――そんなことを考えているうちに、外はようやく雨も上がり空には晴れ間が見えはじめていた。部屋の中でくよくよしていても仕方ないので、ジージャンを羽織ってスニーカーをはき、ちょっと外を出歩くことにした。ジージャンを羽織り、スニーカーをはいて外に出ると、人々がいつも通りの表情を浮かべながら買い物をしたり道を歩いたりしている。公園では母親たちが子どもを遊ばせながら、世間話に夢中になっている。そんな景色を両目で見やりながら街を抜けて、気がつくと川べりに来ていた。石を投げてみると、石は川面をはねていくつもの波紋をつくった。その川の水は、ティナのふるさとの湖とは比べものにならないほど濁っていた。あたしはポーチからティナの人形を取り出して、じっとそれを眺めた。

――ティナ…。わかってるよ。あんたがどれだけ光夫のことを強く想っていたか、そしてそのためにどれだけ苦しまなければならなかったか。…それなのにあんたはあたしがこの世界で光夫と一緒になることをだれよりも強く望んでいた…。あのとき約束したよね。光夫を幸せにするって。そして今の自分は幸せだって言ってたよね。でもあんたにとって幸せって何なの? 教えてよ、ティナ。

 ふと空を見上げた。雨上がりの空はすっかりちりを落として、いつもより澄んだ感じがする。そして雲の切れ目から光がさしている。この街にこんな大きな空がみえるところがあるなんて、今まで気がつかなかった。
――そう言えばウェンディ、夕焼け空を見るのが好きだったな…。いつかだれもいない砂浜で一人で見る夕焼けが一番きれいだって言ってたっけ。

――あたしはこの世界に来る前、孤児院で働いているウェンディにも一度あいさつをしに行った。
「ウェンディ、孤児院の仕事はどうなの?」
「仕事は忙しいし、また慣れない面も多くて大変だけど、最近になってやっと子どもたちも自分を頼りにしてくれるようになりました。それにここでは神父さんや街の人々も優しくしてくれるし…。私、今になってやっと自分に自信が持てるようになった気がします」
「そうね。今のあんた、昔と比べて表情がずいぶん明るくなったもの」
「えっ、そんな…。ところでリラさん、どうしても光夫さんの世界に行きたいのですか。私だって自分が変わることができたのは光夫さんのおかげだと思ってるけど、私は今やっと気づいたのです。ここには自分を必要としている人がこんなにたくさんいるって…。私はここでがんばってみたいのです」
「うん…。ウェンディ、もうあんたには会えないと思うけど、今のあんたを見ると安心して旅立てるわ。あたしもあんたと同じように、新しい自分を見つけたいの。あたし、今まで盗賊稼業をやってて、ちょっとばかり世の中のことを知ってたようなつもりになってたけど、あの旅をして、自分はほんとは世の中のことも他人のことも、何より自分自身のことも何も知らなかったということに気づいたんだ。それ以来、もっと広い世界を見てみたいと思うようになったの」
「あの…リラさん。一つだけお願いを聞いてもらえないでしょうか。光夫さんにこのマフラーをぜひ届けてください。このマフラー、旅の途中から編み始めていたんですが、出来上がらないうちに光夫さんが帰ってしまったんです」
「ああ、わかったわよ」
 別れる前、ウェンディはあたしを庭に連れ出した。空は夕焼けで赤く染まっていた。
「私、仕事が忙しくて疲れたときや、子どもがうまくなついてくれなくてちょっと落ち込んだときは、外に出てこの空を見ることにしてるのです。光夫さんもどこかであの夕焼けを見てるのかなって…。リラさんも光夫さんと一緒に、あんなきれいな夕焼けを見ることができるといいですね」
「…ありがとう、ウェンディ。いつまでも今の気持ちを忘れないでね」

――ウェンディ、孤児院で自分が人のために必要とされているということに気づいたとき、確かに変わったなあ…。
 その「人のため」ということばがふと頭の中に浮かんだとき、あたしははっとした。ウェンディだってティナだって、それに光夫や絵美子さんだって、あたしのことを考えてくれているのに、あたし、いったい何やってるんだろう。
 あたしは立ち上がると、手許の時計を見た。
――学校、そろそろ終わる時間だな…。
 あたしはいつの間にか走り出していた。なぜ学校に向かったのか、それはあたしにもわからない。でもそんなことはどうでもよかった。ただだれでもいいから、自分の話を聞いてくれる人がいてほしかった。

