いつの間にか眠ってしまったらしい。目が覚めると、あたしは自分の部屋のベッドの中にいた。外はもうすっかり明るくなっていたけど、雨はまだ降り続いている。食堂に入ると、テーブルの上に朝食が用意してあり、そのそばには「気持ちが落ち着くまでゆっくり休んでいなさい」という絵美子さんの書き置きが置かれていた。
 洗面台の鏡の前に立つと、髪の毛はくしゃくしゃで、目のまわりには涙の跡が残っていた。
――リラ…。おまえらしくないぞ。
 昨日の光夫のことばを思い出すと、あたしはすぐに顔を洗ってヘアスタイルを整え、長袖のTシャツとジーンズに着替えた。朝食を食べ終わって、誰もいない部屋でぼんやりしてると、机の上の絵美子さんの古いアルバムにふと目がとまった。あらためてアルバムを見ると、彼女とその家族は何の屈託もなくほほ笑んでいた。
――絵美子さん…「自分一人でも生きていけることに感謝している」と言ってたけど、「感謝する」ってどういうこと? いったい誰に感謝すればいいの?
 その写真の隣には一つの人形が置いてあった。それはティナがつくった人形だった。

――光夫が自分の世界に帰って、旅が終わってからしばらくたった後、あたしはふるさとの村に帰ったティナを訪ねた。その村は山に囲まれた湖のほとりにある、小さな美しい村だった。
「ティナ、お久しぶり。元気だった?」
「ええ、すっかり体調もよくなりました。今ではここで店の手伝いをしています」
「元気そうで何よりだわ」
「ウェンディさんにも手紙を出したのですが、孤児院の仕事が忙しくて来られないと返事がありました」
「ウェンディも張り切ってるわね」
 早速ティナはあたしを自分の部屋に案内してくれた。部屋の中には人形や小物がいっぱい飾られていた。そして窓からは湖が一望できた。
「ティナの部屋って、こんなに人形がいっぱいあったんだ。この猫のぬいぐるみ、かわいいじゃない」
「そうですか。これ、自分でつくったんです」
「ここだけの話だけど、あたしもたまに動物のぬいぐるみ買ったりするんだ。ちょっと似合わないかな?」
「そんなことないですよ。リラさんって動物とか好きじゃないですか。今お茶を入れてくるから、ちょっとここで待っててください」
 辺りを見回すと、部屋の隅の方にティナの服が何着かかけてあった。
「ティナってやはり、こういうかわいい感じの服ばかり持ってるんだ…」
 ティナの服をいろいろ見ているうちに、あたしは光夫と服屋に行ったとき、彼にこう言われたのを思い出していた。
――リラってこういう服着ても、意外と似合うかもよ。
 あたしはいつの間にかティナの服を何着か手に取って、鏡台の前でそれを自分の前にあてがっていた。
――やっぱり男って、こういう服着る女の子の方がいいのかなあ…。
 あたしが軽くため息をついたとき、不意にドアが開いてティーポットを持ったティナが入ってきた。あたしはぎくりとして、あわてて服を背中に隠した。
「リラさん…。何してたんですか」
「えへへ…。ごめん、ティナ。勝手にあんたの服いじっちゃって」
「それはいいんです。でもリラさん、どうしたんですか。そんなにあわてて…」
「いや、あたしがこういう服着たら、あいつどんな顔するかな−って…。だって光夫、あたしに服を買ってあげるって約束してたのに、その約束守らないで帰っちゃったんだもの」
「だったら今ここで着てみたらどうですか? 貸してあげますから」
「よしてよ、ティナ。あたしがこんなの着たって似合うわけないじゃない。…バカみたい、あたし」

 服を元通りにかたづけ、お茶を飲んで一息つくと、ティナが言った。
「あの、リラさん、一緒にボートに乗りませんか? 気持ちいいですよ」
 二人で外に出てボートに乗り込み、オールをこいで湖の沖の方まで来ると、澄んだ湖面がさざ波を立てて、光がきらきらと反射していた。辺りはしんとして、波と風の音、そして鳥のさえずる声のほかに何も聞こえない。心地よい風が湖面をわたっていく。
