卒業式の翌朝、勇魚が目を覚ますと、前日とはうって変って、窓先には澄んだ春の陽光があふれていた。勇魚がベッドから身を起こすと、部屋の中には引越荷物をまとめた段ボールが積み重ねられていた。勇魚はもう少しでこの家とも別れなければならないのかと思うと、あらためて切ない気持ちになった。
勇魚が眠い目をしながら朝食のテーブルに向かうと、綾乃が心配そうな顔つきで声をかけた。
「どうしたのよ。なんか眠そうだけど」
「昨日はいろいろありすぎたからね。そのことがいつまでも頭から抜けなくてよく眠れなかったんだ」
そこで綾乃は、勇魚の長く伸びた髪に寝ぐせがついているのに目を向けた。
「せっかくのロングヘアなんだから、きちんと手入れしなきゃダメよ」
朝食が終ると、綾乃は勇魚を鏡台の前に坐らせて、髪の手入れの仕方を教えてやった。
「でもこれだけ長くてきれいな髪してると、髪形のバリエーション広くていいわね。いっぺん美容院に行ってきちんとセットしてもらった方がいいかしら」
勇魚は綾乃が、自分の髪を実験台にしようと手ぐすねひいて待っているのを感じて、背筋がぞくりとした。
「これから毎朝こんなことしなきゃいけないのかよ」
勇魚が綾乃にいろいろな髪型を試されてげんなりしている途中に、いきなりインターホンが鳴った。則子が玄関のドアを開けると、戸口には晃子と美鶴が並んで立っていた。二人が則子に鏡台の前まで案内されると、勇魚が綾乃に髪型をいじられている様子を見てさっそく歓声をあげた。勇魚がいやそうな顔をしながら二人に目を向けると、美鶴は昨日の卒業式のときに着ていたセーラー服に着替えていたが、晃子は部屋着姿のままどこか眠そうな顔をしていた。
「晃子もどうしたんだよ」
「昨日の晩は美鶴と夜遅くまでおしゃべりしてたからね」
勇魚は綾乃に髪型をいじられながら呆れた表情をしたが、綾乃がいろいろな髪型をセットするたびに晃子や美鶴もそれをいろいろと批評した。そしてその髪型の中から、勇魚は髪を後でゴムで束ね、ポニーテールにすることを選んだ。
「その髪、ポニテにしてもかわいいじゃん」
晃子に言われても、勇魚は当惑した表情をしていた。
「いや、オレは別に、こうすれば動くとき邪魔にならないし、結ぶのもめんどくさくないからそうしただけだけど」
勇魚の戸惑い気味の表情を、晃子と美鶴はニコニコしながら眺めていた。
「うっとうしいなら髪切ってもいいじゃん。あんたはショートもけっこう似合ってたよ」
「いや、この髪は…あのお嬢様のくれた勇気と自信の証だから…どうしても切るわけにはいかないんだ」
勇魚が髪をいじりながら少し表情を曇らせるのを見て、晃子はふと息をついた。
「そういう強情なとこなんか、やはりあんたらしいよね」
「ありがとう…晃子。気にしてくれて」
勇魚はしんみりとした表情になった。
続いて勇魚は、自分の部屋に戻って紙袋を取って来た。それには入試前、晃子が貸したセーラー服が入っていた。
「晃子、この制服、今まで返さないでごめん」
「いいよ、もう中学卒業したんだからあんたにあげる」
晃子がとりすました表情で言うと、勇魚は困ったような表情を浮かべた。
「オレが持ってたってしょうがないだろ。引越荷物が増えるだけだし」
そこで美鶴も、紙袋に目を向けた。
「瀬波君、そのセーラー服着てみたんだ」
「入試にはこれで行かなきゃいけないんだからしょうがないだろ」
勇魚はぶっきらぼうに答えた。しかしその一方で、美鶴はしばらくの間、紙袋と勇魚の姿とをまじまじと見比べた後で言った。
「ちょっとそれに着替えてみてよ」
美鶴は楽しみそうな表情をしている。
「野沢さんまでオレを着せ替え人形にする気かよ」
勇魚はげんなりしながら、そそくさとセーラー服に着替えた。その姿を見て、美鶴ははじめ驚きの色を見せながらも、次の瞬間には「かわいい」とほめそやした。晃子も複雑そうな表情を浮かべている勇魚の全身を見渡すと、ポニーテールの髪型がセーラー服に思った以上にマッチしているのにあらためて気がついた。それを見て晃子は、ためらいがちになりながらも勇魚に声をかけた。
「勇魚、ちょっとそのポニテほどいてみて」
勇魚が戸惑いの表情を浮かべながら、後ろ髪をしばっていたゴムをほどくと、長く伸びた黒髪がはらりと垂れて、セーラー服の四角い襟をそっと覆い隠した。
それを見て晃子は、今の勇魚の姿にはっと息をつかされる思いがした。晃子は、勇魚が入試の前、このセーラー服を着て綾乃に面接の練習をさせられるところを見ていた。しかしそのときの勇魚は、まだ髪も伸びていないままおどおどした表情を浮かべていて、ぎこちなさがいやでも目についた。
しかし今、晃子の前にいる勇魚はあのときと同じセーラー服を身にまとっていても、仕草も表情も落ち着いていて、ほとんど不自然さを感じさせなかった。少なくとも、何も知らない人が今の勇魚を見ても、「彼女」が二ヶ月前までは男子として、詰襟の学生服を着て学校に通っていたとは信じないに違いない。
晃子はあらためて勇魚の全身を見返して、勇魚が「女」に染まっていく様子に戸惑いと不安を覚えていた。
「勇魚…こうして見てると、あんたって元から女の子だったみたい」
「何言ってんだよ、晃子」
美鶴は勇魚と晃子の当惑気味の表情を見て、その雰囲気を振り払うように明るく声をかけた。
「せっかくの春休みだから、みんなでぱーっと遊ばない?」
「昨日もあれだけ遊んどきながら、まだ遊ぶ気かよ。全く懲りないな。野沢さんってもっとまじめかと思ってたのに。それにオレ、引越の準備だってしなきゃいけないし」
そこで則子が横から口をはさんだ。
「ほんとにこの子は気がきかないんだから。せっかく友達が気を使って誘ってくれてるのに。引越の準備は明日や明後日でもできるから、今日一日くらい遊んで来たら」
則子にお墨付きをもらうと、さっそく晃子は美鶴と一緒に勇魚を隣の自分の家まで連れ込んだ。勇魚が晃子の家の玄関に上がると、さっそく声をかけた。
「今日はお母さんも仕事行ったし、栄介も部活で夕方まで帰らないから、ゆっくりしてってよ」
そして晃子は勇魚と美鶴を居間で待たせたまま、「少し待ってて」とだけ言い残して自分の部屋の中に入っていった。勇魚が怪訝そうな表情を浮かべたままその場にたたずんでいると、美鶴が勇魚の肩をぽんと叩いてやった。
しばらくして居間のドアが開くと、勇魚はそこから出てきた晃子の姿を見て呆気にとられた。晃子は勇魚や美鶴とおそろいのセーラー服に着替えていたのだった。
「なんで晃子まで着替えるんだよ」
「せっかく美鶴もセーラー服着てるし、あんただって着替えたんだから、これでちょうどいいでしょ」
晃子は軽くポーズを取った後で、戸惑いの表情を浮かべたままの勇魚を横目に、台所に行って湯を沸かすと、お茶やお菓子の準備にとりかかった。
「このクッキー、晃子が焼いたんだ。晃子って料理うまいよね」
「勇魚、ここでつまみ食いしないでよ」
晃子は困った表情を浮かべた。
「あたし、お母さんの帰りが遅いときには、栄介の分まで自分でごはん作ってるんだ」
「これで受験勉強もやるんだから、晃子ってすごいよね」
「慣れたら大したことないよ。それ言ったら、お母さんはもっと仕事で忙しいんだから」
「でもやはり…オレも女になったからには、料理の一つくらいできた方がいいのかな」
「それ言ったら、レストランのコックさんはほとんどが男でしょ。男は料理ができなくてもいいとか、女だから料理ができなきゃいけないなんて、そんなこといったい誰が決めたのよ。栄介にも簡単でいいから料理くらいできるようになれって言ってるんだけど、全然聞きやしないし」
晃子に言われると、勇魚は今までの自分自身を振り返り少々ばつの悪い思いがした。
