『Dear, ミセス・アラモンド』

私も人生の半分を生きた。これまで私が残して来た足跡は、あくまでも自分で選択して色んな経験を積んだものだが、今日本で暮らしていて改めて振り返っても、その足跡の中にどれだけ多くの宝物を積み重ねているか。それがどれだけ貴重か。何もない人に比べればどれだけ幸せか。思わずにはいられない。

そんな私の刻んできた足跡の中に、今は亡き1人のオーストラリア人女性の存在がある。私は彼女をビッグ・マーを呼び慕った。私の本当に辛かった旅の間中、彼女だけが,世界のいたる所にまで首を突っ込んで行く私に手紙を欠かさずくれ、気遣い、心配してくれた。私の家族、旧知の友達以上の存在だった。
そんなビッグ・マーの話しを、ぜひ残しておきたいと思う。




私がオーストラリアに住む彼女と彼女の家族が暮らす家を初めて訪れたのは,オーストラリア入国間もない頃だった。あの頃の私は正直言って、初めて訪れたこの国に戸惑い、現状も、将来も、自分自身にも不安な時期で、そして、そんな情けない状態からいったい何をすべきか、始めるべきかを決めかねていたこ頃だった。

そんな時、たまたま移動で通過する途中の町に住むこの家族を訪ねてみようと思い立ったのは、単なる気まぐれに過ぎない。実をいうと私には、この家族を訪問するだけの理由がなかった。と、いうのも、私がこの家族の名前と住所を知っていたのは、オーストラリアに入る前、タイのバンコクのトラベル・エージェンシーでたまたま知り合った、この家の次男ジョンという男に、近くを通りかかったら寄れと言われて、名前と住所を貰っていただけで、ジョンもまだ旅先から帰ってない時でもあり、如何せん立寄るには勇気がいったし、バイクの長旅で小休止位の気持ちだった。

ところがこの家族は、息子が旅先で知り合った友達というだけで、すっかり私のことを信じてくれた。どうしてあのまま居座ってしまったのか、今思い出そうと思ってもなかなか思い出せないでいる。歓待された都合上、訪ねた夜泊めてもらったのはいいが、何故それから2ヶ月も居座ったのか。分からない。ただ、居心地は悪くなかった。オーストラリアに来た目的、これからの事、この国で暮らすための仕事の事、色々聞いてもらった。全て息子達と同様に扱われ、自由にさせてもらった。そして、いつも話を聞いて相手になってくれたのはパットだった。

パットは大柄な女性で、おまけに白人によくある肥る体質だった。こういった体質の人達は、何時の間にか自分の体重を自分の下半身で支えきれなくなってしまい、それが苦しいリハビリに繋がったり、命を縮める結果をを招いたりするケースがあるようで、パットも私が初めて会った頃には松葉杖を離せない生活が続いていた。しかし、性格はおおらかそのもで、冗談はよく言うし、何よりも痛快に笑う人だった。私がパットのことをビッグ・マーと呼んだのも、あの大きな体とこの性格からだった。

このパットのハンディをよくカバーしていたのは、パットのパートナー、モウリーだった。彼女よりも2才か3才年下なのだが、モウリーが彼女にきつい言葉をはいたのを聞いた記憶がない。それよりもむしろ、彼女がいつもやり込めていたといった方が正解なのかもしれないが。とにかく、彼女にストレスが溜まらないように、よく気遣いをみせていた。そして、この人は本当によく働く人でもある。私が初めて会った頃は、昼間は印刷会社で働き、夜も自宅のガレージに印刷の機械を置いて自分で取った仕事をこなしていた。白人はあまり働かないというイメージを初めて壊してくれたのはこの人であり、私は未だに手紙で働き過ぎるなと言い続けている。

