『ゲッ ダーイ・マイ』
日本では、イスラエルにあるキブツというコミューンのことはあまり知られていないように思う。私自身も、ヨーロッパに入って始めての冬を迎えるまで、キブツ自体にこれといって興味もなかったし、行きたいとも思わなかった。しかし、あの年は例年になくヨーロッパが厳しい寒波に襲われ(この年、オランダの運河がすべて凍るというくらいの記録的寒波だった)、そそくさと南に撤退を決めた時、4,5ヶ月時間を、それもなるべくお金を使わないで滞在出来る場所となると、ここが一番妥当と思われた。人伝えに聞いていた情報でも、そんなに悪い感じはしなかった。

ギリシャまで陸路を下り、そこから空路テルアビブに飛んだ私は、まず、市内にあるキブツ・オフィースを訪ねることから始めた。さすがにここまで来ると、キブツ絡みの情報は沢山取れたし、同じ目的の外国人も安宿には何人かいたので、オフィースを訪ねる事は容易だった。このオフィースでは、必要事項を所定の用紙に記入して提出した後、簡単なインタビューを受ける。そのインタビューで行きたい場所等の希望を聞かれたりするが、大体はここの担当者が行き場所を指定する。私はここで運良く(?)ゴラン高原のキブツに配属となった訳だ。キブツの名前は、エル・ロームと言う。





キブツでの朝は早い。大体6時過ぎに起きて朝食を取り、7時過ぎには出かけるが、その日の仕事場が遠かったりすると、7時前にはキブツを出て行くことになる。我々ボランティアは、基本的に1週間ロウテで仕事が変わっていくので、たまに当たるキッチンでの仕事となどになると、6時前からの作業となったりもした。ただ、ボランティアと若い20代前後のメンバーは、前日の夜9時前にミーティング・ルームに必ず顔を出して、翌日の仕事を確認することになっていた。農場の仕事に限っては、前日の夜にならないと予定が立たないし、メンバーの都合で仕事が変わったりするからからである。ちなみにメンバーになれる条件を先に書いておくが、ユダヤ人はどこの国から来たものでもなれるが、それ以外でも、ボランティアとして長く滞在した後、申請して認められればなることが可能である。

キブツ、エル・ロームは、ゴラン高原にある敷地周辺にはあまり農地を持っていなかった。元来ここを私有していたシリア人達でさえ、この土地でしていた仕事は遊牧中心だったように、ゴラン高原は赤茶けた痩せた土地と、岩がゴロゴロしているのが目立つだけの所だった。そして、その上にさらにあの中東戦争が大きな置き土産を残していった。地雷である。ゴラン高原に上がった当初、遊牧地や農地として使われている場所以外、むやみに立ち入らないよう指示を受けた。人が入れない土地はまだ沢山あった。そんな土地柄と状況だから、このキブツの周りには農地がなかったのである。あるといえば、ここからシリア方向に2キロばかり離れた、ちょうどフェンスが張られた非武装地帯の手前に、ここのメンバー達によって開墾されて作られたビン・ヤード(ワイン用のブドウ畑)と、数キロ南にオーチャード(りんご農園)があるだけだった。

勿論、キブツ、エル・ロームは、ゴラン高原でも北部に位置する関係上、一番の問題は水の供給にあると思われた。イスラエルの人々は、中東戦争でこの地を支配下に置いた以降、豊富な海外の同族からの援助をもとに、この高地に水を引き上げた。その成果は向こうに連なるシリヤ領と比べれば一目瞭然で、シリア領が赤茶けた土地と岩だらけなのに比べ、こちらではキブツの敷地内は芝で覆われてるし、近代的なキブツ内での生活でも、水に困ることはなかった。そして、ゴラン高原をもっと南に下れば、ガリラヤ湖から引いた水が、多くの穀物も育てていた。たまに早出をして、ガリラヤ湖の近くにある、このキブツの持つ農場にも行ったが、そこでは小麦、アボカド、淡水魚を育てる養魚場もあった。

あの当時、このキブツに来ていた外国人ボランティアは、私を含めて11人だったと記憶している。アメリカ人1人、カナダ人2人、スイス人1人、イギリス人5人、ニュージーランド人1人、私の11人だ。滞在期間はまちまち、目的もばらばら、ことイギリス人に限って言えば、国にいても仕事もなく、その時間潰しでここに来ていた奴が多かった。たぶんあの当時イスラエルには、同じ理由で着ていたイギリス人が相当数いたと思う。あとは皆、私と同じ旅の途中という奴らだった。

大体、キブツにはメインになる大きなコンクリートの建物があり、その周りに住居が建てられている。エル・ロームの場合、1LDKのユニットが4つ入った建物が十数棟あり、そこで約150人の人間が暮らしていた。一部屋が狭い造りになっているが、キブツの習慣で、全ての子供は子供だけの建物で早くから共同生活を始めるので、家族全員が暮らすような、特別多い間取りは必要ないのである。基本的に必要な家具類は最初から付いているが、メンバー達は滞在年数により、欲しい調度品等を希望、購入出来る。それ以外の設備としては、共同のランドリー、保育園などが完備されている。また、3、4棟に一箇所、頑丈な防空壕がある他に、メインのビルの地下室は完璧な地下シェルターになっていて、場所柄かそれともこの国では標準装備なのか、常に有事に備える体制が取れていた。

