裸足の人魚


第五章・卒業式

 卒業式の当日は、朝からまるで寒の戻りがきたかのような冷たい雨が降っていた。勇魚(いさな)はベッドから起きると、胸にさらしを巻いて膨らみを隠した。久しぶりに胸にさらしを巻きつけてみると、両胸をさらしできつく締めつけられる感触に息苦しさを感じずにはいられなかった。それと同時に、勇魚は退院直後までは自分自身ブラジャーをつけることにあれだけ抵抗していたはずだったのに、その自分がいつの間にかブラジャーを手放せなくなっていることにあらためて気づいていた。
 なんとかしてそのさらしの上にアンダーシャツを着込み、ワイシャツの袖のボタンをとめたときには、手首が細くなっていることが今さらのように認識できた。数カ月前まで着慣れた学生服をクローゼットから取り出し、黒い学生ズボンに両足を通すと、ヒップは窮屈なのにベルトのあたりはブカブカになっていた。勇魚はこの前海辺で拾った貝殻が机の上に置かれているのに気づくと、それを手に取ってポケットに忍ばせた。
 勇魚がその恰好のままで居間に来ると、家族はみんな学生服姿の勇魚を見て呆気にとられていた。
「あんた、ほんとにそれでいいの?」
 綾乃にたずねられると、勇魚はきっぱりと答えた。
「ああ、『勇』として三年間学校に通った以上は『勇』としてケリをつけたいんだ」
 朝食がすんで黒い学生服を着ると、伸びた髪の先が詰襟をそっとなでた。いくら胸の膨らみはさらしで隠せても、今のなで肩の体形には学生服は少しいかつすぎるような感じがした。しかしそれでも、綾乃はそのような勇魚の姿を見て声をあげた。
「でもこうしてみると、宝塚の男役みたいでかっこいいじゃん。いや、なんかショタっぽくてかえってかわいいかも」
 実際にそうだった。ボーイッシュな髪型や整った顔立ち、きめの細かな肌だけを見ると、美少年としても十分に通用するかもしれない。むしろ学生服の黒い生地が、つややかになった頬の色白さをいっそう引き立たせていた。綾乃はカメラを持ってきて、顔中に笑みを浮かべながら何枚も写真を撮った。
──姉ちゃん後で絶対ぶん殴ってやる。
 綾乃が写真を撮るのに勇魚がげんなりしていると、きちんとスーツを着た則子が声をかけた。
「二人ともふざけてるんじゃないの。そろそろ行くわよ、勇魚。それからパパもなんか言ってやって」
 雄一は出勤の準備をしながら、ぼそりと勇魚に声をかけた。
「卒業おめでとう。これからもがんばるんだぞ」
 そのような雄一の姿を見て、則子はため息がちに言った。
「たく、ほんとパパってシャイなんだから。もうちょっとなんか言えばいいのに。でもそこがかえってパパらしいけどね」
「母さんこそ早くしないと遅れるぞ」
 勇魚は則子をせかすと、二人でそろって家を後にした。

 女だと気づかれないように胸にきつくさらしを巻いてはみたものの、いざ外に出て歩いてみると、膨らみを押しつぶされた胸の圧迫感や息苦しさがよりこたえた。勇魚はかえって、街を歩く人たちが自分に不審な目を向けていないかと気になった。
 中学に近づくにつれて、制服を着た生徒の姿も増えていった。その中には勇魚に目を向ける者も何人かいた。しかし久しぶりに見る「勇」の姿は、入院前より大きく変ってしまったということは誰の目にも明らかだった。
「瀬波
病気の方は大丈夫なのか」
「高校はいったいどうするんだよ」
 クラスメイトの中にはそのように声をかけてくる者もいたが、勇魚は彼らに軽く返事をするだけだった。
 校門に「卒業式」と書かれた看板がかかげられた中学の構内は、正装した来賓や保護者たちの姿も加わりひときわ華やかに見えた。勇魚が若干の気後れを感じながらも構内に入ると、校門のところで学生服の胸元にリボンをつけてもらった。
 そのとき晃子が、母親につきそわれながら校門に入ってきた。晃子は勇魚の姿を見て目を丸くすると、勇魚を物陰へと連れ込んだ。
「勇魚
やっぱり来てくれたのね。でもそのかっこでばれたりしない?」
「晃子、今ここではオレは『勇魚』じゃなくて『勇』なんだ」
そうよね。でも今日ここに来てくれてほっとしたよ」
  
 式の進行は滞りなく終った。卒業証書授与のとき、「瀬波勇」の名が呼び上げられると生徒たちの間に多少ざわめきが起きたが、勇魚は「勇」として卒業をさせてくれた学校側の配慮に内心で感謝した。
 式典が終ると、勇魚に「瀬波」と声をかける者がいた。勇魚が振り向くと、浩三をはじめとする水泳部のメンバーたちが固まって立っていた。そして浩三のそばには、藤野玲花の姿もあった。
「瀬波
なんか変っちまったよな。やはり病気のせいなのか。髪も伸びて体だって小さくなったような気がするし」
 浩三が口を開いた。勇魚は彼らに対してどのように反応すればよいのか戸惑っていた。
「やはり体調よくないのか
進路とかどうするのか、教えてくれよ。あと、これからみんなで街にくり出すことになってるんだ。お前ももしよかったら来いよ」
 しかし勇魚にはこの数カ月の間に自分の身に起きたこと、そしてこれからの自分の進路について、どうしても浩三や玲花をはじめとするみんなに打ち明ける勇気がなかった。やがて勇魚は、おしとどめていた感情を少しづつ吐き出すかのように、みんなに言った。
「みんな
ありがとう。体調が回復しないのでこれ以上みんなとつきあうことはできないけど、オレのことなら心配しなくて大丈夫だから」
 その声を聞いたとき、浩三たちは勇魚の声が高く変わってしまったことに驚いていた。
 勇魚はそれ以上二の句を継ぐことができなかった。勇魚はただ「さよなら」とだけ言い残すと、水泳部員たちのもとから振り返りもせずに走り去った。
 浩三が勇魚を呼び止めようとしたときだった。浩三は勇魚の入院前より伸びた髪が学生服の襟元にかかっているのを見て、その髪の垣間からかすかにのぞく首筋が以前よりも色白で細くなっているのに気づいた。浩三はその今まで見たことがない「勇」の姿に戸惑うあまり、そのまま声をかけることすらできずにしばらくその場にたたずんでいた。
 晃子はその一部始終を物陰から見守っていた。勇魚の心中を思うと、晃子も心が痛んだ。

 勇魚が傘をさしながら校門のところまで来たとき、背後で晃子の声がした。
よく来てくれたね。でもあたしがこないだああ言ったことが、かえってあんたにプレッシャーかけてたの?」
 晃子は不安げな表情をしていた。
「そんなんじゃないんだ。
しばらくそっとしておいてくれ」
 勇魚は晃子の呼び止めようとする声にも耳をとめずに、校門を後にして雨の降り続く通りへと歩き出していた。
 晃子はしばらく傘をさしながら、冷たい雨の中を立ちすくんでいた。そのような中、晃子の背後で声がした。
「石川さんっていつもそうよね。困ってる人とかいたら助けてやらずにはいられないとこがあって。…私が中学入ったばかりのころもそうだったし。でもそれが石川さんのいいところなんだけど、それが時としてはおせっかいになることだってあるんじゃない? 時としては瀬波君のことを突き放してみることも必要じゃないかしら」
 野沢美鶴の声だった。このような状況にあっても、美鶴の声は落ち着き払っていた。それでも晃子が心配そうな表情を崩さずにいると、美鶴はその顔を見て、軽く息をついて晃子と一緒に校門を後にした。

