Part・7
<山とタマゴと、おいおい・・・> 2000年11月6日
私は世界中で、自分が手の出せる山には大体トライいたしました。ニュージーランド、スイス、北米のロッキー山脈、南米のアンデス、そして、今回登場するネパール。山好きの人にはたまらない名前が並んでいると思います。私はそんなだいそれた登山をするわけではありませんが、それでも程ほどの楽しみ方は知っております。ですから、山にはいつも一人で入って行きます。余談ですが、一人で山に入ると、最初の二、三日はいつも後悔しますね。ハイ・ペースで歩くせいか、最初の頃の筋肉痛のひどい事。”なんでこんなバカなことしてるんだ。”って、いつも自分を呪いながら最初の頃は歩いていました。
そんな私の山との付き合いですが、そんな私が、”人生、生きてるうちに見ておいたら。”って、勧めたいのが、かのネパールのヒマラヤ山脈です。他の国の山はその殆どが車で行って見れますが、この国の山は、良い所を見ようと思えば努力が必要です。真下から見上げる物凄い垂直の岩壁も、5000m以上で見る360度の岩山のパノラマも、そして、5000m以上で満天の星空を見ながら飲むコーヒーの旨いこと。それもこれも、重い荷物を背負って歩くという努力の先にしかない。だから私は素晴らしいと思うのですが・・・。
しかし、そんな私にも、ネパールでひとつやりのこしている事があります。それは、かのエベレストを見る事。まだ私はこの山を間近で見ていません。というよりも失敗した経験があります。忘れもしない二度目のネパールでの入山。私は入山許可証を申請に行った際、ネパールの山岳警察のチーフに、”アッ、そう。ゴーキョに行きたいの。だったら一緒に行くかい。もうすぐシーズンが終わるので、我々もエベレストのベース・キャンプなどの見まわりに上がるから、一緒についてくればいい。”そう誘われました。別に断ることもないし、たまにはパーティーもいいか。と思い、同行することにしました。
あの当時、エベレストに上がる出発点はジリという村でした(たぶん今も)。ここまでは道路が整備されていて、カトマンドゥーから車でこれました。しかし、これから先は、重たい荷物を背負って、十日から二週間かけて、アップ、ダウンを繰り返しながら歩くことになります。私は七人の警官とこの村を出発しました。しかし、ひとつだけ、私には彼らよりも大きなハンディがありました。それは背負う荷物の量でした。私の場合、ひととおり必要な物は入っていたので、25から30kgはバック・パックの重さがありましたが、彼らの荷物の少ないこと。普通のリュックだけでした。どうも彼らには必要な物はないらしいのです。そりゃア、そうです。まず食料がいらない。メシを食う家、泊まる家が決まれば、全てそこで賄うことが出来るのですから。ダルバート・タルカリという現地の食事は簡単に食べさせてくれるし、しょっちゅう彼らはそこいら辺にニワトリでもいれば、自分達で絞め殺して食べていましたから・・・。普通、登山で一番荷物になるものが必要ない訳です。(さしさわりがないように書くとこうなりますが、要は権力の不正な使用方法があっ・・・。と、いうことですな。たぶ
ん。)
最初の二、三日は、いつものように自分を呪いながらも無事に行程を消化していきました。が、体の異変が気になりだしたのは、それからでした。どうも体の至るところにできた掻きキズが、化膿し始めたのです。確かカトマンドゥーを出た時は、蚊に刺されたキズが数カ所あり、それがグジュグジュでした。それがこの時点では体中、十数カ所に広がって、化膿を初めていたのです。その時にはそれが何だか解りませんでしたが、最近は子供がよくやられるので解ります。とびひです。とびひも体中、十数カ所、それも十円玉大でできると辛いもんです。おまけに着ているもので擦れますから、よけいに酷くなる。本当は抗生剤を飲み続けなければ治りません。しかし、その時、私にはとびひに関する知識も、とびひだという自覚もなかった。1週間目にはさすがに参ってしまいました。
そして、私はとある小さな村に入りました。その村で、小さな男の子がタマゴを売りに来ました。私は彼に、”このタマゴはいつ捕れた。新鮮か。”と尋ねました。私のこの時の大きな間違いは、警官の誰かをそこに呼んで、彼に現地語で尋ねてもらはなかったことです。英語の解らないその小さな子に、英語で聞いたところで、売ることしか頭にない彼は、ただ頭を縦に振るのは当然です。私はそれを買い、体力を付けたいばかりに、ごはんにぶっ掛け、食べました。
・・・・・それからしばらくして、私は新たなる苦しみに襲われることになりました。山の中にトイレはありません。それは私にとって大変好都合でしたが、あまり山の中に残したくないトイレット・ペーパーが、凄い勢いでなくなるのは、大変忍びないことでした。それでも山を登らないとならない苦しみ。とびひの苦しみ。下痢の苦しみ。私はこの三重苦を背負い、なんとかルクラまでたどり着くことが出来ました。
ルクラという村は、エベレスト観光のベースになる村です。この村には飛行場があり(これほどスリリングな空港は珍しい。山の斜面を利用した滑走路があり、飛行機は斜面勾配を利用して着陸し、離陸の時には、斜面勾配を利用して加速し、谷から吹き上げてくる気流を利用して離陸する。ちなみに、滑走路の先は絶壁断崖で、あの当時、不幸な飛行機の亡骸がひとつあった。)、ここから高度順応をゆっくりしながら、ナムチェ・バザール、エベレスト・ベース・キャンプへと上がれます。私はこの村に着いて、警官のチーフから、飛行機での下山を進められました。実際それほど私は参っていました。ただ、ここでのもうひとつの不幸は、天候不順で、飛行機がなかなか来なかったことです。やっと上がってきたのは四日目のことでした。そのうえ事はスムーズには進まず、二機飛んで来たうちの、私が乗ることになっていたほうの飛行機は、一度エンジンを切ったのが失敗で、エンジン・トラブルから再スタートに長い時間を掛けるというオマケ付きでした。
私はエベレストを見ることなくカトマンドゥーに帰り、病院に行き、化膿したキズを切開してもらい、それからしばらくしてネパールを出ました。われながら何という不幸な話しでしょう。トホホ・・・!
