そして、それから二カ月余りが過ぎて、今日は夏休みが始まって最初の週末。梅雨も明けて、突き抜けるような青空から強い夏の日ざしがギラギラと照りつけている。都心の繁華街に向かう電車の中は、子ども連れや買い物客たちでいつもより開放的な感じがする。絵美子さんから借りた鏡をのぞくと、唇に淡い色のルージュをひいたあたしがいる。そしてそのあたしは今、ノースリーブのワンピースに身を包み、ちょっぴり長めのスカートから伸びた素足の先にサンダルをはいている。
 …こっちに来て、あたしはほんとに変わったと思う。学校だって今ではだいぶすんなり仲間にとけ込むことができるようになったし、一緒に遊んだりしゃべったりできる友達もだいぶ増えた。困ったときは絵美子さんや先生がいろいろ相談に乗ってくれる。相変わらず勉強の方は大変だけど、それも晋也がいろいろ教えてくれるし。――それに何より、ここにはあたしの全てを受け入れてくれる、そしてあたしが心の底から信じることのできる人がいる。
 終点で電車を降りて、人込みをかき分けて待ち合わせ場所に着くと、すでに光夫は待っていた。あたしは彼の背後に回り込んで、不意に声をかけた。
「どう、この服?」
 光夫はいきなり声をかけられて驚いたが、振り向いてあたしの姿を見るとさらに驚いた。
「リ、リラ…。おまえ…」
「この服、こないだ友美と一緒に買ったの。友美ったら、あたしが今日あんたとデートすることを話したら、早速あたしをデパートのバーゲンまで連れていって、そこでこれをあたしにすすめてくれたんだ。絵美子さんもほめてくれたし」
「リラ、こういうの着るとけっこう色っぽいじゃないか。はっきり言って驚いたよ。でもおまえ、あんなにスカートはくのいやがってたのに」
「相変わらずにぶいな、あんたって。ま、あたしが学校以外でスカートはくのなんて、こういうときくらいだけどね」
「いっそ髪も伸ばしてみたら?」
「いや、服は着替えることができるけど、髪はそうはいかないからね。こっちの方がさっぱりしてるし。あんたがそうした方がいいと言うのなら、考えてあげてもいいけど」
「ちょっと言ってみただけだよ。リラには今のヘアスタイルが十分似合ってるから。…まあこんなところで立ち話も何だから、どっか涼しいところに行こう」

 近くの喫茶店に入り、テーブルで光夫と向かい合う。
「学校の方はどうなんだ?」
「先月体育祭があったんだ。そこであたし、いろんな種目に出たの。それ以来いろんなクラブから勧誘が来て、もう大変よ」
「どっか入ればいいのに」
「いやいやあたし、勉強の方が大変でさ。こないだの期末テストも赤点取っちゃって、それから追試で大変だったんだから。夏休みも補習や宿題があるし、その上さらに絵美子さんはこの成績だったら夏休みは塾に入れて特訓させるなんて言ってるの。これだけは勘弁してって言ってるんだけど」
「おいおい、試験の前にはおれのところにもさんざんわかんないところを聞きにきてたじゃないか」
「ほんとはバイトだってやりたいけど、これじゃ絵美子さんが認めるわけないでしょ? 絵美子さんは高校生は携帯や高い服なんか持つ必要ないなんて言ってるし。まあその分高校を出たらばりばり稼いでやるからいいけどね」
「金の亡者だったおまえが…。えらくあっさりしてるじゃないか」
「殴られたい?」
「しかし絵美子さんって意外とおかたいなあ…。それにしてもおまえ、その絵美子さんだけには頭が上がらないんだな」
「でも絵美子さんって心の底では本当にあたしのことをわかってて信頼してくれてる、だからこそそうやって厳しくしてると思うの。それにね、あたし今、絵美子さんからいろいろ料理のこと習ってるんだ」
「へー。あの料理下手だったおまえが。おれに何か料理つくってくれるのかい」
「バーカ。そんなんじゃないわよ。絵美子さんだって仕事持ってて帰り遅いことだってあるんだから、そのときはあたしがご飯作らないわけにはいかないじゃない。…でも光夫、あたしの料理食べるのは、もうちょっと腕を上げてからにしてくれない?」
「それは楽しみだな。リラだったらすぐに上達するよ。ところでおまえ、晋也ともちょくちょく一緒に出歩いてるって聞いたんだけどな」
「あいつ、博物館とか美術館とか、そういうとこにばっかりあたしを誘おうとするんだ。だからこないだ、一緒に遊園地に行ったの。そしたらあいつ、絶叫マシンでキャーキャーこわがっちゃってさ。むしろそっちの方が見物だったよ」
「おまえ、けっこう晋也にも気があるんじゃないか?二股かけるのはよくないぞ」
「そんなんじゃないわよ! ちょっと勉強教えてもらったお礼をしただけなんだから」
 あたしはテーブルの下で、光夫の靴をサンダルでふんづけた。
「いてててて…」
「まああいつも、以前に比べて最近ちょっとはしっかりしたところが出てきたかな」
「でもリラ、お前こうして見ると、けっこう楽しそうじゃないか。ついこないだ『高校やめたい』なんて言ってベソかいてたのはだれだったっけ?」
「へへへ…。今では懐かしい思い出よ。あれがなかったらみんなと仲良くなれることもなかったわけだし」