 勇魚は中学を後にして、卒業証書と卒業アルバムを手にしたまま、冷たい雨の降り続く街をさまよっていた。いつもと変ることなく買い物客たちでにぎわう駅前の商店街には、色とりどりの傘や店の看板、点滅する信号が雨ににじんでいる。この商店街には、これまで「勇」も友人たちと一緒によく遊びに出かけたものだった。
 しかしこの見慣れたはずの商店街を歩きながら、勇魚は街を歩く人々から一人だけ浮き上がったかのような、深い孤独感を感じていた。自分もあの日、学校の中で倒れて入院するまでは、平凡などこにでもいる男子中学生の一人として、皆と一緒にいられたはずだった。
 勇魚の頭に、今日久しぶりに顔を合わせた浩三や玲花をはじめとする水泳部のメンバーたち、そして一緒に机を並べたクラスメイトや世話になった先生たちの表情が浮かび上がった。もはや「勇」として、以前のように自然に彼らと接することはできないのか
──そう考えると、勇魚は心がかきむしられるような思いがした。
──ちくしょうこんな思いをするくらいなら、卒業式なんか出なかった方がよかったかもしれない。
 たしかに勇魚は退院して間もないころには、一刻も早く男に戻りたい、男として学校の仲間たちとも今まで通りに接したいと思っていた。自分は今、少なくとも外から見る限りは胸の膨らみを隠し、黒い詰襟の学生服を着て男として街を歩いている。声まではともかく、少し見ただけでは、なんとか男として通じるかもしれない。
 しかし勇魚は今「男」としてふるまっているはずなのに、自分が今感じているこの違和感や後ろめたさは何だろうと考えていた。そう思うと、さらしできつく締め上げた両胸がますます息苦しく感じられた。
──もう男には戻れないのだろうか…。しかしそうだとしても、女になることもできないのだろうか…。自分って何? 自分の居場所はどこにある? そしてこれからどのようにして生きていけばいい?
 しかし勇魚がそう考えれば考えるほど、心の中はもつれた糸玉のようにからまっていくばかりで、どんどん無限の深みに落ちていくような感じがした。勇魚はポケットから貝殻を取り出すと、かじかんだ手でぎゅっとそれを握り締めた。そのうちに勇魚は肌寒さを感じてきたので、ともかく家に戻ろうと考えた。
         
 「勇」のあのような姿を見た後では、水泳部のメンバーたちもみんなで街に出かけたとはいえ、いまいち盛り上がる気にはなれなかった。しらけたムードを残したまま解散した後も、浩三は「勇」の姿が変ったことに対する疑念が晴れなかった。家に帰ってあの鏡の正体について確かめる必要があると思ったとき、浩三に声をかける者がいた。玲花だった。
「椎名君
やはり瀬波君のことが気になるの。病気のせいかもしれないけど、やはり何か変だったもんね」
 玲花もそのまま浩三につきそって神社に向かった。しかし浩三を見ても、その元気なく肩を落した姿からは、水泳部のホープとして力強く活躍していたときの面影はうかがうべくもなかった。
「椎名君
元気出してよ。私高校に入ったら椎名君とは学校別になっちゃうし、椎名君が本気で水泳の選手めざしたら会う機会もなかなかとれなくなるから、今日のうちに私の気持ちを伝えておきたいと思ったのに」
 玲花はあんなに元気でたくましく見えた浩三に、こんなにナイーブでもろい一面があったとはと感じていた。
 
 勇魚が自宅に戻ると、門の前には晃子と美鶴が並んで立っていた。
「どこ行ってたの。心配してたんだからね」
 心配そうな表情を浮かべる晃子の傍らでも、美鶴は落着きはらった表情をしていた。
「野沢さんも一緒だったの」
「石川さんが瀬波君のこと心配してるの見たら、私もほっとけなくなってね」
 そして晃子は、ためらいがちになりながらも口を開いた。
「勇魚
やはり椎名君にきちんと会って、ほんとのことを伝えた方がいいんじゃない?」
 勇魚は晃子の顔を見た。戸惑いを見せる勇魚に向かって、晃子はさらに言葉をついだ。
「椎名君のこと、このままほっといていいわけないじゃん。もうここまできたら、うじうじしてる場合じゃないでしょ」
 勇魚はまじまじと晃子の顔を見た。そしてしばらく考え事をした後で、深くうなづいた。そして勇魚はそのまま晃子の家を後にして、雨の中で傘をさしながら神社に向った。晃子と美鶴も勇魚について行った。

 神社の鳥居を前にすると、勇魚は身が縮こまるような思いがした。勇魚は自分の体が変ってからというもの、その神社に近づくことすら避けていた。参道の脇には水たまりができて、その水面にはいくつもの波紋が浮かんでいた。うっそうとした木立が茂る神社の森厳な雰囲気や、そこから漂ってくる湿気を含んだひんやりした空気に触れると、勇魚は自分の運命を一変させた「あの日」のことを思い出して足取りが重くなった。
 それでもなんとか、浩三の家の玄関のインターホンを押すと、浩三の母親の絹枝が勇魚たちを出迎えた。絹枝は、卒業式のときに着ていた、シックな色合いの着物をそのままきちんと身にまとっていた。
 絹枝は学生服をまとった勇魚の姿を見て、目を丸くした。
「まあ、わざわざ来てくれて
浩三はまだ戻ってきてないわ。いつ戻ってくるのかしら」
 絹枝はため息をついた。
「ただ自分は元気でやっている、このことだけを伝えられたら