「そんなに気にしなくてもいいよ。でも勇魚、もしあんたに好きな男の子ができて、彼のために手料理の一つでも作ってやりたいとかいうんだったら、いつでも言いに来な。あたしが料理の作り方教えてあげるから」
「晃子がそういう男作るほうが先だろ」
勇魚に言われて、晃子も少々恥ずかしそうな顔をした。そのような晃子の表情を見て、勇魚はさらに追い討ちをかけた。
「でもこうしてみると晃子って案外、結婚したらいいお嫁さん、そして子どもが生まれたらいいお母さんになりそうだよね。もう少しその性格のがさつなとこ何とかして、かわいいかっこしたら、彼氏なんかすぐできると思うけど」
「何言ってるのよ。そもそも『案外』ってどういう意味よ」
晃子は少々ふて腐れた表情をした。
晃子はお茶とお菓子の準備を終えると、勇魚と美鶴をあらためて自分の部屋へと案内した。そこで晃子は、物置からトランプを取り出した。
「これでもして遊ばない?」
勇魚がさっそくカーペットの上に足を広げて坐ると、晃子は顔を赤らめてスカートの方を指さした。勇魚が晃子や美鶴の方をあらためて向き直すと、二人とも両足をそろえてきちんと坐っていて、カーペットの上には紺色のプリーツスカートがふんわりと広がっている。これを見て勇魚は、晃子も多少乱暴で強情なところはあっても、こういうところはやはり女の子なんだなと思った。
しかしいざトランプのゲームが始まると、勇魚はあらためて気詰りなものを感じずにはいられなかった。晃子も美鶴も制服姿のまま、何の屈託もなくトランプに興じている中に一人だけまぎれこむと、勇魚はこれまで感じたことがないような女の子独特の雰囲気を感じ取っていた。勇魚は女子校に入学することにしたとはいえ、この女の子独特の雰囲気に溶け込むことができるのだろうかと戸惑うのと同時に、自分が何か後ろめたいことをしているかのような気持ちにとらわれていた。
勇魚はこれまで学校や通学路でこの制服を着た女子の姿などいつも目にしてきたにもかかわらず、ここまで女子と深くつきあったことなどなかったし、女子のことなど何も知らなかったと今さらのように感じていた。これまで優等生然として、クラスの他の生徒たちとは一線を画しているかのように見えた美鶴が、晃子とこんなに親しそうに遊んでいるのも意外だったが、それよりも勇魚は、ここまで晃子を身近に感じたことも、晃子がここまで自分の前で屈託なく自然にふるまっていることも、特に中学に入学して以来見たことがなかったことにあらためて気がついていた。勇魚は小学校のころまでは晃子とも屈託なく一緒に遊んでいたのに、いつの間に二人の間にそんなに溝ができてしまったのだろうと考えていた。
こうなると晃子がカードを引こうとして身を乗り出すたびに、セーラー服の開いた胸元が迫って来るのや、足を組みかえたりスカートの裾を直したりするのでさえ、勇魚の胸をどぎまぎさせた。そのときに晃子の指先が勇魚の手に触れたときなどは、一瞬胸が高鳴るのを感じた。勇魚はもし今の自分が男のままだったとしても、晃子に対して今のような感情を抱くことなどないに違いないと思うと同時に、自分が晃子との距離の取り方に戸惑っているのも、やはりこのセーラー服のせいだろうかと内心で戸惑っていた。
トランプが一段落してからも、晃子と美鶴はすっかりリラックスした面持ちで、お菓子を口にしながらカーペットに足を投げ出して坐っている。勇魚は晃子と美鶴がさまざまな噂話などに花を咲かせる傍らで、心の中にどこかわだかまりを感じていた。
「こうやってあたしの部屋にたむろってるだけならまだしも、セーラー服っていうのがなんかいいよね」
晃子が楽しげに話しても、勇魚はよそよそしい面持ちでぼそりと答えた。
「男は学ラン着てこんなことしないぞ」
「じゃあせっかくの機会だから、あんたも女の子の楽しみを味わってみればいいじゃん」
「晃子がそんなこと言うかよ。小学校のころはいつもズボンばかりで、中学入る前には制服でスカートはくのいやだったとか言ってたくせに。野沢さんは知らないだろうけど」
「美鶴に余計なこと吹きこまないでよ」
「それに晃子ったら、小学校のころは男子とつるんで騒いでばっかりだったしね。プロレスごっこもやってたっけ」
勇魚が楽しそうに話すと、晃子はますます困ったような表情をした。
「いったい誰の話よ。プロレスだって栄介が好きだからちょっと知ってるだけだし」
「晃子、今でも栄介にプロレスの技かけてるんじゃないだろうな。栄介もハードな生活してるよ」
「そんなこといつやったのよ。あまりいい加減なことばかり言うと怒るよ」
そうやって勇魚と晃子がいがみ合っているのを、美鶴はニコニコしながら聞いていた。
「そういうきっぷのよさが石川さんのいいところじゃない。でもやっぱり瀬波君と石川さんって仲いいよね。瀬波君が男の子のままだったとしても、けっこういいとこまでいってるんじゃないかしら」
「誰がこんな色気のない女と。第一今のオレの方がプロポーションいいもんね」
そこで晃子は、勇魚をクッションでひっぱたいた。美鶴はそのような二人を、やれやれとでも言いたげな表情で見守っていた。
「でも私も中学の制服着るのいやだったという、石川さんの気持ちはわかるよ。私はもともと私立中学に行きたくて、小学校も五年生からは遊ぶのやテレビ見るのも我慢して、塾に行って勉強してたんだ。でもその入試に落ちちゃって、中学入ってしばらくの間はなかなか学校になじめなかったの。そのころは私だって、こんなセーラー服なんかダサいと思ってたし」
「たしかにあたしも、はじめは制服着るのいやだったはずなのに、中学卒業してこのセーラー服ももう着ないのかと思うとちょっと寂しいな」
勇魚はそうやって美鶴と親しげに話している晃子の表情を、どこかよそよそしい表情で見守っていた。その様子を見て美鶴は、すっくと立ち上がって勇魚と晃子に声をかけた。
「せっかくだから、みんなでどっか遊びに行かない? 瀬波君もこうやって外行った方が気がまぎれるんじゃないかしら」
晃子も笑顔を浮かべて、美鶴の提案にうなづいた。
しかし晃子が家を出ようとすると、美鶴が晃子を呼び止めて鏡台の前に坐らせ、髪をピンでまとめてリボンをとめてやった。勇魚は晃子のかわいらしい髪型を見て、少々どきりとさせられた。
三人で晃子の家を後にしてからも、勇魚は明るい表情でおしゃべりしている晃子や美鶴を横目に、どこかよそよそしい表情をしていた。そうして三人で通りを歩いていたとき、ブライダル関係のおしゃれな店のショーウィンドーに、白いウェディングドレスが飾られているのにふと勇魚が目を止めた。その様子を見て、晃子は怪訝そうな目で勇魚を見た。
「どうしたのよ、勇魚…」
「さっき言ったじゃん。晃子って案外、結婚したらいいお嫁さん、そして子どもが生まれたらいいお母さんになりそうだって」
「何言ってんのよ。あんただってもしかしたら、そのウェディングドレスを着る日が来るかもしれないんだからね」
晃子は赤面しながら声をあげた。
「たしかに男だったら、こんなの着ること絶対ないもんね。でももしそうなったら…相手はどんな人になるのかな」
「今からそんなこと考えたって仕方ないでしょ」
勇魚の言葉には、むしろ晃子の方が照れくさそうな表情をした。
「でも晃子の様子見てると、むしろスーパーのバーゲンに血相変えて押し寄せるおばさんになりそうな気がする」
「ぶん殴るよ」
その二人のやり取りを見ていて、美鶴はくすりと笑って横から口をはさんだ。
「こうして見てると、やっぱりほんとに石川さんと瀬波君って仲いいよね」
「バカ」
美鶴にまでそう言われて、晃子はますます気恥ずかしそうな表情をした。
そうしているうちに三人は、街外れの高台にある遊園地に来ていた。晃子と美鶴は遊園地に入ると、さっそく勇魚を売店の中にあるプリクラへと連れ込んだ。出来上がったプリクラの中では、勇魚一人だけが照れくさそうにしていた。
