『失業者で、考えた』 2000年7月6日
先日仕事の関係で、とある大手電機関連会社の工場に行って、あまりにも多くの日系人出稼ぎ労働者の数に驚いた。ざっと見てもその工場で働く半数以上が、南米からの出稼ぎ労働者と思われる。朝の朝礼からしてポルトガル語の通訳が入り、昼休みに目の前を通り過ぎる工場作業員も、殆どが日系人、それも何故か女性が目立った。今の日本は不況である。失業者は四パーセントを越えている。日本人が仕事を探すのも大変なのに、果たしてこの光景は良いのだろうかと考えてしまった。いや、もしかしたら、まだまだこの国には余裕があって、現実的には労働者が不足しているのだろうか。
<オーストラリアから>
私が世界を歩いた1980年代は、オセアニア、ヨーロッパ、アメリカと、各国で失業者問題を抱えていた。特に若者の失業者問題は深刻で、私も各国でその現実を目にし、その影響を直接受けたわけだ。
オーストラリアではその当時、失業者数は最高で11パーセントまで上がり、私の多くのオーストラリア人の友達も、テンポラリイ(臨時)な仕事も取れず困っていた。私も何度か仕事を貰いに行ったことがあるが、テンポラリイのジョーブ・オフィース(職安)に朝五時過ぎから並んでも、その日の仕事にありつけるとは限らなかった。また、中学校から高校への進学率が50パーセントを切る現実では、人材が不足気味の専門職にはつけず、一般職や工場などのシーズン・ワークを求める人間の方が多かった。そんな状態なので、本当に多くの若者達が毎日の生活に困っていた。
日本にあるかどうか知らないが、ハリー・クリシュナという宗教団体は、町中で無料の夕食サービスを貧しい人やお金のない人のためにおこなっている。私もこの団体の施しには何度かお世話になった。皿とフォークを持参して、またはパックを持っていくと、ベジタリアンだがなかなかおいしい食事にありつける。貰った食事をガレージの隅で食べながら、何度となくオーストラリアの若者達から苦しい生活の現状を聞かされたものだ。
そんな中で、いまだに名前を忘れないケニーとクリスという、ピッキング(フルーツや野菜の収穫作業)を仕事にして、オーストラリア中を廻っているカップルの友達にいた。不況の中、もがきながらも一生懸命生きていた彼らのことは、ある出来事と共に、良い思い出となって残っている。
私が彼らと友達になったのは最初、ビクトリア州のシェパートンという小さな町だった。そして奇しくも半年後、二度目の再会をしたのは、クウィーンズランド州北部の小さないなか町だった。ヒッチハイクで車から下ろされて、その町なかをぶらついていてばったり出くわした。彼らはトマトのピッキングにその町に来ていたのだが、その年の長雨で、ここ十日ばかりはまったく仕事にあぶれていると、再会した時に聞かされた。私は再会したその夜、彼らに勧められて、彼らが世話になっているサルベーション・アーミー(救世軍)の宿舎に、彼らと同様に無料で泊めてもらうことにした。
サルベーション・アミーは許可を得れば無料で泊めてもらえるが、食事は出ない。その夜、私は彼らに夕食をどうするか尋ねた。だが彼らは、自分達は食べないから私の事だけ考えろと言った。その様子がどうも変なので、私は理由を尋ねた。そうすると、どうも彼らは三日ばかり、お金がなくて何も食べてないようだった。ケニーはごく普通の家庭で育った男だ。だがクリスの家は結構なお金持ちで、両親はその場所からそれほど離れていない所に住んでいた。ケニーはどうでもよかったが、クリスには、正直言ってほだされた。そして、何と良い強いカップルかと思った。勿論その夜、私は二人に出来る限りの食事をサービスした。