「でもちょうどよかったわ。あなたに見せたいものがあるの」
 そう言って絹枝は、勇魚を家の奥の広間に通した。それはちょうど、「勇」があの日、水泳部のメンバーたちと一緒に勉強した部屋だった。絹枝はそのまま、家の奥へと戻っていった。
 三人は広間に腰を下ろすと、さっそくちゃぶ台の上に卒業アルバムを広げた。クラス写真、水泳部、体育祭、文化祭、課外授業、修学旅行
その写真の中で「勇」は学生服姿のまま、何の屈託もなく先生や学校の仲間たちと一緒に笑顔を浮かべていた。アルバムのページを手繰っているうちに、勇魚はあらためて自分が失ったものの大きさをかみしめて、またうなだれるしかなかった。晃子と美鶴も、勇魚のそのような顔を目にしては軽々しく声をかけることができなかった。
 ちょうどそのとき、絹枝が広間に戻ってきた。そして絹枝は、古びたアルバムやかんざし、化粧用具を納めた漆塗りの箱などをちゃぶ台の上に並べた。
「あれ以来あの鏡について調べてみたら、あの鏡の持ち主の少女に関する遺品がいろいろ出てきたの」
 むしろ晃子や美鶴の方が、ちゃぶ台の上に並べられた小物を興味深そうに眺めていた。そして絹枝は、ぼろぼろになったアルバムをそっと開いて勇魚に示してみせた。
 かびくさい香りのするアルバムの中のモノクロ写真は、あちこち黒ずんで不鮮明ながら、あどけなさの残る端正な顔つきをした少女の姿を写していた。幼少のころから始まって、着物に袴の制服をまとった女学校のときの写真、着物姿で庭園を散策している写真
その写真の一枚一枚を見ながらアルバムをめくると、最後のページの一枚の写真に勇魚は息をのまずにいられなかった。その写真には羽織袴で礼装した若者がしゃんと立つ傍らで、華やかな振袖の衣裳に身を包んだ令嬢が椅子にきちんと腰かけて写っていた。そしてその着物は、不鮮明なモノクロの写真を通して見ても、あの日宝物庫の中で自分が見た少女の幻が着ていたものと同じだとわかった。
「こんな立派な写真がきちんと残っているなんて、当時としてはすごく立派な家だったのでしょうね」
 絹枝の言葉を聞きながらも、勇魚はこの令嬢の表情に見入られていた。その柔和さの中にも芯の強さを秘めた表情や、真正面を見据えた視線は、どこか勇魚の心の中に迫ってくるものがあった。
 アルバムの中の写真をじっと見つめている勇魚の表情を見ると、絹枝は一着の着物を取り出して大きく広げ、衣桁にかけてみせた。その桜の花の模様を織り込んだ薄紅色の振袖の着物は、まさしくあの写真の中で令嬢が着ていたものだった。
「これはうちの神社に伝わっていた着物なの。あの子の思いが残っているものだから、鏡と一緒に神社に奉納されていたのね」
 その着物のあでやかな色合いや細やかな模様に、勇魚は目を奪われていた。そのさやさやするような絹地に指で触れているうちに、勇魚は黒い学生服、そしてその奥のさらしで締め上げた胸の中で、心臓の動悸が速まり胸が苦しくなるのをひしひしと感じていた。
 ふと勇魚は、広間の隅に古い姿見が立てかけられているのに気づいた。勇魚はあらためて、その姿見の前に立って自分の姿を映してみた。
 入学以来三年間、着慣れたはずの黒い詰襟の学生服。
──しかし、その学生服を着て鏡の前に立っている自分は、すでに卒業アルバムの中に写っている「勇」ではなかった。さらしで胸を隠すことはできても、いかつい学生服はなで肩になった体形とはところどころサイズが合わなくなっている。細く小さくなった両手は、学生服の黒い袖から隠れそうになっていた。髪も黒い詰襟からのぞくうなじを覆い隠す程度まで伸び、より黒くてつややかなものになっていた。そしてきめの細かくなった素肌、心なしか以前よりもぱっちりとしたかに見える瞳
──違う。何もかもが違う。こんなのオレじゃない。
 勇魚が学生服の上から胸に手を当てると、ますます心臓の動悸が激しくなっていくのを感じた。さらに細くなった指を唇に当てると、呼吸が荒くなっていくのがはっきりとわかった。もはや勇魚に学生服の下で激しく渦を巻き、心の中の壁を突き破って奔流のように流れ出そうとしているものを抑えることはできなかった。勇魚は一刻も早く、この奔流を解き放ちたかった。
 勇魚は衣桁にかけられた薄紅色の着物に目を向けると、その繊細な柄をしっかり見据えた。勇魚は心の奥で、先ほどのアルバムの中で見た少女の面影に語りかけていた。
──オレはあんたに恨みがあるわけじゃないんだ。自分らしく生きたい、自分の好きな人と一緒になりたいと思いながらそれができなかった、これがどれだけつらいことかわかるから。…でもオレにはわかんないんだ。「自分らしく生きる」ってどういうことなのか。そもそも「自分」って何なのか。教えてよ。どうすれば現実から目を背けずに強く生きていけるのか。
 勇魚はしばらくの間、姿見の前でそのまま身体をこわばらせてじっと身をすくめていた。しかしそのとき、勇魚は背筋にぞくりとするようなものを感じた。そしてそれと同時に、勇魚は自分の心の奥で何かがはじけて、ゆっくりと頭をもたげてくるのを感じていた。それはあたかも、固い種の殻を破って、まだ幼い芽がすくすくと伸び始めたかのようだった。それと同時に、勇魚が戸惑う間もなく、髪がするすると伸びていって、やがて肩甲骨を覆い隠し、ウエストの少し上のあたりで止まった。
 勇魚は畳の上に膝をついて、何が起きたのかわからず放心状態のまま、しばらくの間長く伸びた髪を指先でくしけずっていた。勇魚が髪を手に取ると、きめ細かな髪は水のようにさらりと指のすき間から流れ落ちた。勇魚が少し頭を動かしただけで、髪はさらさらと揺れて勇魚の耳元をくすぐった。
 晃子と美鶴も、勇魚の髪が伸びる様子を固唾をのんで見守っていた。勇魚の髪の毛が伸びた姿を目の当りにしても、その二人は自分の目の前にあるものを信じることができないようだった。しかし絹枝は、この一部始終を目にしても落ち着いた態度を崩そうとしなかった。
「どうやらあの着物…そしてあのお嬢様もあなたのことを認めたみたいね」
 しかし勇魚は、絹枝がこのようにしてそっと声をかけてやっても、肩をすくめながら小刻みに体をわなわなと震わせていた。その様子を見て、絹枝は晃子と美鶴の背をそっと押して、二人を大広間から立ち去らせた。晃子は大広間を後にする間際も、気詰りな表情で障子越しに勇魚の姿をそっと振り向いた。