それからしばらくみんなでアイスクリームをなめたり、いくつかのアトラクションに乗ったりした後、美鶴は晃子と勇魚に観覧車を指差した。しかし勇魚と晃子がゴンドラに乗り込んでからも、美鶴は乗るようなそぶりを見せない。ゴンドラのドアが閉まって勇魚と晃子があわてたときには、美鶴は手を振ってゆっくり登っていくゴンドラを眺めていた。
勇魚と晃子は、しばらくの間狭いゴンドラに向かい合わせに坐りながら、お互い視線を合わそうともせず、よそよそしい態度を取っていた。勇魚がそのような雰囲気を振り払おうとゴンドラの外に目を向けても、晃子はよその方向を指差そうとするという具合で、ちぐはぐな雰囲気をぬぐうことはできなかった。
そこで勇魚は、ためらいがちに口を開いた。
「あのさ…オレがこうやってセーラー服着てるのってやっぱり変?」
そこで晃子もぼそりと口を開いた。
「…その逆だよ。あんたってこないだまで男の子だったはずなのに、そのあんたが今こうやってセーラー服着てもすごく似合ってるんだもの」
そのように言う晃子は、顔を赤らめてどこか気恥ずかしそうにしているように見えた。
そのような晃子の姿を見ているうちに、勇魚は三年前の中学校の入学式のことを思い出していた。そのときの晃子は、真新しい制服に身を包んだ新入生が整列する中で、まだどこかぎこちない感じがした。小学校のときはいつもラフな恰好で快活にふるまっていた晃子は、着慣れないセーラー服によそよそしさを感じている様子がありありとしていた。
しかし今の晃子は、あのときと同じセーラー服を身にまとっていても、表情も身ぶりもずっと自然で大人っぽくなったように見える。勇魚は晃子の三年間での変り方に、あらためて戸惑っていた。
「晃子だって、中学の入学式ではじめてそのセーラー服着てるの見たときには、まるで借りてきた猫のような落ち着かない顔してたのに。でもそのときに比べたら晃子も三年間でガキっぽさが抜けて大人っぽく…そして女らしくなったよね。今じゃその制服だって十分似合ってるし…それに髪型だってそうしてみるとかわいいじゃん」
「悪かったね。あたしこそあんたがまさか女の子になっちゃうなんて全然考えてもなかったよ。しかも制服着てもこんなにかわいくなるなんて」
勇魚はあらためて、気恥ずかしそうな顔で悪態をついている晃子の顔を見て言った。
「でも変だよね…オレはこういう立場になってからの方が、むしろ晃子のことを女として強く認識するようになったんだ」
そのとき晃子は、一瞬どきりとしたそぶりを見せた。
「どういう意味よ。それまでは女に見えなかったというわけ?」
晃子は少々むっつりしている。
「いや晃子…オレはこうなってみて、はじめて晃子のことも、晃子の気持ちもわかるようになったような気がするんだ。これってやはり女だからかな」
「そんなこと、いちいち気にしない方がいいよ。それにあんたって、なぜ女になってもそんなにかわいいんだと思う?」
その晃子の言葉に、勇魚は意表をつかれた気がした。
「あんたって男の子だったときから、どっちかというと女顔で優しい感じがしたからね。女子の間でも、もっと髪型とか服なんかに気を使えばけっこうイケメンなのにって話してたんだよ」
「バカ…本気で言ってるのかよ、晃子」
照れくさそうにしている勇魚を目の前にしても、晃子はとりすました態度を崩さなかった。
「あたしがウソや冗談でこんなこと言うわけないでしょ。そりゃあたしだってあんたが女の子になったことに戸惑ってる気持ちはあるけど、今こうしてあんたと一緒にいると、やはりあんたはあんただなって思うんだ」
「…それってほめてるのかよ」
勇魚がふとため息をつくのを見て、晃子は勇魚にそっと声をかけた。
「あんた…ほんとにそれでいいの? 男の子に戻りたいとか思わないの?」
「それは自分でもわかんない。でも今は、今の自分から目を背けずにそれをしっかり生きるしかないんだ。それには男も女も関係ないってことに気づいたんだ」
「勇魚…あんたってえらいよ」
「いいんだ…晃子。オレは自分のできることをやってるだけだよ。悩んでるのはオレだけじゃないんだし。昨日の卒業式のとき晃子が、そして野沢さんがそばにいてくれなかったら、こうやってふっきれることができなかった、今でもずっと部屋にこもっているしかなかったと思うから…」
勇魚がそこまで言うと、晃子は勇魚の手をそっと握ってやった。
「勇魚、あんたがいきなり女の子になっちゃって苦しんでたときには、あたしがなんとかしてあんたのことを助けてあげなきゃと思ってたんだ。でもあんたがそうやってがんばってるとこ見てると、あたしの方こそあんたからいろんなこと教わる側じゃないかって気がするようになったの。でもあんた見てると不安になるんだ。すごく無理して気張ってるんじゃないかってね」
二人でそのようにして話しているうちに、観覧車のゴンドラはかなり高くまで上がっていた。晃子が勇魚に、ゴンドラの外に目を向けさせると、勇魚がこれまで過ごした街の全景が春霞の中にたたずんでいるのが一望できた。勇魚はしばらくじっとしたまま、自分や晃子の家のある高台の住宅地や、これまで通った小学校や中学校、よく遊んだ公園や神社を眺めていた。
「こうやって広い景色を見てると、いやなことなんか忘れて少し気分がすかっとするでしょ? 新しいマンションに引っ越しても、時々は遊びに来てよ」
勇魚は晃子の声を聞きながら、これまで自分が育ってきた街並みの景色をまぶたの奥に焼きつけた。その表情はいつしかほころんでいた。
ゴンドラがゆっくりと下降し始めると、晃子はあらためて勇魚の表情を見返した。
「これからも何かあったら、無理したりくよくよ悩んでたりしないで、なんでもあたしでも美鶴でもいいから言ってきてよ。あんたとはこれからも自然につきあえるようになりたいんだ。だから今では、あんたと同じ高校入れてよかったと思ってるよ」
「ありがとう…晃子」
勇魚は晃子の手のひらをそっと握り返してやった。
観覧車のゴンドラが乗り場まで戻り、勇魚と晃子がゴンドラを降りると、そこで美鶴が売店で買ったジュースやホットドッグを手にしながらニコニコして待っていた。
「やっぱり二人ともけっこういいムードになってるじゃない」
勇魚がそのような美鶴の様子に困ったような表情を浮かべると、美鶴はぽんと勇魚の肩を叩いてやった。
「瀬波君が女の子になっても石川さんとうまくやっているのは、やはり瀬波君が優しいからだと思うよ。昨日ご飯食べたときだって、私は黙って瀬波君と石川さんの話聞いてたけど、瀬波君はちゃんと石川さんのこと理解してたじゃない」
そのように言われて、勇魚はますます照れくさそうな表情をした。
「野沢さん…ありがとう。オレのためにここまでしてくれて」
「そんなに気にしないでよ。瀬波君もそんなに身構えてないで、もっとぱーっと楽しんじゃえばいいじゃん」
「でもなんか変だよね…。今こうして晃子や野沢さんと同じ制服着てるのに、いや、逆にかえってそうだからこそ、オレと晃子たちとの間には壁があるような気がするんだ」
「壁なんかあったっていいじゃない。瀬波君は瀬波君で、私や石川さんとは他人同士なんだから」
美鶴の態度はあくまでさらりとしていた。勇魚はそのような美鶴の態度を見て、ますます気後れを感じた。
「オレはずっと男として生きてきて、女の子のことなんて全然知らないわけだし…」
「でも瀬波君は瀬波君だからこそ、できることやわかることがあるはずでしょ? 私は前にも言ったように私立中学の入試に落ちたし、そのときは中学にもなじめなかったんだ。でも今こうしてみると、入試に落ちたことも、中学で公立行ったこともムダじゃなかったと思うの」
美鶴が笑顔で話すのを聞いて、勇魚は胸元のスカーフにそっと手をやりながら、軽くため息をついた。
