Part・6
10月6日。鳥取県で大きな地震が起きてしまいました。被災者の方がもしこれを読まれているのなら、心からお見舞い申しあげます。しかし、実は私もこのすぐ近くにいたんですよ。この時隣の松江市を車で走っていまして、揺れの最も大きかった境港市に向かおうとしていました。
それも大きな横揺れが始まった時、ちょうどJR松江駅の東側のガードの下に入ってしまいまして、車が大きくローリングするのと、頭上の鉄の橋梁が大きな音を立ててきしむのを聞いて、とっさに何を思ったかというと、1987年のロサンゼルス地震を思い浮かべました。ロサンゼルス地震の時、私は出勤途中で、サンタモニカ・フリーウェーの下で信号待ちをしていました。この時も車が大きくローリングして、橋梁がきしみ、橋梁の下にいる車はパニック状態で、皆橋梁の下から出たくてクラクションが鳴り響きました。この時の事をとっさに思い出して、私は何とか早く橋梁の下から出なくてはと思い、ひっしに車をコントロールして外に出ました。幸い今回の地震は阪神大震災ほどのエネルギーがなくて、死者も出ず、私も無事に帰宅できましたが、何故かこの方面に行くと大きな地震が起きます。阪神大震災の時にも、私は島根県の隠岐島にいまして、あの時は隠岐島でも大きな揺れがありました。不気味な方角かもしれません。
ついでに地震で珍しかった事を書くと、1989年にオーストラリアのニューサウスウェルズ州で起きた地震があります。
この地震、本当にオーストラリアでは珍しかった上に揺れが確か震度4くらいあり、殆どと言って良いほど地震経験のない現地の人は、見ていておかしいほど慌てていました。私はこの時シドニーのイミグレーションでリ・エントリー・ビザの申請中で、グラッと来た時の対応してくれていた女性の慌てふためいた行動は、我々地震慣れした者から見れば滑稽でした。次の日の新聞の一面で、デカデカと書きたてるくらいの地震だったので、いかに珍しく、彼らにとって迫力のあるものだったかは想像がつくでしょう。
<Ha,ha,ha、参ったな> 2000年10月10日
だいたい長期の旅を一人でしていると、顔つきが険しくなるのはしかたがないことだと思う。自分の身を自分で守るのは当然だし、何かあったら助けを借りようなどという柔な気持ちにでもなったら、一人旅になどなりはしない。1人で堂々とやばい場所に入って行くのも旅だし、常に危険はそこにある。そういった場所を何度も通過して行けば、自然と顔つきも変わる。何度か私も、”あなたの顔つきは怖い。”そう人に言われた。そう言われると嫌な気はしない。長期旅行者の一つの勲章かもしれないからだ。しかし、女の子にそう言われたとなると、内心残念な気持ちになる。普通の男なら、”どうか私の方を向いて微笑んでちょうだい。”そう女の子に望んでいるからだ。
だが、時と相手によっては、女性に対してこの気持ちが歪んでくる。
”どうかまじまじと私の顔を見ないでほしい。あなたに気にとめてもらいたくないし、感心も持たないでほしい。私の顔つきが厳しいのは仕方のないことなのよ。”
そう思える場所が世界にはあった。それが各国の出入国管理であり、セキュリティ・チェックだった。特にイスラエル。あの国ではえらい目にあったし、えらい恥もかいてしまった。
<イスラエルで考えた>で書いたが、私はゴラン高原にあるエル・ロームというキブツに居た。この時このキブツには私以外に、カナダ人二人、ニュージーランド人一人、アメリカ人一人、そして、イギリス人が五人いた。そのイギリス人の中にスティーブンという大変やんちゃな奴がいた。口も偉く達者な奴で、よく皆で近くのアラブ人の村の酒屋(・・・と呼べるほど大したものではないが)に夜飲みに行ったが、そこでいつもアラブ人の親父をやり込めたのはこいつだった。このスティーブン、手先も白人にしては大変器用で、よくペンダントを作っては人にプレゼントして喜ばれていた。彼が作るペンダントは場所がらか、機銃の弾頭を使った物が多かった。中東戦争が終わって十年にも満たない時で、ゴラン高原の至るところには、その当時もまだ地雷が埋まったままの場所が多くあったし、武器と呼ぶ物が周りに沢山あった。機銃の実弾くらいそこいらの壁に何故か沢山掛かっていて、誰でも手が伸ばせた。スティーブンはその実弾から弾頭だけを外して、ペンダントにしていたのだった。
このペンダント。以外にカッコ良かった。だいたい日本などで暮らしていると、実弾なんて全く縁がないし、触ることもない代物だ。それがカッコ良くぶら下がっていれば、−持って帰ろうかなー、ってことになってしまう。別に実弾でもないし、鉄砲の弾だけなのだから大丈夫。私はそう踏んだ。だから、ペンダントだけでなく弾頭も二つ三つ持ち帰ることにした。これがまずかった。
