『ニューヨークで暮らして、考えた』 2000年10月27日
ーマイクとパトリックと私からー
最近東京の都心を、仕事の関係でよく歩くようになった。あまり好きな街ではないなとつくづく思う。どうしてこの街は行けども行けども建物ばかりがつづくのだろうかと思う。東京の街しか知らない人には、それが当たり前の事として捉えられているのかもしれないが、世界中の大都市を見てきた人間には、あのだらだらとつづくまとまりのないビルばかりの街並みには、何か嫌悪感すら覚えるし、街自体に優しさが感じられない。いくら人が多く集まってしまって、機能優先になったからといって、ひとつの大きな無機物の塊の中に、大地に寝そべる空間すらなくなってしまえば、その街には灰色のイメージしか似合わなくなってしまう。

先進国の主要都市や主だった街。シドニー、ロンドン、ジュネーブ、ニューヨーク、サンフランシスコ、アムステルダムなど、大きな街の中心には必ずといっていいほど大きな公園があり芝生がある。歩き疲れたり、仕事の帰りなど、自由に公園の中の青々とした芝生の上で横になれる。欧米の公園の芝はそうするためにある。日本のように美観と芝のいたみばかり気にして立てる、立ち入り禁止というようなヤボな立て看板は、芝張替え中の場所を除いて見当たらない。私は芝生にねっころがってボーと過ごす時が好きだった。チップスを持って行けばカモメやリスと遊べるところもある。大きな街の中心でごろんと寝転がり、のんびりと蒼い空を眺められることは、日々ストレスだらけの生活を送っている人間には、大変良いシェルターとなるのだ。

果たして、東京という街で(別に東京だけに限らないが)、寝転がってのんびり青空を眺められる場所があるのだろうか?せめて週に一度でも、まじまじと空を見上げられる人がどれくらいいるだろうか?人が多く集まる場所ほど息抜きができる場所が必要に思えるのだが・・・。



ニューヨーク。
アメリカの地方に住んでいるアメリカ人でも、一度は行ってみたいという街、ニューヨーク。そして、シティー・ボーイ&シティー・ガール、アーティスト、ミュージカル好き、野球好き、金儲けを考えている人には、ニューヨークはたまらない魅力のある街。あの街にはそれだけの刺激が充満している。遊び方と身を守る方法を心得てさえいれば、24時間ぶっとうしで楽しませてくれる街だ。

だが、いくらうるわしのニューヨークとはいえ、わざわざニューヨークまで来て、ゼロから何かを築こうと思う人間には、やはり厳し現実があるものだ。住家を見つけるのも大変。物価もやはり安くはない。大都市ではおなじみの、通りすぎて行く人の数は凄くても、ポツンと取り残されたような寂しさがあり。あれだけの高いビルばかりに囲まれて、その中でネズミのようにチョロチョロ動き回っていれば、いつの間にか高い壁でできた迷路のなかで、行き場も出口も見つからず、ただただ何とかしなければという重圧に、押しつぶされそうな感覚にも襲われる街。ニューヨークという街には、将来の楽しみを得るために、今その代償としてクリアーしていかなければならないものも沢山ある。


そんなニューヨークの街だが、それでも人を分け隔てなく、公平に、慈悲を持って受け入れてくれるものもある。週に一度は公共の施設。たとえば美術館や博物館はタダで入れてくれていたし、街の中心にあるセントラル・パークでは、色んなアトラクションが組まれていて、誰でも自由に参加、観賞ができた。ニューヨークという街に疲れてしまっても、街の中心にあるこの公園に行けば、誰でも大きな深呼吸ができて、ホッとする時間が持てる。

私は本当によくこのセントラル・パークには足を運んだ。そして、たいがい私は二人の友達と一緒だった。マイクとパトリックと私と三人だった。
三人で<クワイエット・ゾーン>(セントラル・パーク内のほぼ中央くらいにある。ローラー・スケートや自転車での乗り入れ禁止。フリスビー等の遊びまでは制限されてないが、あまり騒ぐと顰蹙をかう。芝生は長めに伸ばされていて、寝転がって静かに時間を過ごしたい人や、子供連れの家族などがのんびり過ごせるためのゾーン。ようはクワイエットー静かにーのんびり過ごすための場所だ。野球場二面くらいの広さがある。)に行き、あれやこれやと話をしたり午睡を貪ったりした。それから公園の一角にあるソフト・ボールのグラウンドにもよく行った。毎日誰かが道具を持ってきていて、一緒にプレーしてくれる人間を探していたので、わりかし簡単に仲間に入れた。私と二人の友には恰好の息抜きの場だった。


私の友達、マイクはイギリスから。パトリックはフランスから来ていた。おそらく、ニューヨークでは一番安いホステルで、私達は知り合った。知り合ったというより、この三人が一番暇を持て余していたから、自然と行動が同じになったと言った方がいいかもしれない。マイクが何の目的でニューヨークまで来たのか、マイク自身はあまり話そうとしなかった。ただ、結構裕福な家庭の息子だということは、たまにイギリスの話しをする時、その話しの節々から感じ取れた。彼は全体的に結構のんびりした感じだったが、いい男だったし、外観からは想像できないくらいの行動力もあった。