「ティナ、何か寂しそうね」
「あの人にもぜひ、この景色を見せたかったな…」
「光夫のこと、今でも忘れられないんだ」
「ええ、忘れた方が私にとっても、光夫さんのためにもいいのかもしれませんが…」
「ちょっと待って、それ以上は言わないで」
ティナがそういうのにはちゃんとした理由があった。

――それは旅も後半にさしかかったころのことだった。あたしたちはある山の中の小さな村の宿屋に一晩泊まったが、その日の晩は蒸し暑くて寝苦しかった。
「あ−っ、何で今夜はこんなに暑いのよ。寝られやしない」
 服を着替えて寝室を出ると、廊下にウェンディとフィリーの姿が見えた。
「ウェンディ、あんたも起きてたの?」
「私も暑くて寝られないんです。それでほかの部屋の方に行ったら、光夫さんとティナさんの姿が見えないのです。何か胸騒ぎがするのですが…」
「暑いから二人とも外で涼んでるんじゃない? 気にしすぎよ。眠いからジャマしないで」
 フィリーはそう言ってたが、その夜は確かに何かが違っていた。あたしも胸騒ぎのようなものを感じたので、ウェンディと一緒に宿屋の外に出た。夜空を見上げると、満月が赤く染まっていた。
「あんな真っ赤な月…。今まで見たことない…」
 ウェンディが言う。それを聞いて、あたしは孤児院の夜のティナのことを思い出した。
――満月…。あのときも確か満月だった…。
「どうしたんですか? リラさん。何か落ち着きがないですが」
「いや…。何でもない」

 宿屋を出ると、道はすぐにうっそうとした森に入った。暗い道をしばらく歩くと、前方に二人の人影が見えた。月明かりに照らされた二人の人影…光夫とティナだった。あたしたちはただならぬ気配を感じて木陰に隠れた。そこからのぞいてみると、光夫はともかくティナの様子は明らかにいつもと違っていた。光夫に抱きついたティナの両腕には、あの力がこもっているのが遠目でもわかった。ふとティナが顔を上げた。その瞳は真っ赤に輝き、口からは牙がのぞいていた。そして肌の色も、磁器のように真っ白くなっていた。
「こ、これは…。ヴァンパイア!」
 ヴァンパイアのことはシーフの仲間から聞いてはいたが、本物を見るのははじめてだった。そりゃあたし、盗賊稼業なんてものをやっていると、背筋に冷たいものが走り、全身からどっと冷や汗が噴き出すような思いをしたことなど何度あるかわからない。しかしこのときのティナの表情を見たときほど、心の底からぞくっとしたことは今までちょっとなかった。
 そのときティナがあたしたちの方を向き直して言った。
「そこの二人、いるのはわかってるのよ。こそこそ隠れてないで出てきなさい」
「なるほどね…。これでだいたい話のつじつまは合うわ。実を言うとあたし、あんたのことはライゼンの洞窟のときからクサいと思ってたのよね。あんたの今のその力、それにあの孤児院のときの発作…。あんた、実はヴァンパイアだったのね」
「そのとおりよ。父は人間、母はヴァンパイアのハーフなの」
「でもハーフだったら、いくら体が弱いとはいえ、血を吸わなくても生活していく分には問題ないはず…。それが何で今ごろになって吸血の本能が暴走して出てきて、しかも光夫の血を狙うわけ? でも今はそんなことを詮索してる場合じゃないわね。ちょっとだけ寝ててもらうわ。もし光夫の身に何かあったら、ただじゃおかないから」
 そう言いながらあたしはティナにパンチを浴びせようとした。しかしティナはあたしの攻撃をひらりとかわすと、軽々と空中に跳び上がり、あたしに一撃を浴びせた。その素早い身のこなしは、普段のティナからは想像もできないほどだった。そしてあたしは後ろの方まで吹っ飛ばされた。
「人間の分際であたしに素手でケンカを売るなんて、その蛮勇だけはほめてあげるわ」
 すかさずウェンディが駆け寄ってきて、あたしをかばいながら言った。