それからしばらく遊園地で遊んだ後、勇魚は遊園地の門を出て坂道を下る途中、時折ちらりと晃子や美鶴の横顔に目を向けた。そのときの二人の顔は早春のうららかな日差しを浴びて、かすかに明るく輝いているように見えた。勇魚はそのまま晃子の髪や、セーラー服の襟やスカーフがまだ冷たさの残る春先の風でかすかにはためくのを眺めながら、自分がこれまで抱いていた晃子のイメージが変っていくのに戸惑っていた。
そして勇魚が駅前で美鶴と別れて、晃子と一緒に家の前まで戻ると、綾乃が門のところで待っていた。綾乃が勇魚と晃子のセーラー服姿を見ると、ニコニコしながら言った。
「こうしてると、ほんとに前からの仲のいい友達みたい」
晃子は照れくさそうな表情をすると、勇魚もはにかみ気味に晃子に声をかけた。
「晃子…今日はほんとにありがとう。でも引越といったってそんなに遠くに行くわけじゃないし、晃子にはいつでも会いに行けるし、高校だって一緒だけどね。…そりゃここには思い出がいっぱいあるから、引越すのは寂しいけど」
「元気出してよ。落ち着いたらあんたの引越先にも遊びに行くから」
晃子が勇魚の肩をぽんと叩いてやると、勇魚も表情をほころばせた。
それから数日間、勇魚の家は引越の準備に追われた。引越の当日、トラックが住み慣れた家を後にするのを見送ってから、勇魚は家族と一緒に晃子にあいさつをしに行った。
「ここのところずっと荷物の整理で疲れたよ。だいたい女になったんだから、あまり重い荷物とか持たされるのは勘弁してほしいな」
「そうやって自分の都合のいいときだけ、自分は女だと言うのはやめてよね」
晃子は呆れたような口調で言いながらも、そこで勇魚にケーキの入った箱を手渡した。
「このケーキ、あたしが焼いたんだ。よかったらみんなで食べてよ。栄介ったら、あたしがこれまで男の子のためにケーキを焼くことなんかなかったのになんて言うもんだから、ぶっとばしてやったけど」
「あまり乱暴するのはよせよ」
そしてそのまま晃子は、勇魚の家族が住み慣れた家を後にするのを門の前で見送った。
マンションに引越してから数日がたって、荷物の整理もようやく一段落して室内が整ってきたころ、綾乃は勇魚の部屋を見て言った。
「なんかそっけない部屋よねえ」
たしかに勇魚の部屋は、引越す前と比べても、これまで貼ってあったポスターなどもなく殺風景に見えた。
「姉ちゃん…カーテンもピンクでドレッサーには香水や化粧品が並んでて、ぬいぐるみやおしゃれな小物が飾ってあってとか、そういう部屋を想像してたのかよ」
「誰もそんなこと言ってないでしょ。あんたの方こそそういうの意識しすぎよ。ところで、部屋の片付け終ったのなら、ちょっと部屋に飾るもの買ってきてくれない?」
「なんでオレが行かなきゃいけないんだよ。ほんと人付き合いが荒いんだから」
勇魚がぶつくさ言いながらドアを開けて部屋から出たとたん、ばったり昇と出会った。昇も学校が春休みの今は私服姿である。
勇魚が軽くあいさつをしてその場をやりすごそうとすると、昇が勇魚を呼び止めた。
「瀬波さん…引越してきたんだ。これからよろしくね」
勇魚がどう答えていいか困っていたとき、綾乃が部屋から出てきた。
「さっそく仲がいいのね」
昇は綾乃にきちんとあいさつをすると、次に勇魚に目を向けた。
「でも、瀬波さんってこの前ここに来たときには髪が短くなかった? 髪ってそんなにすぐに伸びるものなの?」
勇魚がぎくりとしているのを横目に、綾乃は落ち着き払った表情で答えた。
「誰かほかの人とごっちゃにしてるんじゃじゃないの? 人間の記憶なんてけっこうあやふやなものよ」
綾乃にそう言われても、昇は腑に落ちないような表情をしている。その表情を見て、綾乃は勇魚のポニーテールをぐいと引っ張った。
「いたたた。姉ちゃん、何するんだよ」
勇魚が痛そうな顔をすると、昇も少々煮え切らない表情をしながらもなんとか納得したようだった。
そこで綾乃は、勇魚と昇が並んで立っているのをじっと眺めながら、しばらく考えた後で口を開いた。
「せっかくだから昇君、この子にこの街のこととか案内してあげて。引越したばかりでどこに何があるかわかんないから」
「姉ちゃん、買物しなきゃいけないんだろ」
「別に急ぐわけじゃないからね」
そしてその次に、綾乃は勇魚のジャンパーにジーンズ、スニーカーといういでたちに目を向けた。
「そのかっこ、なんとかした方がいいわね」
そして綾乃は昇に少し待つように言うと、勇魚をむりやり部屋の中に引っぱりこんだ。
しばらくして勇魚が綾乃に付き添われて部屋から出てくると、その一変した装いに昇は目を丸くした。トップも春らしいおしゃれな感じのものに着替え、ポニーテールの髪もリボンでまとめていたが、昇の視線は勇魚の下半身に集中していた。勇魚は水玉柄のミニスカートをはいていたのだった。
しかし当の勇魚は、しきりにミニスカートの裾を気にしながら、ふて腐れた落ち着きのない表情をしている。
「ちょっと買物行くだけで着替えなきゃいけないわけ」
「つべこべ言うんじゃないの。せめて男の子の前に出るときくらい、少しは身だしなみに気を使いなさい」
「このミニスカートのどこが身だしなみなんだよ」
「せっかく春が来てあったかくなったんだから、こういう服で季節を感じることこそが女の特権よ。それにあんたこそこないだまで、ミニスカートの女の子を見たらそっちの方に目が行ってたんじゃないの」
綾乃にそう言われたとき、勇魚はびくりとしてあわてて昇の方に目をやった。昇は綾乃の言葉の意味がわからなかったらしく、きょとんとしながら二人のやりとりを見ていた。それでも勇魚は昇に不審の念を抱かれたのではないかと思うと、気が気ではなかった。
エレベーターで玄関に降り、マンションを後にしても、しばらくの間勇魚と昇の間にはどこか気まずい空気が流れていた。やがて勇魚が思い切って口を開いた。
「あの…さっきの姉ちゃんの言ってたこと聞いてどう思った」
しかし昇はあっけらかんとした表情で答えた。
「瀬波さんってお姉さんとずいぶん仲がいいんだね」
勇魚は昇が思ったより鈍感なのに内心で安堵したが、その一方で昇の「仲がいい」という言葉には別の意味で戸惑わされた。
「あの…さっきのあれ見ててほんとにそう思うわけ?」
「ぼくは一人っ子できょうだいがいないから、そういうの見てるとうらやましくってさ」
「うん…まあそうだよね」
「でも瀬波さんってお姉さんと一緒にいるときには、まるで男の子みたいな話し方するんだね」
「えっと…いや…その…」
勇魚はその昇の屈託のない態度に、あらためて複雑な思いにさせられた。しかし勇魚は本当のことを言ったところで理解してもらえないだろうと思って、話題をはぐらかした。
「あのさ…尚洋ってどんなとこなの。やはり勉強なんか難しいわけ」
「ああ、たしかに難しいけど…でもぼくは将来弁護士になりたいと思ってるからね」
勇魚はその昇の言葉を聞いてはっと息をつかされたような気がした。自分は今の情況になじむことばかりに必死で、将来についてどのようなイメージを持てばいいのか、とても考える余裕がなかったからだった。自分はこれからどのような目標を目指すべきか…それを考えると気が重くなった。
「すごいね…オレ…、いや私なんて自分はこれから何になりたいかとか、将来の目標なんて全然考えたことなかったのに。学校でも仲間とつるんでバカやってばかりでさ」
勇魚が自分のことを「オレ」と呼ぶのを聞いて、昇は一瞬目を丸くした。勇魚はしまったとばかりに口をつぐんだ。
「大したことないよ。ぼくだって将来弁護士になれるかどうかなんてわからないんだから。だから気にしない方がいいよ」
そして昇は勇魚の顔を向き直して言った。
「瀬波さんってあまり男の子とつきあったことないの?」
