『小野田さんに会って考えた』 2001年4月8日
私が小野田さんに会いに行こうと決めたのは、確かオーストラリアの日本総領事館で、この人の新聞記事を読んだ時だと記憶している。見るからに朴とつ。頑丈そうな意思を秘めた顔。そして、それまでの私の人生に近い年月を、フィリピン・ルバング島というタイムマシンに押し込められて過ごした過去。この人は、日本人が持ってた何かをそのまま持ちつづけてる。それを感じたい。が、理由だった。

勿論その時の私には、オーストラリアを無事に離れられるかさえも分からないし、さらにその先、アジア、ヨーロッパ、北米などを経て、無事に彼が暮らす南米にたどり着ける確証も自信も何もなかった。なかったというよりむしろ99%未知数だった。しかし、その反面ひとつだけ確信がもてたことは、もし仮にうまく計画が進んで、日本の裏側にあたる彼が暮らす南米に辿り着けたなら、これは本当に凄い事で、まず世界一周という大前提は、その時に達成できているだろうということだった。さらに、遥か先のまだ見た事もない国に思いを寄せられることは、それだけでも楽しいことだった。

最終目標だけは持ち続け、厳しいなかそれでも何とか旅の行程を延ばし、小野田さんに会いたいという希望だけは、幾度となく他人に吹聴している内、ある日思わぬ所から糸口と繋がりが見えてきた。それは、私の叔母の学生時代の友達が、小野田さんの住む、ブラジル、カンポ・グランデに永住していて、その友達のご主人が経営する機械耕具の修理工場に、小野田さんがよく出入りしているので、もし私が訪ねられるなら、何とか間に立って紹介してくれるよう、叔母が友達に頼んでくれたのである。


アメリカ滞在中に叔母からこの連絡を受けたが、これほどの幸運はなく、最後の締めがそこで見えた気がした。


北米から南米に渡った時点で、私はほぼ当初の計画の成功を確信していた。しかし、南米に下りたといっても、すぐに小野田さんを訪ねたわけではなく、最初は南米各地を積極的に動き回った。その中で、私は多くの日系人の方々に大変お世話になった。

現在、日本には本当に多くの日系人の方が、南米から出稼ぎに来ておられるが、あの当時はまだ、日本に働きに行くという話が殆どなかった頃だった。30年、40年前に南米に移住された頃は、信じられないような話しだが、日本に稼いだ金を送金出来たそうである。それが今ではすっかり状態が変わり、自分達にとって日本は遥か遠い国になってしまった。お会いする人の殆どが、そう言って日本を懐かしんでおられた。


私は他人でありながらも、母国から来た日本人ということで、多くの人に歓待された。次の人、次の人へと紹介され招かれるのである。まったく知らない内陸部の、こんなところにも日本人が居るのか、と驚くこともしばしばだった。そして、子供の頃親に連れられて南米に渡った人達が、今は年配者になり、私が彼らに見たものは、日本のいなかで暮らす、人が良くて素朴で、勤勉、勤労な人達の姿。まさにそのままのものがそこにあった。

これは本当に感動ものだった。こんな所で日本の本当に良き人達の姿に出会えたのである。
長旅をはじめて5年。ついぞ忘れかけていたものに出会った気がした。
お世話になったものを、なにも返せずじまいでいるが、この場を借りてお礼申し上げたい。



叔母の友達、Yさん方に着いて、私は5日ばかり待たされた。小野田さんの牧場は、この内陸部のカンポ・グランデの町から、さらに奥に入ったところにある。そのため、小野田牧場の誰かが町まで出てこないと、私は付いて行けなかった。しかし、その間も毎日のように、他の日系人の方々に呼ばれていたので時間はすぐ経った。

5日後。私は小野田さんの奥さんの弟さんに連れられて、牧場に向かった。内心、ここまで来たことをどう説明すればいいものか迷った。それから、ちょうどその時期、昭和天皇の様態が悪かった頃で、小野田さんの奥さんに前もって電話で、あまり過激な質問はしないようにと言われていたので、いったい何からコミュニケーションの糸口を見つければいいのか心配だった。

あの頃の牧場の中にある小野田家は意外に質素なものだった。木造平屋の板張りの住居の他に、ゲストを泊めるためのブロック造りのバンガローが前にあり、それらが牧場の真中にポツンとあった。私は弟さんについて、一番奥の食堂兼リビングの部屋に入って行った。

私達が部屋に入った時、小野田さんは部屋の隅で片付け物をしていたようだった。その後姿を初めて見た時、なんて小柄な人だろうと思った。私は彼に近づき握手を求めたが、振り返って私を見とめて、その時みせた笑い顔は、何度もテレビで見た、あのグァム島で見つかった後の緊張した顔、張り詰めた雰囲気からは想像できないような温和なものだった。それで私の緊張もとけた。


その夜の話しは、もっぱら私が訪ねた国々の話しが中心だった。小野田さんはその中でもイギリスの話しに特に興味があるらしく、私のイギリス観によく耳を傾けて聞いておられた。よく考えれば、小野田さんをルバング島で見つけたのも冒険好きな日本人で、そういう意味ではバックパックを背負った私も、彼からすれば受け入れやすい人間だったのかもしれない。何をどう聞けばいいのか迷っていた私だったが、以外にも小野田さんは、自分の方からいろんな事を語ってくれたのである。