その当時オーストラリアは、自国に眠る豊富な資源を切り売りするだけで、千数百万人の人口を食べさせていける国と言われていた。経済状態はいいとはいえなかったが、それでも失業者に対する保護は厚く、失業していさえすれば、毎週最低限のお金は政府から貰えた。そのせいか、中には政府のずさんな失業者管理を利用して、名前を変えて二つの場所から失業者保険を取っていたけしからん奴もいたし、仲間とフラット代や生活費をシェアーしてお金を浮かせ、ビールだけはたらふく飲んでいた奴もいた。そんな奴らに比べれば、この二人は何と愛すべきカップルといえるだろう。
<イギリスから>
イギリスでその不況さを最も身近に感じた光景は、その日に倒産なり工場を閉鎖した会社から発生した失業者数を、テレビのニュースで逐一流していることだった。”今日はどこの工場が閉鎖して、そのためにこれだけの失業者がでた”とやられると、見ている国民は必然的に不況を感じるし、プレッシャーを感じるだろうと思ってしまった。だからロンドンの街にも、スコットランドやウェールズ、中にはアイルランドからも、職探しに来ていた人間が沢山いた。私はそんなイギリスの若者達と、ユース・ホステルや安いホテル・アパートメントで沢山知り合いになった。
そんななかにアンディーという、私と同世代の白人で、見た目はバリバリの英国紳士風の若者がいた。
彼は自分が、私と同じ建築のエンジニアーリングの仕事をしていると言って、随分親しげにちかずいて来た。最初は程々の知識もあり、性格的にも決して悪くない人間だったし、周りの同じようなイギリスの若い失業者連中にも悪い奴はいなかったので、私は結構良い奴だと思って付き合った。ただ、彼は生粋のロンドンっ子ではなく、イングランドの地方から出てきた人間で、彼の話によると、両親と妹は、両親の仕事の関係でアメリカに住んでいて、彼だけ自分の希望でイギリスに残ったらしかった。
アンディーはとにかくよくこまめに動く男だった。最初の頃、ロンドン散策についてきては、あそこ、ここと、よく説明をしてくれたし、ユースのキッチンでもよく一緒に食事を作ったりもした。だが、慣れて来るに従って、五ポンド、十ポンドという単位で、お金を借りに来るようになった。
イギリスに入って間もない頃の私に、経済的余裕などあるはずもなかった。ヨーロッパに入って、まずオランダで職探しの壁にぶつかり、どす黒い運河の水面を憔悴した気持ちでみながら、”ここまで。明日は日本に助けを求めよう。”というとこまでいき、イギリスでもさらに厳しい職探しの現実にあい、同じ状況下で諦めかけると、何故か両国で、最後の最後にキーマンが現れ、その人の紹介で仕事にありつけたのだった。財布が空の状態で仕事を始めて間もない頃の私に、五ポンド、十ポンドは大きかったが、返済日まできめて頼み込んでくる彼に、クビをヨコに振って断る事も出来なかった。
私が彼に貸したお金は、彼の食事代やその日の宿代程度を数度だけである。だが、結局彼がそれを返してくれる事ははなかった。彼が勤め先だと言っていた会社に問い合わせても、彼の存在すら知らないと言われる始末だった。表面的にはスーツを毎日着込んで出かけていた若い英国紳士は、いったいなんだったのだろうか。そして、いつの間にか、彼はみんなの前から姿を消していた。
あの当時、本当に多くのイギリスの若者は、仕事がなくて病んでいたように思う。イスラエルのキブツに、ボランティアとして集まって来ていた世界の若者達の中で、イギリスからのボランティアの数は群を抜いていた。彼らに聞くと、一様に、国にいても仕事がないという返事ばかりが返ってきた。アンディーの名前と顔は今も忘れていない。もう全ては終わったことだ。ただ、もし彼が私と本当に同業の人間だったら、私は彼らの仕事を、イ・リーガルな立場で奪っていたことになる。本当に深刻な失業の現実を知ると、非力な一人の人間でも、少しは罪を感じる。
本当に不況がひどくなり国民の生活がせっぱ詰まってくると、不満の矛先が時として弱い立場の出稼ぎ労働者や不法労働者に向けられることが、過去他の先進国であった。今の日本の現状は、それらに比べれば、まだまだはるかにましといえるのだろう。私が海外で聞いた、若者達のうめき声に似た叫びは、まだ、この国では聞こえてこない。