遠い夏.2

 海辺の村の朝は早い。空が白みはじめるともう鳥の声と漁から帰ってきた漁船の汽笛の音が聞こえてくる。楊雲が目を覚ますと、まだ朝食の時間まではかなり時間があった。楊雲が服を着替えて旅館の外に出ると、狭い通りにはすでに朝の強い光が照りつけていた。朝のまだひんやりとした、澄んだ空気は気分をより一層すがすがしいものにさせてくれる。今日も空は晴れわたって暑くなりそうだ。
 海辺に出ると、まだ人は少なく静かなさざ波の音だけが聞こえてくる。楊雲は頬に潮風が当たるのを感じながら、昔のことを思い出していた。

−−影の民は、さいはての地にひっそりと村をつくって暮らしていた。その村は一歩出ると昼なお暗い森と雑草しか生えない荒れ地が広がり、人々はわずかばかりの畑を耕したり、蚕を飼って織物をつくったりして暮らしていた。生活は豊かとはいえなかったが、それでもその小さな村が楊雲にとっての世界のすべてだった。楊雲は幼いときに父親を亡くし、それから母だけを肉親として暮らしていた。
…そして楊雲が七つのときだった。楊雲が木の実を採りに森の中に入ったとき、ふと道に迷って帰る方向がわからなくなった。樹々の間をかきわけるようにして歩いても、母親や村人の名前を呼んでも彼女の前にはただ鬱蒼とした暗い森が広がるだけだった。そして日が沈んで、辺りがだんだん闇に閉ざされていった。そのとき楊雲は感じた。自分の周りに、ふだんは森の奥に潜んでいる、妖気を持った霊たちがひたひたと近づいてきていることに。楊雲がおびえて後ずさりしようとしたときだった。何かが楊雲の中ではじけて、彼女自身にもわからない力がどっと外へと流れ出した。
 楊雲はそのまま気を失い、気がつくと自分の家の中で寝かされていた。楊雲の気の高まりを感じて森の中にかけつけた村人たちが、気を使い果たしてぐったりしていた彼女を救い出したのだった。そのとき村人たちは、この幼い少女がこんなに強い霊力を持っていたことにあらためて驚かされた。
 そして母親は楊雲に「影の民」の力を話して聞かせ、それ以来彼女の霊力をコントロールし、「影の民」として生きていくための術を教えた。しかしそうしながら、楊雲は自分の能力が強まっていくことに対して自分でも戸惑いを感じていた。
 そんな楊雲にとって、心が休まるときは友達の美月と一緒に遊んでいるときだった。影の民の村は冬は厳しい寒さと雪に閉ざされるが、短い夏の間は澄んだ青空が広がり、野辺には草が茂り花がいっせいに咲き出す。そのような夏の日、遅い夕暮れが訪れるまで夏の明るい日ざしを浴びながら無邪に遊んだ、そんな夏の日々のことを楊雲は朝日を浴びてキラキラと輝く海を見ながら思い出していた。

――でも村を離れてからは、親しい人もできずにずっとひとりぼっちで生きていかなければならなかった。…しかし今は違う。少なくとも今の私にはあの人がいる。

 そして楊雲は胸元のネックレスにそっと手をかけると、再び旅館へと戻っていった。その表情にはもはや迷いはなかった。
 楊雲が旅館に戻ると、晶ももう起きていた。

「楊雲、どこ行ってたの? もう朝ごはんできてるよ」
「えっ、ちょっと散歩に…」
「よく眠れたの?」
「ええ、だから気にしないで下さい」

 朝食を済ますと、二人はさっそく海辺に向かった。
 晶がすぐに脱衣場で海水パンツに着替えて待っていると、しばらくして楊雲も着替えを済ませて少しはにかみながら出てきた。彼女の水着は、水玉模様でワンピースのむしろおとなしいデザインだったが、むしろそれが彼女の色白のすらりとした手足、そして黒くて長い髪をいっそうひきたたせて見えた。
(楊雲ってこうして見ると、こんなにスタイルよかったんだ…。)
 晶は思わず楊雲の水着姿に見とれていた。
「あの…そんなに見ないで下さい。恥ずかしいから」
楊雲の一言で我に帰ると、晶はつい悪のりし過ぎたと反省した。
「い、いや…ごめん。あの…楊雲、その水着けっこうかわいいじゃん」
 そう言われると、楊雲はまたぽっと顔を赤らめて軽くうつむいた。
「すいません…。私、どんな水着を選んでいいものかわからなかったものですから」
「いいっていいって。それより早く海に入ろう」