テル・アビブの空港のバッゲッジ・チェックは大変厳しい。あれだけ敵国に囲まれた国だから、いたし方ないことだろうが、隅々までチェックされる。まずバック・パックの中身は全部だすように言われる。その上、今度は出した持ち物も逐一検査される。私はここで引っかかってしまった。ビニール袋の中から弾頭が出てきたのだから仕方がない。彼女(私よりも若くて、美人だった)はそれを見つけると、私を一瞥して厳しい顔になり、ちょっと考えてから、待つように指示してきた。どうも上司の指示を聞きに行ったようだった。
テル・アビブの空港といえば、どうしてもあの日本赤軍の銃乱射事件が脳を過る。あの事件のことはいまだにイスラエルの人達にキズとして残っているし、イスラエル滞在中、私が最も意見を求められたくないことだった。ましてや、まだその当時は日本赤軍のメンバーが隣のレバノンに居た頃だから(数ヶ月前に、レバノンでは英雄の岡本氏以外は、帰国、逮捕されたが)、私にうさん臭さを感じるのはしかたのないことだと思った。余談だが、入国に関してもイスラエルの監視は厳しい。特に船でギリシャから入る場合、乗船時に必ず、誰かから荷物を預からなかったか質問された。私がイスラエルを出た数ヶ月後、イギリスかドイツかの女の子が荷物を預かり、イスラエルに入国後、口封じに殺されていることからも解るように、テロとテロに繋がる行為に彼らは敏感になっていた。
上司との相談から帰ってきた彼女は、以外にも弾頭のことは何も言わなかった。ただ、相変わらず美しい顔を、かわいくもない厳しい表情にして、今度はバック・パックのフレームのレントゲン写真を撮るという。−おいおい、そこまでするのかよ。−私はもうどうでもいい気分になっていた。−いったいどこまで調べれば気が済むの。− そう思って、彼女の手元を見ていた時、彼女は一冊の雑誌を袋から取り出した。−まずいー。 私はとっさにそう思った。彼女はその雑誌をパラパラとめくり、今度は軽蔑の目で私を見返した。
ーハ、ハ、ハ・・・。まいったね。− 彼女が袋から取り出したのは、何あろうポルノ雑誌だったのである。イスラエルという国はあまり知られていないが、ポルノや性という面ではオープンな国である。私がキブツにいた時、何月だったか忘れたが、大きな仮装パーティーがあった。このパーティー会場には他にも色んな催し物があり、その一角に性や避妊を扱ったセクションがあった。これを見た時、私は初めてこの国が性に関して先進国であることを知った。だから街中でももちろんエッチな本は買える。イスラエルには日本人好みの美人が多い。そういった意味では持ち帰る価値があるので、私は手にいれたのだが(サー、ホントかな?)、まったく予期せぬとこで表に出てしまったのである。
美人に冷たい目で睨まれる事ほど辛いことはない。そこで検査は終わり、彼女は何も言わずバック・パックをつき返してきた。残された私は重たい気持ちで持ち物を積め、イスラエルを後にした。
この先、私が出入国検査やセキュリティー・チェックで、女性の検査官を避けたと<国境で考えた>で書いたが、この事が大きく影響したことはいうまでもない。
ついでだから追加しておこう。
この時私はテル・アビブからギリシャのアテネまで飛んだ。その飛行機のなかで、隣に座った初老の男性から、”あなたは中国人か?”と声をかけられた。私は自分が日本人で、これからオランダまで帰るとこだと答えた。そうして私と彼の会話が始まったのだが、彼は私に一つの心温まる話しを聞かせてくれた。
戦前、この人は、中国で貿易会社を経営する父親と家族と共に、上海に住んでいたという。その当時のことを懐かしそうに話してくれた。その当時、彼には大変仲の良い同い年の友達がいた。何をするにも、何処に行くにも、二人は一緒だったそうだ。しかし、戦争で日本が負け、中国で共産党が勢力を増してきた時、この人の家族はイスラエルへ、友達の家族はオーストラリアへと、離れ離れになってしまったそうだ。そして、それから全く安否もわからないまま長い年月が過ぎたある日、一人の若者が彼の家の玄関に立ち、こう聞いたそうだ。”あなたはずっと昔中国に居て、こういう人間と友達ではなかったですか?”彼は目を見張ったが、それは紛れもなく、昔中国で一緒に遊んだ友達の息子だったそうだ。
この友達の息子は、それからしばらくの間、イスラエルの彼の家にいて、オーストラリアに帰って行ったが、その間にどうも彼の娘とできてしまったようで、彼の娘は息子を追いかけてオーストラリアまで行き、今では孫もできたと彼は嬉しそうに話してくれた。この時彼はオーストラリアまで孫に会いに行くとこだと言っていた。
私は彼とアテネの空港で別れたが、別れる間際、私の肩をポーンと叩き、”若者よガンバレ。”そういって励ましてくれた。去って行く彼の背中を見ながら、私は運命というドラマと、ユダヤ人の持つ行動力の凄さをまじまじと感じていた。