 しんと静まり返った大広間に一人だけ残されると、勇魚は体中の神経が指の先までますます鋭敏に研ぎ澄まされていくように感じていた。衣桁にかけられた着物の繊細な柄は、勇魚の心の奥まで見すかしているように思えた。
 勇魚はすっくと立ち上がると、学生服の金色のボタンを外し、一気にそれを脱ぎ捨てた。古い姿見に映った、白いワイシャツの襟元からのぞくあらわになった首筋が、勇魚の感情をますます荒々しく高ぶらせた。その勢いにまかせてベルトを外してズボンを下ろし、ワイシャツもアンダーシャツも靴下もすべて脱ぎ去ると、ウエストから腰にかけてのなだらかな体のラインとつややかな素肌、無駄毛のないスレンダーな両足が姿を現した。
 勇魚がそのまま呼吸をおいて、胸のさらしを手繰ってほどくと、ふたつの胸がさらしの布地からこぼれ落ちた。朝からずっと胸を締めつけていたさらしの圧迫感から解放されて、ほっと一息つくことができたのもつかの間、両胸を窮屈なさらしから解き放ったことは、あたかもパンドラの箱の封印を解いたようなものだった。気がつくと勇魚は、腰の周りを覆っていたボクサーショーツにも手をかけて、両足から引き抜いていた。
 自分の身体を全ての拘束から解き放つと、勇魚は足元が崩れて、その姿のままで何もない虚空の中へと放り出されたかのような心もとなさを覚えた。薄紅色の着物の前に全てをさらけ出すと、その繊細な生地に心の奥までそっとなでられるかのような感じがして、ぞくりと身が縮こまるような思いがした。勇魚は思わず手で胸と股間を覆って肩をすくめ、体をこわばらせて両足を固く閉ざした。
──こわい。自分が自分じゃないような気がする。
 心臓の動悸はますます激しくなって、その音が耳の奥にまで届きそうな気がした。そればかりか、薄暗い大広間のしっとりとした湿気を含んだ、しんとした冷気が素肌全体にまとわりついてくるかのような気がして、全身に鳥肌が立つのを覚えた。周りにちらりと目をやると、畳の上に広がる脱ぎ散らかした黒い学生服が、あたかも影のように自分の足元でうごめいているように感じた。そして思わず脚を固く閉ざしたときの、すべすべした両腿が触れあう感触までもが、勇魚の心の奥底にまでひたひたと迫ってくるような感じがして、両足のつま先から、ぞくぞくするような震えがこみ上げてくるのを抑えることができなかった。
 勇魚はしばらく目を伏せて、胸の中で荒れ狂う激情を抑えようとした。まるで時間が止まってしまったかのような、しんと静まり返った薄暗い広間の中では、かすかに外から聞こえてくる雨音だけが、勇魚の研ぎ澄まされた心の奥にまで響いてくるような感じがした。
 ようやく勇魚の心に落ち着きが戻ってくると、勇魚は徐々に目を上げて古い姿見の中の自分に向き合った。
 しかしあらためて鏡で自分のありのままの姿を目の当りにしたとき、勇魚はあらためて息を飲んだ。長く伸びた豊かな黒髪は、自らの色白になった素肌のきめの細かさをより強調していた。そしてそのすべすべした素肌は、薄暗い広間の中でひときわ際立った香気を放っていた。
 勇魚はゆっくりと、自分の手を胸から離してみた。しかしこうしてみると、勇魚はさえぎるものもなく、鏡のまん中で存在感を示している、そのつんとわずかばかり上を向いた張りのある両胸から目を離すことができなくなっていた。それはあたかも、まだ初々しい果実のようなみずみずしさと豊潤さをたたえていた。その先にちょこんと乗っている、まるで小さな花のつぼみのようにぽっちりとした、どこかあどけなさも残る桜色をした乳首に指先でそっと触れてみると、勇魚は思わず息をつかずにはいられなかった。そして下半身に目を移すと、すべすべした素肌が、細めのウエストから盛り上がったヒップ、そして贅肉のない長くてスマートな両足へと、流れるようなラインを描きながらそのまま続いていた。
 このような自分のありのままの姿と向き合っているうちに、勇魚は体のすみずみまで暖かい血が満たしていき、全身に力がみなぎってくるのを感じて、拳をぐいと握りしめた。それはあたかも、心の中に張りつめていた氷が溶けて、清冽な水となってとうとうと流れ出したかのようだった。しばらくそのようにしているうちに、鏡の中の自分自身を見つめる視線も、いつしか落ち着いた穏やかなものへと変っていた。
 そのとき勇魚の背後で、障子がそっと開く音がした。そこには絹枝、そして晃子と美鶴が並んで立っていた。
 一同ははじめこそ戸口に立ちすくんだまま、勇魚の今の姿に動揺を感じていたものの、晃子は勇魚の表情をじっと見て、そこから先ほどまでのような思いつめた、何かにおびえるかのような様子が消えていたことをしっかり見据えていた。
「勇魚…」
 勇魚は晃子の視線を感じると、両腕で自分の身体を隠しながら少し気まずそうな表情を浮かべた。
「ともかくあんた、そのかっこ何とかしてよ」
 晃子が声をあげると、勇魚が衣桁にかかった着物に目を向けて軽く合図をすると、絹枝もしっかりとうなづいた。
 絹枝は勇魚をきちんと立たせると、裾よけから長襦袢へと、てきぱきと着物を着せていった。長襦袢のわずかに紅をさした絹地の上から腰紐をぐいと締められたときには、はっと息をつかされる思いがした。勇魚ははじめ、昔の女性はこんなに窮屈な着物を着ていたのかと感じたが、自分自身さっきまで胸をさらしで押しつぶして窮屈な思いをしていたことを考えると、いささか複雑な気分になった。
 それでも着物を羽織り、絹枝が形を整えていくにつれて、勇魚は感情の波がひたひたと高まっていくのを感じていた。着物の上から帯を締めてその上に帯締をとめてから、絹江に「出来上がりよ」と言われたときには、胸の奥の高揚感を抑えることができなかった。
 そのまま絹枝が勇魚を姿見の前に坐らせると、きちんと正座をしていなければならないのに勇魚は少々窮屈な思いがした。しかし絹枝は、勇魚が息をつく間もなく髪を櫛でとかし始め、きちんと着物に似合うように編み上げた。勇魚は櫛がデリケートな髪をなでていき、さらにその髪を編み上げられる間、その髪の先の感触までもがより鋭敏になって、心の奥底までもがくすぐられるように感じていた。やがて絹江は、令嬢の遺品であるかんざしを勇魚の髪にさした。勇魚はその鼈甲でできたかんざしを見て、あらためて人魚姫の話を思い出していた。勇魚は脱ぎ散らかした学生服を畳み、そのポケットから貝殻を取り出すと、それを懐に忍ばせた。
 勇魚ははじめこそ着物の着心地に窮屈さを感じていたものの、いざ姿見に向き合うと、その着物のあでやかさにあらためて自分でも目を奪われていた。手をそっと動かすだけで、繊細な桜の花模様を織り込んだ振袖ははらりと揺れて、あたかも花びらが春風に舞ったかのように見えた。そのような自分の姿を見ていると、勇魚は両目から涙があふれてくるのを抑えることができなくなっていた。絹枝が手際よく勇魚に着物を着せるのを興味深そうに眺めていた晃子と美鶴も、勇魚が着物に着替え終わってからしばらく勇魚に声をかけることができなかった。特に晃子は、今の勇魚の姿に動揺を抑えきれない様子だった。
 ようやく勇魚の体に着物がなじんできたとき、玄関の扉が開く音が聞こえた。浩三が玲花に付添われて家に戻ってきたのだった。そこで勇魚は、しっかりと絹枝を見据えて言った。
「椎名を…呼んできて下さい」
 晃子は当惑していた。
「勇魚…」
「ここに来て椎名にほんとのことを言うようにすすめたのは晃子だろ。もうやるしかないじゃないか」
 勇魚の決然とした表情を見て、晃子も黙ってうなづいた。程なくして、浩三と玲花が絹枝につきそわれて広間に入ってきた。
 浩三はいざ着物姿の勇魚と向き合っても、見てはいけないものを見たような表情をしてただ当惑するのみだった。そのような浩三の表情を見て、勇魚は重い口を開いた。
「椎名
この通り、あの鏡のせいでオレはこうなったんだ」
「ばかやろう…瀬波…何で今までほんとのことをオレに伝えてくれなかったんだよ」
 椎名の表情には、勇魚もいたたまれないものを感じずにはいられなかった。
「瀬波
オレのせいでこんなことになってしまって。あのときオレが宝物庫にお前を入れたりしなければ」
「お前のせいじゃないって」
でもなんでほんとのことをオレに伝えてくれなかったんだよ。お前が学校来なくなってから、ずっと心配だったんだぞ」
「オレはこうなってしまってすぐのときには、外に出ることもできずにずっと部屋にこもっていたんだ。でもこんなことしたって何も解決するわけがないから、今こうしてここにも来たんだ
お前だってつらい思いをしてたのはわかるけど」
 しかし勇魚が話しかけようとしても、浩三は勇魚を直視しようとせずに目を伏せたままだった。そのような浩三の態度を見て、勇魚は思わず声を荒げていた。
「ばかやろう。お前は高校に入ったら、水泳部でインターハイに出るという夢があるんだろ。それがこんなにうじうじしててどうするんだよ。もうオレのことなんかにとらわれるのはよせよ」
 口調を強めながらも、勇魚の両目からは涙があふれていた。そのとき玲花が出てきて、浩三をかばいながら言った。
「瀬波君
もうこれ以上はよしてよ。椎名君はたしかに水泳部のエースとしてみんなの期待を集めてたけど、その裏で部活がない日も毎日自主トレしたり、食べるものにも気を使ったりと、かなりのプレッシャーに耐えてきたんだからね」
 そう言われて、勇魚も返す言葉がなかった。
「あんたこそ何よ。ちょっと女になったからって。女ってのはそうやってきれいな着物着て、調子に乗ってりゃいいなんてものじゃないんだからね」
 玲花はそう言い残すと、浩三とともに広間から出て行った。そしてしばらくして、玄関の戸口が開く音がした。浩三と玲花は、そのまま街へととび出して行ったらしかった。
 勇魚は両目に涙をためたまま、ただそのまま広間の中に立ちすくんでいた。
「浩三はもうこうなったらそっとしとくしかないわね。でも瀬波君
よくあの子に会ってくれたわね。あなただって辛かったでしょうに」
 しかしそうしている間も、勇魚はあふれてくる涙をハンカチでぬぐうしかなかった。
「でも
自分のせいで椎名はあれだけ元気で、夢に向ってがんばっていたのに
 その声は涙声になっていた。
「気にすることはないわ。もしあの子の才能がこれでつぶされる程度のものだったら、どうしたって選手としてものになるはずがないわよ」
「厳しいんですね」
「あの子はスポーツばかりやってて、まわりが見えていないところがあるからね。これで少しはまじめに考えるようになればいいんだけど」
 さっきまでの一部始終をじっと無言のまま見守っていた美鶴もこう言った。
「私もその通りだと思うわ。いつまでもずっと真相を隠し続けることができるはずがないじゃない」
 そこで晃子が、勇魚の肩をそっと抱いて声をかけた。
あたしたちももう帰ろうか」
「でもこの着物