 学校は生徒の下校も一段落しかけていた。彼らの目を避けて校内に踏み込むのには少し勇気が要ったけど、覚悟を決めて中に入った。するとすぐ、友美がゴミ箱を持って校舎から出てきた。あたしが声をかける間でもなく、友美の方からあたしの方に寄ってきた。
「リラ! 学校来てくれたんだ。心配してたんだよ。昨日の夜から何度電話してもつながらないし…」
「あたし…あれからいろいろ考えたんだけど、一人じゃわかんないことばっかりでさ。あんただったら何か教えてくれそうな気がして…。ところであんた、何してんのよ」
「へへへ…。二日連続で掃除サボったから、今日は一人でやらされてたんだ。ちょっと待ってて。掃除が終わったら、一緒にどこか店にでも行こうよ」
 そのまま校舎の前で待っていると、佐和先生がちょうどそばを通りかかった。晋也も先生のそばにいて、授業の内容についていろいろ先生に質問している。
「あら、リラさんじゃない。どうしたの」
「え、あの、ちょっと…」
「リラさん、あんたの保護者の絵美子さん、今日わざわざ会社を休んで学校に謝りに来てたのよ。それからその足で、あんたが手を出した連中の家にも行ってたわ」
「あたしのためにそこまで…」
「でもちょうどよかったわ。ちょうどこれから、あなたの家に行こうと思ってたとこなの。あなたにはいろいろ聞きたいことがあるしね。別の世界から来たとか何とかわけわかんないこと言ってたって聞いたけど、どういうことなの」
「それはほんとです!」
「ふーん。その『別の世界』って、どういう意味?」
 いつの間にか友美がカバンを持ってそばに来ていた。
「宮下さん、これからは掃除サボっちゃだめよ。まあともかく、先生もその話、じっくり聞かせてもらいたいけど、もう下校時間だし、話はもっと別の場所でやりましょ。できればあんたたちもどう? 先生は帰る支度してくるから、ちょっとここで待っててくれない?」

 三人になると、友美があたしに話しかけてきた。
「リラ、あんた高校やめたいって言ってたらしいけど、まだ入ったばかりじゃない。せっかく仲良くなれたばかりなのに…」
「そうだよ、リラさん…」
「あんたたちがそう言ってくれるのはうれしいけど、あたし、高校っていまいちなじめないんだ…」
「あの教頭のこと? あいつむかつくよねー。リラのこと、頭から問題児だと決めてかかってるじゃない。あたしたちに対してもネチネチ説教ばかりしてさ。リラ、あんなの気にしちゃだめだよ」
「そんなんじゃなくて、もっとね…」
「そんなことないよ。昨日のあれだって、みんなリラのこと見直してくれたんだよ」
 そうしているうちに先生が出てきた。あらためて先生を見ると、スーツをびっちりと着こなし、ミニのタイトスカートに黒っぽい網目のストッキング。腰には高級品らしいベルトの留め金が光っている。
「先生…いつも白衣着てるからわかんなかったけど、こんなの着てるんだ…」
 あたしは友美に耳打ちした。
「まあ男子の間ではけっこううわさになってたけどね。あらためて見るとなかなかかっこいいじゃない」
「さ、行きましょ」

