『弱者達に対して考えた』 2001年4月3日
最近どうも子供に対しての虐待のニュースが、新聞の紙面を賑わすようになった。
勿論こういった行為は、最近になって始まったことではなくて、ずっと以前から見えない所で行われて来た事だろうが、それが最近エスカレートし過ぎてしまって、死に至るケースが増えたことで、がぜん大きな社会問題として取り上げられるようになった。
私が子供だった頃。1950年代から60年代の頃はといえば、どこの親も、又、学校の教師にしても、子供からすれば、だいたいが怖いものという存在だった。悪いことをすれば怒られたりどつかれたりするのは当たり前で、私も何度か怒られて、物入れに反省するまで入れられたこともあるし、学校には本当に怖い先生が何人かいて、不幸な生徒は本気で殴られていたものだ。
だが、かといってあの当時、それが否定されていた訳でもなく、また、エスカレートして虐待や殺人にまで発展したという話も殆ど聞かなかった。ただ単純に、我々が悪いことをしたからそうなったという、子供側からしても納得するものがあったし、逆にあの頃の大人達を擁護する言い方すれば、道徳心からくる使命感らしきものがあったように今は感じる。だから今、子供の頃を振り返っても、父親に怒られたこと、本当に怖かった先生のことは、他のどんなことより懐かしく、印象深く記憶に残っているのだろう。
しかし、今問題になっている虐待というものは、我々がそうして小さい頃怒られた記憶として残せた時期。それ以前の年代、幼児期の子供が犠牲者となっているケースが多いようだ。まったく力のない、まだ物事を理解することもままならない者に、己の要求を無理やり押し付けたり、力で押さえつけようとする大人がいる。こんなわがままで自分勝手な大人達が、どうしてこうも増えてしまったのだろうかと残念でならない。
子供に対する虐待や育児放棄は将来、たまにテレビでも取り上げられる、二重人格者などの精神障害を生むという。日本よりもずっと以前から先進国の地位を築いていた欧米でも、この問題は今もなお根強く付きまとっているようだ。我々は少しでも楽をしたい、良い生活がしたい、子供に良い生活をさせたいと願って、現代のこの社会を築いてきた。この問題はその結果として生まれたものだ。
これは私の身近で起きた、やりきれない話しなのだが、我が家の長男と同じ障害を持った子供が生まれたある家庭では、父親がその子に背を向け、家を出た。最も弱者であり、最も保護を必要とする子供に対して、最も責任があり、最も努力すべき人間がそれを放棄したことに、私は強いいきどうりを感じた。残念ながら、その子は白血病に犯され、3年で本当に短い生涯を閉じたが、その子が息を引き取った時の話しをうかがい、思い出すたびに、私は本当に辛い気持ちになる。
こういうことを書くと、本当につまらない世の中になったものだつくづく思ってしまうが。東南アジアやアフリカなどに、チャンスがあれば出かけてみればいい。貧しいながらも精一杯暮らす人達が必ずそこにいる。子供達の澄んだ目がある。一切れのパンを分け与える家族もいる。貧しい家族のために、自分から家を出る子供がいる。貧しい生活でも満足げな顔がある。私は彼らに出会えただけ、幸せだったのだろう。
子供の虐待の話しから入ってしまったら、ついつい長く行を引きずってしまったが、本当はここで私は社会の中の弱者達。ハンディ・キャップを持った人達に対しての事を書くつもりでいた。我が家の長男もダウン症というハンディを背負っている。私の旅に関連した話しもそろそろ終わりにちかずいたので、ハンディを持つ人達のために、これから役に立ちそうな事を2、3書いておきたい。
私が見てきた多くの国の中で、ハンディを持った人達に対しての福祉、施設、設備が最も行き届いていた国はアメリカだった。アメリカで暮らしていると様々な、ハンディを持った人達に対する配慮、力がない者に対する配慮が見えてくる。そして、勿論あれだけ大きな国で、スペース的にも余裕があるという利点はあるが、それよりもまず、彼らのために考え、実行することが出来る国民にも感心させられた。