「リラさん! 大丈夫ですか」
「ああ。ちょっと強く打ったけど、大したことないわ」
「やめてください、ティナさん! ティナさんは私たちの仲間じゃないですか」
「あんたたち、やっぱり甘いわね。仲間だからとかいって手加減してる気? そのあんたたちの仲間だったティナは今ごろボロボロになって眠っているわ。こうやって感情なんてものに流されるようだから、人間というものはだめなのよ。あの子だってそんな感情がなければ、ボロボロにならなくてすんだのに…」
「ちょっと、その『あの子』というのは…。どういうことなの?」
「さあ、邪魔が入ったけど、今度こそこいつの血をたっぷりもらうわ」
「や、やめろ、ティナ! 正気に戻ってくれ!」
「あら、アタシは正気よ」

 そのときだ。
「破!」
 闇の中から叫び声がした。その瞬間、ティナが地面にへたり込んでしまった。気がつくと、霊力を持つ「影の民」の少女、楊雲がそばに来ていた。
「ただならぬ異様な気の高まりを感じたので来てみたのですが、こういうことだったのですか。とりあえず気の糸でしばっておきました。これでいくらかは大丈夫だと思います」
「ヴァンパイアだか何だか知らんけど、うちが退治したるで」
「ヴァンパイアについては以前かなり文献をあたったこともあるのですが、ハーフとはいえ本物を見るのははじめてです」
 続いて牙人族の大食い娘、アルザ・ロウと歴史オタクのメガネっ娘、メイヤー・ステイシアが現れた。
「このアイテムを使うと、若干力を弱めることができるようです。あくまで若干ですが…」
 メイヤーはそう言いながら、十字形の呪符をティナの胸にくっつけた。するとティナの体からみるみるうちに力が失われていった。
「そ、そんな…。やっと出て来られたというのに…」
「楊雲、メイヤー、アルザ…。いったいどうなってるんだ。どうすればティナを元通りにできるんだ」
「そんなんうちにきかれても困るわ」
「それはこちらの方が一番よく知っているのではないでしょうか」
 楊雲が示した先には、カイル・イシュバーンがいた。
「あーあ、だらしねーぞ、光夫。こんなやつがおれのライバルだったなんて。それにしても久しぶりに同族の気配を感じたと思って来てみたら、まさかこいつだったとはねえ」
「ティナがカイルの同族…。どういうことだ」
「光夫、あんただけがわかってないみたいだから教えてあげるね」
 それからティナは真相をひとつひとつ話し出した。ティナの心の中に光夫に対する恋心が芽生えていたこと、そしてそれがティナの血の中に眠っていたヴァンパイアとしての本能を呼び覚ましたこと、それにもかかわらず人間としてのティナは吸血を拒んでいたこと…。それでやっとあたしにも事態が飲み込めてきた。ティナが光夫に好意を寄せているということはうすうす気がついていたが、ヴァンパイアにとっては異性への感情がそのまま血への欲望につながるということは、あたしも知る由がなかった。
――ティナ、だから孤児院で吸血の本能におそわれたときも…。

「さ、これでわかったでしょ。光夫がおとなしく血を吸われなければ、あんたたちの知ってるティナもボロボロになって衰弱していくしかないのよ。アタシはそんなのごめんだからね」
 そう言うとティナはよろよろと立ち上がった。
「弱っていてもこの気を振り切るとは…。なんという力…」
 いつも冷静な楊雲も、さすがに驚いているらしい。
「ちょっと待て、光夫。助ける方法が一つだけある。今回ばかりは特別だからな」
「そんなことができるのか、カイル。でもなぜこんなことを…」
「お前を倒すのはこのおれと決まってるからな。お前がこんな形でくたばったら、おれとしても張り合いがないじゃねえか」
 カイルの言うところによると、ティナの光夫に対する感情を消せば、とりあえず吸血の本能は消えて、もとの状態には戻るらしい。