 飲み物の氷が、ストローの先でカラカラと音を立てる。
「リラ、おまえこうして見てると、ほんとに変わったなあ…。おまえ、あっちにいたときには、こんなかわいい服着るようになるなんて、想像もつかなかったもんな」
「悪かったねー、かわいくなくて。だいたいこんなかっこして盗賊稼業ができるわけないじゃない。…でも変だな。このあたしが今じゃこんなの着てるんだもの」
「リラ、おまえ、自分はかわいくないなんて、勝手に自分で決めつけてただけだよ。冒険のときから気がついてたんだけど、おまえ本心ではほかの子みたいにおしゃれがしたかったんだろう? 自分を変に卑下したり、逆に無理して自分をかわいく見せようとしないで、もっと素直に時分の好きなかっこすればいいんじゃないか。そしたら何着たって似合うよ」
「そんなこと言うんだったら光夫、今日はあんたが服選んでくれない? 早速ブティックに行くわよ」
「えーっ、友美と一緒に言ったばかりだと言ったじゃないか」
「あたしはあんたに選んでほしいの。フリルの服だって何だっていいから」

 二人でいろいろ店を回った後、公園に来たときには夏の日も西に傾きかけていた」
「何か疲れちゃったね。休んでいかない?」
「結局何も買わなかったな」
「いいの。どうせあんた、お金ないんでしょ? あたしだってこの服買っちゃったからお金ないし。あんたと一緒にショッピングに行くことができる、それだけで十分よ」
 公園の噴水から小川が流れ出していて、その水が冷たくて気持ちよさそうだったので、早速サンダルを脱ぎ捨てて素足を水の中に浸した。
「光夫、気持ちいいわよ。あんたもどう?」
 しばらく二人ではしゃいでいると、光夫が水をかぶってずぶぬれになった。
「あらあら。服、そうやって折ってると、みっともないしわがついちゃうよ」
 水辺を離れると、手持ちのハンカチで彼の体についた水をふき、服のしわを直した。
「前にもこんなことがあったっけ。あれはたしか動物園に行ったときだったな。象にえさをやろうとしたら、いきなり水をかけられて…」
「あのときのこと、覚えててくれたんだ」
「実を言うとおれ、あのときはじめてリラの本心にふれることができたような気がするんだ。そのときからずっとおまえのことは気になっていた。でもこうやって今ここでリラと一緒にいると、お前と別の世界で出会って冒険をした、あれは夢だったんじゃないかと思うんだ。第一何でおれがあの世界に飛ばされたのか、いまだにわからないし」
「わかんない? あたしとあんたが会うためよ。少なくともあたしはそう思ってるわ」
「リラ…、おまえがこっちに来てしばらくの間、ちょっと元気がなかったから気になってたんだ。やはりおまえにこの世界は合ってないのかもしれない、そしておまえをこんなところにまで連れてきてしまって悪いことしたかなあって。でもさっき、小川ではしゃいでいたときのおまえの屈託のない顔を見て、やっとおまえは自分を取り戻したなって思ったよ。一緒に旅をしていたときの、本来のリラに戻ったなって」
「もう…。そりゃあたし、ちょっと落ち込んだり、迷ったりしたことはあるけど、ここに来たのを悔やんだり、元の世界に戻りたいなどと思ったりしたことなんか一度もなかったわよ。あたしがここに来たのは自分で選んで、自分で決めたことなんだもの。それにあたし、自慢じゃないけど今まで一度も『後悔』というものをしたことがないんだ」
「リラ、落ち込んだって、迷ったっていいじゃないか。そうやって強がってばかりいるおまえも、かわいくて好きだけど」

 あたしたちはいつの間にか、西日が照らす公園の遊歩道を寄り添いながら歩き出していた。影が深くなっていく木立の間からは、セミの声が響いてくる。
「あのね、あんたはさっき、『本来のリラ』って言ったけど、実を言うとあたし自身今でもわかんないんだ。あんたに会うまでのシーフをやってたあたしと、今こうしてあんたと一緒にいる高校生のあたしと、どっちが本当の自分なのか。でも、これだけは胸を張って言えるの。あたしは光夫、そしてウェンディやティナと一緒に旅をしてこの世界に来て、たくさんの今まで知らなかった自分に会うことができたし、自分の力も、それから自分の弱さも知ることができた。それだけでもあたし、みんなに会えて旅をして、そしてここに来て本当によかったと思うの」
「リラ…。強くなったな」
「そりゃあたし、この世界のことはまだ知らないことばかりだし、それを思うとちょっと不安になることもあるけど、そんなときはウェンディやティナ、そしてみんなのことを思い出すの。あたしがどこにいても、みんないつもあたしを見守っていてくれる――そう思うだけで、心の中に力がわいてくるような気がするの。それに、なんてったってここにはあんたがいるもの」
「リラ、どこにいても、どんな服を着て何をしていても、おまえはおまえだ。どんなときでも、おれがおまえのそばについていてやる」
 光夫はいつの間にか木の陰で、あたしの体を両腕でしっかりと抱きとめていた。
「光夫…。大好きっ! 光夫がいれば、あたし、どこにいても生きていける!」
 あたしは光夫の体に両腕を回し、胸に顔を埋めた。

―― 完 ――

 



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