『イスラエルで、考えた。』 2000年6月2日
〈その1:キブツ・エルローム〉
2000年5月、イスラエルがレバノンから完全撤退した。イスラエルが防衛ラインを国境までさげたことで、あの人達はどうしているだろうかと、ニュースを聞きながらおもった。
1984~85年、私はイスラエルのゴラン高原にある、エルロームというキブツに数ヶ月間お世話になった。エルロームはゴラン高原でも北部に位置し、マウント・ハーモンという、イスラエル、レバノン、シリア三国がその裾野を分ける山から、十数キロ南にさがった所にある。現在日本から派遣された自衛隊のPKO部隊が駐留する国連のキャンプが、ここからさらに南に6キロさがった所にあり、シリアとイスラエルの停戦ラインまでは5キロ弱、これから最も緊張するであろう、ゴラン高原をくだったバレー地域(北部谷沿いの地域)がすぐ眼下に広がる。
その当時でも、良く晴れた日には、ゴラン高原上空で音速を越えたジェット戦闘爆撃機がマウント・ハーモンの右側から回り込み、南レバノンにある反イスラエルのゲリラ・ベースを爆撃していた。(シリア領を侵犯していることになる。最初の頃何も知らない我々外国のボランティアは、あの戦闘機はシリアのダマスカスにいくのだと云っていた。)朝のニュースで、シリアから潜入してきたゲリラがすぐ近くで射殺された、と流れたこともあったし、時折り南レバノン方面から砲音が聞こえたりもしたものだった。
テルアビブのキブツオフィスでこの場所を指示された時には、正直いって驚いたが、なぜか興奮もした。1970年代までの激しかった中東戦争のことは良く知っていたし、イスラエルの歴史にもそれほど疎くなかった。
今から自分が行こうとする場所が、その戦争で重要かつ激戦地のひとつで、今なお緊張の続く場所であるという現実が、それまで訪れて来た地に足を踏み込む時と違って、緊張を伴った、怖さを知らない新鮮な気持ちにさせたのだと思う。事実、ゴラン高原に上がって行く道すがら目にする、実践配備された基地の兵器、何度かあるバスを止めての検問、地雷への注意書き、そして何よりも若い兵士の厳しいまなざし。これだけの雰囲気を直接自分の身で体験したことなど過去にはなかった。
キブツ・エルロームはそんな場所にある。しかし、意外とここにいた当時のボランティアたちは、自分を含めてノー天気な人間が多かったようだ。なかには「もしシリアが来て捕まれば、俺達は格好の人質だ。」などと言う人間もいたが。
あの当時確か十三才位だったシャーイやリヤット達。今は成人して兵役も済ませているだろうが、まだあのコミューンにいるだろうか。初めて目にした生の日本人の私に、いつも興味津々で、よくつきまとわれたものだが、あの子達がもしもあのままあの土地に住み続けているのなら、私には中東の平和という理想とは裏腹に、ユダヤ人という何かいつも定住の地に恵まれない民というイメージからも、彼らの置かれている立場や場所からも、あの子達に対しては、本当は持つべきではないのだろうが、幾ばくかの哀れみを感じる。
兵役の一環としてこのキブツにボランティアとして来ていた二十歳の女性がいた。その人は東洋っぽさをもった美しい人で、いつぞや私が、”一緒に旅をするかい。”と、さそったら、私はユダヤ人なのよ。と、いったまま悲しい目をして顔を伏せてしまった。これも現実なのだ。
キブツ・エルロームを離れて随分時が経つ。みんな元気でいることを願わずにはいられない。
〈その・2:ユダヤ人のある一面〉
イスラエルでもうひとつ忘れがたい事がある。
1986年、二度目にこの地を訪れたとき、私はエンゲジという、死海に面したリゾート地にあるユース・ホステルに何泊かした。この時ちょうど、テルアビブから来た二十人ばかりの高校生のグループと一緒になった。私は生の日本人ということで、彼らには格好の観察物だったようで、入れ替わり立ち替わり私の回りには生徒達が集まって来ては、色んな質問をされた。
確か二日目の朝だったとおもうのだが、対岸のヨルダン側から、黒い鉄板で全体を覆った小型の船が進み出て来て、ちょうど国境となる死海の真ん中で停止したかとおもうと、水面に向けて機銃掃射をしたのだ。私には初めての光景だったのだが、回りにいた高校生達にはさほど珍しくも不思議な事でもないらしく、私だけが少々興奮していたようだった。そして、その十数分後、今度は死海とイスラエルの南端の町、エラットとの間にあるイスラエルの空軍基地から飛び立った二機の戦闘機が、超低空で、死海の国境沿いに北上してきたのだった。この時も私一人が圧倒されてその姿を追ったのだが、この出来事があったあと、一人の女生徒がヨルダンをみながら私にこういった。