「やめて! そんなことしたら、アタシ…」
 ティナが叫んだ。
「ちょ、ちょっと! そしたらティナは光夫と一緒に冒険したことも、光夫に対する気持ちもみんな忘れちゃうってこと?」
「そんなの、むごすぎます!」
「リラさん、ウェンディさん、あなたがたは感情的になりすぎです。そうしなければ、光夫さんが血を吸われて死ぬか、ティナさんが衰弱していくしかないのですよ。私もカイルさんの言う通りにするしかないと思います」
 楊雲が冷然と言った。
「確かにティナさんの光夫さんに対する感情を消しても、一時しのぎで完全な解決にはならないのですが…。でも今の状況から見ると、やはりこうするしかないのでは…」
「光夫、往生際が悪いで。男やったらビシッと決めな。何やようわからんけど、そうせえへんかったら光夫もティナもやばいんやろ」
 メイヤーとアルザも口々に言う。
「ふっ、さすがはおれの見込んだメンバーだぜ。さあ光夫、血を吸われて死にたくなかったら、おれの言うとおりにするんだ」
 しかし、光夫は一同を振り切って言った。
「すまない、カイル、それに楊雲、メイヤー、アルザ…。気持ちはありがたいがほっといてくれ。おれはティナのことを信じている。…忘れてほしくないんだ」
 それを聞いた一同は、皆息をのんだ。
「光夫! ほんとに大丈夫なの?」
「そんなこと言うて、どないする気や!」
「バカかおまえ、死ぬぞ?」
 カイルは呆気にとられている。
「覚悟はできたようね。大丈夫、すぐ楽にしてあげるから」
 そう言ってティナが光夫の喉元に唇を近づけようとした瞬間、強烈な稲妻が起きて、ティナの体を吹き飛ばした。それはウェンディの放った攻撃魔法だった。
「ティナさん…。あたしはこの旅に出るまで、人を信じることができないで、ただ自分の中に閉じこもっていました。この旅を通してみんなと知り合って、人を信じることができるようになってきたばかりなのに…。こんなの、こんなのあんまりです!」
 ウェンディはティナの前に立ちはだかった。
「ティナさん…。あなたはパーティーの中でケンカが起きたときでも、みんなの話を聞いてなだめてくれたじゃないですか。人形や湖の話をいろいろ私たちにしてくれたじゃないですか。そのティナさんを返してください!」
 そのとき、ティナの目つきが一瞬変わった。それでもティナがウェンディをはらいのけようとすると、光夫はウェンディを抱きとめた。
「ティナ、人を好きになるってそんなものじゃないだろう。ティナは本当に純粋で一途な気持ちを持っていた。それがそのまま血への欲望につながるなんて、そんなことないはずだ。そのいつものティナに戻ってほしい…それだけなんだ」
 あたしもティナの手を取った。メイヤーの呪符の力で力が弱っていたからつかまえることができたものの、その手は死人のように冷たかった。
「光夫の言うとおりよ。あんた、ふざけるのもいいかげんにしなさいよ。なぜティナが自分の苦しみをだれにも打ち明けずに隠していたか、そしてそれがどれだけつらいことだったか、あんたにはわかんないの? そんなティナの気持ちを踏みにじった今のあんたを、あたしは絶対に許さないからね。それにカイル、あたしたちのパーティーの問題にあんたたちがちょっかい出さないでよね」
「くっ、このおれが珍しく人助けをしてやろうと言ってるのに…」
「リラさんの言うとおり、これは光夫さんたちの問題です。ほんとに危なくならない限り、ここは光夫さんたちに任せましょう」
 楊雲がカイルをたしなめた。メイヤーも言った。
「ティナさんの表情に明らかに変化が見られます。私の判断に誤りがなければ、もしかしたら…」
「どいつもこいつも…。勝手にしやがれ」
 光夫はティナに優しく語りかけた。
「ティナ、いつもの気持ちを思い出すんだ。以前約束したじゃないか。いつか一緒に湖に行こうって、そして一緒にボートに乗ろうって…」