 勇魚が戸惑っていると、絹枝が声をかけた。
「あなたにあげるわ。この着物はあなたが持っていて、はじめて意味があるものだと思うから」
 勇魚は今まで着てきた学生服をまとめて、絹枝の用意してくれた袋にしまった。

 勇魚が絹枝からすすめられた草履をはいて、晃子や美鶴とともに浩三の家の玄関を後にすると、外はいつしか雨も上がって、雲の切れ目からかすかに薄日がさしていた。勇魚は石畳を踏みしめながら、神社の境内を少し歩いてみた。
 神社の参道の脇の植え込みには、いくつもの雨粒が雫になって葉の表でキラキラと輝いていた。雨上がりの湿気を含んだひんやりとした空気は、沿道のうっそうとした木立から木の芽の香りを勇魚の頬にまで運んできた。参道の石畳を一歩一歩踏みしめながら歩いているうちに、勇魚は固く閉ざされていた心が少しづつ解きほぐされていくのを感じていた。
 やがて勇魚の目の前に、どっしりとした神社の本堂が現れた。勇魚はあの少女の面影を思い出して、その前で目を閉じて手を合わせていた。さらにそこから目を離すと、この神社の境内で暗くなるまで遊んだ幼い日の思い出や、自分の運命を変えたあの日など、さまざまな思いが勇魚の胸を去来していた。
 そうしていると、しばらくの間勇魚と一緒に、神社の境内をじっと眺めていた晃子が、そっと勇魚の手を引いた。
「…もうそろそろ帰ろうか」
 勇魚は黙ってうなづいた。そこで晃子は、笑顔で美鶴にも声をかけた。
「よかったら美鶴も来ない?」
 
 神社から家まで戻る途中も、勇魚の着物姿は通りを歩く人の目を引きつけていた。しかし勇魚は、その人目を避けるようにしていた。勇魚と並んで歩いている晃子も、横目でちらちらと勇魚に目をやりながら、何か気まずそうにしている。
 やがて神社を離れたころになって、晃子は重い口を開いた。
「ほんとに
あれでよかったの?」
「もういいんだ。いつかは椎名にも藤野さんにも
そして椎名の家族にもちゃんとほんとのことを伝えなきゃいけなかったんだ。そうしなかったら、ただ後悔だけがずっと残るだけだと思うから。でもバカだよね。自分がこのような目にあっても、自分の気持ちを一方的に人に言うばかりで」
 うつむきがちになる勇魚に、晃子はそっと声をかけてやった。
「あんたは間違ってないと思うよ。ただ優しい言葉をかけるよりも、以前の通りに接して、そして思ったことをそのまま伝えることができる、その方が椎名君にとっても嬉しいんじゃないかな」
 美鶴は黙ったまま、晃子が勇魚に話しかけるのを見ていた。そして晃子は、あらためて勇魚を向き直した。
「勇魚…そんなに落ち込んでばかりいたってしょうがないじゃない。こんなときはパーッと遊んで元気出そうよ。美鶴も一緒になってさ」
 美鶴も乗り気になるのを見て、勇魚はためらい気味に口を開いた。
「野沢さん…ちょっと意外だったな。こんなにオレのことを気にしてくれてたなんて」「そんなことないよ。美鶴って優しいじゃん」
「こんなこと言っちゃ悪いけど、今までは野沢さんってちょっと苦手だったんだ。なんかつんとしていて付き合いが悪いところがあって」
 美鶴が複雑そうな表情をしている一方で、晃子はあくまでも明るい表情を崩さなかった。
「ちゃんとつきあったことがないからそう思うのよ。美鶴っていろんなことよく知ってるし、一緒にしゃべったらけっこう楽しいとこあるんだから」
 そのときの晃子の元気そうな表情を見ながら、勇魚はひとつのことを思い出していた。

 美鶴は勇や晃子とは隣の学区の小学校の出身で、二人は中学に入学してはじめて一緒になった。
 中学に入学したばかりのころの美鶴は、どこかクラスの雰囲気に溶け込めないような様子をしていた。成績は優秀だったが休み時間もいつも一人でいることが多く、むしろクラスの女子が男子やファッション、人気のあるタレント、テレビなどの話題で盛り上がるのを斜めに見ているようなところがあった。クラスの男子が騒いだりしていたときなどは、いやそうな顔をして「静かにしてよ」と文句を言ったりすることもしょっちゅうだった。
 そんなある日、クラスの女子数人が美鶴のノートを隠すという出来事があった。ノートが見つかったときには、余白に悪口が書き込まれていた。
 しかしここで晃子はそのノートを見るなり「ひどい」と腹を立て、当の女子グループのところに抗議をしに行った。はじめは女子グループも「野沢さんってなんかえらそうでむかつく」とか言っていたが、それでも晃子はおさまらずに、わざわざ彼女たちを美鶴の前まで連れて行って美鶴に謝らせた。
 それ以来晃子と美鶴は仲良く話すようになり、そのうちに美鶴もだんだんクラスの空気に多少なりともなじむようになっていった。

「晃子ってやっぱりえらいよ。どんな人とでもすぐ友達になっちゃうんだから」
「違うよ。あのときはあんなことする連中に我慢できなかっただけだから。あんただって、こんなに悩んでるの見てたらほっとけないじゃん」
 勇魚はあらためて晃子の顔を見直した。晃子のどんな人でも、持ち前の明るさとまっすぐさで元気にさせる性格は、やはりすごいことかもしれないと勇魚は考え始めていた。