パトリック。この男をどう表現すればいいのだろう。とにかく彼のもつ優しさが、そのまま表情に出ているというか、立ち振る舞い、話し方、何もかもが優しく見える男だった。痩せ型で頭は薄いが、丸い銀縁のメガネの奥の細い目はいつも笑っている。友達に金がなければ、無け無しの自分の金を貸してくれたりもした。男から見ても、最もホッとするタイプだった。パトリックはニューヨークに仕事を探しに来ていた。フランスの軍関係の学校でコンピューター・エンジニアリングを学び、一時期フランスのコンピューターの会社で働いていたが、どうしてもアメリカの最先端の場で働く夢が捨て切れず、全くの手探り状態でニューヨークでスポンサー探しを始めたばかりだった。私がこの三人とニューヨークでバカをしていたのは、もう15年近くも前だから、今でこそ全盛のコンピューター産業も急激に伸び始める直前だったので、何の紹介状も、そして、ワーク・ビザも持たない彼が、アメリカで仕事をゲットするのは大変な事だった。


そんな我々三人が、ニューヨークで軽い気持ちで犯した犯罪がある。もうずいぶん時間も経つし、これだけコンピューター技術が発達した現在では、もうあんな事(あんな商売かな?)は技術力で封じ込められていると思うので書くことにするが、我々は長距離電話をタダでかけられる不正に手を出していた。ニューヨークの路上でバイアーから買える物はふたつあった。ひとつは言わずと知れたドラッグだ。マリファナもコケインも、ちょっと通りを外せば手に入る。だが、我々はここまで来てそんな物に手をだすほどバカではない。もうひとつ買える物。それが電話がタダになる番号だった。これはまずマイクが手に入れた。

安宿の近くの路上にいる黒人からこの番号を買った。と、マイクは半信半疑でその数桁の番号を私達に見せた。受話器を取ってその番号をまず押すと、ラインが交換手を通さず、そのまま衛星か交換所に繋がり、後は相手の国番と電話番号を押せばいいという。我々はさっそく試してみた。そして、それがうまく行く事はすぐに解った。あの当時から、アメリカでは他人のクレジット・カードを使って電話を利用する犯罪が頻発していた。ある日突然電話会社から高額の請求書が送られて来て、始めて自分のカードが紛失していたり、利用されたりしたことに気付くのだから、使われた本人にはたまったものでわない。しかし、私達がその番号を見て思った事は、その番号はクレジットの番号とは違う他の何かだということだった。何故なら、3日から1週間で変わるその番号の桁数はいつも違っているということが一点。それから、マイクは大変こまめな男で、毎回毎回買ってくる番号をきちんと手帳に書きとめていて、三、四回番号が変わる度に、過去使った番号が再度使われないかどうか確かめていて、何度か再利用できたものもあったからだ。


私もパトリックも何度か国やアメリカ国内の友達に、この番号を使って電話をしたが、私達二人以上にこの番号を頻繁に使ったのはマイクだった。マイクが見当たらないなと思ったら、私達は彼を探しに図書館に行った。マイクは静かな図書館の電話ボックスの中で、じっと受話器を耳に当て、イギリス国内のサッカーの試合を聞いていた。彼は実家に電話をして、ラジオを受話器の側に置いてもらい、サッカーの生中継を聞いていたのだ。確かに普通ではこんな事できないな。って言って、私はパトリックと顔を見合わせた。だいたいいつも顔見知りの黒人のバイアーから、この番号を仕入れてくるのはマイクで、さすがに途中からは、”今日は半値だった。”と言って喜んでいたが、マイクだけはこの番号を思う存分有効利用していた。

いずれにしても、私達がしていた事は、バイアーが介在していたとしても犯罪に間違いはない。私はこの場を借りて懺悔し、赤字を出させてしまったアメリカの某電話会社には心からお詫び申し上げる。しかし、ひとつだけ言っておこう。この番号。もしかしたら工事関係に使ったりする何かのシークレット・ナンバーかもしれない。だとしたら、あれだけ大きな電話会社の中に、小遣い稼ぎをしている怪しからんやからがいることになる。そういったやからを飼っている電話会社にも、責任の一端はあるのではないだろうか。とも勝手に思う。ちなみに夜、ロサンゼルスのダウン・タウンのバス・ディポの回りを、車でゆっくり流していれば、黒人のバイアーが近寄って来て、”何が欲しい。”と尋ねてくるが。私は一度、”電話番号。”そういってみたことがある。しかしながら、彼はキョトンとするだけだった。


私はニューヨークに三ヶ月しかいなかった。長期で暮らすには無理が多すぎる街だった。冬を前にして、西に動くことにした。私がニューヨークを出る前に、パトリックは当時全米三位のコンピューター会社から、条件付ではあったが、スポンサーになる契約を取っていた。あのままうまく話しが進めば、労働ビザの取得、永住権の取得へと話しが進んでいったと思う。マイクは私が出たすぐ後にイギリスへ帰って行った。今頃は親父の跡を継いで、きっといいビジネスマンになっていることだろう。ただ非常に残念なのは、彼ら二人の住所を書いた手帳を、ロサンゼルスのRTDのバスの中でなくしてしまったことだ。パトリックとは、フランスの彼の実家をとうして連絡し合おうと話したのに、自分のミスとはいえ、いまだに悔しい思いでいる。

ニューヨークという街は、ちょっぴり私達には厳しい街ではあった。しかし、その反面、それに変わる優しさもあったと思う。厳しさの中で摩り減って行く心の隙間を埋めてくれる、誰でも入って行ける空間が造られていた。帰国してこの国の街を何度となく歩いたが、疲れて休める場所が、喫茶店か固いベンチというのでは、あまりにもわびしい気がする。