 楊雲が海に足を踏み入れると、じりじりと太陽が照りつけている周りの空気とはうって変ったひんやりとした感触が楊雲を包んだ。楊雲は最初はっとしたが、それでも海にもぐって泳いでみると、いつの間にか心地よさを感じていた。静かな海の中でゆっくりと手足を動かして泳いで、水の流れを感じてみると、今まで心のそこに残っていたわだかまりのようなものが流れていくような感じがした。
 楊雲が海の上に顔を上げると、晶もいつの間にか海に入っていた。それから彼ははしゃいで楊雲の気をひこうとしたが、楊雲は彼女の前で変に大人気なくふるまおうとする晶の態度に何かよそよそしいものを感じていた。
「ごめん…楊雲。ちょっとはめを外しすぎたかな」
「すいません…。もうちょっとそっとしていてほしかっただけで…」
「いいよ、楊雲。おれの方が悪かった」
「いや、いいんです。こうやって海で泳いでると、なんか気持ちが落ち着いて、心まで素直になれそうな気がして」
そう言う楊雲の表情には、いつしか屈託のない笑顔が浮かんでいた。
「よっしゃ。やっぱそうこなくちゃな。これからもばりばり泳ぐぞ」
 楊雲は鼻で軽くため息をつきながらも、晶のそばに寄っていった。

 二人で一緒にひととおり海で泳いだ後、晶は楊雲に声をかけた。
「なんか疲れちゃったね。砂浜でちょっと休もう」
 楊雲と晶が砂浜に上がると、そこには美佳の姿があった。彼女は砂浜に来ている若者たちの恰好のナンパの対象になっていたが、そそくさと彼らを避けるような態度をとっていた。晶が声をかけると、彼女も晶と楊雲の方に寄ってきた。

 海の家で晶と楊雲は水着の上にパーカーを羽織ったまま、美佳と一緒にテーブルを囲んで腰を下ろした。かき氷が運ばれてくると、楊雲はちょっとうれしそうな表情を浮かべた。
「おれたち…まだ自己紹介してなかったね」
 晶は軽く自己紹介を済ますと、楊雲を美佳に紹介した。
「あの…楊雲さんは私と同じ力を持っているんですよね。それでいやだったこととかないんですか?」
「…私も晶さんに会うまでは自分の力、そしてこの自分自身すらもを呪いながら、周りの人たちを避けて暮らしていました。そんな私が変ることができたのは、やはり晶さんと出会って、自分をこんなに必要としてくれる人がいる、そしてそばにいるだけで自分がこんなに安心できる人がいると気づいたから…」
「そうですか…。私…小学校のときからうすうす力を持っていることに気づくようになりました。しかし私が力を持っていることに気づくと、まわりの友だちはみんな私のことを『霊能女』などと呼んで気味悪がるようになって、ずっとひとりぼっちだったんです。そんな中、私の母だけは私の話を聞いて、そのことについてわかってくれたんですが…」
「力を持っていることは全然恥ずかしいことじゃないよ。おれだって楊雲にはずいぶん助けられたし」
「そうですよ。勇気を出して一歩踏み出してみれば、何かがかわるはずですから」
「ともかく何かあったら、おれにでも楊雲にでも相談すればいい。住所と電話番号教えとくから」
「…ありがとうございます。いままでここまで私のことをわかってくれて、そして私に対して親身になってくれた人、いませんでした」
 美佳は控えめながら笑みを浮かべた。
 そのとき、海の家の入口の方からおばあさんの声がした。
「美佳、こんなとこにおったのか。…でもおまえさんたちにはいろいろ話もしたいから、うちに来んさい」

 おばあさんは服を着替えた晶と楊雲を、雑貨屋の裏手にある母屋へと案内した。二人が縁側に腰を下ろして庭を眺めていると、おばあさんが冷えた麦茶とスイカを出してくれた。
「ゆっくりしていきなさい。古い家やけど」
 楊雲がスイカを食べて一息つくと、おばあさんは楊雲に話しかけた。

――それは彼女がほんの子どものときのことだった。戦争が激しさを増していく中、海辺の小さな村からも若者たちが出征していった。出征のときには見送りの村人たちが駅に集まり、小旗を振りながら列車に乗り込む若者たちの無事を願っていた。しかし彼女はその人波の中で、ちがうことを感じていた。…そう、はっきり彼女は感じていた…若者たちの何人かに死相が出ていることに。しかし彼女は、そのときにはそんなことを口に出せるはずもなかった。…そして戦争が終ってからも、その兵士たちは帰って来なかった。それ以来、彼女は表向きは雑貨屋のおかみとしてふるまっているように見えながらも、心の底では自分というものをずっと押し殺して生きてきた。

 このような話をしながら、おばあさんは目を伏せた。晶と楊雲は言葉をかけることもできなかった。
「でもおまえさんの姿を見て、ちょっと元気が出たよ。見たところおまえさんもずいぶん苦しんできたみたいじゃが、それでもおまえさんはそれを前向きに受け止めていこうとしている。晶くん…だったっけ。彼もあんたにはずいぶん心を開いてくれているし」
「いいえ、私などはそんな大したものじゃないんです」
 そう言って楊雲は、異世界で晶と出会い、この世界に来たいきさつを話した。おばあさんはその一部始終を興味深げに聞いていた。
「なるほどな…。私は信じるよ。私だって世間一般の人から見れば信じられないようなものを見てきたんじゃから」
 そのとき、外の通りからにぎやかな声が聞こえてきた。夏祭りの準備をする男たちの声だった。
「そうじゃった。今日は夏祭りだった。楊雲とか言ったかの。おまえさんにいいものをあげるから、奥の部屋まで来なさい。晶くんはここで待ってるんじゃな」