「や、やめて。そんな約束、あたしは知らな…」
 ティナは明らかに動揺していた。
「ティナさん、一緒に冒険をして、苦しいことがあっても光夫さんのおかげで乗り越えられたじゃないですか。思い出してください!」
「それにさっきだって、あんたの力を持ってすれば小指一本であたしの腕をへし折ることもできたはず…。それがこんなかすり傷ですんだのは、やはり心の中に人間の心が残っていたからでしょう?」
「やめてー」
 その瞬間、ティナの瞳の色も顔つきも、元に戻っていた。あたしが握っていたティナの手にも、温もりが戻ってきた。
「あ、あたし…。光夫さん、ウェンディさん、リラさん、それにカイルさんたちまで…」
「ティナ…おまえ、元に戻ったのか?」
「まさか、意志の力でもう一つの人格を消し去ったというんじゃ…」
 カイルは当惑している。
「やはり私の思った通りだったのですね。今日はなかなか貴重なものを見せてもらいました」
「どうやらうちらの出る幕やなかったみたいやなあ」
 メイヤーとアルザも神妙な顔で言った。
 そしてティナは少しづつ意識を取り戻した。
「光夫さん、いつかきっと湖でボートに乗って…」
「ティナ…元に戻って本当によかった…。ところで光夫、湖に行く約束って何よ。あたし、今度服を買ってあげると聞いた覚えがあるんだけどな」
「私も今度一緒に水族館に行って、マンボウを見ようと約束した覚えがありますが…」
「げ…。そ、それは…」
「帰るぞ、みんな。こいつらにはつきあいきれん」
 カイルは一同を連れてすごすごと引き下がろうとする。
「ちょっと待ってくれ、カイル、それにみんな…。助けてくれてありがとう。今度ばかりは礼を言うよ。ところで…、なぜ今夜はおれたちを助けてくれたんだ?」
「だってうちらかて、光夫が血い吸われて死ぬのはいややもん。これからもどんどんうちらにかかってきーや。いつでも相手になったるで」
 カイルはそう言うアルザを引き止めると、振り向きざまに言った。
「ばかやろう。おまえに礼を言われる筋合いなんかねーよ。とっとと帰って寝てろ」
「ティナさんもやはり、暗い血のもとで生きてきたのですね…。でも今のを見て、私も少し勇気が持てるようになった気がします」
「魔法の研究が進むと、吸血の本能を消す方法が見つかるかもしれません。何かあったら教えますから」
「疲れたわ−。何か食って寝よ−」
 カイル一行が立ち去った後、ウェンディが言った。
「何だかんだ言っても、やっぱり皆さんいい人たちだったんですね。でもさっき、楊雲さんがちょっとだけほほ笑んでいたような気がするのですが。」
「はあ…。ほんとにこれでいいんだろうか…」
 あたしはため息をついた。
「全く何考えてるんだ、あいつ…。まあ今おれたちにできることは、じっとティナを見守ることだけだ。ティナ、だいじょうぶか。宿屋に戻るぞ、みんな」
 宿屋に戻る途中も、さっきの光夫の行動がまぶたの奥から離れなかった。
――光夫…。あの場であんな決断、並のやつにはできるもんじゃない…。もしかしたらこいつ、ほんとにすごいやつなんじゃ…。

――湖面から一匹の魚が跳ね上がり、ポチャリと音がした。いつの間にか辺りにひんやりとした空気が漂ってきた。
「でも私、あれから倒れることも、吸血の本能に襲われることもなくなったから…」
「それはよかった」
「リラさんは今、どうしてるのですか?」
「あたし、あの旅から帰ってしばらくの間、何もする気が起きなくてぼーっとしてたんだ。この心の中にぽっかりと穴が空いたような気持ちは何なんだろうと思ってると、やはり光夫のことが自分のなかでいかに大きな存在になってたかということにあらためて気づいたの。それ以来、あの人のことを思うと胸が苦しくなるの。…どうしてだろう。今までこんな気持ちになったことなんかなかったのに」