 そうしているうちに、三人は晃子の家の門の前まで来ていた。晃子がためらっている勇魚の手を引いて自分の家の中へと連れ込むと、玄関先で一足先に家に帰っていた晃子の母親の久美が勇魚を出迎えた。いつもは共働きで忙しい久美も、この日は晃子のために年休を取っていたのだった。
 しかし久美も、しばらく勇魚の着物姿をあちこち眺め回していた。
「これが勇君? いろいろあって大変だったみたいね。でも
きれいじゃない」
 そして次の瞬間、久美はニコニコしながら晃子に目を向けた。
「そういえば、うちにも着物あったよね」
 そのときの晃子は、一瞬ぎくりとした表情をしていた。
 そして久美は、晃子と勇魚を家の奥の和室に誘うと、物置から桐の箱を取り出した。その中には、藤色を基調にした振袖がきちんとしまわれていた。
「これはお母さんが若いころにつくってもらったものよ。晃子にはまだ大きいかもしれないけど。着物ならもう一着あるから、野沢さんだっけ、あなたも着てみる?」
 久美が部屋の奥から美鶴の分の着物を取ってくる間も、晃子はじっと着物の柄を見つめていた。やがて久美が薄い青色の着物を持って部屋まで戻ってくると、さっそく晃子は立ち上がって自分の着ているセーラー服に手をかけようとした。勇魚があわてて晃子から目をそむけようとすると、晃子が声をあげた。
「何あわててるのよ。今は女同士なんだから問題ないでしょ。あたしだってあんたがブラや服選ぶの手伝ったし、これから体育の時間なんかどうするのよ。だいたいあんたこそさっきは、自分の裸見せびらかしてたくせに」
「晃子…オレは今でこそこうだけど、こないだまで男だったんだぜ」
「そんな着物着てそんなこと言っても説得力ないよ。だいたい、あたしはあんたと何年つきあってると思ってるの? そりゃあんたはクラスでも男子の間でエッチな話ばかりしてたけど、ほんとにそんなやつだったら、女の子になってもそこまでつきあったりはしないよ」
 勇魚は晃子の屈託のない様子に戸惑いながら、そそくさと晃子に背を向けた。
「誤解するなよ。オレは晃子の裸なんかに今さら興味ないからな」
「そりゃあんたの方がスタイルいいもんね」
 晃子が皮肉めかした口調で言うと、美鶴も口を開いた。
「瀬波君って思ったより純真でうぶよね。普通男の子がこういうシチュエーションになったら、もっと鼻の下伸ばしてデレデレするものかと思ってたけど」
「それがこの子のいいところじゃない。口先では強がってても根は小心ということかもしれないけど」
 そこで勇魚が思いきって振り向くと、晃子セーラー服を脱いでブラとショーツだけの姿になっていた。しかしそこで、勇魚はあらためて晃子の姿に目を向けた。
「晃子…スタイルがどうのなんて、そんなに気にすることないのに。むしろこれから大きくなるかもしれないんだから」
「それってほめてるの?」
「それに晃子、そんな子供っぽいブラじゃなくて、もっとおしゃれな感じのものにすればいいのに。まあ晃子の体形なら、そのブラだってけっこう似合ってるけど」
「いいかげんにしないと怒るよ」
 そこで晃子は、脱いだキャミソールを勇魚めがけて投げつけた。そのような晃子と勇魚のやりとりを、美鶴は呆れた表情で眺めながらため息をついた。
「二人とももっと素直になればいいのに。これからいったいどうなるんだろ」
 久美もため息まじりに晃子をなだめた。
「二人ともいいかげんにしなさい。勇君が女の子になったとか言っても、そういうとこだけは前と何も変ってないんだから」
 そして久美は晃子を落ち着かせると、晃子と美鶴に長襦袢から順に着物をてきぱきと着せていった。勇魚はその様子をじっと眺めていた。
「晃子の母さん、着付けできるんだ。こないだ姉ちゃんが着物着たときなんかは、母さんと二人で着付けの本見ながらてんてこ舞いしてたのに」
「当り前でしょ。だてにアパレル関係の仕事やってないからね。でもあたしがこうやって着物着せてもらうのなんて、七五三のとき以来だっけ。そのころはお母さんも私にしょっちゅうかわいい服とか着せてたんだけど」
「その娘にしちゃ晃子はしゃれっ気がないけどな」
「殴られたい? …でもお母さん、そんなに帯きつく締めたら苦しいってば」
 そうしているうちに久美は白い長襦袢の上から晃子に藤色の着物を羽織らせ、てきぱきと身なりを整えていった。勇魚は晃子の姿が目の前で華麗に変っていく様子を見て、いつしか自分の記憶に残る、やんちゃで気が強かった晃子の姿を思い出していた。勇魚は晃子が大人っぽい表情を見せるようになったことに戸惑いを感じる一方で、久美から着物の着方や帯の締め方について説明を受けるときの、晃子のきょとんとしたあどけない表情を見ているうちに、やはり晃子も母親の前では素直になるんだ、共働きで忙しい久美も晃子のことを大切に思っていたんだと思って、表情もいつしか和んでいた。
 帯の上に帯締めをとめて、ようやく着物の着付けが終ると、久美は晃子の髪をとかした後、髪を結わえてリボンをつけた。しかしおめかしが終っても、晃子は顔を赤面させながら、落ち着かなさそうにきょろきょろしていた。
 勇魚は晃子の、着物で華やかに装った姿を目の当りにして、あらためてどきりとさせられた。しかしその一方で、晃子が慣れない着物姿に窮屈さを感じて、はにかみ気味な様子をしているところが何かおかしかった。
「晃子
かわいいじゃん」
「お世辞言ってくれなくてもいいよ。どうせあたしは普段かわいくないとか言いたいんでしょ。だいたい、なんでついこの前まで男だったあんたの方が、こうやって着物でおめかししてもあたしより決まってるわけ?」
「晃子ももっと素直になりなさい。せっかく勇君もほめてくれているのに」
 久美は困った表情を浮かべた。しかしそこで一瞬ふくれっ面になった晃子も、いつしか笑顔を取り戻していた。
「でもよかったよ。さっきまで落ち込んでいたあんたが、元気出してくれたんだから。これだけでもこの着物着た価値あったわ」
 そう言う晃子の顔は、どこか安心したように見えた。
 そうしているうちに、美鶴も着付けが終って、淡い青色の着物を身にまとっていた。
「美鶴もかわいいじゃん」
 美鶴はいつもはお下げにしている髪を編み上げていたが、その髪型は美鶴のメガネをかけた理知的な感じのする顔ともよくマッチしていた。勇魚は学級委員長でおかたいイメージのあった美鶴も、着物に着替えるだけでこんなにイメージが変るのかと感じていた。
 そして久美は、三人をまとめて写真を撮った後で言った。
「せっかく友達が来てくれたんだから、みんなでごはん食べて行かない? 卒業祝いだから、ごちそう用意してるわよ」
「あたしも手伝わなくていいの?」
「晃子にはいつも無理させてるからね。今日はめいっぱい遊んできなさい」
「ところで何やって遊ぶんだよ」
 そこで晃子はさっそく、人気のゲームソフトを取り出した。勇魚はさっそくそれに目を向けた。
「このゲーム、前からやってみたかったんだ。受験の間はがまんしてたけど」
「栄介のやつ、あたしが勉強してる間もこれ見よがしにこのゲームやってるんだもの」
「でもこんなかっこでゲームやるなんて変な感じ」
 晃子は勇魚にコントローラーを手渡すと、自分もテレビの前に腰を下ろし、ゲームをスタートさせた。
 しかしゲームがスタートしても、勇魚はテレビの画面に目をやりつつも、隣に坐っている晃子にもちらちらと視線を向けずにはいられなかった。コントローラーを手に画面と向き合っている晃子の表情は、いつもの明るく元気な晃子と変っていなかった。晃子の着物姿と、ゲームに興じている楽しそうな表情とのギャップに、勇魚はやはりちぐはぐなものを感じずにはいられなかった。美鶴もいつしかゲームの画面に見入っている。
 そうやってゲームで盛り上がっている間に、夕食の準備ができていた。いつの間にか帰っていた晃子の弟の栄介も、着物で装った勇魚たちの姿を見て目を白黒させていた。
 食堂に向かおうとする間際、勇魚は晃子の方をちらりと見て言った。
「晃子、着物ちょっと着崩れしてるぞ。そんなかっこでゲームやってはしゃいだりするから」
 晃子はため息をつきながら、勇魚に背を向けて着崩れを直した。
 食事の間、勇魚は着物の袖が食べ物にかからないように気をつけなければならなかった。
「せっかくだから、もっとお行儀よくご飯食べられるように訓練したら?」
「女だから行儀よくしなきゃいけないなんてことはないだろ。晃子はどうなんだよ。野沢さんはきちんとしてるのに」
「そんなこと言うんだったら、あんた自身男だったころはどうなのよ」
 そう言いつつも、晃子も慣れない着物に悪戦苦闘している様子は同じようだった。美鶴がもの静かな態度で箸を運ぶ一方で、栄介はそのような三人の様子を見てただ戸惑っていた。
「でも晃子のお母さんって料理うまいよね。お代りしてもいいかな」
「そんなに食べてばっかりいるとデブになって、せっかくのプロポーションが台無しだよ。だいたいこんな着物着てて、よくそんなにおなかに入るね」
「余計なお世話。晃子こそもう少し食べた方が胸大きくなるんじゃないか?」
「何よ、あんたの方がちょっと胸でかいからと言って」
「やれやれ、せっかく着物でかわいくおめかししてもこれじゃあ台なしだわ」
 互いに悪態をつき合う二人を見て、久美はため息をついていた。
「勇君も、女の子になったとは言っても、こうして見ると昔と何も変ってないわね」
 久美に言われると勇魚は、自分の着物姿を見回しながら照れくさそうな表情で言った。
「女になっても自分は自分だと、最近になってようやく覚悟が出来てきたんです。…そう思ったら、こうして女の恰好するのも前ほどにはいやじゃなくなってきたし」
 勇魚を横目に、久美は晃子を向き直してため息をついた。
「でも晃子ったら、やんちゃで意地っ張りで困っちゃう。逆に勇君の方が、素直な女の子って感じ」
「お母さんまでそんなこと言わないでよ」
 晃子はすっかり困った表情をしていた。
「いいんです
だからこそ晃子にも助けてもらったし」
「でも昔も、お母さんが仕事で帰り遅いときには、勇の家でこうして一緒にごはん食べたこともあったよね」
 晃子のしんみりとした表情を見ると、久美は少し首をかしげながら言った。
「私もずっと気になってたの。うちは共働きだし、お父さんも出張ばかりで留守にすることが多かったけど、これが晃子に寂しい思いをさせてたのかな、だからこうやって意地を張ってるのかなって」
 しかし勇魚は首を振って言った。
「気にしないで下さい。だからこそ晃子はこんなにしっかりしてるんだから。晃子は栄介の世話だってちゃんとやってきたし、それに…ほんとに晃子がいなかったら、今ごろ自分はどうなってたかわかんないし」
 勇魚がそう言う間も、晃子は照れくさそうな表情をしていた。
「あんたまでそんなこと言わないでよ…恥ずかしいじゃん。それにお母さんも気にしないでよ。寂しさなんてみんなや栄介と遊べば忘れられたし、今じゃお母さんがほんとに仕事にやりがい感じてることだって、あたしや栄介のためにがんばってきたことだってわかるから」
 しかしそこで久美は笑顔を浮かべて言った。
「晃子、強がらなくてもいいのよ。それにこの着物はいつか晃子が年頃になったら、晃子に着せてあげようと思っていたの。このチャンスが来たのは勇君のおかげよね」
 勇魚にはそのときの晃子の神妙そうな表情が印象に残っていた。
「でも勇君、これからも晃子のことをよろしくね。晃子はこう見えて寂しがりやのところがあるから」
「そりゃこうなってみて晃子の気持ちだってわかるようになったけど…でも違うんです。こっちこそ晃子にいろいろ助けてもらってるのに」
 そのように言う勇魚の表情を、晃子はじっと黙って見つめていた。美鶴も箸を運びながら、勇魚の話を黙って聞いていた。