パットとモウリーの間には3人の息子と1人の娘がいる。長男はダニエル。ニックネームをドニーといい、私がこれまで書いたものにも登場してもらったが、数年前に他界してしまった。残念ながら彼の人生は決して幸せなものとは言いきれなかった。青春時代をドラッグと酒に溺れ、殺人未遂にあい、交通事故で瀕死の重傷を負い、自分の人生で追い求めるものすら見つけられなかった。パットの人生の中で、最も頭痛の種である反面、最もかわいかったのはドニーだったのではないだろうか。ドニーはパットよりも先に逝ってしまったが、ドニーの後を追うように逝ってしまったパットのことを思うと、そう思えてならない。

ドニーのことでひとつだけやり切れない思い出がある。あれは世界一周を終えて、2度目にこの家族を訪ねたときだった。この頃この家族は、最初に私が訪ねたヴィクトリア州シェパートンという町から、N.S.W州との州境の町ワォドンガに越していた。この時私はドニーとよくザリガニ取りに出かけた。大きな牧場の中にある牛の水飲み場に沢山ザリガニがいて、それを取って食べるのである。遊んでいる時のドニーは本当に良い奴で明るかった。だが、それも夜アルコールが入ると一変してしまうのだ。

私が訪ねて何日目の夜だっただろうか、アルコールが入ってしまって、パットとの喧嘩が始まった。この時の言い争いはいつもより激しく、パットに手を出しそうな雰囲気になってしまった。それを見かねた私は、急いでモウリーを呼びに走った。モウリーは駆けつけると何度かドニーを殴りつけた。しかし、それでも収まらず、結局は警察を呼ぶはめになってしまった。後でドニーは自分をマッポに売ったと両親をなじった。怒り狂った。そして、最後に泣きじゃくり始めた。泣きじゃくりながら、何故ここに私という日本人がいるんだとパットに聞いたりもした。たぶん私に対してのジェラシーもあったのだろう。私は少し申し訳ない気がした。あの時の泣きじゃくる姿を思い出すたびに、彼は自分の不甲斐なさ、苦しさ、悲しさを分かっていたんだと思っている。それはパットもモウリーも同じだったろう。

次男のジョンは、先にも書いたように、私がこの家族と知り合ったきっかけとなった人物である。しかし、おかしな話しだが、私はその後この男とあまり交友を深めていない。何故なら、私がこの家に居た時には不在だったし、しばらくして彼は一度オーストラリアに帰国はしたものの、今度は自分の絶対的な希望で、インドネシアに自分の嫁さん探しに出かけてしまったのである。

オーストラリア人に限らず、欧米人には東南アジアの女性に対する憧れを持った男性がけっこういる。小柄で、シャイで、良く尽くしてくれるというイメージが彼らのなかにあるようだ。ジョンもそういったイメージを持った1人で、特にインドネシアの女性に御執心だった。ただ、我々日本人と違うのは、その理想を現実に追い求めて、出かけて行くという点だ。そして、もう一つ。家族も本人の意思を非常に尊重すること。

そうしてジョンは念願どうり理想の花嫁をゲットしたわけだが、この男、一つだけ大きな見落としがあった。どんなにシャイで純真そうに見える乙女でも、熟れてきて、子供の1人でも産めば、女は逞しい生き物に変貌する事を忘れていたのである。インドネシアの気候に近いことを考慮して、新婚生活をノーザンテレトリーのダーウィンでスタートさせた2人だったが、3年もしないうちにいきずまってしまったのは、果たして何が原因だったのだろう。

三男のニール。この男はまさに三男坊そのままだった。常に両親の近くで暮らしていくタイプで、私が知り合ってからこの家族は3度引っ越したが、いつもニールは一緒だった。ウォドンガに移ってから始めた商売では、この男のこまめさと真面目さが大いに役にたっていたが、パットが亡くなった今、モウリーが一番頼りに出来る人間がニールだけになってしまったのは、何か残念な気がする。