「そうですか。光夫さんはリラさんにも一切偏見を持とうとせず、優しく接してくれましたものね。…それに私、さっきリラさんが私の服をいろいろ選んでるのを見たとき、やはりリラさんは光夫さんのこと、今でも好きなんだなとわかりましたよ」
「もうっ…」
 あたしはしばらくの間、黙ってうつむいていた。
「ねえティナ、あたし決めたの。光夫の世界に行って、もう一度あの人と一緒になりたいの。暁の女神様に頼めば、かなえてくれるかもしれない。もしそうすれば、もう二度とここには帰ってくることはできないし、あんたにもウェンディにも、ほかのみんなにも二度と会えないと思うけど…。でもあたしにとっては、光夫がいないことの方がもっと苦しいの」
 ティナはしばらく黙っていたが、やがて意を決したかのように口を開いた。
「…わかりました。リラさん、あなたがそう思うのならそうするべきではないでしょうか。そのためには私も協力します」
「ティナ…! いいの、そんなことあっさりと言っちゃって。あんたも本当は光夫と一緒になりたいんでしょう?」
「…確かに私も光夫さんのこと、今でも好きだし、私も光夫さんの世界に行ってみたいと思っています。でも私はヴァンパイアの血をひいているし、いつあの夜のようなことになるかわからないから…。リラさん、光夫さんと別れるときに口にこそ出さなかったけど、あんなにつらそうにしてたじゃないですか。もっと自分の気持ちを大切にするべきだと思います」
「ティナ、あんたのもう一つの人格は、あのときなくなったはずじゃ…」
「いいえ、あのもう一人の私も大切な私自身の人格そのもの。私はそれを受け入れて生きていこうと思います。それに光夫さんは旅の途中、よく私に自分の世界の話をしてくれました。それを聞くと、一度光夫さんの世界を見てみたいと思う一方で、私から見て光夫さんはほんとに遠い、全く別の世界の人で、自分とは結ばれない宿命にあるのかもしれないということを、うすうす感じていました」
「宿命というのは、やはりあのこと…」
「はい。でもそれを受け止めて生きていかなければならない…それが私の宿命だと思っています。それに私、あの人に会えて一緒に旅をすることができた…そのことを誇りにしています。今の私…本当に幸せです」
 そのときあたしは、ティナの目に光るものがあったのを見逃さなかった。湖は夕焼け空を映して真っ赤に染まり出していた。

 その晩、あたしとティナは夜中までいろいろなことを語り明かした。そしてあたしがティナの村を離れるまぎわ、ティナはあたしに二体の人形を手渡した。
「リラさん、この人形を見て下さい」
 それは光夫とティナの人形だった。
「これ…旅の途中からこっそりつくっていたんです。でもなかなか渡す機会がなくて…。もし光夫さんに会うことができたら、ぜひこれを光夫さんに渡してください」
 そう言いながら、ティナはもう一体の人形をあたしに渡した。
「リラさん、あなたにもこの人形をあげます。もし光夫さんの世界に行っても、この人形を見て私のことを思い出してください」
「ティナ…」
「リラさん…。あなたが光夫さんに私の気持ちを伝えてくれる。私はそれだけで十分です。私のことは気にしないでください」
「ウソ言っちゃって…。目がうるんでるわよ、ティナ」
「リラさん…あなたはとても誠実で、心のまっすぐな人じゃないですか。その気持ちをなくさなければ、たとえどこに行っても大丈夫だと思います。私はぜひ光夫さんとリラさんに幸せになってほしいのです。そしてリラさん…あなたなら光夫さんを幸せにできると信じています」
 ティナはそう言ってあたしを抱きとめた。彼女は両目に涙をためながらも、顔には笑みを浮かべようとしていた。あたしの両目からも、大粒の涙があふれていた。
「ティナ…。ありがとう。あんたの気持ちは絶対に忘れないからね」



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