 そして先生はあたしたちを学校の近くのイタリア料理屋に案内して、席につくなりアルコールを注文した。
「あんたたちは未成年だからダメよ。あんたたちがここで酒飲んだりしたら、先生まで学校クビになっちゃうから。それ以外で食べたいものがあったら、どんどん注文しなさい」
 そう言って先生はメンソールのタバコに火をつけた。
「どうしたの? みんな黙っちゃって」
「い、いや、こうして見ると、先生みたいな人が学校で授業やってるなんてちょっと信じられなくて…」
「失礼ね。あの教頭先生みたいな人じゃなきゃ教師になっちゃいけないわけ?」
「そう言えば先生、こないだも古文の大川先生に化粧が濃すぎるとか何とか文句言われてましたね。あのおばさん、いくらしわや白髪が増えてるからといって、何も先生に当たり散らさなくてもいいのに」
「こら。宮下さん、先生の悪口は言うもんじゃないわ」
「ところで先生、いつも白衣の下にはこういうの着てるんですか?」
「まあね。ほんとはこれで授業やってもいいんだけど、マセガキどもに何言われるかわかんないし、第一職員会議で何言われるかわかんないでしょ? それに教師ってただでさえ給料安いから、おしゃれもけっこう大変よ。でも先生の実家って両親とも教師で、けっこう厳格な家だったんだ。こんなかっこしたりタバコ吸ったりしてるのも、こういう両親や家庭に反発したいという気持ちの現れなのかもね」
「あの…先生って何で教師になったんですか?」
 あたしは思いきってきいてみた。
「私ね、本当は大学に残って研究者になりたかったけど、いろいろあってね。結局両親のコネでここに拾ってもらったというわけよ。両親や家庭に反発してるのにそこに拾ってもらうというのも変な話だけどね」
「先生、かっこいいですよ!」
「宮下さん、おせじ言ってもムダよ。今度掃除サボったら、教室だけじゃなく生物室の掃除も一人でやってもらうからね」
 料理も進んで話も盛り上がると、先生はあらためて口を開いた。
「ところでリラさん、言いたいことがあるんでしょ。じっくり聞かせてくれないかしら」
 そこであたしはここに来るまでのいきさつを話した。一通り話が終わると、晋也がいきなりテーブルから体を乗り出して、興奮気味にしゃべり出した。
「すごいなあ、リラさん! ぼくは小説やマンガでずいぶんこういう話を読んできたから、ずっとこんな世界にあこがれてたんだ! こういうのってお話の中だけかと思ってたけど、こんな人が本当にいるなんて…。もっといろいろ話聞かせてよ! そして絶対、高校やめないでよ!」
 あたしはげんなりとした。
――やっぱヘンだわ、こいつ…。
「ところでみんな、あたしの話、信じてるの?」
「まあそういうことにしとくわ。普通ウソをつくときにはもっともらしいことを言うものだし、身ぶりや口調でわかるものよ。ここまでハチャメチャな話を真顔で言われると、むしろウソだとは思えなくなるわ。それにあんた、入学のときからほかの子とはちょっとちがうなって思ってたのよ」
 先生はタバコの煙をくゆらせながら言った。
「ともかくわかったでしょう。あたし、今まで学校に行ったことなんかなかったし、学校にもいまいち反りが合わなかったって」
「じゃあリラ、何でさっき学校に来たわけ?」
「それは友美、あんたに会って話がしたかったから…」
「実を言うとあたし、今リラが別の世界の人間だと聞いて、なるほどなって思ったんだ。リラみたいな人、今まで会った中ではじめてだよ」
「リラさん、学校に向いてるか向いてないかは、向くように努力してから決めるものよ。それもろくにしないで早々に結論を出すのは早いんじゃないかしら。そうした上でやめたいと言うのなら、私も引き止めはしないけど」
 そう言いながらも先生はいろんな種類の酒をハイペースで空けていく。
「先生…」
「ともかくやめるのはいつでもできるけど、一回やめたらとりかえしはつかないわよ。先生だって今の仕事選んで選んでよかったのかなってずっと思ってるけど、あんたたちみたいな子見てると、やっぱり教師という仕事は楽しいと思うもの」
「そうだよ。先生だってぼくたちだって、こんなにリラさんのこと大切だと思ってるじゃない」
「リラ、自分は学校に合わないなんて決めつけてるから、つまんなくなるだけだよ」
「わかった…。明日は行くわよ」
「さあて、リラさんも学校に行くって言ってくれたことだし、もう一杯飲むわよ。ちょっと、このワイン、味いまいちね。いくら安物だからといってこれはないんじゃない?」
「先生、かなり酔ってますね…」
 店を出ると、みんなは先生に声をかけた。
「先生、大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。こんな程度で酔っぱらうわけないでしょ。…それにしてもリラさん、自分の好きな人のためにここまで来るなんて、十分自慢していいことだと思うわ。それだけの覚悟があるんだったら、できないことはないはずだと思うけど。…私もこんな恋がしてみたいわね」

 先生や晋也と別れて、あたしは友美と一緒に帰ることにした。電車に乗ると、あたしは友美に話しかけた。
「佐和先生…。あたし、学校の先生っていまいち好きになれないけど、あの人だけは別だな」
「あたしだってそうだよ。でも今日、やっぱり先生のこと見直しちゃったな。先生って中学高校とお嬢様学校を出て、大学でもバイオの研究をしてたというからね。だからすごく頭のいい人らしいんだけど」
「ばいお?」
「いや、生物学のことらしいんだけど…。あたしにもわかんないや」
「でもさっきの晋也見て、どう思った?」
「晋也のお父さんって、病院の院長なんだ。だから晋也って自分も医者になるんだって言って、小学生のときから勉強ばかりしてたの。おまけに友達も少ないし、第一オタクだし。でも今日、リラの話聞いてたとき、すごくうれしそうだったじゃない。あんな晋也見たのはじめてだよ。ところでリラ、その人形かわいいね。どうしたの?」
「あたしがこの世界に来るとき、向こうの世界での友達がくれたんだ」
「ふーん。もしよかったら、リラの世界のこと、もっと聞かせてよ。それに光夫さんって、そんなに素敵な人なの?」
「どうしようかな…。あんたって口が軽いから、すぐみんなに言いふらしそうだし」
「あ、もう降りる駅だ」
 あたしは友美と一緒に電車を降りて、家の近くで彼女と別れた。



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