そう言われて勇魚はどきりとした。
「どうしてそう思うの?」
勇魚はためらいがちに尋ねてみた。
「瀬波さんって、ぼくと話すときにはなんか身構えてるというか、うまく話せないような感じするから…。お姉さんとはあんなに元気に話するのに」
勇魚が顔を赤らめて答に窮していると、昇はあわてて勇魚をなだめた。
「いや、いいんだよ。そんなに気にしなくたって」
勇魚は昇の自分を気遣おうとするような態度に、かえって複雑な気持ちにさせられた。
そうしながら歩いているうちに、二人は駅前の商店街に来ていた。綾乃に言われていた買物を済ますと、二人はまず本屋に入った。
昇はさっそく学習参考書のコーナーに向かった。勇魚はやはり昇は勉強家なんだと感じながら参考書の表紙を眺めていたが、それが一段落すると昇はマンガの並んだ一角に行って、少年マンガ誌に連載されている人気マンガの単行本を手に取った。
「そのマンガ読んでるんだ。面白いよね」
「女の子も読んでるの?」
「面白いんだからいいでしょ。しばらく入試とかあったから読んでなかったけど」
本屋を出てから、勇魚と昇はマンガの話題で少し盛り上がった。昇は勇魚が少年誌にくわしいことに少々驚いていた。
「でもなんか安心したよ。湯川君みたいな秀才もマンガ読んだりするんだって」
勇魚が少しご機嫌になると、昇はいささか複雑そうな表情をした。
二人でそのまま通りを歩いていると、スポーツクラブの前にさしかかっていた。勇魚がそのまま窓の外からプールの様子を眺めていると、昇が声をかけた。
「このスイミングスクールにはぼくも小学校のときに通ってたんだ。今でも会員になっているから、ときどき泳ぎに行くことがあるけど」
しかし昇は、プールを眺める勇魚が思いつめたような表情をしていることを見逃さなかった。
「どうしたの…瀬波さん」
「私…中学では水泳部にいたんだ」
「へえ。瀬波さんの泳ぐとこ、ちょっと見てみたいな」
昇が身を乗り出すと、勇魚は恥ずかしそうな表情をした。
「そんなに喜ぶことないじゃん。だいたい水泳といっても大したもんじゃないし…それにちょっといろんな事情があって、水泳やめたんだ」
「…ごめん。変なこと言っちゃって」
「気にすることないよ」
やがて勇魚は、昇に街のいろいろなスポットを案内されながら通りを歩いているうちに、高台にある大きな公園に来ていた。公園の見晴し台からは街が一望でき、公園を囲むように植えられた桜のつぼみも、かすかにふくらみはじめていた。
勇魚はこの景色を見て、緊張していた心が少し解きほぐされたような感じがした。そして勇魚が見晴し台への階段を駆け上がって昇の方を見下ろすと、昇はどこか気まずそうな表情をしている。勇魚があわててミニスカートの裾を押さえると、昇はその仕草にも赤面していた。
昇も見晴し台に上ると、二人で手すりから身を乗り出して街の景色を眺めた。勇魚は自分の髪を束ねていたリボンをほどいて、長く伸びた髪をまだ冷たさの残る春風に泳がせてみた。
「この街にはこんなに落ち着けるところがあったんだ」
「ぼくは小学三年ではじめてこの街に引越して来たときは、なかなか友達ができなくて寂しい思いがしたんだ。こんなときにはよくここに来て気を紛らわせたものだよ」
その「友達ができない」という言葉を聞いて、勇魚はあらためて昇を向き直した。
「友達ができない…その気持ちはわかるよ。私…だってちょっとそういうとこあるから」
その言葉を聞いたとき、昇は少し不用意なことを言ったかもしれないといった表情をして、無言のまま勇魚の顔を見た。
「前の中学でいやなことがあって、そのままここに引越してきて…不安なんだ」
「瀬波さん…水泳部をやめたって、やはりそういうこと?」
「そればかりじゃないけど…今はまだ心の準備ができていないんだ。いつか気持ちが落ち着いたら、話せるようになるかもしれないから…」
「あまり考えすぎない方がいいよ。無理に思いつめたって何の解決にもならないし。…話したくないなら話さなくてもいいけど」
「…優しいんだね。なんか湯川君って…今まで学校とかで一緒だった男子とは全然違うんだもの。私…の知ってる男子なんて、バカ騒ぎして先生に叱られたり、エッチな話ばかりしてさ。それに比べたら湯川君って落ち着いてて大人びてるし」
勇魚はそう言いながらも、心の中では自分自身もつい最近までは、そのようなバカ騒ぎしてた男子の一人だったのにと思っていた。
「え…そんなことないよ。でも瀬波さんって、不意に自分のことを『オレ』と言ったり、ミニスカートでも大胆に行動したりするところが逆にかえってかわいいよね」
その「かわいい」という言葉が勇魚の心を動揺させた。そしてそのとき勇魚の心にふと一つの考えが浮かんだ。勇魚は一瞬ためらいながらも、ここでひるんだら機会がなくなると思い、一気に昇に声をかけた。
「湯川君…さっき私…が泳ぐところを見てみたいって言ってたよね。今度プールに行かない?」
昇は驚いた表情で勇魚の顔を見た。
「私…水泳部にいたけど泳げなくなっていたんだ。湯川君と一緒なら…なんか自分のことわかってくれそうな気がするから」
「…もしそうならいつがいい?」
「あさってでいいよ」
しかしここまで言って勇魚は、自分が女子用の水着を持っていないことに気がついた。「悪いね湯川君…ちょっと買わなきゃいけないものがあったのに気づいたんだ。先にマンションに戻っててよ」
そして勇魚は、戸惑っている昇を尻目に再び商店街に向かった。
勇魚がスポーツ用品店の水着売り場に行くと、競泳用の水着が何着もハンガーにつるされて棚に並べられていた。勇魚がそれらを何着か手に取って、その張りのある軽くて薄い生地に触れてみると、全身がくすぐったくなるのを感じた。大きく空いた背中やシンプルなデザインも、勇魚の心をどきどきさせるには十分だった。水着の中には両足の部分がスパッツタイプになったものもあったが、このタイプになると値段がひとまわり高くなる。しかし勇魚は、自分自身これまで水泳の大会を観戦して、女子選手の水着が両足まで覆う露出の少ないタイプだと内心で残念に思っていたのだから、あまり偉そうなことは言えないと思った。勇魚は濃いブルーを基調とした競泳水着を手に取って、スイミングキャップと一緒にレジに持っていって精算を済ませた。
勇魚がマンションに戻ると、さっそく綾乃がどこか不満そうな表情をしながら玄関口で勇魚を待構えていた。
「どうしたのよ。ずいぶん遅いからけっこういいムードになってるのかと思ったら、昇君を一人で帰しちゃうなんて。あんたも気がきかないわね」
勇魚はそのように言う綾乃を振り切ると、自分の部屋に入ってドアを閉めた。
勇魚は部屋の中で、あらためてミニスカートで装った自分の姿を見回してみた。そこで勇魚は、先ほどの昇の表情を思い出すと、先ほどなぜあのような約束をとりつけたのか、自分自身でもわからなくなっていた。自分があんなに大胆になれたのは、やはりこのミニスカートのせいかもしれないと思うと、勇魚はますます昇に対して気後れを感じずにはいられなかった。
そこで勇魚は、スポーツ用品店の袋から水着を取り出して手で広げてみた。勇魚はここまで来てしまった以上もう後には退けないと覚悟を決めて、服を脱いで水着を手に取った。
勇魚が両足から水着に身体を通して両肩でストラップをとめ、胸やヒップのあたりを調整し直すと、張りのある生地に素肌を覆われる圧迫感に息をつかずにはいられなかった。
それでも勇魚が一呼吸おいて髪を体に垂らし、鏡の前でそっと目を上げると、シンプルでスマートな競泳水着は、勇魚のスタイルのよさや足の長さ、そしてきめの細かな素肌をより強調していた。しかし勇魚は、自分のそのような姿を鏡に映してみても、不思議と羞恥心は感じなかった。むしろこれが今の自分の姿である以上、ここからは逃げられないと思うと、あらためて度胸が坐ったかのように感じた。
