Part・4
<あァー、スイス、スイス。> 2000年9月4日
何年前だったろうか、十年か十五年前?しごくスイスという国を中傷した本か、雑誌の文があったのをおぼえている。どうもその人は、相当あの国でひどい目にあったか、あるいは嫌な経験をしたのだと思う。いずれにしてもそういった事が書ける背景には、スイスという国で住んだ経験があるか、働いた経験がなければ、あんなにスイス人を中傷したものは書けないと思うのだが・・・・。
私にも、実はこのスイスで嫌な経験、というよりも、私の方が逃げ出してしまった、真に苦い経験がある。
私はオランダ滞在中、とある人の紹介で、夏場をスイスの牧場で過ごすアルバイトの話しをもらった。その時は本当に、心から、”これはなんという幸運。あのスイスで働く経験ができるのか。”と、ウキウキだった。国中が絵葉書のような国だ。どこに行っても美しい場所ばかり。そして、私は山が好きで、それまでにネパールに二度、ニュージーランドでも二度、山に登っていたのだが、このバイト先は、なんとあのアイガー北壁の真下だという。そんな場所で働けるなんて、こんな幸運は二度とない。有名なスイスの自然を知っていれば、私に限らず、誰でもそう思うはずだ。私はオランダから列車に乗り、イソイソと出かけて行った。だが、表面的な美しさばかりに気を取られて、現実というものを考えないで起こした行動が、いかに無残な結果を生むか。その時の私が知る由もなかった。
紹介されて私が最初に訪れたホテルは、グリンデルワイツから見て、真向かいの斜面にあり、アイガー北壁の真下にあたる。そのホテルは1軒だけぽつんとあり、クライネ・シャイデック、ユングフラウヨッホへ登る列車が止まる駅があるので、この有名な観光地を訪れたことのある人なら、”あー、あれか。”と思うはずだ。私がお世話になろうとする牧場のオーナーはこのホテルのオーナーでもあったが、ホテルの方はもっぱら奥さんと娘、それとユーゴ・スラビア(その当時はまだ分裂する前だった)から出稼ぎにきていた男性の三人で切り盛りされていた。
そのユーゴ・スラビア人の男性、名前は忘れてしまったが、私は彼と約1週間同部屋で過ごした。牧場の方で働いているオヤジから、山に上がるという話がなかなかこなかったからである。オヤジの方は毎日、前日に搾ったミルクで作ったチーズを持って山から下り、昼過ぎまで裏のチーズを寝かせる倉庫でゴソゴソしていたので、顔は毎日見ていたが、一向に誘いはなかった。だから私は、これといってすることもないので、奥さんに言ってキッチンヘルパーをして時間を潰すしかなかった。
このユーゴ・スラビアから来た男性、スイスには正規のルートで働きに来ていた。国名を聞いた時には、もしかしたらイリーガルかなと思ったが、どうもそうではないという。毎年定期的にこのホテルに出稼ぎに来ているらしかった。ただ、この時はちょうど国の奥さんが出産間近で、そのことが相当気にかかるらしくて、毎日のように国に電話を入れていた。私は彼の部屋でお世話になった間中、散々この仕事から下りることを勧められた。
”いいかい。ここのオヤジの顔をよく見ろ。ものすごく頑固そうだろう。とにかく無口で扱いにくい。それに山の仕事ときたら、とんでもなくきついぞ。今までに何人辞めたことか。先日もイギリス人が辞めたばかりだ。”
確かに顔は厳つく、無口な男だと思っていた。最初に挨拶した時も、殆ど反応がなかったが、山で働く人はこんなもんなんだろうと思っていた。
”給料はどれくらい出すか知ってるか?” −そういえば、その話しはしていない。−
”まァ、間違いなく安いね。この国の人間は、あんたが思っているほど甘くない。俺なんかきちんとワーク・ビザ持って入って来ているのに、同じ仕事しているスイス人の半分だ。はっきり言って、他人のことなんて考えてないよ。”
確かにスイスという国はきれいだが、時々スイス人には冷たさを感じることがある。このホテルの奥さんは優しい人だが、娘の方は無性にプライドが高く、差別を感じることがたまにあった。それと、私とこのユーゴ・スラビア人が英語で喋るのがどうも気にめさないらしかった。
”じゃあなんで毎年来てるの?”
”それでも国に帰れば五、六倍になるからね。”
彼は、出来ればこのままホテルの方で働く事を勧めてくれた。山に上がってもまずダメだというのである。しかし、私はオヤジのさそいにのった。牧場の山小屋はクライネ・シャイデックの駅のすぐ下にあった。オヤジと下働きの人間はここに寝泊りし、ここを中心に夏場、牛を放牧し、チーズを作るのである。環境はとにかく抜群だった。
だが、残念ながらというか、案の定というか、私にはこの仕事は無理だった。仕事は朝、日が昇ってから落ちるまで続いた。牛追いだけでなく、フェンス作り等、肉体労働がビッシリ詰まっていた。そんな過酷な労働条件にも関わらず、生活条件は最悪だった。食事は一日に二度、それも新鮮な牛乳(これは良し)とイモ、少量の米、少量の野菜だけである。私はこのオヤジが毎日山からチーズを持って降りて行き、ホテルのキッチンで何を食べているか知っていた。ビールを飲んで、客に出すものと同じ物を食べて帰って行くのである。スイスでは小学生の頃から山の手伝いをする。親について、あるいはバイトで、大人と一緒に山に入る。そんな生立ちでもあれば、これほどの条件でもついて行けるが、普通ではとてもついて行けない。ましてや、超低賃金での労働である。
”辞める。”と言った時、オヤジが言った言葉。
”オメーラ、コカ・コーラがないとだめなんだベー。”
後にも先にも、私が彼の口から英語を聞いたのは、この一言だけだった。
−ばかたれ、俺はコーラは飲まん。−
スイスは美しい。牧草の黄緑、木々の緑、雪をかぶった岩山、森の中の湖。確かに絵になる。でも、どうしてこれほどの景色が生まれたか。開墾だろう。少しでも牧草地を増やすために、たぶん涙ぐましい努力がなされたと思う。アイガー北壁の岩盤に、長いトンネルをぶち抜く国民である。こつこつ積み重ねて行った結果が、あれほどの景色に生まれ変わったのだろう。日本の農民も、これと同じ努力で、山の斜面を開墾してきた。だのに私は、日本の農家の人の方が数倍優しく感じられる。何故か?それはたぶん、侵略の歴史の有無に他ならないのだろう。

