ 廃な鉄ネタ、3本立て +α ・・・

 先の太平洋戦争以前に武蔵野市に存在していた中島飛行機武蔵製作所。その引込線跡は今では @グリーンパーク遊歩道になっています。 そして津久井の山中になぜかA廃な貨車が捨てられています。 最後は鶴見線にかつて存在したという廃駅B本山駅の跡をレポいたします。 そしてもう一つ、C京急平沼駅の跡を追加しました。 さらにDドリームランドモノレール跡をこのページに移動しました。
 
(2007年 6月:記)
(2007年 8月:追記)
(2009年10月:グリーンパーク遊歩道について誤りを修正)
(2012年 6月:京浜急行平沼駅跡を追記)
(2021年 7月:ドリームランドモノレール跡を他から移動)

 【グリーンパーク遊歩道】
 JR中央線三鷹駅から北に向ってほぼ2kmほどのところに武蔵野中央公園があります。 そこに向ってグリーンパーク遊歩道が整備されていますが、それはかつてグリーンパーク球場があったころの アクセス路線としての国鉄武蔵野競技場線の廃線跡です。

 中島飛行機武蔵製作所への引込線は三鷹駅からではなく 武蔵境駅から分岐していました。そして終点は関前橋付近まで行って現NTT研究開発センター側に カーブしていました。(上の図の青線です。赤線は武蔵野競技場線です。)
 戦後しばらくして、この地にグリーンパーク球場ができたときにかつての引込線の一部を利用して 三鷹から球場までを結んだものです。

 三鷹駅の西側数百mあたりのところから分岐した武蔵野競技場線跡は玉川上水までの間、 つまり三鷹市内ということになりますが、そこは堀合遊歩道と名付けられています。 堀合児童公園にその入り口があって、遊歩道は右にゆるくカーブしながら玉川上水にぶつかります。 ここを渡るには少し上流側に移動して大橋という橋を利用します。

 玉川上水を越えて武蔵野市側に入るとグリーンパーク遊歩道と名前を変えます。 この廃線跡で最も重要なのがこの場所だと思うのですが、単線幅でコンクリート橋がかけられていた跡が見られ、 最も色濃く遺構が残っているともいえます。 (拡大画像)(注:玉川上水の北側から南側を見た画像です)

 グリーンパーク遊歩道は境浄水場の脇をほぼ北に向って進み、五日市街道を横切ってから ゆるく右にカーブし武蔵野中央公園入口のところで終わってしまいます。この先はもう少し球場側に近づいて 都営緑町団地のあたりが武蔵野球場前駅と思われます。全長約3.2kmの単線区間でした。

 武蔵野の緑が美しいのどかな畑地であったこの地に、昭和13年、中島飛行機株式会社が大規模な工場を 建設しました。工場はこの公園やNTT開発センター(旧電気通信研究所)、 武蔵野市役所までも含む広大なもので、陸軍や海軍の航空機用エンジンが生産されていました。 このため戦争の激化に伴い、米軍による最大の攻撃目標となってしまい、 多くの空襲で壊滅的な被害を受け多数の犠牲者をだしてしまいました。

 戦後、工場は閉鎖され進駐軍宿舎ができたのです。この米軍宿舎を「グリーンパーク」といったのです。 その後の昭和25年になってにグリーンパーク球場ができました。 場所は現在の市役所の西側にある住宅地の中の円形の道路部分です。球場への足はこの引込線が活用され、 路線名を武蔵野競技場線といって昭和26年に開業しました。ところが球場自体は1シーズンしか使用されず、 昭和34年に廃線となってしまいました。

 米軍宿舎は昭和48年に返還が実現し、平成元年になって都立武蔵野中央公園が誕生、 半世紀を経て再び緑の美しい「原っぱ」に戻りました。(一部「都立中央公園の歴史」案内板より引用)

 ところで武蔵境駅から引込線ですがグリーンパーク遊歩道側への痕跡は全く見られません。 一方の境浄水場に向った鉄道引込線は本村公園として線路跡の遊歩道が残されています。 玉川上水を渡るところで同様の遺構があるのですが、こちらについては樹木が茂っていてうまい具合に 見通すことができません。

 



 【津久井の山中に廃な貨車】
 かつての国鉄時代に数多く見られたもののひとつに貨車があります。機関車や客車は比較的たくさん 保存展示されているのですが、貨車はどうしてしまったのでしょう。トムやワム、ワフ、ほとんどが廃車、 解体されたと思うのですがなかには倉庫などの用途のために民間に売却されたものがあるといいます。 (参考:米子市で見つけた廃な貨車(2005.9)

 たぶん、これもそのうちの一つだと思いますが、 神奈川県津久井郡藤野町の山中に「ワフ29000形有ガイ緩急車」が粗大ゴミのようにして捨てられていました。 山中といっても交通量が少ないものの県道です。その道路脇にあるので探すのに苦労はしません。
   【参考文献】
 (1) 東京人no.195 特集:国鉄のおもかげを求めて(都市出版梶j