そんな彼の話しの中で、やはり一番私が聞いてみたいと常々思っていたのは、小野田さんの子供の頃の話しだった。昔の話し、子供の頃の事、過去と現代を、間を省いたうえに、さらに急激に圧縮した形で受け入れなかればならなかった経験から、この人には分かるであろう今と昔の子供達の変化。等々。興味ある話しをこの人は沢山抱えているはずである。


勿論私はこれだけに限らず、私からみれば特異な人生を経験した中での、感想も聞ければ幸いと思っていた。小野田さんは、そんな私の気持ちを知ってか知らずか。私が彼にとって無害な人間だったせいか。本当によく心を開いてもらって、子供の頃の話しや生活感を聞かせてくれた。その中でも特に、この人となりが分かる話しがあるので書いておこう。

昔の尋常小学校に行っていたある日、休憩時間に前の席の子が小野田さんに、鉛筆を削る小刀を貸してくれるよう頼んだそうだ。だが小野田さんは何故かそれを拒んだそうだ。それで前の席の子もむきになり、貸せ、貸さないで小競り合いになってしまい、小野田さんは何かの拍子で、前の席の子の手に小刀で怪我を負わせてしまったそうだ。


小野田さんは職員室に呼ばれ、教師から怒られ、そして、怪我をさせた相手に謝るように言われた。だが、彼はそれをがんとして拒んだそうだ。
「僕にも意地があったし、自分の物を貸す貸さないは、自分に決定権があるわけだから。それでたまたま怪我をさせてしまったが、子供心に、自分に非はないとムキになったんだろうね。」
そういって笑っておられたが、問題は家に帰ってからだったそうだ。

家に帰ると、小野田さんはすぐにお母さんに部屋に入るよう呼ばれた。すると、お母さんは白装束を着て脇差を前に置き、彼に前に座るように促すと、言ったそうである。その日小野田さんが学校でした事。それに対して彼が取った態度。そして、何故謝らなかったのか。聞いたそうだ。

「うちの母は、どちらに非があるにしろ、他人を傷つけたことを謝らなかった私を怒っていたんでしょうね。私が自分の罪を認めないなら、ここで一緒に自害しようと待っていたわけですからね。私のその頑固さを正すために、わざわざ死に装束を纏って、そんな子を育てた自分も責任を取ろうとしてたんですからね。」
小野田さんは、この話しを懐かしそうに私に話してくれた。

現代の子を持つ親達に、これだけ真剣に子供と向かい合う姿勢があるだろうか。日本の公共の乗り物の中で、大声をたてたり騒ぐ子供が目立つが、側にいる親は注意もしないケースが多すぎる。欧米では、本当に子供はマナーを守って静かに座っている。いじめが問題になっているが、いじめをする子供の親は、毎日子供の何を見て、どう向き合っているのか。毎日子供の目を真っ直ぐ見ていれば、子供の目はうそをつかない。いじめを良しとする子はいないはずだ。何か心の中で良心の呵責があれば、目をそらす。


小野田さんが子供だった頃の親に出来たことが、今の親に出来ないはずはない。無知な親が多すぎる。自分から学ぼう、考えようとしない親が多すぎる。この話しを聞き、日本に帰国して10年経ち、こうしてもう一度思い出してみると、本当にそう思えてならない。

現在小野田さんは、年に何回か帰国して、子供塾を自然の中で開かれているようだが、身をもって短期の間に、子供の世界の大きな移り変わりを感じられたわけだから、そんなことで子供達に夢と生活の知恵を与えられれば良しと、されているのだろう。勿論、自然の中で暮らす事に関しては、超がつくエキスパートなわけだから。

ただ、何故か私はこの滞在中に、小野田さんのルバング島での事は何も話してない。5、6マイル離れた養鶏場を営む日系人の隣家に連れて行ってもらったりして、ブラジルでの生活の話しは多くしたが、この事には触れずじまいだった。しかし、外で働く姿を見れば、あの環境で頑張り通せたこの人の性格や行動センスは、容易にくみ取ることができた。

今は肩の力を抜いて生きておられるせいか、紳士的で、優しい笑顔を絶やさないような人だった。
あらためてここで、話しを聞かせていただいたことに感謝したい。



テレビのクルーが日本から来るとかで、私は長くお邪魔は出来なかった。しかし、これで一応やることはやった気持ちになれたので、後は南米を離れるだけだった。南米を離れた後は、以前書いたように、そのまま太平洋を渡って世界一周を達成することは諦め、来た道を帰り、やっと開放された中国を歩いたのである。

サンパウロからロンドンに飛ぶ飛行機のなかで、涙があとからあとからこぼれてきた。
私は人に見られるのが嫌で、毛布を被って泣いた。
いったい何人の方のお世話になったのか。
長かった、本当に長かった、孤独で、楽しみに背を向ける生活の辛さ。
諸々のものが、あとからあとから頭を過った。
その時、初めて達成したことの喜びを、私は満身に感じた。