ネパール・ポカラという地名で、いまだに忘れない男がいます。私が初めてネパールに入った時に、ポカラで相宿した横小路君。彼にまつわる話しは笑えます。あの当時彼は山梨の大学の学生で、顔つきは確かあの亡くなられた名司会者の逸見さんをもう少し優しくした感じでした。大学を出たら学校の先生になりたいと言っていましたから、たぶん今頃は大変良い先生になっていることだと思います。
さて、私達がポカラに入ったあの頃は、たぶんポカラが一番良い頃ではなかったかと思います。もちろん二十年前ですから目だった物もなく、飛行場はといえば羊がのんびり遊んでいて、たまに飛行機が来ると、羊の持ち主が棒を持って、滑走路の羊を追いたてていたり(凄く牧歌的に感じますが)、ポカラ湖の回りにポツンポツンとあるレストランでは、かのマッシュルームが(覚醒作用のある)希望の料理方法で食べられました。アッそうそう、スイス・レストランというのがあって、山から下りてここで食べるケーキは最高でしたね。ポカラ湖の回りがまだ開けてない頃で、ゲスト・ハウスも一般の民家がしていた頃です。
そんな頃、私と彼はポカラに入り、この時はちょうどこの村の村祭りと重なりました。ただ、この時、私の体調は最悪の状態で、インドでやられたアメーバー赤痢によるひどい下痢で、体重が大幅に落ちているのに加え、ポカラで食べた何かが悪かったせいか、祭りの夜はとても動ける状態ではありませんでした。今はどうなったかわかりませんが、あの頃のポカラの祭りは、太鼓と楽器を持った人達が、一軒一軒民家を練り歩き、唄えや騒げのドンチャン騒ぎだったようです。この祭りの一行に、横小路君はゲスト・ハウスの十二、三才の息子と、下働きに来ていたこのゲスト・ハウスの親戚の娘と加わりました。聞くところによると、どこの家に行っても、彼の踊りは大人気だったようです。後で彼にどんな踊りをしたのか聞きましたが、彼は、”イヤー。酔いにまかせて、何かメチャクチャな踊りをしていました。”と言っていました。
祭りの夜も更けて、私は相変わらずベッドで苦しんでそのまま寝てしまいましたが、夜中、何時頃だったでしょう、隣のベッドで・・・。
”おい、何だ?何がしたいんだ。””冗談だろ。待って!待って!””プリーズ。”
ーゴソゴソもみ合う音ー
そして、誰かが走って部屋を出て行く音。
”おい、どうした?”私は真っ暗みの中で、彼に声をかけました。
”イヤー。参りました。女の子が下着だけで僕のベッドに入って着ました。
”何。”私にはすぐに状況を理解することは出来ませんでした。
翌朝。詳しく彼に訳を聞くと。昨晩の祭りで、彼は大変な人気を博したらしく、それを見て、一緒に出かけたこの宿の親戚の娘がかれに一目惚れをしたらしく、昨夜は何とか思いを彼に伝えようとした彼女が、どうも強硬手段にでたようなのです。この話しを聞いて、私もですが、信じられないと思いました。まさかネパールですよ。インドの隣のネパールですよ。インドでは未だに娘、息子の結婚を親が決めるのに・・・。ネパールでもあまり変わらんでしょう・・・。
確かにあの当時、ネパールには有名な、日本人とネパール人のカップルがいました。作曲家のH氏の肉親で、ネパールの女性と結婚し、本まで出版されていました。奥さんになられたネパール女性の実家は、ポカラからジョムソンという村に向かう途中にありましたから、この娘さん。成功した先輩のことも頭にあって、こんな強硬手段にでたのかも知れません?
そして、この話しには、もうひとつのオチがあります。
翌朝、彼は用を足しに外に行き、そこでこの家の息子と出くわしました。この息子、片言の英語も喋れるし、口も立つ。
”どうして彼女の気持ちを無視した。”・・・
私と横小路君。この日宿をそそくさと変わりました。