 パーティーが終ると、晃子はふと息をつきながら言った。
「着物ってたしかにきれいだけど、なんか疲れるよね。どうせなら美鶴も一晩泊まってパジャマパーティーしない?」
「いいねえ」
 美鶴もさっそく乗り気になっているのを見て、勇魚はいやな予感がした。そこで久美が声をかけた。
「お風呂沸いてるわよ」
 美鶴が浴室に向かうと、晃子は勇魚と一緒に二階に上り、勇魚を自分の部屋に案内した。
 勇魚は晃子の部屋に入ると、辺りをきょろきょろ見回した。部屋の中は小ぎれいにかたづいていて、家具やカーペットも柔らかい色調でまとめられ、あちこちに人形やマスコットが飾られているのが目についた。
「晃子の部屋って、思ったより女の子っぽいじゃん」
「『思ったより』ってどういう意味よ。だったらあんたの部屋はどうなのよ」
 勇魚は机の上に、少年マンガ誌に載っている格闘マンガがあるのを見つけた。
「晃子、このマンガ読んでるの」
「いや、もともと栄介が好きだからあたしも読み出してはまったんだ。あんたこそ男だったときから、綾乃お姉ちゃんの持ってる少女マンガ読んでたくせに」
 そして二人はベランダに出て、手すりから身を乗り出して夜空を見上げた。勇魚は暗闇に灯りがぽつりぽつりと灯るのを見て、自分ももうすぐこの街とも別れるのかと思うと、あらためて切なくなった。勇魚がふと晃子の方を向き直すと、夜風にかすかに揺れる振袖の着物が、宵闇の中でほのかな色彩を放っていた。
 晃子は勇魚の横顔を見て言った。
「勇魚…さっきあんたがうちのお母さんと話してるの聞いてちょっとうれしかったな。あんたはあたしのことちゃんと見ていてくれたんだって」
「晃子のお母さんって偉いよね…。キャリアウーマンとしてフルタイムで働きながら、ちゃんと晃子や栄介の世話だってやってるんだから。うちの母さんも姉ちゃんが高校受験するようになってから、教育費がかかるとか言ってパートで保険の仕事始めたけど」
「でもあたしもお母さんの前ではああ言ったけど、ほんとのこと言うと、ちっちゃいころは、あんたの家はいつもお母さんがいていいなって思ったこともあるんだ。うちのお母さんの帰りが遅くなったときも、あたしや栄介の面倒見てくれた勇魚のお母さんには感謝してるし」
「でもさっき晃子に着物着せるとき、晃子のお母さんはなんか嬉しそうだったよね。やはり母親の目から見ると、娘がそういうかっこすると嬉しいのかな」
 勇魚はふとため息をついた。
「オレだって体は女だけど心が男という人が、女の服着るのはいやだという気持ちは痛いくらいわかるよ。でも親にしてみりゃ、自分の子どもが男なら強くてたくましくなってほしい、女だったら優しくてかわいくなってほしいとか思う気持ちだってわかるし。…オレの親父は頑固で厳しい人だった。だからそんな親父の影響を受けて、オレはもっと男らしく、強くなりたい、そうならなきゃいけないって思ってた。そのオレが今じゃこんなかっこしていられるのは、ある意味そういうプレッシャーから解放されて自由になれたからかもしれない」
 そこで晃子は、勇魚の顔をまじまじと見つめ直した。
「あんた、もしかして今でも男は強くて女は弱いとか思ってるの?」
 そして晃子は、勇魚の腹のあたりを着物の上から手でぐいと押した。
「あんたももしかしてここから赤ちゃんが生まれて、お母さんになるかもしれないのよ。こうやって子どもを生める女が弱いはずがないでしょ」
 勇魚がそのままじっと唇をかみしめているのを見て、晃子はそっと声をかけてやった。
「あんた、やはり女の体でアレするのはこわいの? あれだけエッチな話ばかりしてたくせに」
「晃子の口からこんな話を聞く日が来るとはな。まさか晃子…」
「何言ってるのよ、まじめな女子中学生に向かって」
「冗談で言ってみただけだよ。晃子に限って間違ってもそんなことあるわけないじゃん」
 晃子はむっとした表情をしながらも、次の瞬間勇魚にそっときいてみせた。
「あんた、もう女の子の日は来たの?」
 そこで勇魚は恥ずかしげな顔をして、ためらいがちに言った。
「ああ。入試終ってしばらくたってから、なんかおなかのあたりが
重苦しいと言ったら、母さんにナプキンを渡されて…。母さんにていねいに教えてもらったおかげでなんとかできたけど、そのときはぼっとして一日何も手につかなかったな。母さんや姉ちゃんもこの日はそっとしておいてくれたし。…でもこれがこれから月一度は続くなんて
 勇魚はしばらくの間、着物で覆われた自分の体をじっと見つめていた。晃子はそのような勇魚の、どこか沈んだような顔を見て、そっと勇魚の肩を抱きとめてやった。
「あたしだって最初のときはショックだったよ。そのときもお母さんがちゃんといろんなこと話してくれたっけ。…でもあんた、これからずっと女として生きていこうという覚悟はあるの?」
 そこで勇魚は、先ほどの玲花の言葉を思い出していた。
──女ってのはそうやってきれいな着物着て、調子に乗ってりゃいいなんてものじゃないんだからね。
 勇魚は身をすくめて表情を曇らせると、ぼそりと口を開いた。
「晃子ってさ…オレの前で着替えたりして、オレのこと女だって認めたわけ?」
 そこで晃子は、どこか呆れたような顔をして言った。
「あたしよりスタイルがいいとか何とか言いながら、それはないでしょ。それに…あたしの目から見ても、あんたの裸、きれいだったよ」
 晃子は明るい表情で、戸惑い気味の勇魚の肩をぽんと叩いてやった。
「そんなにクヨクヨすることないじゃん。あんたがそうやって『強くなりたい』って思ってたからこそ、その今のあんたがいるんだから。…このままこのベランダにいたら体が冷えるから、部屋に戻らない?」
 勇魚が晃子に付き添われて室内に戻ると、ベッドに腰かけてため息をつきながら言った。
「晃子はさっき、『男は強い』とか言ってたけど…それは違うよ。今日の椎名を見りゃわかるだろ。男なんて強がってたって、いや少し腕っぷしが強くたって、心の中はこういうものだよ。オレは椎名の気持ちだってよくわかるんだ。だから藤野さんには、しっかり椎名を支えてやってほしいんだ」
「勇魚…藤野さんのこと好きだったんでしょ。前からわかってたよ」
 勇魚はあらためて、先ほどの玲花の怒ったような表情を思い出していた。黙ったままの勇魚の表情を見て、晃子は言葉を継いだ。
「そりゃ藤野さんは美人だし成績もいいし、男子が藤野さんにあこがれるのはあたしにだってわかるよ。さっき藤野さんがあんなこと言ってたことだって、あたしにだって藤野さんの気持ちはわかるけど
あまり気にしない方がいいよ。あたしはあんたがどんな気持ちで今まで過ごしてきたかわかるから」
「…藤野さんが椎名とつきあっていたことなんて十分わかってたんだ。しかしそれでも心の奥ではあきらめきれなかった。これできっぱり、わだかまりがなくなってよかったのかもしれない」
 勇魚がそう言うのを聞いて、晃子は思わず手のひらで机を叩いて、語調を強めていた。
「いいかげんにそうやって、一人でウジウジと悩むのよしてよ。あんたはあんたなんだから、あんたらしくしてりゃいいじゃん」
「だったら晃子、その『あんたらしく』っていったい何だよ。オレはこうなってしまって、その『自分らしさ』がみんなパーになっちゃったような気がして、ますますどうしたらいいかわからなくなったんだ。それでも『自分らしくしてりゃいい』なんて、そんな言い草こそが無責任じゃないか」
 晃子は返す言葉がなかった。
「そんな甘っちょろい同情や、うわべだけの優しい言葉なんかくその役にも立ちゃしないんだ。自分らしさがどうのなんて、そんなことうだうだ考えてるよりも先に、オレは今できることをやるしかないんだ。たしかにオレはこうなってつらい思いだってしたよ。でもそのつらさから逃げたところには何もない、ただつらいつらいと言ってるだけじゃ何も始まらないって、学校にも行けずに部屋の中にいてわかったんだ」
 しかし勇魚がここまで言ったとき、晃子はクスクス笑っていた。
「何がおかしいんだよ、晃子。人がシリアスになってるときに」
「そこがいちばんあんたらしいんだよ。意地っ張りで強情で、まっすぐだけど不器用で、変にかっこつけちゃって」
 晃子はあっけらかんとした口調でそう言うと、勇魚の背後から手を回して帯締めをこちょこちょとくすぐった。
「なにすんだよ、晃子」
「あたしはあんたのそういうとこが好きだけど、それでもあんた見てるとなんか危なっかしくて放っておけないところがあるから、今まで一緒にいたんだ。でも無理しないで、何でもあたしに言えばいいよ。それが友達ってものでしょ? 男とか女とか、そんなの関係ないじゃん」
「ともかくくすぐったいから手を離してよ」
 そうやって二人でふざけあっていたとき、ドアが開いて美鶴が浴室から戻ってきた。
「さっそく二人でいいことしちゃって。タイミング悪かったかしら」
 美鶴はその二人の姿を見て呆れたような表情をしていたが、一方勇魚は美鶴の晃子から借りたパジャマを着て、眼鏡を外して洗いたての髪を下ろした姿にどきりとした。
「野沢さん…けっこうかわいいじゃん」
「美鶴もコンタクトにすればいいのに」
「そんなのどうだっていいでしょ」
 美鶴はつんとしている。しかしここで、勇魚は美鶴の胸元に目を向けた。
「それにその胸…今ブラしてないんだ。けっこうサイズあるじゃん」
 そこで晃子は勇魚の頭をこづいた。
「いいかげんにしないと部屋から放り出すよ。あんたこそ今ノーブラじゃん」
 そして晃子は、美鶴の髪をとかしてやったり、肌の手入れのためのローションをすすめたりしていた。美鶴も楽しげな表情で、晃子とおしゃれの話に花を咲かせている。そのような様子を見て、勇魚はあたかも自分がまな板の上の魚になったかのような気分になった。
「どうしたのよ、勇魚」
「いや…このままここにいたらどんな目にあうかわかったもんじゃないから」
「瀬波君は今日いろいろあって疲れてるだろうから、帰った方がいいんじゃない?」
 美鶴が落ちついた口調で言ったので、勇魚はそのまま晃子の家を後にした。