 楊雲がおばあさんに案内されて奥の部屋に通されてから、しばらく時間が過ぎた。いったいどうしたんだろうと晶が気になりだしたころ、ふすまが開いた。しかしそのとき晶は思わず息を飲んだ。
 ふすまを開けて出てきた楊雲は青く染め上げた浴衣を身にまとって赤い帯をしめ、長い髪の毛を編み上げてまとめていた。そしてそのそばには、美佳も浴衣姿で並んでいる。晶に浴衣姿をほめられると、楊雲は顔を赤らめた。
「サイズが合ってよかったよ。美佳のためにと思って余分に一着買っといたんじゃが、ちょうど良かった。さあ、行ってきなさい」

 おばあさんに見送られて晶と楊雲、美佳の三人は雑貨屋を出た。外は日も傾いて涼しい風がそよぎ始めていた。楊雲と美佳はぽっくりの音を響かせながら、ぽつりぽつりと電気がつきはじめた夜店をひとつひとつまわってみた。何か沈んでいたようだった美佳の表情にも、笑顔がうかんでいた。
 いろいろ夜店をまわった後、楊雲と晶は神社の片隅に腰を下ろした。
「あのおばあさん、私にこんな浴衣まで着せてくれたけど、ほんとにそこまでしてもらっていいんでしょうか」
「楊雲、そこまで気にすることはないよ。おまえは美佳とおばあさんと、二人を幸せにしたんだ。もっと自信持てよ…それに楊雲、その浴衣、おまえにすごく似合ってるよ。それにこの髪型もいいなと思ってね。浴衣の襟元からのぞくうなじがいいし」
「…さっきからこればっかり」
 そう言って楊雲は少し膨れっ面をした。
「そう膨れるなよ。それにお前…」
「どうしたんですか。そんなに私の顔を見て」
 そう言いながらも、楊雲は照れた表情を浮かべた。
「お前、口のまわりベタベタだぞ。あんなにはしゃいで綿あめにかぶりついたりするんだから」
「…もう、晶さんったらいつもそうなんだから」
 楊雲はそう行ってハンカチで口のまわりをぬぐった。そのとき美佳が晶と楊雲を呼びに来た。
「二人とも仲がいいんですね」
 そういいながらも美佳の顔は何かうれしそうだ。晶と楊雲も、互いの顔を見つめあって照れ笑いを浮かべた。
「もうすぐ浜辺の方で花火が始まりますよ。もしよければ晶さんと楊雲さんもいかがですか」
「うん、そうだね。楊雲」

 そして楊雲と晶、美佳は三人で浜辺へと向かった。

―― 完 ――


あとがき

 みなさん、どうもお待たせしました。前から書き出していた楊雲話「遠い夏」、このたびやっと完結しました。なにせ怠惰な人間なもので、書こう書こうと言いながら今まで遅れて申しわけありません。

 このお話は、「楊雲にはやはり夏が似合う!」ということで、ありったけの「夏」のアイテムを総動員して書きました。私は「夏」という季節はけっこう好きなんですよ。やはり小さいころの「夏休み」の思い出があるのでしょうか。あと、やはり夏になったらこういうところを旅してみたいという私の希望もまじっています。

 しかしあともうひとつは、楊雲の持つ「影の民」の力がやはり気になっていたということもありますね。あの旅を通して楊雲は幸せになった…ということになっているのですが、「影の民」の力を持っているとはどういうことだろうとついつい考えてしまいます。しかしこれは「重い」テーマであることは確かで、それについていろいろ考えていたからこそこんなにアップが遅れてしまったのですが、それでも説明不足の感があるのは否めません。

 あと私がこのお話を読み返していていちばん忸怩たるものがあるのは、「おばあさんの口調がヘン」ということです。実際、私がお話を書いていていちばん頭を悩ますのは、「キャラのことばづかい」です。書いていて「今どきこんなしゃべり方する人いないよ」と思うこともしばしばありますが、最近のオネエチャンたちの乱暴なことばづかいなど自分が書く気にもならないし、どうせこんなことばづかいなど一過性の流行のようなものですぐすたれていくものだと思いますから。しかし日常の話しことばの言い回しなんてものは何気なく口にはしているものの、いやむしろそれだからこそあらためて文章にしようとすると全然浮かんでこないものだし、まして小生はオバアチャンたちがどういう口調でしゃべるのかなんてまったくわからないもので。

 書いてアップしておきながら自分で話をけなすというのも変な話ですが、これでも書いた以上はアップせねばと思いここに載せました。そのほかにもお気付きの点や感想がありましたらぜひ知らせて下さい。

…それにしてもワンパターンなお話ばかり書いてるなあ。次回からはもうちょっと趣向を変えたお話を書こうと思っているのですが。

2001.7.29

Annabel Lee


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