「あなたはいいですね、行こうと思えば、あの向こう岸に立つことができる。だけど私達には一生向こう岸からこちらを見ることはできないでしょう。行けば殺される。」
私は十七、八才の女の子の口から、殺される、という言葉が出てきたことに、少なからずショックをうけた。
目の前にいる相手に対する憎しみは現実で、その相手に背を向けることも、相手を受け入れる事もできず、ただ今の緊張だけは維持することを義務づけられ、その上、地球上のどこにいようとも国とのコンタクトも義務づけられる。そして、そういった教育を子供の頃から受け、殺される前に殺すという考え方を当然の事として持って育ってきたのだ。今の我々日本人にはこの感覚は遠くかけ離れたものだし、感覚を持つ事を想像する事すら難しいことだ。決してそれは彼らが望んでそうなった訳ではない。そういった現実は生まれた時から否応もなく、自分達とは切っても切れないものとして存在してきたのだ。それが彼らの悲しみであり、辛さなのだ。
ユダヤ教徒の特異性はいくらかあるが、特に血のつながりに対する考え方は際だっている。中でもユダヤの女性が結婚をする場合、ユダヤ教ではその相手との間に生まれた子供は、相手が何人であろうとも、ユダヤの母親から生まれた以上、ユダヤの血を受け継ぐ者として、ユダヤ教徒になるのだ。ユダヤの男性が異教徒、他民族と結婚しても、この掟は強要されず、あくまでもその体から血を分け与える女性に限りそう決められている。これがあるがために親は娘の結婚に気をつかい、ユダヤの女性を愛した異教徒の男は、改宗するか泣く泣く諦めざるを得ないのである。
地球上に莫大な富と強力なネット・ワークを持ちながら、地球上にわずかなテリトリーしか持ち得なかった民族。戦後、そのわずかなテリトリーは常に危険にさらされ、周りの異宗教の国々に嫌われている。また、主要先進国でしっかり根を張って暮らす人達にしても、その宗教の特異性からか、あるいはあのユダのイメージでか、または、自国で富を築いたよそ者に対するジェラシーなのか、私自身、イスラエル国内にいる外国人からも、他の国でも、ユダヤ人を罵り嫌う言葉を何度もきいた。
私は日本人で東洋で生まれ育ってきた。彼らが存在する西洋の民族間の感覚は、なかなか理解しがたいものがあるのだが、イスラエルの若者に会い、ユダヤ民族を知り、今の彼らにはまったく関係のない遠い過去に始まった不幸が、いまだに形を変え彼らに覆い被さっている現実を見ると、何か不憫に思えてならない。
〈その・3:自由について〉
大変厳しい現実と向かい合って生きなければならないイスラエルの若者達だが、イスラエルでは、彼らからおおいに学び、感じ入ったものだった。あの当時、私は二十七、八才だったのだが、同年代に限らず、十代の若者からですらすでに圧倒されていた。十六、七才ですでに、自分と同じかそれ以上の落ち着きを感じたのだ。
高校を卒業すると彼らには、義務としての兵役が待っている。そして、その先には下手をすれば死までもが口を開けて待っているのだ。その逃げられない現実と向かい合い、なおかつ自分たちの手で国を守り、自由を確保していかなければならない。十代の若者達にそれだけの大きなプレッシャーに打ち勝てるだけの意思が持てるのだろうか。私は彼らを見ていて、いつもそのことが不思議に思えた。
だが、彼らと向かい会って話をすると、彼らはいつも落ち着いた口調で、ゆっくりと確りした意見を述べる。ある種の覚悟を持つと、人は年に関係なくこうなるのか、と思うしかなかった。誰かが、人はいつ死ぬかは解らない。だからいつそうなってもいいように、常に真剣に生きよ。といっていた。彼らの心境もまた、これと同じなのだろう。
今私は日本にいる。日本にいて周りの若者の目や態度を見ていると、ため息がでてしまう。確実にこの国には何かが欠けている。日本政府に徴兵制を復活させよとは決して言わない。徴兵制を設けたとしても、この国にはそうするための意味も必要性もない。むしろ反発が大きくなるだけで、決して個々の中から生きる目的や、希望を生む活力は出てこないからである。だったら何が残るのだろう。たぶん早い自立と、本当の自由について考え、行動を起こさせることではないか。
日本は自由だという。なんでもできるから自由。はてさてこれは本当に自由なのだろうか。実際に欧米社会で暮らし働いてみると、日本という国がそう思えてくる。
