『消耗品の日本人で考えた−(3)−』 2001年3月8日
−役所仕事で考えた−
我が家が立って1年半になる。土地に捲かれてしまうことには、いまだに抵抗がある。私という人間は、元来放浪癖があり、心の奥底でいつも自由を求めているせいだろうと思う。家を建てるに際しても、それを持つことにはいささかの感動も、満足感もなかったが、ただひとつ、出来れば自分でノミを持ち、ノコを持って、自分の手で建てたい、という希望があった。

実際、私はアメリカで何軒かの家に、スーパー・バイザーという立場ではあったが、何度か自分の手をかけた経験もある。物造りは楽しいことだ。細部まで色々考え、手順を練り、出来あがっていくものを目で追える。そして、最後にそれが形として残り続ける。子供の頃、プラモデルを作ることが好きだった者には解ると思う。

だが、残念ながら日本と言う国で、自分で家を建てることには多くの問題があるようだ。新聞やテレビで、何人かの方が、やはり自分で家を建てたという話は見たり聞いたりしたが、一番の問題はやはり建物自体に対する保証であり、もし、住宅金融公庫の融資でも使いたいと思えば、非常に難しい問題になる。では、いったい何が欧米と日本では違っているのだろう?

オーストラリアやアメリカでは、本当に多くの人がマイ・ホームを自分の手で建てている。そして、その多くがバルーンフレームという工法で、意外にも、現在日本に輸入されている、合板を打ち付けてパネル状にしたものを組み立てる、プラットフォーム工法とは違っている。(バルーンフレームに合板を打ち付ければ同じようなものだが)外壁にエンジニアリング・ブリック(硬質レンガ)を使ったり、板張りの外壁にしたりするためには、この方がいいのだろうし、作業もこちらの方が楽である。何かこの建て方には、建てることを楽しめるものがある。

週末になると、彼らは家族で建築中の我が家に出かけていき、楽しみながら我が家を建てるのである。こうして書きながらも、私は非常にその光景が羨ましく思えてならない。しかし、こうしたことが出来る背景には、勿論彼らの社会が持つ、一つの重要な制度がものをいっている。私がこの制度を最も羨ましく思ったのは、アメリカ西海岸、ロサンゼルスで働いた時だった。

ロッキー山脈以西地域は、メキシコからアラスカまで、言わずと知れた地震多発地域である。話によると、数千年前、ロサンゼルスの街は、350キロ南の現在のサンディエゴの位置にあったという。それがあそこまで移動して行ったのである。それくらいカリフォルニアの地殻変動も激しい。ロサンゼルスでも、郊外のパサデナ地区など地震の巣窟と言われるくらい、細かな断層の巣が多くある。

こう言った条件で、行政は建物を建てることに対して何を行っているのかといえば、細かなインスペクション(立ち入り検査)を行っているのである。全ての作業、全ての仕事に対して行政は、インスペクター(検査官)本人の、目による検査を義務付けている。インスペクターのサインが貰えない限り、次の工程、次の作業には入れないという厳しい制度を設けているのである。

建物の基礎を作るにしても、配筋でまず検査受け、パスしてもさらに型枠で検査を受けなければならないし、細かいフレーム検査は勿論、ボードを張るにしても、ネール(くぎ、ビス)検査が通らないとパテ作業へも進めないのである。設備配管、電気配線にしても同じである。全てにインスペクションの手が入る。日本のように、全てを写真で済まし、やった端から次の仕事が入り、その結果ラップ作業が至る所で生まれ、その結果危険が生じるなんてことはないのである。勿論このために工期は長くなるが、安全、品質を考えても、断然この方が理想と言える。日本では公共事業に対してだけは、役所の検査が入るが、彼らの社会では、民間、公共の区別なく検査が行われている。

では、これがどういった意味なのか。それは役所が中心で動いているのである。役所がOKを出しながら建物が建っていくのである。もし、仮に建物を捲きこむ災害が起こった時、この制度が大きな意味を持つのである。阪神大震災や、今問題になっている新幹線のコンクリート崩落では、施工した業者の責任ばかりがクローズ・アップされていて、この国の行政は指導方法という言葉しか持ち出さないでいるが、国民や企業の税金で動いているはずの役所という組織が、その責任管理で中心的な立場にたっていないがために、こういった現状を生み出しているのが日本の実情だ。しかし、アメリカでは、国民や企業の税金で動いている国や役所という組織は、きちんとその中心でその役割を果たしているといえる。

最近アメリカ西海岸では、ロサンゼルス、サンフランシスコ、シアトルと、立て続けに大きな地震に見舞われていて、そのつど大統領は、すぐさまFEMA(連邦緊急事態管理局)に動くよう命じているが、よほど古い建物でインスペクション制度導入以前のものを除いて、建物が被害を受けた場合、その責任と原因追求には、国レベルで動ける構図がこの国には出来ているのである。

また、個人で家を建てるというレベルでも、このインスペクション制度は本当に大きな役割を果たす。完成品には勿論役所の完成検査合格のサインが付くわけだが、それ以前に、建築段階で細かな検査に訪れるインスペクターとのコミュニケーション。これがおおいに役立つ。彼らはこと細かに検査する変わりに、こと細かに指導もしてくれる訳だ。それに沿って行けば、まず家は建つ。我が家を建てた時、役所の建築課の検査は、骨組検査と完成品の検査だけだった。ビルを建てる場合だと、民間の建物には構造上の立ち入り検査はない。