勇魚がそのままはやる気持ちを抑えようとしていると、背後のドアの向こうから綾乃の声が聞こえてきた。
「ちょっと勇魚、帰るなり部屋に閉じこもっちゃってどうしたのよ」
勇魚は一瞬どきりとしたが、あらためて気を取り直すと、綾乃に返事をした。
「姉ちゃん、ちょっと部屋に入ってきてよ」
ドアを開けた綾乃は、いきなり勇魚の水着姿を目のあたりにして腰を抜かしそうになった。
「あんた、何よその恰好…。その水着いったいどうしたのよ」
しかし動揺する綾乃を前にしても、勇魚の口調は落ち着きはらっていた。
「水泳部の話とかしたら…今度プールに行こうという話になってさ。この水着はスポーツ用品店で買ってきたんだ」
その話を聞いて、綾乃はさらにつっこけそうになった。
「あんたも隅に置けないわね。一回や二回会っただけの男の子と、プールに行こうなんて約束をとりつけるんだから」
しかし勇魚は、きっぱり綾乃を向き直して言った。
「オレ…あの湯川君と一緒にいると自分が男なのか女なのか、どう接していいかわからなくなるから…。ほんとの自分を見てもらうためにはこれしかないと思ったんだ。そうすれば自分だって気持ちの整理がつくと思うし、それに自分をだましてうわべだけでつきあうような、そんなまねはもうたくさんだ。…湯川君は確かに優しくていいやつだよ。でもだからこそ、その優しさに甘えているわけにはいかないんだ。…見てみなよ。今のオレにはこれしかないんだ。いくら言葉や服で上っ面を装ったところで、この身体だけはウソをつけないんだ」
綾乃は勇魚の決然としたかのような表情を見て、いつになく神妙な面持ちになっていた。
「あんたみたいなまじめで一途な女の子と知り合えて、昇君は幸せ者だわ」
しかし勇魚の表情からは、どことなく不安げなものが浮かんでいた。
「でも…ひとつだけ気になってるんだ。オレは湯川君にこんなとこ見せて、かえって湯川君の優しさにつけこんで、気持ちをもてあそんでいるだけなんじゃないかって」
そのような勇魚の顔を見て、綾乃はあらためて言った。
「あまり気にしすぎない方がいいわね。湯川君とあんたの関係がこれからどうなるかは私の知ったことじゃないけど、それでも何かしない限りは何も始まらないじゃない。人を傷つけたり、自分が傷ついたりするのを恐れてたりしたら何もできやしないわ。それにこれはあんたの方から言い出したことなんでしょ。あんたが決めたことなんだから、あんたが思うようにやりな」
しかしそこで、綾乃は勇魚の水着の大きく開いた背中やヒップのラインを眺めていた。
「その水着、けっこうハイレグ気味じゃない?」
「仕方ないだろ。自分に合うサイズの水着で安いの買おうと思ったらこれしかなかったからね」
「でもこうしてみると、競泳用の水着って結構エッチなんだね。昇君があんたのそんなとこ見たらドキドキするんじゃないかしら」
そう言って綾乃が水着の空いた背中を指先でなぞると、勇魚は背筋をびくりとさせた。
「変なこと言うなよ。そんなのいちいち気にしてたら、水泳部なんかやってられるわけないだろ」
勇魚は身をすくめている。
「そうかしら。水泳部のプール練習がある間は、家のティッシュがなくなるペースが早かったけど」
「何言ってんだよ」
「冗談に決まってるでしょ」
綾乃が悪態をついているのを、勇魚はいやそうな目で見ていた。そのような勇魚に、綾乃はスイミングキャップを手渡した。
「髪はきちんとまとめておくのよ。それにプールの塩素は髪を傷めるから、上がったらちゃんと手入れしなきゃね」
そう言って、綾乃は勇魚に髪を編んでスイミングキャップにまとめる方法を教えてやった。勇魚がなんとかしてスイミングキャップをかぶると、不意に綾乃が勇魚のうなじに息を吹きかけた。勇魚はびくりとして思わず身をすくめた。
「姉ちゃん…人を茶化すはよせよ」
「男は女のそういうところにひかれるものよ。気をつけておくことね」
「姉ちゃんのバカ」
悪びれている綾乃を、勇魚は困ったものでも見るような目つきで見ていた。そして勇魚がそそくさと水着からパーカーとジーンズに着替えようとすると、そこでまた綾乃が横から口をはさんだ。
「これにするの? せっかく私が服貸してあげたのに」
「いいかげんにしろよ」
勇魚は着替え終ると、綾乃にブラウスとミニスカートをつき返した。しかし綾乃はそのような勇魚の姿を見ながら、勇魚は自分の心配をよそに、思ったよりもずっと成長していると内心で感じていた。
約束の日が来ても、勇魚はプールに出かける前、服を選ぶのにさえ迷っていた。勇魚は少し考えた末、スカートで出かけることにした。昇が自分のことを女として認識している以上は、勇魚は昇のそのようなイメージを壊したくなかった。そのような勇魚の様子を見て、綾乃はさっそく口をはさんだ。
「男の子と会うのに服のことで悩むようになるとは、あんたも一人前になったわね」
則子もこのような勇魚の様子を見ながら、ごきげんそうな顔をしている。
「湯川君は尚洋に行ってるんでしょ? それになかなかハンサムじゃない。くれぐれも失礼なことがないようにね」
どうやら則子は、さっそく昇の母親とも意気投合してしまったらしい。
なんとか昇と落ち合ってプールに行ったものの、女子更衣室に入るときには緊張のあまり心臓がはちきれそうになった。更衣室に入ると、勇魚は他人を見ないようにロッカーの前で自分の身体を壁にして、うつむき気味になってそそくさと水着に着替えた。
勇魚が髪をきちんとまとめてスイミングキャップに収めるのに少々手間取りながらも、深呼吸をして気を落ち着けてからプールサイドに入ると、昇はすでに男子更衣室の出口で待っていた。昇は勇魚の水着姿を目の当たりにすると、特に胸やヒップ、うなじのあたりに目を向けて気まずそうな表情をしていた。しかし勇魚はやれやれと思いながらも、昇の体を見て、一見秀才タイプでどこか線が細そうに見えた昇も、メガネを外したら表情もたくましそうに見えるし、体格もしっかりしていて筋肉もあると感じて、かすかに胸の高鳴りを覚えた。
それでも勇魚はいざゴーグルをつけてプールの揺れる水面を見つめているうちに、水泳部で練習に明け暮れていたころのことを思い出して、いやがおうにも胸の奥でボルテージが高まっていくのを感じていた。そして軽くプールを何往復かして、水の中で悠然と手足を動かすにつれて、勇魚は全身に忘れかけていた感触が甦ってくるのに心地よさを覚えていた。
一通り泳いだ後、勇魚はプールから上がって昇の方を見た。昇も勇魚の泳ぐ姿に見入っていたらしく、勇魚の泳ぐときのフォームをほめそやしていた。
「すごいじゃん、瀬波さん…うまいよ」
昇に言われて勇魚は照れくさい気分になった。
「でもタイムは落ちてるだろうな…入試の間練習してなかったし、それに…」
勇魚がそう言いながら伸びをすると、胸の大きさがあらためて強調されるようなスタイルになった。昇が顔を赤らめているのを見て、勇魚はあわててやや身をすくめながら胸を手で覆ってみせた。
「タイムなんか気にすることないって。瀬波さんが全力を出し切れたらいいんだから」
勇魚は思いきって、昇に自分のタイムをはかるように頼んでみた。勇魚は一心にプールを泳ぎきった後、彼からタイムを聞かされた。そのタイムは自分が男だったころよりだいぶ落ちていたので、やはり入試の間のブランク以上に、男と女では体力差は埋められないのだろうかと思った。
しかし勇魚はこんなことばかりくよくよ悩んでいても仕方ないから、ここはひとまず泳ぎを楽しんで、日ごろのたまったストレスを発散しようと思い直した。そのようにして泳いでいるうちに、心の中に残ったわだかまりもいつしか薄らいで、表情にも自然さが芽生えてきた。
