『インドで考えた』 2000年9月6日
<マザー・テレサの死を待つ人の家から>
九月五日。マザー・テレサの命日を迎えた。
私が彼女に何故興味を抱き、どうしてあの地まで足を運ぶ気になったのか、今はよく覚えていない。ただ、あの頃の私は、本当に大きな壁にぶち当たっていた。仕事上のある事故が原因で、日本の会社と社会には失望していた。その前年に訪れたアメリカで、運良く知り合いになった向こうのジャーナリストの方に聞かされた、この国を丸裸にした話は、二十代前半の私にはショックな事であり、多くの人との出会いが鼻持ち成らなかった自分のプライドを見事に曲げてくれた。そして、自分だけが好き勝手をしているという、家族への申し訳なさがあった。
何がしたい。何をすればいいのか。確か私は自分への自答にこまり、二度ばかり教会のドアをたたきかけて辞めた記憶がある。


そんな時、なにかで彼女のことを知ったのだろう。あそこまで自分を犠牲にできる姿に感銘を受けたからか、あの行動力に驚いたせいか・・・。私は彼女に手紙を書いた。−あなたの元でボランティアができますか?−と。住所も何も分らなかった。だから、インド、カルカッタ、マザー・テレサとだけ表書きを書いて送った。もうそれほど有名な方だったのだろう。手紙はちゃんと彼女の元に着き、しばらくして返事が返ってきた。中には簡単な神の言葉をつづったメッセージの紙があるだけで、他には彼女のサイン意外、何も書かれていなかった。私はそれだけで、出かけて行った。

初めて見るインドは、ぼろっちい国だった。そして、タフな人が多く住む国だった。空港からダウン・タウンに向かうバスに乗り、私はのっけからだまされた。今のように情報が氾濫していたり、交通の便が良い時代ではない、多くの事が手探りで、自分で開拓しなければならない事が沢山あった。ただ、バス代をだまされたと気付くまで、それ程時間はかからなかった。一度頭からやられると、人は、”二度とヘマはしない。”と思うものだ。

宿はお決まりのサダー・ストリートにとった。そして、その殆どをサルベーション・アーミー(救世軍の安宿)で過ごした。あの当時では、最もまともな英国風朝食がここでは食べられた。私を含め、この時五、六人のボランティアがここに泊まっていた。今はどうなっているか解らないが、まだまだあの当時のサダー・ストリートは汚かった。野良犬、牛ならまだしも、野生のサルまであの近くをうろついていた。雨が降ると、すぐ近くのパラゴン・ホテル界隈は膝まで水が溜まり、人と動物のフンがそこにはあると分っていたので、足にキズでもあると嫌な気がした。

”死を待つ人の家”があるカルガータへは、バスで通った。このバスは、まずまともに乗れないバスだった。車内に入れることは稀で、行き帰りの殆どを車体にしがみついて通った。しかし、それが一番スリルがあって楽しかった。私がいた頃は、まだ地下鉄が工事中で、機械ではなく人力で進める作業を見て、”今世紀中に電車は走れるようになるのか。”と、我々はそのスローな作業に呆れていた。

”死を待つ人の家”での仕事は、朝八時頃から始めたと思う。朝食を配ることから始まって、食事の介護、後片付け。人がいないと、前日亡くなった人を、回収に来た車に乗せる仕事(乗せると言っても、投げ込むと言った方があっている。たまに、血まみれになった白い布に包まれた、生まれたばかりの赤ん坊の死体があったりした。)もあった。その後、薬の投与、傷の治療の補助があり、洗濯の手伝い、昼食へと続く。終わるのが大体一時過ぎだったと記憶している。

一日四、五時間の仕事の後で、夕方まで続けるかどうかは、個人の意思にまかされていたし、現場のシスター達から、いちいちこまかい指示も希望もなかったが、たった四、五時間の手伝いでも、本当にバテた。マザー・テレサの施設には、我々外国人だけではなく、勿論インド人のボランティアも来ている。我々外国人のボランティアは、こういったインド人のボランティアやシスターの下で、彼らの補助という役目に回らないといけない。しかし、それでも仕事はきついものだった。そして、相手にする患者にしても、ありとあらゆる病気の者がいた。内蔵疾患や外傷で死にかけている者は、我々には気が楽なほうで、梅毒やライ病とかになると、やはり気が引けた。

