『タイの風景で、考えた』 2000年8月20日
最近ホーム・ページに書き込みをするために、色んな人のホーム・ページを拝見させてもらったり、各国の観光局や情報資料も見せてもらっているが、私が世界を駆けめぐった頃に比べると、本当に変化が激しい。特に私が好きだったタイという国の変化には、正直言ってガッカリしている。旅をするという目的上、最も利用条件が揃っている国。それが、タイであった。(たぶん今も)私はこの国に八度入国した。安い航空チケットの購入、偽造学生証の作成(勿論パスポートの売買も可能だった。)、東西南北から入る情報の入手、等々。その便利性には事欠かない国だった。この国を中心に、私は色んな方面に飛んでいった。

私が初めてこの国に入ったのは、インドのマザー・テレサの病院へボランティアに向かう時だから、二十年前になる。右も左も全く解らず、簡単な情報だけで右往左往した記憶がある。最初に泊まった場所は、今でも有名なマレーシア・ホテルで、何がなんだか解らない内にタイを出国してインドに向かった。

しかし、二度目にこの国に帰って来たときは、状況が少しばかり好転していた。インド滞在中、私はタイに関する情報をしっかり取っていたからである。帰国時、私が最初に泊まったのは、かの楽宮ホテルだった。楽宮ホテルには、確か三泊しかしなかったと思う。日本のバック・パッカーには有名なホテルだが、売春宿をかねていたこのホテルに、私はどうも落ち着かなかったし、ベッド・バッグ(南京虫)にも悩まされた。だから私は、インド滞在中に白人のバック・パッカーに教えられた、カオサン・ロードに行くことにしたのだが、まず、この通りを見つけるのに苦労した。その当時の日本のガイド・ブックに、このカオサン・ロードはまだ紹介されていなかった。

このカオサン・ロードの変化は、タイという国の変貌を語るには良い例になるだろうと思う。私が初めてこの通りに足を踏み込んだ時、この通りに看板をあげているゲスト・ハウスは何件あっただろう。今も手元にある、あの頃のゲスト・ハウスの名刺を見ても、近隣に同じようなゲスト・ハウスは書かれていない。たぶん私が泊まったゲスト・ハウスの名前は、サニーポーン・ゲスト・ハウスだと思う。四、五階建ての建物を利用したゲスト・ハウスで、裏には地元の人達も来る、けっこう大きなレストランも一緒に経営されていた。

私がこのゲスト・ハウスに泊まったのは、その年の年末だった。まだこの当時は、周りにバック・パッカーの姿はまばらで、その分現地の人達と接するチャンスは多く、物珍しさも手伝って我々に気軽に声をかけてくれる人も多かった。このゲスト・ハウスでも、現在の多くのゲスト・ハウスのように外国人ずれした面は本当に少なく、私は大晦日をはさんで泊まったが、大晦日の夜にはオーナーの計らいで、そこで働く地方出の従業員も含めた盛大なニューイヤー・パーティーがあり、ゲスト全員が招待された。
そして、このゲスト・ハウスのレストランでは、私は思わぬ人との出会いもあった。私の歳以上のボクシング・ファンなら、おそらくその名前をきっと覚えていると思うが、元世界フライ級チャンピオンで、世界王座に君臨したまま、不運の交通事故死を遂げた、あのスピード・ファイター・大場政夫さんが、最後に対戦した相手、チャチャイ・チオノイさんである。

私は一人でこのレストランで夕食をしている時、相席を求められて、三人のグループに声をかけられた。私は快く求めに応じ、四人で食事が始まったのだが、その内三人の中で一番年輩の男性が、大場選手のことを話に持ち出した。勿論私も彼の事はよく知っているので、理由を尋ねると、彼は、自分は大場とタイトルをかけて対戦したことがあると話してくれた。私はもしやと思い、連れの二人に尋ねると、やはりこの人がチオノイさん本人だったのである。

その夜、私は大変な接待をこの三人から受けた。チオノイさんは勿論タイの英雄だから、みんなが顔を知っている。だが、残る二人の内の男性の方。(もう一人は、この人の奥さんだった。)この人も大変有名な元ヤオタイ(キックボクシング)のチャンピオンで、現役はすでに引退してトレーナーをされていたが、どこに行っても、超がつく位の人気者だった。(またタイに来たら遊びにおいで、と言って、皆さんの住所と電話番号までもらったのに、その後、多くの方の情報が詰まったアドレス帳を、私はスイスで駅に忘れて紛失してしまった。この元チャンピオンの名前も、今では解らない。申し訳なく思います。)確か、夜中の二時か三時頃まで、飲み歩いたと記憶している。

何故、あの人達がわざわざあのレストランまで食事に来ていたのかは、私には解らない。ベンツとBMWという高級車に乗って来るには、あまりにもお粗末なレストランだからである。だから、たぶん彼らは外国人が多く泊まっていて、何か刺激があって、あるいは話のネタと思い、出かけてきたのではないかと思う。普通の商店街の中に、ポツンとある外国人が多く泊まるゲスト・ハウス。あの当時は、それだけでも地元の人には新鮮だったのかもしれない。

