遠い夏

 列車がトンネルを抜けると、車窓一面に真っ青な海が広がった。窓ガラス一枚を隔てて、潮の香りが車内一面にも漂って来そうな気がする。そして突き抜けるような青空には、夏雲がいくつか浮かんでいる。
「うわあ、きれいな海…」
 楊雲は四人がけの座席に晶と向い合せに腰を下ろしてからというもの、食い入るようにして窓の外を流れていく景色に見入っている。その表情は「影の民」として異世界で暮らしていたころとは見違えるように明るくなっていた。しかし半袖のブラウスに薄手のフレアスカートと着ている服は変わっても、彼女のトレードマークの鳶色の深い瞳と黒いさらさらした長髪は変わっていない。
「楊雲、ずいぶん楽しそうだな。誘ってよかったよ」
「ええ、休み前は試験やレポートが重なってたし、それに東京は人が多くてちょっと疲れたから…」
「それにしても楊雲ってすごいよな。こっちの世界に来てから勉強して大学受かっちゃうんだから。今じゃおれの方がノートでもレポートでも世話になってばっかりだし」
「ところで、今度行くところはどういうところなんですか?」
「海辺の小さな村らしい。夏はどこも混んでるから、けっこう穴場だよ」
「…あの、誘ってくれてどうもありがとうございます」
 そう言って楊雲は、顔を少し赤らめながら胸にかけた赤いネックレスに手をかけた。それは幸せを呼ぶといわれている天紅石という石でできたネックレスで、旅の途中で晶が楊雲に手渡したものだった。以来楊雲はそのネックレスを肌身離さず身につけている。

 列車は小さな駅に停まった。ドアが開くと、強い日射しとむせ返るような熱気、そしてセミ時雨が列車を降りた二人を包んだ。ほこりっぽいホームの花壇には、黄色いヒマワリの花や赤いカンナの花が咲き誇っている。そして列車が走り去ると、駅のホームはしんとした静寂に包まれた。

 古びた駅の建物を出て、黒瓦の家が建ち並ぶ漁師町の狭い入り組んだ路地を抜けると、どっしりとした旅館の建物が見えてきた。
「あれがおれたちが泊まる旅館だよ」
「なんだか古いけど、立派な建物ですね」
 旅館の前では、おばさんが打ち水をしていた。晶が声をかけると、おばさんは愛想よく応対して、二人を部屋に案内してくれた。

 部屋の隅に荷物を置くと、楊雲はすぐに窓辺に向かって、窓際の縁台に手をかけてはしゃいでいる。
「この部屋からもこんなに海がきれいに見えるんですね。それに…こうしていると、なんかあの旅のことを思い出してしまいますね」
「でも今日はもう夕方だから、海に入るのは明日にしよう。夕食まで時間があるから、ちょっとこのへんを散歩しようか」

 旅館を出ると、強い西日が通りを照らしつけて、濃い影ができている。楊雲は思いっきり海からの塩気を含んだ空気を吸い込んだ。そしてしばらく二人で通りを歩いていると、楊雲はふと古ぼけたみやげ物屋のショーウィンドーに目を止めた。
「ちょっと寄っていこうか。欲しいものがあったら、買ってあげるよ」
 店内に入ると色とりどりのおもちゃや観光地のロゴの入ったペナント、置物やアクセサリーが並んでいる。きょとんとしながら土産物に珍しそうに見入っている楊雲の姿を見て、晶はふと考えた。
(こうやっているところは、普通の女の子と全然変わりないのに…。なぜ彼女はあんなに悩まなければいけなかったんだろう。)
 晶は楊雲に貝でできたブローチを買ってやった。それを身につけると、楊雲はちょっぴり恥ずかしそうな表情を浮かべた。

 みやげ物屋を出て二人でくすんだ路地を歩いていると、小さな神社の前を通りかかった。境内の参道には露店が建ち並び、男たちがいろいろ働いている。
「何ですか、これ」
「旅館の人から聞いたけど、明日の夜この神社で夏祭りがあるらしい。連れてってあげるよ」
「ありがとうございます」
 楊雲は控えめに返事をした。

 神社の裏手に入ると、祭りの準備でにぎわう正面とはうって変わって静かになった。うっそうとした杉木立からヒグラシの鳴き声が聞こえてきて、夕方のひんやりとした空気がすぐそこまで漂ってきている。
「こういうところに来ると、何か昔のことを思い出してしまいますね。影の民の村のはずれにもこんなお堂があって、そこでよく美月と一緒に暗くなるまで遊んだんです。あやとりをしたり、かくれんぼをしたりして」
「あのさ…、楊雲ってどうして影の民の村からパーリアの街に出てきたの」
「私は12歳のときに両親を亡くして、パーリアの街のまじない師のところに引き取られました。しかしそこで私を待っていたのは、まわりの冷たい目で…。いつしか私はいろんなことから背を向けるようになっていました」
「楊雲、過去のことにばかりとらわれるのはよせ。おまえとおれが一緒に旅をして、その結果おまえとおれがこうやって一緒にここにいる、それだけで十分じゃないか」
「そうですね。あの旅をして私もはじめて自分というものがわかったような気がします」