私がこの家で働いた期間は、たった三ヶ月にすぎない。最後の方ではアメーバー赤痢にやられて、ひどい下痢と腹痛に苦しんだ。体重が十キロ落ちたとこでリタイアした。だが、凄い女性もいた。ドイツから来ていた、私と同い年位の二人の看護婦の人達は、これから二年後。私が世界一周の途中に立ち寄った時も、相変わらず元気に働いていた。私にとっては、人生のほんのひとときを割いたにすぎないが、彼女達は、人生のどれだけをあそこで過ごしたのだろうか。

忘れられない患者もいる。たぶん最初は何かの病気で動けなくなり、臀部に小さな床ずれができ、それが体力の低下と共に悪化し、不衛生な場所でほったらかしにされたため、マザーの家に来た時は、傷口は十五センチ位にまで広がり、毎日の治療にもかかわらず、日に日に体力を落としていった、私と同い年位の男がいた。彼は本当に澄んだ目をしていた。口から出る言葉は、苦しみを伝えるものだけだった。最後をみとることができないまま、あの家を離れたが、あの人の優しい澄んだ目は、今も記憶に残る。そして、私をかばい、擁護してくれた患者もいた。

それは、一人の年老いた患者のわがままから始まった。彼は私の手を掴み、どうしてもミルクをくれと言って聞かなかった。あの場所には無言の決りのようなものがあった。マザーは、”人として、せめて最後の時を、人間らしく終わらせあげたい。”という気持ちから、貧しい人のためにあの場所を造った。だが、それと、人を甘やかすことは違う。虐げられ、社会から無視され続けた人達の欲求は本当に凄まじい。その欲求にすべて応えていたら、おそらく受け入れる側が先にパンクしてしまい、機能してしまわなくなってしまう。だから見ていると、シスター達も、怒る時はちゃんと怒っていた。私もそうした。だが、その老人は逆に、私を罵りはじめた。その時だった、隣のベッドの男性が、その老人に、目に涙をいっぱいためて戒めてくれたのである。
”この人達は、我々のために来て、こうして働いてくれているのに、お前は何を言う。”
そういってくれたのだと思う。老人はそれきり何も言わなくなった。彼は四十歳前後だったと思う。低カーストの人間にしては、立ち振る舞いにも態度にも卑しさはなく、逆に凛とした品のようなものを感じた。たぶん頭の良い人だったのだろう。こういった事は、ボランティアをしていると、本当に救われることだった。

結局、私は三ヶ月の滞在中、マザーを尋ねることも、マザーに会うこともなかったと思う。タイミングが悪かったのか、それとも彼女のほうが多忙でいなかったのかは解らないが、とにかく彼女の顔を直に見た記憶がない。一度だけ、彼女がいる教会に併設する子供の家に行ったが、その時にも会っていない。


あれから二十年が過ぎた。インドも相当変わったことだろう。

1982年。ニュー・デリーでアジア競技大会が開かれた時、街中から多くの乞食が消えたと聞く。我々にとって、乞食はインドの一つの象徴だった。我々がいた頃、私達はインドには乞食の共同組合があると言っていた。毎朝、所定の場所にトラックが乞食を運んできて、置いていくからだ。カースト上、乞食の子供は乞食にしかなれない。だから、インドの乞食の親達は、いたしかたなく、生まれてきた子供が将来少しでも哀れみをかい、物が貰えるように、手足を切り落としたり、或いは、両目をくりぬいたりしていた。カルカッタのチョーリンギ・ストリートにも、そんな乞食が沢山いて、通る度に手を差し出してきて、バクシッシ(恵み)をせがまれたものだった。だが、聞いた話によると。国際大会を前にして、街の美化を計るため、多くの乞食を理由をつけてトラックに乗せ、遠くの砂漠に連れて行ったと聞く。もしこれが本当なら、体よく始末されたものだと思う。

インドを語ることは難しい。日本のような島国で、屈折され培養されて固められた観念しか知らない国民に、言葉だけであの国を理解してもろおうと思うと、大変な無理がくる。用は、興味のある人間だけが、自分で出かけて目で見るしかないところだ。唾を飛ばして何を論じても始まらない国だ。ただ単純に興味を持って出かけると、これほど面白い国はない。