社会に出てまでも誰かの都合のいいように再教育され、誰かの都合のいいように管理される。する方もされる方もそれが当然かのように疑わない。それさえ守ってさえいれば、日々の糧と程々に人生を楽しむだけの自由は得られるのだ。だが、欧米ではそうはいかない。会社であろうと役所であろうと、個々の人間は、自分の意見に自信さえあれば、堂々と意見を陳べる。それが許されているし、それが出来なければ逆に認められない。そして、上に立つ人間も、下からの意見を聞くだけの器と懐の広さを持っている。
余談だが、初めてオーストラリアで仕事をした時、私と同い年のペーペーが管理職の上司に、意見の食い違いから噛み付いた。その男はこともあろうに、”マザー・ファッカー”という、相手を罵る最も汚い言葉を吐いた。日本だとこれは即クビだろう。だが、二人が対立した仕事の方法で、正しい結果がでて、ペーペーが正しかったと解った時、この上司は素直に負けを認め、相手に謝った。
私はまだ働き初めて間もない頃だったので、この事には少なからずカルチャーショック的なものを感じた。そして、欧米社会が大人という一面を、初めて垣間見た気がした。欧米の社会構造は残念ながら日本よりも上だ。それもこれも結局はこういった垣根のなさが、物事を変革させていくのだとつくずく思った。
では、子供の育て方はどうだろう。残念ながら日本の多くの親は、親の視点から子供の行動や将来を捉えがちだ。それも日本の現実を心の中では否定していても、実際は肯定の方向に動くという矛盾を犯してだ。それがために子供は制限を受ける。口では個性うんぬんと言ってはいるが、これだけ先進国になったにもかかわらず、街中で見る小、中学生は以前とまったく変わらない。大人はもう少し勇気を持って、規則や制限を撤廃してもいいのではないか。欧米の社会で、小さい頃からオシャレをしていた子が、大人になっておかしくなったなんてナンセンスな話は聞いた事がない。
それにしてもしかし、そうして育った今の日本の子供達の殆どは、目の前の安全や生活は、当然親や社会が与えてくれるものだと思いこんでしまってはいないか。たちの悪いことにこの国には物がふんだんにあるし、金も、叩けば出てくるポッケトがどこかにあることを知っている。自立したいと思っている子はどれだけのものだろう。欧米では十六、七歳が自立していく目安だ。だから貧しい若者は沢山いる。日本で五万円といえば、中学生でも持っているが、欧米の若者に五百ドルといえば、そんな大金という答えが返ってくる。
欧米の若者はには金がない。金がなくても自立はする。自立してもの申す分重みはある。日本の若者は妥協する。妥協していれば、目の前の安全や生活は、自由と交換に保証される。
欧米社会で暮らしてみるとよく解る。日本人が低レベルだということを証明するような、社会に出てまでもする人間再教育や人間管理はない。あえて云うなら、日本人は和のためともいうが、社会で何か起こったときの結束力は欧米の方があるではないか。そして、安全は身からが鉄則で、安全と自由の交換など考えもしないだろう。十六、七才にまでなって親に百パーセント負ぶさって文句をいうなら、多くの欧米の若者のように、自活して、自分で自由になって叫べばいいではないか。それなら説得力もある。そうして大人になれば、欧米の企業のトップのように、人の話が聞ける者もでてくるだろう。社会で暮らそうとする人間は、自活できて初めて自由な場が築けるのだ。親も与える事を良しとすべきではない。欧米の殆どの親は、我が子が早く自立していくことに誇りをもっている。
<追伸>
これを読んでいる人の中で、もし自分を失いかけていると思っている者がいるなら。どうだろう。少しお金でも貯めて、知らない国に一人で旅に出てみては。
一歩足を踏み出せば、そこにあるものすべて未知だ。その中で少し暮らしてみればいい。何をするにも、何を決めるのも、すべて自分だ。助けてくれる者はいない。孤独だ。今まで自分を見つめていた視線や、聞きなれた声がまったくなくなると、不安な気持ちになる。
時が少しずつ過ぎていく。周りが少しずつ見えてくる。それほど時間はかからないだろう。ベットから置きあがり、さあ何をしようか考える。行動をおこせればしめたものだ。毎日、すべき事を決め、自炊もして、自分の事はなんでもしてみる。
そのうち余裕が生まれる。余裕が自信に変わる。自分を止める者はない。縛る者もない。だが、自分を守る者もない。そこを出発点に前に進めば、きっと何かつかめるだろう。