 【鶴見線の廃な駅】
 鶴見線といえば首都圏の中にあってもわりとマイナーで、そしてユニークな面白い路線だといえます。 その前身は鶴見臨港鉄道といって、もともとは京浜工業地帯の貨物輸送を主体にしていました。 やがて旅客輸送も開始され、その後に国有化されたのです。工業地帯らしく複雑な分岐路線があります。 廃駅については現在はっきりと残されているのは本山駅跡のみです。
 京浜東北線の鶴見駅の北側に高架になった鶴見線の駅があります。おなじJRでありながら 乗り換えに際しては改札機を通らなければならないのですが、これは鶴見線の全駅が 無人駅であることによるためです。朝夕のラッシュ時以外は3両編成の電車が閑散としたダイヤで運転されています。

 鶴見駅の西口を出て鶴見線の高架に沿って横浜方向に5分ほど歩いたところに「総持寺踏切」があります。 この踏切りは横須賀線、京浜東北線、東海道線、JR貨物線を通す11本もの線路を渡るもので、 拝島の踏切り(127m:日本一)に次ぐ長さの踏切り(60m)です。 (注:拝島の踏切りはすでに2009年5月31日、閉鎖されました。)

 ほとんど開きそうにないこの踏切りのために脇には跨線橋(総持寺跨線人道橋)があります。 そこに登って高架になった鶴見線の上を覗いてみると本山駅の跡を確認することができます。

 本山駅跡の高架下は現在バス会社の車庫に利用されているのですが、ちょうど駅の真下と思われる位置に 階段下に相当する斜めの構造物が見られます。

 そして鶴見線に乗り込み、電車の中から本山駅跡を撮影してみました。ちなみに本山駅の名前は 近くに総持寺曹洞宗大本山があることからつけられています。

 
 鶴見線は今もって工業地帯従業員のための路線であり、一般の乗客は少ないようです。 それだけに知れば知るほど面白い、いわゆる鉄チャン好みの路線です。
 また鶴見駅に関してもこの付近の貨客路線がこの場所で絞られている関係でここを通過する列車は 非常に多いのです。総持寺踏切が開かずの踏切りであるのも頷けます。 特に貨物列車は多数運行されているので貨物好きにはたまらないポイントだと思います。

参考:@鶴見線国道駅
    A拝島駅の長い踏切り



 【京浜急行 平沼駅の跡】
 この廃駅は京浜急行本線の横浜〜戸部間にあります。電車オタクの端くれとして京浜急行の先頭車両に 乗るたびに目にするこの廃な駅のことはかねてから知っていました。かなり最近まで、 と言っても実際は1999年(平成11年)には撤去されていますが鉄骨でできた屋根組みまであったのです。
 


 ところが車両2両分のこの短い廃駅の全体を見渡せるよい場所がありません。 付近のビルに立ち入らせていただく必要があります。やむなく下から、 あるいは工事用目隠しパネルの隙間などから覗くしかありませんでした。(上からの画像は こちらなどで確認できます)

 今なおこの駅が撤去されない理由はホームの構造が本線の高架構造と一体になっているためだそうで、 おそらくこの先もしばらくこの状態が続きそうです。電車からはほんとに瞬間的で分かりにくいのですが ホームから下りる階段も認められます。

 高架橋の駅周囲の柱には今もってタイルが貼られていた跡が残されています。 また柱の隙間からは階段構造も確認できます。
 この駅は1931年(昭和6年)に開設されたものの1943年(昭和18年)に不要不急の駅として 営業を休止しその翌年に廃止されました。不幸にも翌1945年(昭和20年)5月に 横浜大空襲がありこのとき駅もろとも消失、壊滅的な被害を受けたのです。

 この駅は鉄道遺構というよりも横浜大空襲という戦争遺跡として見るべきと思います。 500機前後のとてつもない数のB29爆撃機による焼夷弾投下により、 すっかりと焼け野原になってしまったこの界隈で今もって煤けた構造体が残るのは貴重だと思います。

 



 【横浜ドリームランドモノレール】
 JR東海道本線大船駅を降りて西口、つまり大船観音側に出ると柏尾川があります。 その川に沿って東京方面に少し行くとモノレールの橋脚が建っているのが見られます。 これはドリームランドモノレールといってかつて大船駅と「横浜ドリームランド」の 間を結んでいました。 1966年(昭和41年)5月に開業したのですが、約1年半後に構造物の亀裂や車両の重量オーバー等の事情により そのまま休止してしまいました。
 路線距離は国道1号線を超えて全長5.3kmです。正確には今でも休止中らしいのですが 再開されることなく、すっかり廃線状態です。細身の柱とレールは他と比べて弱々しく、 どことなく寂しげでした。横浜ドリームランドはすでに(平成14年2月17日)閉園されていて、 モノレールのこの 橋脚も取り壊し予定であることを知りました。
 (2002.2.2)



 その後、上の画像の橋脚は撤去されました。 横浜ドリームランドの跡地は公園や横浜薬科大のスタジアムになっており、ドリームランドモノレールの軌道も 完全に撤去されました。できればその前に探索しておきたかったと悔やまれます。
 (2007.4.1)



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