そして、私は、切羽詰まった気持ちになって、自分を失いかけている日本の若者がいたら、”どうか行ってみなさい。”と言いたい国だ。インドに対して心を開いて、あるがままにぶつかっていけば、良識よりも歪んだ常識に偏ったこの国で持ち続けた観念を、ズタズタに砕いてくれる国だ。ボロを纏おうが、何も気にすることはない。何処に寝そべろうが、何も気にすることはない。他人の目と声を気にしないで動ける開放感。それがある国だ。
<時が流れて、想うこと>
最近、マザー・テレサ関係のホーム・ページを開いて見ると、色んな事が変わったなと思う。

一番失望してしまった事は、インドにボランティアをしに行く人のためのツアーがあったことだ。私が出かけた頃の日本人のボランティアは、カルカッタだけで、常時二、三人だった。私が知る限り、あの時は、女の子一人、宗教関連で来ていた男の人一人、そして、私だった。企業がツワーまで組んで送り出すだけ、今では希望者が多いのだろうが、私には、なにか引っかかるものがある。特に若い人達には、もっと自分の手で切り開いて出て行ってほしいと思う。ボランティアの作業は、別にインドに限らず、この日本にもたくさんある。安易な手段を利用して行けば、人生経験に繋がる付加価値も半減してしまう。インド人に騙され、インド人に笑われ、インド人に少しくらい近づいてみることも、あそこにボランティア経験に行く付加価値に含まれる。そうは思わないだろうか。

そして、今あの当時を振返って、私自身があの当時応えられずにいたことへの答えが、今は書けそうな気がする。今、あの地へボランティアに行く人の、おそらく何人かは、自分に問い続けているのではないだろうか。あるいは、周りの人に言われるのではないだりうか。
”何故、行くの?”
”所詮自己満足じゃないの?”
私もあの当時、理由を聞かれる度に、大変答えに迷った。答えられなかった。
”所詮あんたがしていることは、自己満足に過ぎない。”と言われた時は、返す言葉も見つからず、本当に辛かった。


二十年が過ぎて、私は思っている。
”経験した。”それがあるだけでいいんじゃないか。そう思う。
人それぞれに価値観は違う。自分にとって大切な事や物も、人にはつまらない物に映る。それと同じだ。ただ、時が経って、自分の成長を振返った時、そこに色んな形の経験という足跡が残っていることは、それは持たない人に比べると、本当に幸せなことだと思えるようになる。人生の内のほんの短い一部分でも、子供に聞かせてあげられるものとなる。

もし、出発を前にして悩んでいる人がいるなら。
”もう迷わず、目の前の橋に、1歩を踏み出しなさい。”
私は、そう言ってあげたい。



最後に。

もう何人もの人が、マザー・テレサの人柄については書いてきた。だから、わたしが書くことは何もない。しかし、インドという国には、マザーだけでなく、物凄く良い意味で、ばけもののような人が沢山いる。

ボランティアでカルカッタに滞在中、私は偶然あの地に日本山妙法寺があることを知った。確か市内の大きな池の傍に、それは建っていたと思う。その時私は、この寺で一人の僧侶の方と話すことができた。その方の話しによると。その寺を建立されたたのは、その当時すでに九十歳を過ぎておられた僧侶(名前が分らず、申し訳なくおもいます。)で、彼は若い頃、一人でカルカッタまで行き、托鉢で得た本当に僅かなお金で、自分でコツコツとその寺を建てられたそうである。インドを知る人なら、それがどんなに厳しく、大変なものだったかは想像がつくと思う。その時話してもらった僧の方は、”私がサボれば、後から来る者も来なくなる。”そういって、九十歳を過ぎた今でも、弟子を連れて托鉢をしておられると話しておられた。世の中には、本当に凄い人が沢山いる。


(この文章を書くにあたり、日本山妙法寺のホーム・ページに、ここで書かせてもらった僧の方のお名前を質問しました。その返事が九月二十七日にもらえました。カルカッタで1人で寺を興された方は、日本山妙法寺を開山された藤井日達上人。私がこの時に話しを聞かせてもらった方は篠崎行摂上人とわかりました。日本山妙法寺関係者の方にはこの場をかりてお礼申し上げます。)