『ナイーナという女の子』
クリスマスが近づこうとしている。この時期になると、何故か一人の女の子のことを思い出す。もう20年も前の事で、私よりもずっと年下の女の子の話なのに、何故かこの子の名前だけは、今も忘れずにいる。顔はとうの昔に忘れ去ってしまったが、何故かこの子の思い出は、心の隅にいつまでも残り続けている。ナイーナという、タイの小さな島に住んでいた、すてきな女の子の思いで。




私がその小さな島、コ・サメッド島を初めて訪れたのは、インドのマザー・テレサの施設にボランティアに行った帰りだった。あの当時は、タイの小さな島々が持てはやされ始めた、はしりの頃で、ガイドブックには,今では有名なコ・サムイ島の情報さえそれほど多くなかった頃だった。だから、私が訪れたコ・サメッド島などは、コ・サムイ島に比べればずっと近場に位置するというのに、タイに入ってやっと情報が取れる程度の過疎の島に過ぎなかった。

コ・サメッド島は有名なパタヤビーチからさらに南に下り、地図で見ると湾の出口のややカンボジア寄りに位置する。私が初めてこの島を訪れた頃は島に渡ることも大変で、簡単に木で組まれた桟橋に繋留してある漁船にあたりをつけ、それに乗せてもらっていた。桟橋から船にのるのも大変。島に着いたら着いたで、今度は浅瀬で止まった船から、バックパックを背負ったまま、腰位の深さはまだある海に一度飛びこんで、下半身ずぶ濡れで上陸しなければならなかった。

周囲何キロ位の島かはわからないが長細い島で、東の端から西の端までせいぜい1.5キロ位。島の南側に何世帯かの漁民の家が点在していた。上陸して長いビーチをどんどん東側に歩いていけば、粗末なバンガローが海岸線からやや奥まったとこにちらちら見え、それはどれもこれも潅木と竹、ヤシの葉で屋根を葺いただけの粗末なもので、それがまたビーチの雰囲気にマッチしていて良い感じだった。私は長いビーチの中ほどの、少し大きなバンガローの前で歩みを止めた。

この先まで行けば、漁民がやっている粗末なレストラン(?)付きの一塊のバンガローが見えていたが、私はそれ以上先まで歩いて行く気にはなれなかった。たかだか6畳位の、自宅と思えるそのバンガローから出てきた、この家の主人と思える人物は、意外にも流暢な英語を喋った。メガネをかけたその初老の男は、私をいちべつしただけで、10メートルばかり離れた小さなバンガローを指差し、あそこでいいか私に尋ねた。良いも悪いも、私にはこんな島での生活の経験がないもので、首を縦に振るしかなかった。

私に与えられたバンガローは、ちょうど一坪位のもので、チョット太い木で骨組をし、それに竹をさいたもので壁をつくり、屋根は例のごとく葉っぱで葺いたものだった。床は2フィートばかり高床になっていて、雑多な板が敷き詰められていたが、こういった造りの方が、確かに気候にあっていて合理的だと暮らしてみて思った。勿論、窓も付いているが、これは開放する部分が屋根と同じ作りになっていて、それを滑り出させて木でつッかえ棒するだけである。ちなみにドアが付いていて、後生丁寧にカギまで掛けられるが、この扉を閉め忘れて一度痛い目にあった。ビーチから帰ってみると、そこいら中バナナの皮が散乱していて、いったい何物と思ったら、鶏が犯人だった。島で暮らす動物は食べ物をあまり与えられないせいで、鶏も犬もバナナを食べる。何故バナナが吊るしてあるか、この時わかった。

私がその子、ナイーナに初めて会ったのは、この島に入った日の夕方だった。この島の東側に小さな本当に粗末な学校があり、この島の子供達は日中の殆どをそこで過ごしているようだったので、彼女の姿は日中は見当たらなかったようだ。ただ初めて彼女を見た時、その子の容姿が現地の少女のものと違い、どこかの西洋人の血が混ざったものであることがあまりにも際立ってるのと、彼女の持つ雰囲気がその場に何かあっていない気がして、私は意外な気になった。それほど大柄ではないが、ショートヘアーが良く似合う綺麗な顔立ちと、14、5才にしては落着いた感じは、どうみても島の住人のものと違っていた。

ナイーナは最初に私を迎えてくれた祖父と、弟の3人でここで暮らしているようだった。大変優しい祖父と弟は、勿論普通のタイ人で、特に祖父の方は、流暢な英語と雰囲気から、以前は大きな町で何かインテリジェンスな仕事でもしていた感があった。この家族は自分達が暮らすバンガローの回りに、5軒の貸しだし用の小さなバンガローを持っていて、自宅のバンガローの裏には、台所用の小屋があり、前には、雑な手作りのテーブルを2つと、これまた手作りの大きな背もたれ付きのイスを何個か置いただけの屋根付きのテラスがあった。

ここのバンガローを借りることにして荷物を放りこむと、私はこのテラスのイスの背もたれを倒して寝転がり、終日動く気になれなかった。インドで感染したアメーバー赤痢のせいで、体重が10キロ落ちていた。学校から帰って来たナイーナは、私を珍しそうに一瞥して通りすぎたが、私は彼女の後姿が部屋内に消えるまで、半開けの口をして見送っていたに違いない。それからしばらくして、今度はナイーナの方から、夕食のことを訪ねに来た。いくら小さなバンガローでも、簡単なものは作ってくれるようだった。彼女は恥ずかしそうに私が日本人か尋ねて注文を取ると、台所に入っていった。どうも自分で作るようだった。この時のあまりにも恥ずかしそうな態度をみて、私は少し安心した。場違いな雰囲気と十分過ぎる英語を喋るその少女に、私の方が意識し過ぎているようだった。