この国で不幸にも地震が起きて、建物が壊れた時、その原因追求と責任問題の対象とされるのは、残念ながらいつも建築会社であり、つまるとこ現場責任者である。見えないところで個人に行くのである。ここでも人が人を殺すという図式を生んでしまっている。こんな事でいいのだろうか。



日本社会の構造改革は、少しづつだが行われている。しかし、その中でも、建設業界だけは頂けない。表にはでないが、いまだにつまらないことが裏で行われている。欧米から市場開放を求められたときでも、行き着いた返答は、昔からのやり方を変えられない、だった。これでは幾らたっても他の先進国と肩を並べるレベルには行き着けないではないか。それも企業と癒着した政治家の口からこの言葉が出るのだから、ため息が出る。

もし、日本の業界にインスペクションを取り入れ、ゼネコンがマネージメント方式に移行し、昔ながらのやり方を変えれば、どういった方向に動くか。これは大いに興味深いことだ。

まず、絶対的に言えるのは、役所の仕事が増え責任が増すが、これはアメリカなどではすでに行っていることだから、社会の中心的役割を果たすためには努力せざるを得ない。ただ、これまで中途半端な意識で働いてきた役所の方々には、責任が増す分、根本的な意識改革が必要になるだろう。日本の役所仕事に対しては、様々な面で不満を耳にするが、それは日本の役所が社会の中で、責任、管理面で中心的役割を果たしてないからだと思う。

アメリカのスーパーバイザー達(現場管理者)の最も頭を悩ます仕事のひとつが、インスペクションのコンストラクション・デパートメント(各地区の役所の建築課)へのレコーディング(予約)である。工事の進行状況に応じて、タイミングを計らないとならない。なかなかこれが難しい。しかし、これ以外の仕事はあまりないのである。

マネージメント方式で、受注、設計、施工まで、ゼネコン一社が一括する方式だと、全ての設計図は本社の設計課がこなし、経理は本社の経理課、施工はコンストラクション・デパートメントの図面検査を受けた通りに、サブコンが進めて行くので、日本のように、現場に多くの人間を常駐させる必要はなくなる。いつぞやアメリカサイドから、日本の現状はあまりにも非能率的という指摘を受けたが、マネージメント方式にすることで効率はよくなると思う。毎晩毎晩遅くまでサービス残業を強いられるのは何故か。現在の体質が、ここまで現場にしわ寄せを食らわせて、家族をまで巻き込んでもいいのだろうか。

ついでに、昔ながらのやり方を改める気があるなら、アメリカのように、全てのサブコンとの新しい仕事での新規契約も、ビット制(入札)に移行すべきだ。この国には、残念ながら多くの談合がり、裏社会との癒着がある。明るみに出て新聞に載るのは、ついてないほんの一部にすぎない。仕事を取るための接待、仕事を取るためにする業者やサブコンの卑屈な態度、これが原因で付け上がっている現場管理者。日本に帰国して本当に失望させられた。欧米の取引ではまず考えられない。お互いがプライドを持って仕事をしているのなら、こんなことは考えられない。日本の企業で働くサラリーマン達は、こんなことでも神経をすり減らす。これも変えなければならない点だといえる。また、誰が考えてもブローカーは必要ないし、切り捨て、合併するものは多くある。

インスペクション制度を取り入れ、マネージメント方式に移行し、昔からの繋がりを切れば、本当に多くの変革が期待できるだろう。しかし、残念ながら、私が幾ら見てきた事をここで並べ立てても、その実現にはまだまだ距離がある。ただ、ここで述べて来た事が、誰かの何かのきっかけになればいいと思う。これだけ海外に出て行くチャンスが増した現代、若者達が積極的に自身から外に出て、見て触れる気持ちになることを期待したい。そうした人達が増えた時、世の中は変わるはずだ。


仕事関係の仲間が潰れていったことをきっかけに、私の仕事を通して感じたこと、思うことを書いてきた。たまたま舞台が私の業界だったというだけで、全てに共通することが多いと思う。

ただ、ひとつだけ、今からでもぜひしなければならない事がある。それは、子供の育て方だ。どうすれば自分から率先して、自分の意思で行動出来る、自主性のある子供に育てられるか。考える必要がこの国の大人達にはある。欧米社会があそこまで出来るのも、結局は自主性を植えつける教育があり、そうして育った人間が意見を発し、それに耳を傾けられる人間が上にいるからだ。社会制度然り、福祉制度然り、自分からしようと思う人間がいるからだ。

そして、敗戦で日本人は、国と指導者達に幻滅した。それまでは曲りなりにも国や行政は、国民感情の中心にいたのではないだろうか。しかし、現状を見る限り、政治も行政も、我々の輪の外に感じられる。日本人は、欧米人達がその根底にいまだに持ちつづける原始的自由の観念を放棄する変わりに、輪の外からもたらされる、黙ることで与えられた安全に頼った。与えられた安全に甘えて、外のやることなすことには目を背けてきたのである。我々自身にあるその責任も忘れてはならない事だ。