一番下の長女ジェニーは、実はパットとモウリーの実の子ではない。ジェニーの実の両親は、彼女が産まれた時学生で、育てていけるだけの生活力がなかったために、ジェニーを里子に出したそうだ。パットとモウリーには3人の男の子しかなく、女の子1人位何とかなると思い、彼女を引き取ったそうだ。この事実は、ジェニーが3才になった時に、本人に伝えたとパットは言っていたが、何れは分ることとはいえ、小さな子に現実を直視させる厳しい姿勢は、その後のケアーさえ確りすれば、問題はそれほどない。ということを、パットとモウリーの姿勢から教えられるものだった。ただひとつ付け加えるなら、ジェニーには脳の一部に障害がある。そのために生活に少々支障があるのだが、このことへのカバーは2人にとって大変だったと感じられた。

私が受け取ったパットからの手紙には、必ず家族全員の近況が書かれていた。一人一人の移り変わりを、自分のことのように、幸せそうに、満足げに綴ってあった。ジョンが結婚し、ニールが結婚し、ジェニーも結婚し、そして、自分達も居場所を変わっていった。シェパートンからウォドンガに移り、ウォドンガからメルボルンの郊外へと居を移していったのである。

私が初めてこの家族を訪ねた町シェパートンにいた頃パットは、近い将来どこかの町に移って、小さなショップを始めたいと言っていた。2人はその目的を果たすためにウォドンガに移った。私がウォドンガのこの家族を訪ねた時には、2人のショップはすっかり軌道に載っていたが、今度はその店を処分したお金でメルボルンの近くに移って、ショップでもしながらフラット(アパート)でも持って、ペンション(年金)を貰いながらのんびり暮らしたいと夢は更に大きな方向に膨らんでいた。

日本人は農耕民族の血筋であるせいか土着性が強いようで、一度居を構えると、どうもその場所に執着してしまう帰来がある。それが世界でも稀に見る地価の高騰を生む要因にもなっているが、欧米人のような遊牧民族の血を引く人達は、常により多くの草という糧を求めて移動するという傾向が強かったせいか、一定の地域、住居にそれほど拘らないようで、イギリスから開拓精神を持ってこの国に移って来た両親の血を受け継ぐパットとモウリーも、そうして住居や土地を移り変わりながら、勿論努力も惜しまず、少しづつ生活の基盤を安定させていったのである。

パットというか、この家族は決して特別裕福な家族というわけではない。ごく普通のレベルの家族である。生活も至極質素で、私が記憶する限り、パットは毎日家族の食事を作っていたし、たまには着飾ってパーティーに出かけるということもなかった。出かけるといえば、欧米人社会には様々な悩みを持つ人達が集まって、それぞれの悩みを話し合うという場があるが、パットの場合はドニーのことで週に一度話しに出かけていた。私も一度ついて行ったことがあるが、ここでも本当に明るい元気のいいおばさんだった。

こうして振り返ってみると、私はいろんな事をこの家族から教わってきたものだと思う。最初にこの家族を訪ねた時に、うちにいて少しのんびりしていっていいのよ。と、言ってくれたのもパットである。この家族と出会ってから先、6年という月日を海外で過ごすことになったが、その礎をきずけたのもこの人達との出会いがあったからだ。ビッグ・マーに会いに行っても、もう彼女はいない。今も最後に別れた時に、私を抱きしめてくれた彼女の温もり、大きさは鮮明に残っている。安らかに眠って欲しい気持ちでいっぱいである。そして、墓参りにも行けない自分を申し訳なく思う。

日本人という有色人種が、白人社会にエーリアンとして入り込んで、生活し、働くことは時として大変なことである。日本で暮らし働いていると、差別にあうようなことはない。それゆえ日本人は差別意識に疎い。世界に出て、一度差別を経験することはいい経験だと私は思う。一度経験してみれば、日本から世界を見つづける目に、必ず変化があると思う。職場で、レストランで、私も何度かそんな経験がある。そんな時、心の中にこんな分け隔てなく人を愛す人の存在があれば、救われるものである。