あの当時のカオサン・ロードには、本当にこれといった特徴が何もなかった。今では腐るほどある旅行代理店も、その当時は、大通りに出て、モニュメント方向に少し行った所に、確か一、二軒あっただけだと思う。だから私は安い飛行機のチケットと偽造学生証を買うために、わざわざマレーシア・ホテル界隈まで行っていた。(その当時は、バック・パッカーにとって、この界隈が中心だった。)カオサン・ロードにあるものといえば、雑貨屋、米屋などと、一般民家くらいなものだった。全く特徴のない所だったが、今は移転して遠くになってしまったウイークリー・マーケットがその当時はすぐ近くのエメラルド寺院前の広場で開かれていたし、バスの便なども考えると、ロケーション的には大変良かった。また、今のように、昼も夜も喧噪まみれな雰囲気と違い、夜になると疲れた体を癒せるだけの静けさがあった。こうして今思い出しても、すごく懐かしい気がしてならない。白人のバック・パッカー達には逞しい奴が多い。もしかしたら、もう彼らの中にはカオサン・ロードを見限って、次なる理想村を開拓している奴がいるかもしれない。

一部の地域を除いて、バック・パッカーにとって、世界を旅するのに一番良かった時期は、1980年代までではなかったかと、私は今思っている。この十年、十五年で、世界は本当に豊かになった。そして、インター・ネットの登場、その充実で、旅をする上での情報取りもしごく簡単になり、世界中にバック・パックを背負った若者が本当に増えた。これほど多くの若者が、気軽に海外に出かけていける環境に、私はなんだケチを付ける理由もない。

だが、私や、私以前に世界を駆けめぐった人間から見れば、今の若者達に見せてあげたかった物が、世界にはまだまだ沢山あったと思う。特に自然やそこで暮らす人達との出会いは、今とはだいぶ違ったように思う。あのタイという国も、私が初めて訪れた頃までは、まだまだ貧しさが表に色んな面でていて、不便に感じた事も沢山あったし、逆に言えば、それが現地の雰囲気と相まって、私達には新鮮だったように思う。

私は、このカオサン・ロードに初めて滞在した年のクリスマスを、コサメッドという島で過ごした。その当時はすでに、コサムイ島が世界の若者に有名になってしまっていて、(まだたまに、本土とコサムイ島を結ぶ船が海賊に襲われていた。)私はコサムイやピピ島は避けて、まだそれほど知られていないコサメッドを選んだ。

あの当時のコサメッド島は、まったく個性のない、ありふれた島だったが、ただひとつ、ビーチだけは鳴き砂で埋まって、海の透明さも際だっていた。それだけ汚れていない島だった。それ以外は、旅人を迎える物はなにもなかった。だが、都会の喧噪を離れて、孤独な時間を楽しもうとする者には、タイの島々はもってこいの天国だったように思う。

電気も水道もない、雑木の骨組みにヤシの葉と竹を使っただけの粗末なバンガローに泊まり、夜にはビーチに出て、ただ漠然と波の音を聞いた。月明かりの下では、竹で組まれたバンガローの壁の隙間から漏れる、石油ランプの薄明かりだけが、長くつづくビーチの奧の闇に、ぽつんぽつんと浮かんでいた。朝早く起きると、地引き網を手伝いに行った。漁師達は手伝っても何も言わなかったが、それで食事にありつけた。

この年のクリスマス・イブを、この島で過ごした外国人はほんの数人だった。私はただ唯一の同宿の客だったドイツ人の大学教授と、雑談をしてこの夜を過ごした。雑談と言っても、殆どがビーチに座って、ボーとするだけだった。そして、その翌日には、バンコクからキャンプに来ていた大学生達に招待された。彼らは日本の歌も文化も良く知っていたが、売春ツアーの話が出たときは、私が恐縮した。

この島に滞在した二年後。私は再びこの島を訪れた。だが、ほんの二年の間に、島は大きく変わっていた。前年のサイクロンのせいなのか、鳴き砂はどこのビーチも鳴かなくなっていた。私が借りたバンガローも、跡形もなく流されていた。その代わりに華僑資本が入り、自家発電を備えた頑丈なバンガローが出来ていた。

コサムイもピピもカラビーも、殆どが俗化されてしまっている。我々外国人が、その国の発展に口出しは出来ないが、残して欲しかった物が沢山あった。そう思う人間は、私だけだろうか。

世界中で最も安全で、人が優しいと言われたニュージーランドも、バリ島も、インドやネパールも、そして、アフリカや南米も。失業問題や工業化、数を増す観光客による人ズレで、何かが変わってしまった。

発展途上国と呼ばれる国々は、我々先進国と呼ばれる国を目指して、少しでも近づこうと努力する。だが逆に、我々先進国の人間は、同じ進歩の課程でなくてしまた物をかれらの国で見つけようとする。見つければ、それは大変魅力的だが、いずれは失望に変わる。それが人類の宿命だろう。見られた者は良い。だが、時を逸した人間は、生まれたタイミングが悪かったと今は考えるしかない。

世界中のどこかには、まだまだ人間の手に染まらない場所が、きっと残っているはずだ。そんな魅力的な場所に、もう一度出かけてみたいものだ。