『前略、海外に住む日本女性様』 − 1 −
田中真紀子さんが更迭されてしまいました。
親父の田中角栄さんに関しては、正直良いイメージはありません。確かに貧しい中、努力してあそこまで登りつめた人ですから、その点は買えるのですが、どうもお金がらみの話が多すぎた。
その後を継いで娘さんが登場してきたのですが、父親を立てる話し方には、当初あまり期待感をもてなかった。しかし、どうも重要ポストに座ってからは、正論をかざして筋道を通すやり方と、日本人特有の「臭いものにはふた」、「長いものにはまかれろ」的発想に面と向かったやり方がこれまでになかった事で、唯一期待を持てる人になってきました。この国は企業にしても政治の世界にしても、縦割りで力を持った馬鹿な男達が、都合の良いように物事を動かそうとするきらいがあります。軟弱で反骨精神の欠けた兵隊達はそれに就き従うだけです。
そんな現状に、この人は見事にメスをいれましたね。馬鹿な連中に、あんたは駄目だ。と、正面斬って反抗したんですから、この国ではこれは大変立派なことだと思います。テレビドラマの世界には、悪徳権力者に堂々と向かって行くヒーローが存在しますが、現実にそれを実行するような連中は殆んどいません。男なんてけつの穴が小さいのばかりだから、こうした有言実行できる女性がやらざるをえないのでしょう。最近の政治家にはどうでもいいようなおばちゃん政治家が増えましたが、本当に何かが出来る女性には頑張ってもらいたかった。日本の政治家連中にとっては、正論を有言実行しようとする人は敵なんでしょうか?
ウーマン・リブ。ウーマン・パワー。日本の女性がこの言葉を叫び始めて何年経ったでしょう。この2、30年で日本女性も随分変わりました。良い方向に進んだ事もあれば、逆に悪くなった事もある。世界にいれば日本がよく見えると言いますが、世界にいれば日本女性もよく見えるものです。そんな海外で会った日本女性の話を書こうと思います。
長期の旅に出て、私がまず最初にお世話になった日本女性は、オーストラリアのブリスベンに住むミセス・アキエ・ギブソンでした。私が初めてお会いした当時は、50歳代だったと思います。この人は私の知人の叔母にあたり、戦後日本の呉市に駐留したオーストラリア軍の兵士だったご主人と出会い、結婚、移住という道を歩んだ人でした。敗戦までは呉海軍工廠で働いておられ、戦艦大和の建造にも事務方で加わっておられたそうで、駐留兵との結婚は周りから反発をかったようです。しかし、それでもあえて未知の世界を選んだ人でした。勿論時節がら、日本という国と日本人に対する不信感もあったでしょうが。
私が初めてギブソン家を訪ねた時、迎えて下さったアキエさんがまず口にした言葉は、よくここまで1人で来れた。ということでした。確かにあの当時はまだオーストラリアにも日本人が少なく、ブリスベンの街中を歩いても、会う日本人はバスで移動する観光客にたまに会う位でした。だから日本を1人で飛び出て、東南アジアまで経由して来た私が余程珍しかったようでした。ですが、それから彼女の半生の話を聞かされてみれば、私の行動などまだまだとてもかわいいものでした。
戦後すぐ、オーストラリアにいた日本人は本当にごく僅だったようです。勿論戦時中はこの国にも、在豪日本人を抑留していた収容所があったくらいで、カウラ収容所の話は映画にもなりました。それから、真珠養殖で有名な木曜島には、ずっと以前から日本人が渡って、現地人と共同で真珠養殖の仕事に携わっていました。しかし、オーストラリア国内の主要都市での日常的な生活で、日本人に会うことは本当に稀だったようです。ですから、アキエさんが御主人の後を追ってブリスベンに渡った時には、わざわざ初めて見る日本人の品定めに人が来たそうです。
海外に本当に1人で長期間出かけたことのある人は、たぶん理解出来ることだと思いますが、親兄弟どころか、知人さえ1人もいない、言葉も満足に話せない場所に、1人でいることは、大変孤独な気持ちになります。物凄い精神力と忍耐力が必要な訳です。彼女はそういった生活に耐えた訳です。じっと我慢しながら、自分の居場所を確保し、行動力と行動範囲を広げていったそうです。御主人の励ましが唯一の味方だったことは、言うまでもありません。そして、彼女の威厳を守るための努力は、子育てでも発揮されたようです。
ギブソン夫妻には2人の息子さんがいらっしゃいます。この2人の息子さんは、ブリスベンの国立大学を、2人とも主席で卒業され、私が会った当時、20代後半ですでに、長男は政府の役人で役職に就き、次男の方も政府機関で政治家を目指していました。人間には生まれつき能力の差がありますから、アキエさんの努力だけで2人がここまで出来たとは言い切れないでしょうが、彼女いわく、小さい時から人には負けるなと言い聞かせてきたそうです。
晩年、ミセス・ギブソンはオーストラリア州政府の要請で、訪豪日本人の起こすトラブルに通訳としてよく駆出されていたようです。遠洋漁業でブリスベンに立ち寄りトラブルを起こした人、旅行者としてブリスベンを訪れトラブルを起こした人、などなど、ミセス・ギブソンの助けを借りた方はけっこういたと聞きました。あのおばさんのことですから、きっと何だかの説教を受けたのではないこと思います。そのミセス・ギブソンが晩年、母国日本に痛く失望した事件が、あの当時オーストラリア、クイーンズランド州、ヤプーンという、風光明媚な海岸線の町を舞台に起きました。私には不思議なのですが、この事件は日本では何も取り上げられなかったようです。