我々ボランティアご一行も、メンバー達と同じ建物が一棟与えられて生活していた。ボランティアには日常生活で必要なもの、全てが支給され、作業着等の衣類の一部も貰えた。勿論、この施設内の全てのものは、メンバーと同様に使用でき、日常生活における不便さは殆ど感じなかった。また、毎月一定のこずかい程度のお金が貰え、そのお金は施設内にあるマーケットで買い物にも使えるし、キブツを離れる時にまとめて残金を受け取ることも出来た。それから、滞在期間の長さにより、イスラエル国内での旅行もキブツからプレゼントされる。

イスラエル国内にあるキブツの生活は、大体こんなものである。農場、農園仕事、工場仕事、共同生活に興味のない人間には、まったくつまらない、ボーリングな所であることは間違いない。今、何が楽しかったかなと思い出しても、通常の生活で目新しく、楽しかった事はあまり思い出せない。だから、我々海外からのボランティアは自分達で、独自に、勝手に色んなアクションを起こしていた。18歳以上の男性は全てがライフルを持ち、一様に落ち着き過ぎるほど落ち着き払った感があるし、女性も固く、一緒に楽しむことを彼らに期待することが酷な雰囲気がある以上、我々ボランティア達は、やっちゃえ、やっちゃえっていう気持ちにならないと、とても生活がつまらな過ぎた。

そんな滞在生活のなかで、毎週一番楽しみだったのがシャバットと呼ばれる、金曜日の安息日の日だった。ユダヤ教では毎週金曜日の日没から土曜日の日没までをシャバットと呼び、安息日、すなわち休日に当てている。だからイスラエルの週末は金曜日と土曜日になる。日曜日は平日扱いだ。この金曜日の夜はどこでも神に祈り、ワインとパンとちょっと豪華な夕食をとる。キブツのような大勢の人間が暮らす共同生活体では、出される料理の種類もワインもちょっとしたものである。特にワインに限っては、ここから数キロ南に下がった所に共同のワイナリーがあり、そこから入って来ていた。このワイナリーのアドバイザー兼技術者は、UCLAを卒業したユダヤ系アメリカ人で、我々とあまり年が離れていないのと、エル・ロームに滞在していた関係で、好い物を回してくれていた。

イスラエル人達は、この夜、ワインが沢山用意されていても、酔っ払うまで飲むような無粋な人はいない。確かにイスラエル国内でもここは最も緊張した場所である。実際に私が滞在中も何度かシリア、レバノン方面からゲリラが侵入し、銃撃戦の後、射殺された。成人男子全てが予備役の人達に、浮かれることなどできないのだろう。だから我々がそれを進んで(?)回収、処理にあたった。テーブルに飲み残されたワインを全て自分達のテーブルに集め、ゲームをしながら飲むのである。これは楽しかった。

ジェネラル・パフパフという、酒を使ったゲームがある。コップにワインを並々と注ぎ、まずは最初、「This is my first general pafu」と言って一口飲み、左右の指を一本ずつ立て、その指で一度ずつ、鼻、耳、肩、足の順番でさわる。次は、「・・・・・・my 2nd general pafu pafu」と言い、ワインを二口飲み、指を二本ずつ立て、同じ順番で二度づつさわる。そして最後に、「・・・・・・my 3rd、last general pafu pafu pafu」といって、コップのワインを三口で飲み干し、指を三本ずつ立て、また同じ順番で三度づつさわるのである。ただ、もし途中でミスると、そのワインを飲み干したうえに、もう一度いっぱいに注がれ、最初からとなる。これは物凄くきつい遊びだったが、我々は毎週のようにしては、食堂で騒いでいた。今思うと、メンバーの方々には不快な思いをさせたと思う。

キブツという所は、決してアルコールを禁止している訳ではない。だから、毎月貰える小遣いを使い、週2回開くマーケットでビールを買っていたし、外部から持ち込んだりもしていた。それでもやはり変化がなくなると、夜我々は連れ立って、2キロ離れたアラブ人の村に出かけ、そこで気勢を上げていた。ただ、このアラビックの村も、殆んど何も無い村で、通りには街灯一つなく真っ暗で、バーと呼べるようなバーでもなく、薄暗い民家のような狭い店の中で、そこの親父と喋るのが楽しみだった。イスラエルに住むアラビックとイスラエル人の間に、立場上我々はいた訳で、両者の本音がちらちら聞ける付き合いは、それだけでもおもしろかった。

酒以外の楽しみはといえば。テレビを見ても、我々が楽しいと思えるのは、サイプレス島から入るスポーツ番組の英語放送だけで、それも週に二度だった。勿論、キブツ内では映画も上映されることもあった。それはこのキブツが映画フィルムの編集をする仕事をしていて、たまに良いものがあると見せてくれた。あの当時楢山節考というヨーロッパで賞を取った映画があったが、この映画にヘブライ語の字幕を付けたのはこのキブツで、あの時は私という日本人が運良くそこにいたために、頼まれて、日本語を聴きながら、英語で字幕を割り付ける仕事を手伝わされた。この映画は勿論キブツで上映された。

