『暇なので、考えた。』 2000年6月1日


最近、毎日暇で暇で困っている。仕事がないのである。私のように人様が取った仕事を受けでしている立場の者は、向こうから仕事がこなくなると、いっぺんに時間を持て余す立場にたたされてしまう。毎日が忙しくてたまらない人にはうらやましい事かもしれないが、毎日家でじっとしている事を強いられる人間にとっては、これは大変な苦痛なのだ。ストレスでいたたまれなくなり病気にも成りかねない。

しかし私には、この現状よりも、もっと辛い時を過ごした経験が過去にある。1986年、私はニューヨークにいた。この年、私はヨーロッパからアメリカに渡り、この街で新たなる生活をスタートさせたのだが、ヨーロッパで蓄えた行動資金は、アメリカ入国前に殆どを中東での移動で使いはたしており、私の懐には殆ど余裕はなかった。

当時はまだ、我々一人旅の人間同士の間では、”ニューヨークまで辿り着ければ、レストランでウェーターをして十分な金が稼げる”、という伝説があったが、どうも私にはこの手の仕事はむかないと思われた。見知らぬ土地で、それも不法な立場で専門職を見付けられず、この二つのプレッシャーが相まって、毎日、今と同じ様なストレスいっぱいの生活をしていた。

そんなある日、部屋にいるのも苦痛なわけで外にでた。その時住んでいたのはマンハッタンのブロードウェイ沿いの五十何丁目かの安宿だったのだが、回りは高いビルばかりで、私はそのビルの谷間を歩きながら、ストレスとプレッシャーからだろうが、何ともいえない、なんと表現すればいいのかわからない、そう、胸の所から何かがこみ上げてきて、その固まりが上にあがって、頭から火山の噴火のように突き抜けていく経験をした。そして、何故かその後は急に気が楽になった。

その当時のわたしは目的をもって海外をあるいていた。目的があったからストレスとプレッシャーに勝てたのだと思う。今のような苦痛な毎日。あの頃はざらにあったのだ。私が欧米で仕事をしていた頃、欧米は不景気だった。その不景気を日本まで引きずってきてしまったが、あの、ざらな毎日を経験したことは、私の強みなのだと今は思おう。

これだけ自由な時間を持てる暇な人間、日本には少ない。出来ればこの時間、考えて、物書きにでも使えればいい。