それはI企業という、日本名の会社が、ヤプーンというこの地域でも最も景観の良い場所を買い取り、日本人専用のリゾートを築くと計画したことから始まった。と、アキエさんは教えてくれました。クイーンズランド州では、オーストラリア人でさえ土地を自己財産にすることは許されていませんでした。ですから、仮に家を建てるとしても、現地の人達は州政府から99年契約で土地を借り受け、家をたてるということになっていました。それをどうもこの企業は、当時のピーターソンという州知事を買収し、州知事は州議会を通すことなく、独断でこの計画用地を売ってしまったようでした。
この事が知れ渡ると、いっせいに反発の声が上がったようです。何せ、オーストラリア人から見れば、自国の領地内に、信用していいものかも解からないような日本の、言い換えれば領土が誕生するわけですから当然でした。一応は工事はスタートしたものの、何度となくオーストラリア人の抵抗にあい、爆弾を仕掛けたという脅迫事件にまで発展したそうです。アキエさんはこの時ほど、自分が日本人として恥ずかしく思ったことはないと言っていました。そして、この事件を境に、自分の2人の子供達に対しても、これから将来、決して日本人を信じるな、同じ血を引く同胞として自分を考えるなと、言い聞かせたそうです。長年この地で、日本人としてのプライドを捨てずに築き上げたものを、この事件が壊し去ったと言ってもいいと、大変な残念がりようでした。
ミスター・ギブソンは、物静かで、大変温厚な人でした。あの当時、自身も州政府のエネルギー省に勤めておられたと記憶しています。私が初めてお世話になった、国際結婚をしたカップルがこのお2人だったのですが、このお2人の性格の違いは、この先何組かお会いした同じケースの人達と接する上で、大変参考になったと思っています。戦後すぐという動乱の中で、海外に単身飛び出て、ゼロから自身の生活を築き上げた日本女性。その負けん気のバイタリティーは、保守的だったあの当時の多くの日本女性の枠を、大きく超えていたのだろうと容易に想像できる。そんな人でした。なお、ミセス・ギブソンは10年前、波乱の人生にピリオッドを打たれています。
ジンの旅でも書いたように、私はヨーロッパの国への入国でオランダを選びました。他民族への対応、入って来る他民族の流れ、ヨーロッパでの位置関係、空港の入国検査条件等を考えると、どうもここしかないように思われました。一番やっかいなイギリスを頭に持って行きたかったのですが、もし入国に失敗すれば元もこもない状態が予想できたからです。そして、アムステルダム・スキッポール空港は予想どうり温かく私を迎え入れてくれた訳です。
しかし、職探しに関しては、残念ながらこれまた予想通りに甘くはありませんでした。観光客がのんびり飾り窓の女の子を冷やかして歩く、アムステルダムの夜の街中の運河の橋の上で、私はどす黒い川面を眺めながら、計画もここまでかと諦めかけていました。その夜、明日は日本の家族にSOSの電話を入れ、帰国用の飛行機のチケットの手配を頼むつもりになっていました。そんな腹をくくった翌日です。私がアケミさんという日本女性に会うことができたのは。
アケミさんはあの当時、ベジタリアンのレストランで働いていました。そのレストランは聞くとこによるとガンジャ(大麻)も手に入る店らしく、オランダの若者達の間でも名の通った店のようでした。断っておきますが、オランダ、スイスなどでは大麻程度は合法化されていて(あの当時は)、所定の店からなら買うことができていました。世界中のベジタリアンの店ってけっこうそうなんですが、オーナーが過去アジア方面によく旅をしている人が多く、インドなどの影響から菜食主義にはまったりしています。そういった関係上ドラッグを扱うようになったのかもしれません。
私がこの人の働く店を訪ねるきっかけを与えてくれたのは、旅を諦めかけて訪ねたとある旅行代理店でした。代理店の人があそこの店に日本の女の人がいるから、よかったら訪ねてみろと紹介してくれた訳です。店に入って行った私に気付いた彼女は意外そうな顔をしていました。ベジタリアンの店に入って来る日本人なんてそういるもんではありません。でも、それが逆に声を掛けやすくしたのか、彼女は私の座ったテーブルまで来て声を掛けてくれました。
私は旅の事、そして、窮地に追い込まれている現状を説明し、すでに帰国を覚悟してるという話をしました。昼時を過ぎて、店も一段落ついていた頃だったので、彼女は私の前に座り、じっと私の話に耳を傾けてくれました。私の旅はこの先々、仕事を取らないとならない国々で、何度も同じような状態に追い込まれます。追い込まれて、もがいて、諦めかけて。そうなった時、何故かアケミさんのような人が目の前に現れて、同じようにじっと話に耳を傾けてくれて、そこから道が開けて行ってのです。
今回の話は長くなりそうです。つづきは次回。