アメリカに入って最初に滞在したニューヨークの街中で、まず私が感心したのは、、市内を走る路線バスだった。観光だとあまりこの街でバスに乗ることはないだろうが、乗ってみると乗降の際にそれに気付く。乗るときには補助用のステップが車体下から一段出てくるが、これはそれほど珍しくはない。要は下車する時だ。下車するドアのある車体の前部コーナーが、たぶんエアー・サスペンションか何かがドアに連動してるのだろうが、車体が多少沈んで降りやすくしているのだ。
車椅子を使う乗客に対する、リフト付路線バスの配慮は多くの街で目にすることができる。各路線の何便かにはリフトが付いているようで、車椅子にのった人がバス停で待っていると、運転士はバスから降りて、車椅子の乗客をリフトを使って乗せ、しっかり車椅子を固定してから発車する。
バスといえば、私が初めてアメリカに行った時、ミニスカートを履いた金髪の若い女性が、空港のシャトル・バスを運転しているのを見て、少なからずカルチャー・ショックを受けたが、アメリカでは、本当に多くの女性が路線バスやグレイハウンドなどの長距離バスの運転士として働いている。
彼女達がそうして、深夜便の長距離バスの運転士の分野にまで進出できる要因のひとつに、バスの操作性の容易さがあると思う。アメリカのバスは、その殆どがパワー・ステアリング付きオートマチック車になっているからだ。体力的にどうしても劣る女性が、こういった分野にまで沢山進出できるのも、こういったところへの配慮があるからだろう。
最近の日本社会も様々な所で、ハンディのある人や体力のない人達に対する配慮を行ってくれるようになった。バリア・フリー、スロープ、昇降用エレベータ、盲導犬や盲導犬利用者に対する配慮、等々。しかし、それでもまだ決してハンディを持つ人達が十分に外に出て行動出来る環境かというと、そうでもない。
例えばアメリカでは、建物を建てるに際しても、必ずハンディを持つ人達のことを一番に考慮した法律に沿った設計がなされている。その中で、私が一番大切だと思ったのが、人の出入りの多い建物。レストラン、商店、公共の建物などのトイレだった。アメリカのこういった場所のトイレは、必ず室内に5フィートの円が取れる空間を設けることになっている。この広さは勿論車椅子が室内で回転出来るに要するものが基準となっている。そして、サポート用のバーは全てのトイレに設置義務がある。
日本で生活してみると、この国の街中にハンディを持つ人達が出かけて行くのは大変だと、トイレを見ていつも思ってしまう。狭い国で、与えられたスペースに限りがあるのでいたし方ないのだが、これから本当に福祉を重要視した社会作りを行っていくのなら、これも大切な課題ではないだろうか。
ついでにトイレの事で、アメリカ人社会のこうったレストランや商用店舗などに義務つけられている法律、条例で、なるほどな、と思った事を書いておくと。全ての州、市に当てはまる事かどうかは調べてないので定かではないが、アメリカ西海岸のカリフォルニア州などでは、トイレを部外者、客意外の人にも開放しなければならないことになっている。例え浮浪者であろうと、通りすがりの人であろうと、レストランや商店のトイレは利用出来、それを拒む事は出来ない事になっている。こうした事が決められている大きな理由は、勿論立ションを少しでもなくすためだろうが、用が足したくて困った時には非常に助かる。
まさか自分が障害児の親になろうとは思いもしなかったが、勝手なもので、いざこうしてなってしまうと、やはり福祉やハンディを持つ人達のための設備、施設には関心を持たざるを得なくなる。我が子は健常者のようなまともな人生、十分な人生は送れないだろうが、せめて生まれてきたことにだけは喜びを感じてほしいし、不具合な人間だからというだけで内にこもらず、外に出て行ってほしい。そのためにも少しでも社会が進歩してほしいと願っている。
100人に一人。いや1000人に一人の人間のために何か出来る社会。
それが出来て初めて先進国家、福祉先進国と呼べると、今私は思っている。
次回で、私の旅にも区切りをつけたいと思っています。
世界一周の旅で、最後に会いたいと思っていた人が、現在南米、ブラジルに永住されて牧場を経営されている、あの小野田寛さんでした。いつの頃から小野田さんにお会いして、昔と今の子育ての違いについて、何か感じ取れればと思い始めたのかは覚えていませんが、とにかくこの地まで行き、この人に会えた時点で、私の旅も成功していると、旅を続けながら考えていました。その小野田寛さんの話しを最後にしたいと思います。