それが一段落すると、勇魚と昇はプールサイドに並んで腰を下ろした。昇はちらりちらりと勇魚の方を見ながらも、目のやり場に困っている様子がありありとわかった。勇魚は恥ずかしげに両手で胸を押さえながらも、自分自身男として、昇の立場になったら同じような気持ちになるだろうと思ったから、とやかく言う気にはなれなかった。
しかしそのような勇魚の心中などそ知らぬかのように、昇は勇魚に話しかけていた。
「瀬波さんって今まで顔とか見てても、なんか変に身構えて緊張しているような気がしてたんだ。でも今日になって、やっと瀬波さんの屈託のない自然な表情を見ることができたような気がするよ」
「私はこれまではタイムを縮めたりとか選手になったりとか、そういうことにばかりとらわれていたのかな。でも久しぶりにプールで泳いでみて、なんか少し肩の力を抜いてふっきれることができたような気がするんだ」
「よかったね」
「ところで…この水着、似合ってるかな」
「なかなかいいよ。こうしてみるとやはり瀬波さんってスタイルいいよね」
「湯川君もけっこういい体してるじゃん」
「そんなことないよ。ぼくなんてどっちかというと運動苦手だし」
「だったら運動部に入ればいいんじゃない? そしたらけっこう女の子にもてるかもよ」
昇はどこか照れくさそうな表情をしていた。
「湯川君はクラブ何入ってるの?」
「…囲碁部」
「けっこうしぶいじゃん」
「ぼくのおじいちゃんは囲碁三段で、小さいころから囲碁を習っていたからね」
「でも私…碁の打ち方なんて全然知らないけど、碁って難しいの?」
「碁はルールこそ簡単だけど、だからこそ自由自在で奥が深いゲームだよ」
「もしよかったら碁の打ち方とか教えてくれないかな」
「いつでも教えてあげるよ」
昇が照れ笑いを浮かべる一方で、勇魚は自分が心にもないことを口にしていることに内心で戸惑っていた。
それからしばらくプールで泳いだ後、勇魚が昇と別れてシャワー室に入ってからも、勇魚の脳裏からは先ほどの昇の表情が抜けなかった。スイミングキャップを外して髪をほどき、全身にシャワーを浴びている間も、勇魚はなぜ自分は昇をプールに誘おうなどと思ったのだろうと自問し続けていた。
──湯川君とはもっと自然に接したいのに…。これから男と接するときもみんなそうなのだろうか。むしろ普通の女の子として湯川君に会うことが出来たらどれだけ楽だろう。
勇魚は昇をプールに誘ったときには、たしかに昇に対して偽ることなく本当の自分を見てほしいと思っていた。しかしその「本当の自分」をさらけ出すことで、勇魚はより厳しい道を選んでしまったのかもしれないということに、今さらのように気づいていた。勇魚がシャワーを止めて、あらためて自分の競泳水着姿をそばの鏡に映してみると、水滴のついた自分の素肌や濡れた黒髪がよりつややかさを増したような気がした。勇魚は覚悟を決めると、タオルで髪についた水滴をはらった。
着替えと身支度を終えてロビーに出ると、昇はすでに待っていた。
「待たせちゃってごめん。男の子に比べて、女の子の身支度には時間がかかるからね」
昇は自動販売機でジュースを二本買ってきた。
「気にしなくていいよ。ぼくがおごるから」
「湯川君って優しいんだね。別に女の子だからっておごることなんかないのに」
勇魚は昇がジュースを飲んでいたときを見計らって、あえて意地悪なことを言ってみた。
「湯川君、さっきプールで隣に坐ってたとき、水泳パンツがもっこりしてなかった?」
そのとき昇は、ジュースを口から吹き出しそうになった。
「いや、そんなこと…」
「気にすることないよ。男なんてみんなそういうものだから。湯川君って学校で友達とエッチな話とかしないの? 私の知ってる男子なんて、そういうのばっかりだったからさ」
「どうでもいいじゃん。でもなんか、瀬波さんと一緒にいると女の子という感じあまりしないよね。なんか友達みたいな感じで気楽につき合えるって感じで」
「さっきは私の水着姿見て鼻の下伸ばしてたくせに」
そう言われて昇は赤面していた。
「でも瀬波さんってそういう気が強くて、細かいことにとらわれないさばさばしたところがなんか男の子っぽいよね。言葉づかいだってそういう感じだし」
そこで勇魚はぼそりと口走った。
「そんなこと言うんだったら、もし私が本当に男だったら、湯川君ともっと親しい友達になれるかな」
「どうしてそう思うの?」
「いや…何でもないよ」
勇魚は昇のきょとんとした表情を見て、たとえ今は本当のことをわかってもらえないとしても、いつしか昇に全てを打ち明けなければいけない日が来るかもしれないと思っていた。しかしそうなったとしても、昇は果たして自分を受け入れてくれるだろうかといささか不安な気持ちにかられていた。
勇魚が昇と別れてマンションの自室に帰ると、さっそく綾乃が嬉々とした表情で勇魚を出迎えた。
「どうだった、はじめて昇君とプールに行った感想は」
「何もなかったからほっといてくれ」
勇魚は綾乃に背を向けると、水着を洗濯機に放り込んだ。
洗濯機が回り続けるのを眺めながら、勇魚は重い口を開いた。
「オレは湯川君に本当の自分を見てほしいと思って湯川君をプールに誘ったんだ。でも湯川君はそんなオレを見てどう思ったのかな」
「あんたこそ変に気にし過ぎじゃないの? 『本当の自分を見てほしい』なんて、安っぽいアイドル雑誌のグラビアの煽り文句じゃあるまいし」
「でももし湯川君が、彼女になってつきあってほしいなんて言ったらどうしよう」
「昇君はほんとにそういう目であんたを見てたわけ?」
「オレは少し前まで男だったんだぜ」
「男だっていろいろいるでしょ。昇君は元のあんたみたいなスケベとは違うわね」
そこで勇魚は、少しむっとして答えた。
「でも湯川君とは仲良くなりたいんだ…。男と女が一緒になるだけで、好きとかつきあってるとか、なぜすぐにそういう風に言われるわけ? …湯川君にはいつかほんとのことをみんな打ち明けようと思うんだ。いつまでもごまかし通せるわけじゃないし。もしそれでも湯川君がオレを受け入れてくれるとわかったらだけど」
「あんたに人をだましてつきあうような器用なまねはできそうにないしね。そこがあんたのいいとこだけど。ともかく昇君の前ではもっと素直になればいいわ。その結果悩むことだってあるかもしれないけど、そのときは大いに悩めばいいじゃない。そうやって悩んだところで、それはきっとムダにはならないはずだから。それに湯川君ならきっと大丈夫だと思うよ」
綾乃が明るいさばさばした口調で話すのを聞きながら、勇魚はそのまま洗濯機が音を立てて回るのをじっと見つめていた。
そうしているうちに、春休みはあっという間に過ぎていった。そして高校の入学式もいよいよ数日後に迫ったある日、晃子から勇魚のところに電話がかかってきた。
「どう勇魚、少しは引越してから落ち着いた? 入学の準備とか大丈夫?」
「ああ…なんとか」
「じゃあ明日あんたの家に来てもいい? あんたのマンションも見てみたいし。美鶴も一緒でいいかな」
「いいよ。どうせ明日は姉ちゃんもバイト休みだし」
翌朝は空もすっかり晴れわたっていた。外はすっかり暖かくなって、公園の桜のつぼみももう少しで満開になろうとしていた。
インターホンが鳴ったので綾乃が出迎えると、晃子と美鶴が玄関のドアの前に並んで立っていた。しかし勇魚はその二人がまだ真新しい、明桜学園の制服に身を包んでいたのを見て呆気にとられた。
「なんで制服で来るんだよ」
「勇魚も制服届いてるでしょ? 入学式の前に、一度どんな具合か見た方がいいかなと思ったわけ」
勇魚がため息をついて部屋に戻り、制服が入った箱を開けると、ブレザー、ベスト、ブラウス、スカート、リボン、ハイソックス…きちんと畳まれた真新しい女子用の制服一式が姿を現した。勇魚は着ていた服を脱ぐと、まず白いブラウスの袖に腕を通した。
