『ブラジルで考えた』 2000年11月15日
ー日陰で生きる子供達のためにー
長期の世界旅行をして、私がお金を取られた経験は二度しかない。一度目はタイのバンコク。あの眠りブッダの顔の前でだ。この日宿を出る前、腰にぶら下げたパスポート・ケースをロック・アップしようか迷ったが、このポーチ型ケースにまだ馴染んでいなかったせいで、私はロック・アップを躊躇した。(わざわざ皮細工をする友達に頼んで、オーダーで作ってもらったもの。パスポートよりも少し大きめで、T/C,大事なペーパー類を入れていた。ズボンのベルトを通して腰にぶら下げていたが、赤っぽい皮製のため、前から見るとガン・ホルダーに見える。そのためよく間違われた。)躊躇したのが結局はアダになり、まんまとすられてしまった。
二度目に私がやられたのは、ブラジルのリオネジャネイロのビーチだった。これは計画的な犯行にまんまと嵌った。ビーチで寝そべっている私に、一人の若者がタバコをくれないかと言って近づいて来て、タバコを差し出して火を着けてやると、意味不明なことをポルトガル語でまくしたてる。それに気を取られて横を向いているスキに、もう一人が所持品を持って逃げるというあんばいだ。気を引く役の人間がサッといなくなって、気付いた時にはもう遅い。私は足には自信があったが、回りを見まわしても、もう分らない。
不況、大家族。そんなことが重なって現在のブラジルには、家を持たない、家に帰れない子供達があふれていた。そんな子供達は、子供同士で固まりあい、ストリート・キッズとなり、路上や自分達で建てたほったて小屋にすんで、生きるために盗みや引ったくりをして暮らしている。去年だったかおととしだったか忘れたが、一人の男が驚くべき数のストリート・キッズを殺害して(確か百人以上だったと思う。)、山中に埋めていたが、これなど間違いなくビジネスとして、この男は子供を殺していたと思う。何故なら、ブラジルの大都市でこの子達による被害は相当なもので、商店街に限らず、通行人にも平気で手を出す。私も黒人と白人の十二、三才の男の子二人組みに付きまとわれて腕時計を狙われたが(未遂に終わった)、生きるために見境なく悪さをしているうえに、警察も取り締まる方法がないとなれば、後は闇に葬るしかなくなる。
ブラジルという国は怖い国で、どんな要人であろうと500ドルあれば消してくれる人間がいる。これは憶測で言っているわけではない。ブラジルの裏と表、両方でビジネスをしている、とある実力者から聞かされた話しをもとに私は書いている。(だからその人も、自分のオフィースの机の引出しには、必ずピストルを入れていた)生きるために小さな手を汚さなければならない者もいれば、生きるために人殺しを簡単に請合う者もいるのだ。大量の子供が殺された背景には、おそらく街の美化という暗黙の理由付けがされたであろう。そして、あれだけターゲットが街なかにいれば、本当に安い値段で命のやり取りがされたのではないだろうか。
世界中には残念ながら、本当に悲しい目をして、必至に生きている子供達が沢山いる。発展途上国の子供達はいうまでもなく。旧ユーゴ・スラビア領、旧ソビエト領などでいまも続く戦争の犠牲になり、行く場所のない子供達。あるいは、あの華やかなフランスのパリの街中にもいる。
ジプシーという名前を聞いたことがあると思う。このジプシーの子供達を、モンマルトの丘や地下鉄の駅構内で、沢山見かけたことがある人がいると思う。この子達は、親に一日の稼ぎのノルマを課せられ、引ったくりやスリをしていると聞いた。そのせいか、獲物を探す目つきも真剣で、四、五人でつるんで取る行動も組織だっていた。一番悪いのは勿論親だ。だが、この子達も生きるために、あの華やかなパリの街でつるんで悪事を働いているのだ。ブラジルの子供達にしてもジプシーの子供達にしても、この子達を責めるには、あまりにも辛いものがある。
しかし、所詮旅行者が外国に行って被害に遭えば、この子達は恨みの対象になる。それもいたし方のないことだ。だが、この子達にも、一本裏通りに入れば違った顔がある。運良くお腹が膨らんででもいたら、本当に幸せな顔もするだろう。そして、この子達には深い悲しみの顔もある。おそらくこの子達がそんな悲しい顔を見せるのは、棲家に帰ってからだろう。楽しそうな親子連れを街中で見ても、ふつうの子に後ろ指を刺されても、その時には表情を変えないが、一人になった時、いったいどれだけの悲しみに打ちひしがれるのかを想像すると、悲しい気持ちになる。兄弟が多いために、口減らしで自分から家を出る子が多いと聞く。十才前後の子供が、親の愛に背を向けて自分から家を出る気持ち。どれだけ悲しく辛いかは想像がつく。
私には今、三人の子供がいる。長男は障害児だ。だが、それでもこの子達は本当に幸せだと思う。生まれた場所が違っただけで、幸せにこれだけの開きが出来るのは、今は運、不運としてかたずけるしかない。だが、親が見てきた以上、少なくても我が子だけでも、こういった現実と世界が存在することは知ってもらいたいし、自分の足でいつかは確かめに行って欲しいと切実に思っている。
いや、もうこれだけ多くの日本の若者達が簡単に世界に出て行ける時代になれば、それだけでは済まされない事かもしれない。この国ほど先進国と呼べる国の中で不安定な国はない。食料自給率、エネルギー、軍事力の低さ、そして、何より重要な国民の意識の低さ。それをかんがみれば、この国ほど世界平和という条件の重要さ、大切さを自覚しなければならない国民はいない。日本の若者達がこれだけ簡単に世界に出て行くなら、どこかでこういった子供達にも目を向けてもらいたい。彼らの目から自分の目を逸らさないで欲しい。そして、それを後世に伝えて欲しいと思う。
私が初めて、本当に無残な子供の亡骸を見たのは、インドのマザー・テレサの<死を待つ人の家>で、朝遺体回収に来るトラックの荷台に、無造作に乗せられていた、産まれたばかりの赤子の亡骸だった。数体が血まみれのまま、白い布でまとめて縛られていた。人間の生命がこれほど簡単に終わり、簡単に扱われているのを見るのは初めてだった。ひとつの観念を打ち砕くには十分な光景だった。そのことから始まって、世界各地で先に書いた子供達を見てきた。しかし、私には何も出来なかった。今こうしてせめて文章で皆さんにお伝えできた事が唯一の救いであり、何かの役にたってほしいと願っている。
ブラジル、リオネジャネイロのビーチで私のバッグをかっぱらったのも、ストリート・キッズから大きくなった奴らだと思う。腹はメチャクチャ立つが、あまり恨まないようにしたい。実はこの話し、オチがある。この時、私の手元に残ったのは、下に敷いて寝そべっていたバス・タオルだけだった。泊まっていたYHまではバスを使わないと帰れない。さあ困った。私はビーチの近くのポリスボックスに行き理由を説明しようとしたが、これまた英語がなかなか通じない。その時ちょうど居合わせたのが、私服の警官で、私服クラスになるとある程度の英語は通じる。彼は理由を聞いてくれて、帰りのバス賃を貸してくれた。しかし、問題はこれからで。帰りのバスの中、私はビキニの海水パンツだけでバスに乗り、好奇心と軽蔑の目でジロジロ見られながら帰って行った。