 勇魚が家に戻ると、則子と綾乃が勇魚を玄関口で出迎えた。
「神社から電話があって、話はみんな聞いたわ。でもそのストレートロングの髪、サラサラできれいじゃない」
 勇魚は綾乃が、自分の髪や着物をおもちゃにしようとしているのを視線から感じてぞくりとした。会社から帰って晩酌を傾けていた雄一も、勇魚の姿に戸惑いながらも、そのあでやかな着物の柄や色からは目を離せないようだった。綾乃はひととおり勇魚の着物姿を眺めた後で言った。
「やはりこの着物にはあのお嬢様の想いが込められているのかもね。その想いがあんたの心にも届いたということじゃないかしら」
わからないんだ。家の都合で自分の好きな人と引き離されて
「あのお嬢様は自分の人生に対して誇りを持って一生懸命生きようとしたと思うね。それとも
女っていうのはただ男にいじめられていいようにされるしかない、そんな情けない弱虫だとでも言いたいわけ?」
 その「誇り」という言葉を聞いたとき、勇魚は着物の奥でぞくりとするような身震いを感じて、身体をこわばらせた。
「自分にとっての誇りって

「そんなの私にきかなくたって、あんた自身が十分わかってるはずだと思うけど」
 勇魚ははぐらかされたような、きょとんとした表情を浮かべたまま、綾乃のすました顔を眺めていた。
 そのまましばらく勇魚は則子に写真を撮らされたりした後で、ようやく引越荷物をまとめた段ボールの並ぶ自分の部屋に戻ることができた。勇魚はふと大きく息をつくと、懐から海辺で拾った貝殻を取り出して眺めてみた。勇魚は再び人魚姫の話を思い出すと、心の中で、先ほど綾乃が言った「誇り」という言葉の意味をかみしめ直していた。
 そこで勇魚は、袋に入れて持ってきた黒い学生服を取り出して両手で広げてみた。今朝この学生服を着て家を出た自分が、今は着物に身を包んでいるということには、あらためて不思議さを感じずにはいられなかった。
 勇魚は着物の上から学生服を自分の身体に当ててみた後、それをきちんと畳んで、袖にくるんで両腕できゅっと抱きとめた。


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