それからというものだんだん慣れるに従って、彼女の私に対する接し方も変わっていった。よく声を掛けてくれるようになったし、気配りもみせてくれた。面倒見がいいといっても、その時このバンガローの客は、私とドイツからバケーションに来ていた大学の教授だけだったので、彼女からしてみれば特別なことではなかったのかもしれないが。それでも私にしてみれば(ドイツ人の先生も)、彼女の接し方は心休まるものだった。

彼女のどんなとこが魅力で、今でも私の心にその名前が留まっているのか。短い滞在だったが思い出は沢山ある。ある日、私が砂浜で気持ち良さそうに昼寝をしている、彼女の飼い犬の子犬に悪戯をしていると、困った顔をしながらも一緒になって笑い転げていた。大人びた雰囲気の中にも素直な明るさがあった。5匹いる子犬の内の一匹がいなくなった時には、泣き出しそうな彼女と一緒に探しまわったりもした。その姿にはあの年でじっと悲しみに耐えているいじらしさを感じた。いつも優しくて清純で素朴で、そのくせいつも遠くのものに想いを馳せているような感じの子だった。そんな彼女の思い出の中でも、クリスマスの夜の事は、特にこれからも忘れない事だろう。

この島に滞在したタイミングは、ちょうどクリスマスにかさなっていた。鳴き砂のある南の島。長く続くビーチの暗闇の奥にカンテラの薄明かりがポツン、ポツンと灯り、波が静かに押し寄せる音だけが聞こえ、見上げれば満点の星がふりそそいでいる。そんなロマンチックなクリスマスの夜を経験するのは勿論初めてだった。私はこれといって特別な料理もない夕食を済ませ、ドイツ人の教授が買ってきた酒で乾杯をした後、昼間誘われた隣のビーチのレストランのパーティーに出かけた。その粗末なレストランだけが自家発電を使い、その一角だけがこの島の中でもポッカリ浮かんで見えた。

そのレストランまでは百数十メーターの距離なのだが、途中、ビーチまで張り出した小さな岩場を超えなければならなかった。その岩場を超えようとした時、向こうから駆けて来る人影があった。よく見るとそれはナイーナで、どうも泣いている様子だった。私は声を掛けようと思ったが、彼女が目を合わせようとしないので、それを躊躇った。普段あれだけ明るく振舞う彼女があれだけ悲しんでいるのだから、相当傷つくことがあったのだろう。

地方の小さな島の小さなコミュニティーである。毛色が違えば、差別を受けたりつまはじきされることは容易に想像できた。たぶんレストランの同い年位の娘達に何か言われたのだろう。その夜は本来幸せな気分で過ごすべきなのに、彼女には随分辛い夜になってしまったようだった。が、かといって、勿論私のようなよそ者が口出しできることでもなかった。翌朝、私は彼女を呼び、インドで買ってきた銀の指輪をプレゼントした。優しい気遣いをみせてくれたせめてものお礼であり、よく働く彼女へのご褒美の気持ちだった。




クリスマスも終わった頃、バンコクから中国系の美大の学生達がこの島に来て、すぐ側でキャンプを張った。その夜、私は彼らに食事に誘われた。女学生の料理を食べ、日本のフォークソングを歌い、そして、夜も更けて一段落ついた頃、案の定ディスカッションが始まった。その内、一人の女学生が私に尋ねた。何故日本人はこの国にツワーまで組んで、女性を買いに来るのか。返答する言葉は勿論私にはなかった。

都会で働く売春婦の多くは、口減らしで売られたり、何だかの理由でそうせざるをえない地方からの女性達である。その女性達が元々相手にしていた男は、貧しくて結婚もできないやはり地方出の男が中心だった。だからそれを知るタイの人達には、売春婦達への同情もあった。そしてその反面、今でも息子、娘の結婚を親がアレンジするケースがタイなどの一般家庭には多く見られるが、そのせいか結婚するまで若者達に純潔を求める姿勢が強い。また、仏教色の強いタイでは、成人男性は一生に一度、特に20代に仏門に修行に入る仕来りがある。外国人が落とすお金が彼らを救うという者もいるが、こんなに宗教色が強く、真面目な人の多い国にそれ目的で団体で押しかければ、現地の反発に会う事は目に見えていた。

実は私はナイーナの母親に、この4年後、再びこの島を訪れた時に会っている。この時、すでに彼女はこの島にいなかった。祖父の話によれば、バンコクに出て、カメラマンになるために勉強しているということだった。この時彼女の母親は島に帰っていた。先入観を抜きにしても母親のイメージは、あまり良いものではなかった。ナイーナが一度も語ろうとしなかった母親である。彼女の出生に首を突っ込む気にはなれないが、父親の事も話さず、祖父に子供達を預けっぱなしにしていた人である。

パタヤビーチが何故世界的に有名なリゾートになったか。ベトナム戦争時の米兵の息抜きの場がリゾートに変わったからである。現在のコ・サムイ島もピピ島もコ・サメッド島も、我々海外から押し寄せるバック・パッカー達がその名を世界に広め、そこに多くの華僑資本などが入り、現在の姿に変わった。発展途上国は少なからず先を行く国々の影響を受ける。日本でさえそうだった。
ただ、南の国の小さな島で暮らす純真で可憐な少女に、そんな人間のしがらみの影を見たら、やはり人類の罪を思わずにはおられない。

タイガー・ウッズもタイ人とアメリカ人の間に生まれたハーフである。ナイーナ。タイガーもおそらく君と同じような両親の関係から産まれたスーパー・スターだ。今地球のどこかで頑張って生きている君に、私はエールを送ります。