日々の生活がそんなものだから、我々外国人は連れ立って遊びを考えるしかなかった。そんなある時、我々はシリアとの停戦ラインである非武装地帯のフェンスの近くまで出かけて行ったことがある。そこまで行くと、向こうの方で動くシリア人達が見える。私達は中東戦争で破壊された旧ソ連製の戦車の中に入ったり、いつでも使えそうな塹壕などに入って、ピクニック気分を満喫していた。しかし、それから数分も経たない内に、先ずヘリが飛んで来て、その数分後には、ジープに乗ったイスラエル兵達がやって来て、すぐ立ち退くよう指示されたのである。ゴラン高原の小高い丘という丘には、殆んどといっていいほどシリア領を睨む監視所があり、どうも我々は当初からずっとマークされていたようで、どうも塹壕に勝手に出入りしたことがまずかったようだった。だが、この日は何故か刺激的な一日になった。


イスラエルという国は、いまだにアラビック、パレスチナとの争いが絶えない。ユダヤの民は長い歴史の中で、常に話題を振り撒いて来た。だが、大変頭の良い民族だということは間違いない。このキブツにしても、世界中で最も安定した共同体となっている。それを作り出すだけでも大変と思えるのだが、他国で迫害されたことや差別を受けたことは、自分達の行動のバネに変えているし、世界中にあるコネクションを使い、同族がよく理解し助け合ってキブツや国を支えている。イスラエル、ユダヤをどうこう言う気は、私にはないが、色々学ばせてもらった事は事実である。





このキブツで、私は1人のニュージーランド人と知り合った。ポール・クレーマンという男で、私と同じ旅の途中キブツに来た男だった。私と彼は一部屋をシェアーしていた関係で、色んな夢を話し合った。そんな私と彼がこのキブツを離れる時約束した事がある。それは、もし将来可能なら、ニュージーランドに何だかのコミューンを作ろうということだった。そしてそれはさらにその先へと繋がり、理想として、何だかの国際大学が出来ればいいというものだった。これは途方も無い夢だが、実現が不可能とは思えなかった。

何故ニュージーランドを選んだかは明白で、それはこの国の人達が世界中で最も優しく敬謙で、なおかつ世界の列強に対して堂々とした姿勢を示せる人達の国だったからである。残念ながら日本人では、良い人はいるのだが他国に対する姿勢に大いに問題がある。私が世界を歩いて見て、地理的にも人間性を考えても、この国は理想だった。さらに、今世界中を見回しても、思想、宗教、民族意識、政治等、一切の観念を捨てて、何事にも拘らない、縛られない新しい形を追求している大学はない。もし世界のどこかで、各国々のエリート達が、これらのことを一切持たずに集まって学べる場所があれば、それはきっと良い方向に人類を進められると我々は考えた。それが出来そうなのもこの国くらいのものだった。

私は世界一周の旅を終え、日本に帰国後、約束どうりニュージーランドのポールを訪ねた。何をメインにコミューンを立ち上げるかは決まっていた。四季が逆のこの国に、日本のぶどうを持ち込み、それで農場をスタートさせたかった。だが、いざ多くの調査に入ると、問題は山のようにあり、一番の問題はやはりお金だった。ニュージーに植物を持ち込む場合、数年の隔離を義務付けられる。オーストラリアにしてもニュージーにしても、ご存知のように他国からの侵入物には至って敏感な国だ。それは致し方ないことで、ただそうなると、資本以外にそれ以上の経費と、長期間自分達の生活が賄えるだけの生活費が必要となる。計算してみるとざっと4千万円必要だった。

いくらこの国が良い国でも、政府に頼ると何だかの束縛は受けるし、企業というスポンサーを付けると最悪だった。我々はここで手を引くしかなかった。だが、くしくもこの数年後、我々が考えた、日本からぶどうを持ち込んで育てるというプロジェクトが、ニュージーランド政府のバックアップで始められたそうだ。この話を私はポールから聞かされた。彼も私も一様に無念な気持ちでいっぱいだった。このニュージー行で私は現在のかみさんと知り合ったわけっで、決してただでは起き上がらなかったわけだが、今でも、コミューン、国際大学という夢は捨てないでおこうと思っている。

日本という国は、現実的な自立国家の条件を備えていない。食料自給率はあまりにも低く、エネルギーはなく、軍事力も現状では飾りだ。そして、なんと言ってもそれに対する国民の意識の低さは最低である。世界が転べばこの国は自力で起き上がれない。世界が形だけでも平和であってこそ、この国は存続できるのだ。我々が考えた人材を育てる大学は、もしかしたらこの国に一番必要なのかもしれない。もし既得な方がこの国におられるなら、ひとつ一緒にやってみますか?

「ゲッ ダーイ。ヘイ ゴーン。アー ユー オーライ, マイ」。この言い方がすぐに解かった人は、オセアニアを知っている。
ちなみにポールは現在、学校の先生となっている。