『国境で考えた』 2000年6月21日
イギリス・ドーバーの港で、密入国と思われる五十八人の中国人が、コンテナの中から遺体で見つかった、というニュースが入った。あれだけ日本にも来ているのに、これを見ると、中国の人達はどうも世界中の主だった先進国には、殆どアプローチしている感じだ。

中国人は何よりも家族を一番に考える。一人の人間がうまく入り込めて、そこに定住できると、後は家族をいもずるしきに呼び寄せる、という傾向が強い。国、社会よりも家族、仲間意識が強いため、どうしても世界各国で問題になる。

余談だが、私がアメリカに居た頃、一人の白人男性が中国人街に出かけた。彼は当然のように相手に英語で話しかけたのだが、その時受け答えした中国語しかできない親父が、まずいことに、中国語が話せないなら帰れ、とやってしまった。このことは新聞でも取り上げられ、大きな社会問題にまでなった。立派なのだが、中国人は日本人のように白人にへらへらしない。これからも中国の人はまだまだ海外に出ていきそうな感じだが、果たして国際感覚を持たないでお出になって、問題の火種に成らないことを祈りたいものだ。

しかし、私はこのニュースを聞いて、こんな事とは違う他のことを思った。それは、この密入国の人達は、国境なり入管の壁を前にして、いったいどんな心境でいるのかということだ。国から国への渡航、入国検査、不法滞在。実は私が世界を廻ったとき、私が最も緊張をしいられたのが、この壁を越える時で、私は密入国はしていないが、常にこの壁には神経をとがらせていた。

”何年かけてもいいから世界一周をしよう”と思い立った時は、それが可能で易しい事だとは決して思わなかった。だが、日本を出る前に、一応はその準備として、ひとつポイントとなることはしていた。それは、アメリカのビザを取り直す事だった。

その時持っていたパスポートにあるアメリカのビザは、二年後には切れることになっていた。海外のアメリカ大使館で、申請に必要な諸条件を満たしてビザが取れる確証はまったくない。だから私は出発前にパスポートを取り直して、アメリカの五年間有効の観光ビザも取り直した。但し、五年以内にアメリカに入るというのが、ここで絶対条件になるのだが、結局は、こうしたことがよっかった。アメリカという国に無事入国というところまで至れれば、私の旅は成功しているにちがいないからである。そして、これから向かう国の中で、最も高い入国の壁になりそうなのがアメリカだとふんでいた。

私が最初に向かった国はオーストラリアだった。これは単にこの国のワーキング・ホリデイ・ビザが取れて、資金調達、英語力向上という面で、一番楽な国だったからだ。ただ、長期滞在となればやはり落とし穴がある。オーストラリアに一年居てビザが切れたとき、私は隣国のニュージーランドに出た。やり残した事もあり、ニュージーランドでもう一度オーストラリアのビザを取り直し、この国に再入国したかった。しかし、一年も滞在した人間へそれ程簡単にビザを発給してくれるはずもない。だから私は考えた。何か良い方法はないものかと。これから書くことは、今はもう時効と思って聞いてもらいたいのだが、私はウェリントンのオーストラリア大使館で嘘をついた。実はシドニーの日本大使館で婚約者が働いていて、帰国前にもう少し話しておかなければならない事がある。そのために、もう数ヶ月間オーストラリアに居たいのだが。と。(この時話を聞いて下さった女性の大使館員の方、本当に話を聞いてくれてありがとう。でも内心はらはらだった。)

オーストラリアを出てヨーロッパに向かう頃には、日本を出て二年近くが過ぎていた。私はヨーロッパに肘鐵を食らわないように、ヨーロッパに入る時には、飛行機での入国を考えた。だが、問題はどの国が一番入り安いかだった。通過する発展途上国での出入国には、あまり気になるものはない。ある程度、身なりだけ注意していればいい。しかし先進国への入国は違う。日本を出国してからの時間が、長ければ長いほど問題になる。相手国は必ず不法就労を疑うからだ。この時の私は、オランダのスキッポール空港を選んだ。旅をしている仲間の情報からの判断だった。オランダに着いて入国検査を受ける時、初めて経験するもの凄い緊張感に襲われた。ヨーロッパには最低でも二年は居たいと思っていた。そのためには勿論不法就労は避けられないし、不法滞在をしなければならない国もあるかもしれない。しかし、検査は意外にも簡単に終わった。

ヨーロッパ移動中にも国境ではパスポート・チェックは受ける。だが簡単なものが多く、中まで事細かに見る検査官はいない。ヨーロッパ滞在中には北欧にも中東にも行ったが、税関で緊張することも殆どなかった。