 晶と楊雲がこのような会話を交わして神社を出ようとすると、不意にひとりの白いワンピースを着た少女が神社の境内のかたわらに腰を下ろしてじっと遠くの方を見ているのに気づいた。年齢は楊雲よりも少し下、高校生くらいだろうか。
…これまでの晶だったら、彼女のことはほとんど気には止めなかったかもしれない。しかし晶ははっきりと感じていた。彼女にはあの世界、パーリアの街のまじない師の通りで楊雲に出会ったときと何か同じようなものを持っていることに。そして晶がふと楊雲の方を向き直すと、彼女も同じように感じているらしいことがわかった。しかし楊雲は前を向いたまま、このことについては口にしようとしなかった。

 神社を後にして海辺に出ると、太陽が西に傾いて空も赤く染まりつつあった。砂浜の波打ち際では打ち寄せる波が静かに音を立て、水面にはカモメの姿が舞っている。しばらく二人で海辺を歩いた。
「ここって、こんなに大きな空が見えるんですね」
「ああ。東京じゃこんな景色は見られないからな。おれも海に来るのなんか久しぶりだよ」
 そう言って晶は波打ち際まで駆け出し、波しぶきが足にかからないようにふざけて走った。楊雲はそれを見てくすくす笑っている。
「なんかおかしいですね。小さな子どもみたいで。でも、潮風がすごく気持ちいい…」
 楊雲も晶と一緒に、スカートの裾を少し持ち上げて波打ち際を小走りで走った。

 しばらく二人でそうした後、晶は楊雲に声をかけた。
「楊雲、のどがかわいてないか。何か飲み物でも買ってこようか。楊雲はしばらくここで海でも見てるといいよ」
「えっ…、ありがとうございます。」

楊雲を残して晶が海べりにある雑貨屋に入ろうとすると、ちょうど戸口のところで先ほどの白いワンピースの少女にばったり出会った。彼女は晶に気がつくと、道をゆずって晶を店内に引き入れた。
「あの…すみません」
「いいよ、先に行って」
 そのとき、店の奥の方からおばあさんが出てきた。
「いらっしゃい。美佳や、お客さんの邪魔になるから、ちょっとそこのいとき」
 美佳と呼ばれた少女は黙ったまま店の奥へと立ち去った。

 晶は冷蔵庫から缶入りの飲み物を取り出し、代金を払うときにおばあさんにちょっときいてみた。
「あの子…おばあさんの知りあいですか」
「ああ…うちの孫でな。普段はここから少し離れた町にいるんじゃけど、何か気難しい性格であまり友達もおらんようでの。そこで夏休みの間、ちょっとうちに来とるんじゃが…」

 そうやっておばあさんが晶と話しているとき、雑貨屋に楊雲が入ってきた。
「晶さん、なかなか戻ってこないのでちょっと探してたんですが」
 しかし楊雲がおばあさんの方を向き直したとき、彼女の表情が一瞬変わったのを晶は見逃さなかった。あの旅の途中でも、楊雲の表情がこのように変わることは何度もあったから。
 ただならぬ気配を感じたのは、向こうのおばあさんの方も同じようだった。そして店の方に出てきた美佳も、口には出さなかったものの同じようなものを感じていた。おばあさんは表情を少し険しくすると、楊雲の方を向き直していった。
「おまえさん…もしかして」
 楊雲はただ黙ったままうなづいた。
「あんた…このお嬢ちゃんが普通の子とはちがうということはわかっとるんかいね」
「ああ…それが何か」
「それなら私はもう何も言わん。ならばしっかりこの子のことを守ってやるのじゃな」

 雑貨屋を出てからも、楊雲と晶の間にはちょっと気まずい空気が流れていた。
「あのおばあさんと女の子、やはり…」
「ええ…神社であの子に会ったときにはもしかしてと思いましたが、あのおばあさんと出会ってやっぱりそうかと思いました」

 旅館に戻って夕食を済ませても楊雲は言葉少なだった。
 日がとっぷりと暮れると、明かりの少ない村は真っ暗な闇としじまの中に包まれる。そしてその暗い空には、満月といくつもの星が浮かんでいる。楊雲は旅館のロビーのファーに腰かけて、無言のまま満月を見上げていた。
「楊雲…」
 晶は少々の気後れを感じながらも、楊雲に声をかけた。
「あの二人のこと、やはり今でも気になってるのか?」
「ええ…ここにも私と同じ力を持っていた人がいたなんて」
「楊雲…あのとき言ったじゃないか。楊雲は、かわいくてやさしい普通の女の子だって。力を持っていることなんて全然関係ないって」
「いいえ…私、今でもこわいのです。東京の街を歩いていても、ときどきふと死相を感じることがあるのです。…そして、こんな力を持っていても、何もできない自分が」
「もういいよ、楊雲。もっと前向きに生きればいい、そうあの旅を通して感じたはずだろ。そして大学でも新しい友達ができてるじゃないか」
「すいません…晶さん。実を言うと私、この世界に来たときはちょっと心細かったんです。でもそんな私の背中を軽く押してくれたのが、晶さん…あなたでした。もしあのとき、あなたが私にこのネックレスをくれなければ…」
「楊雲…少しゆっくり休んだ方がいいよ。部屋まで送っていくから」

 


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