しかし最後にイギリスを残し、イギリスに渡るに及んで、私は迷った。すでに日本出国後三年近くが経って、ヨーロッパにも一年以上居る。イギリスの入国検査は厳しいという情報もあった。だから私はフランスのパリで二日間考えた。考えに考えたうえ、酒に酔った勢いで国際列車に飛び乗った。強制送還も覚悟していた。この夜、ドーバー海峡は荒れていて、私は大変な船酔いにやられた。出る物がなくなるまでもどした記憶がある。イギリスへの入国検査はこのドーバー海峡を渡る船上で行われるのだが、どうもこの船酔いが私の入国検査を助けてくれたようだ。検査が始まった時の私の顔はどうも、悪いことをしようとして緊張している人間のものではなかったようで、おまけに検査官がカタコトの日本語が喋れる人で、私は励まされてしまう有り様だった。

こうして無事にイギリスにも入国出来たわけだが、イギリスにはその二年半後にも入国している。

この時は当初の目的である南米までの旅を完結し、どうしても入りたかった中国に行くために、来た道を引き返しブラジルから飛行機でイギリスに飛んだ。ところがヒースロー空港の入国検査官は若い女性の係官ばかりで、私は血の気が引いた。何故なら、女性の検査官の方が、男性に比べて、細かくてしつこいのだ。日本出国後六年近くが経っていた、さあどうしようと思ったのだが、さすがにこの頃の私は英語も十分喋れたし、ジョークのひとつも言えた。ヨーロッパからアメリカにかけての入国検査票には、私はいつも職業欄にジャーナリストと書いていて、その効果ももあったが、真夏の南米で夏風邪をひいたことでとばしたジョークが面白かったのか、その若い女性の検査官は笑うばかりで、ろくに中まで見ることはしなかった。

さて、そうして私は四年目にして、何とかアメリカに向かうことができた。

アメリカ入国に際しても、また一か八かだった。ただ、この国に入りさえすれば不法就労だが仕事が取れる自信があった。これさえ乗り切れれば、私の目的である世界一周は九割がた成功したも同然だ。私はニューヨークのジョン・エフ・ケネディー空港に到着して、検査官の顔を一通り見て歩いた。その時は確か十四、五人の係官がいたと思うが、殆どが男性で、その中の一番物わかりの良さそうな人を選んで、私はその人に全てを賭るしかなかった。ここをうまく通過さえすれば、後はどうにでもなるのだ。一通りお顔を拝見してトイレに入り、私はそこで気持ちを落ち着けた。もう相手は決まっていた。そして、その人の前に私は立った。が、私の緊張とは裏腹に、その係官は流暢な日本語で話しかけてきたのだ。幸運としか言いようがなかった。そうなるとしめたものである、私は何故そんなに日本語がうまいのか聞き、彼が沖縄の米軍基地に以前居て、そこで日本語を覚えた事を聞いた。後は日本語でつまらない話をしたが、それで私のパスポートには難なく入国のスタンプが押されたのだった。(ちなみに、出国時にはオーバーステイが解り、カウンターの女性に露骨に嫌な顔をされれた。)

宇宙から地球を見ると、地球上に国境という線など存在しないことは誰でも知っている。ただ、そこには人間という勝手な生き物がいて、自分達の欲とエゴを満たすために線引きをしてしまっている。中近東や朝鮮半島などの、越えるに越えられない線の前に立ってみると解るだろう。鳥や動物達は、自由にその上を飛び回ったり走り回ったりできるのに、何と人間は不自由で愚かな生き物なのか。私はこの事を、入国前の飛行機や船の中でいつも思った。所詮人間になど、この地球上に住んでいるかぎり、完璧な自由なんてありはしない。世界中には、密入国者だけでなく、難民の方もたくさん居られる。ギリシャ、イギリス、オーストラリア、ニュージーランド。私は多くの難民の方と話す機会があった。これらの人達にとって、地球上に存在するみえない線は、人間の愚かさを象徴する大きな壁に形をかえて、誰よりも重くのし掛かっているのではないだろうか。
<回想から>
今あの旅を回想してみても、あの無帰国で長期の旅が、うまくいったことは奇跡に近い。イギリス、オランダ、アメリカで仕事を探した時、もうだめだ、もう帰るしかないと諦めかけると、不思議と誰かに巡り会い、助けられて、おまけに希望する建築関係の仕事までつかめるにいたった。事故で死にかけた事も二度ばかりあった。そのうちのひとつなど、ノルウェーの山の中で車を運転していて、対向車を避けるためにブレーキを踏んだところ、下り坂とジャリ道でブレーキがロックしてしまい、そのまま谷底に落ちると覚悟したが、幸運にも雨でぬかるんだ路片にタイヤが埋まり止まった。助手席の窓から見える空をみながら、私は震えながら本当に神に感謝したものだ。

いったいどれくらいの人との出会いと助けが、私を支え、前に押し進めてくれたかは言うまでもない。たった三十年やそこいらで、私は普通の人が一生かけてもみれない物を見せてもらった。ただそれも、今こうして障害児の親になってみると、総てはここに繋がっていたのかと思ってしまう。神様は、この子を私の元におくらんがために、あれだけの事を成し遂げさせてくれたのかもしれないからだ。