スカートには式典などのときの正装用とされる、ロイヤルブルーを基調にタータンチェックの模様の入った落ちついた色合いのもののほかに、オプションとして明るいグレーを基調に淡いブルーのタータンチェックの模様が入った軽快な色合いのものがあった。複数のタイプの制服をその日の気分によって選べるなんて、黒っぽい学生服を着ていたときには思いもよらなかったことだ。女ってめんどくさいんだなと思いながら、勇魚は正装用を手に取った。
スカートのホックをとめて足元を見下ろすと、白い素足が伸びて心もとない感じがしたので、紺色のハイソックスに足を通し膝下まで引き上げた。スカートとそろいの柄になったベストを羽織ってボタンをとめ、胸元にもリボンをとめて、勇魚はひとまず息をつくことができた。
勇魚はあらためて鏡に向き合った。今の自分の姿を人に見られても、制服の着こなしに若干ぎこちないところはあるけれども、あとはどこにでもいそうな「女子高生」として、何も不自然に思われることはないだろう。スカートとそろいの柄になったベストは、バストからくびれたウエストにかけての体形にぴったりとフィットし、白いブラウスの襟元ではリボンがひときわ目立って見えた。
勇魚は鏡に映った下半身へと目を移した。紺色のハイソックスはすらりとした足の輪郭をあらためて強調し、今は学校の規定通りにはいているスカートの裾からのぞく白い膝小僧がまぶしかった。スカートの裾をつまんで広げてみると、プリーツが花びらのように大きく広がり、タータンチェックの生地がさざ波のような模様を描いた。スカートから手を離し、軽く体をターンさせてみると、スカートが舞い上がって生地が両足をなでた。
勇魚はあらためて、この数カ月の間に自分の身に起きたことを振り返っていた。自分が女になってしまったばかりのときには、ただ全てのものから目を背けていた。しかし今の勇魚は、そこから抜け出そうと手探りで努力することによって、悩みから抜け出せはしないものの、自分にも現実にもしっかり向き合えるようになったということ、そしてそれこそが本当の「強さ」だということをはっきりと認識していた。
たしかに今の自分に、不安や戸惑いが消えたわけではない。しかし勇魚は今の自分の目の前にあるものから逃げることはできないと感じていた。そう考えると今自分が着ている女子用の制服だって、それを着ることでかえって勇気が持てるような気がした。
──もう後ろを振り返りはしない。他人に甘えたり媚びたりすることもしない。オレはオレのまま、オレとして前へと突っ走る、それしかないんだ。
勇魚は紺色の端正なブレザーを羽織ってボタンをとめた。その表情にもはや迷いはなかった。
そして勇魚は制服のまま部屋を出て、居間のドアを開けた。居間では綾乃が晃子や美鶴の相手をしていたが、勇魚が制服姿で居間に入ってきたのを見て、一同はしばらく呆気にとられていた。そして綾乃は無言のまま勇魚の全身をあちこち眺め回すと、次の瞬間両目をキラキラと輝かせてすっとんきょうな声をあげた。
「かっわいー。さすが明桜は違うわ。あーあ、私もこんな制服着て高校行きたかったな」
しかし勇魚は浮かれている綾乃に言った。
「姉ちゃん…やはり自分にはこれしかないんだ」
綾乃はしばらく黙って勇魚の姿を眺めていた。そしてその末に口を開いた。
「…ほんとにバカだね、あんたって。何もかも自分一人で背負い込んで、無理してかっこつけちゃって。もっと素直になりなよ。つらいんだったらつらいとはっきり言えばいいじゃない」
「つらいと言ったからって、そのつらさがなくなるわけじゃないだろ。ともかくこれはオレ自身の問題なんだ。これはオレが解決するしかないんだ」
「たしかに問題は自分で解決するしかないというのはその通りかもしれないけど、あんたのことをわかってくれる人がいるという、それだけで気分が楽になるんじゃない? あんた、前から『強くなりたい』って言ってたよね。あんたって前はずっと弱虫で意気地なしで、学校でいじめられたり父さんから叱られたりしてばかりで。でもあんたはこの二ヶ月でずいぶん強くなれたと思うよ。そう思えばいいんじゃない?」
そう言われて、勇魚は身をすくめて身体をこわばらせた。
「姉ちゃん…ほんとのこと言うと、今でも少しこわいんだ。不安で押しつぶされそうなんだ」
綾乃はしばらくそのような勇魚の表情をじっと眺めていた後、勇魚を鏡台の前に坐らせてブラシで髪をとかし始めた。そして綾乃は、髪をおしゃれに整えると、勇魚を立たせてじっとしているように言った。そして眉毛を小さいはさみでカットし、マスカラでまつげを軽くカールさせた。そして綾乃は勇魚の口を開いてじっとするように言うと、唇にリップクリームを塗った。
「これは?」
「学校に口紅塗ってくわけにはいかないでしょ。でもこれ塗ったら唇がしっとりするよ。これから学校行くといろんなところで緊張すると思うけど、そのときはこれで気持ちを落ち着かせるといいわ」
勇魚が唇をむずむずさせてその感触に戸惑っていると、晃子がそばから口をはさんだ。
「でもこうして見ると、勇魚もけっこう制服似合ってるよね。こうして見ると、ついこないだまであんたが男の子だったなんて信じられない」
勇魚はしばらく黙った末に口を開いた。
「誤解するなよ、晃子。オレは今こんなかっこしてるからといって、女として生きることを決めたとか、そんなわけじゃないんだ。オレはただ、逃げたりせずに今の自分にできることをやる、それしかないんだ」
「だからそうやって無理してかっこつけることなんかないって言ってるでしょ」
晃子はそう言って、勇魚の肩をぽんと叩いてやった。
そうこうしているうちに、綾乃が勇魚の部屋から柄違いの替えのスカートや、オプションのニットのベストを持ち出して居間に戻って来た。
「ちょっと見てみたんだけど、あんたの学校の制服ってバリエーション広いじゃん」
「だから…どうしようというわけ?」
「こっちのスカートにはきかえてみてよ」
そう言って綾乃は勇魚にグレー系の替えのスカートを差し出した。勇魚がスカートをはきかえると、晃子がベストを脱いで裏返すように言った。ベストが二種類の柄のスカートに対応できるようにリバーシブルになっていたのには、勇魚も意表をつかれた気がした。
「こっちの柄もなかなかいいじゃん。ベストにはニットだってあるし」
スカートを取り替えてみると、さっきまでのシックな装いとうって変わって軽快な感じがした。それからしばらくの間、勇魚はベストやスカートを取り替えさせられ、そのたびに三人に批評されて写真を何枚もとらされた。しまいには綾乃にスカートをウエストで折り返してミニにする方法まで教えられた。勇魚がスカートをミニにすると、晃子はそれを何やら複雑そうな面持ちで眺めていた。
勇魚はこの三人の相手をするのにいささかくたびれていた。
「姉ちゃん…オレは着せ替え人形じゃないんだぞ」
「あーら。せっかく花の女子高生として一歩を踏み出す決意をした勇魚ちゃんのために、制服の着こなし方とか教えてやってるのに」
「そんなにかわいいとか言うんだったら、姉ちゃんこそこの制服着てみろよ」
勇魚がいささかふて腐れていても、綾乃はすました顔をしている。
「私だって一年前までは高校生だったから、今着ても現役として通用するかしら」
しかし勇魚と綾乃が言い合うのを見て、晃子もいつしか表情をほころばせていた。
「でもよかったよ。私も瀬波君のことがずっと心配だったけど、なんか元気そうで」
美鶴がこう言うと、晃子も笑顔を浮かべて言った。
「勇魚、退院してからはずっと思いつめたような表情してたけど、やっと自然に笑えるようになったね」
「うん…でもそれもみんなのおかげだよ」
「ねえ勇魚、せっかくだから外行かない? あんたの家の近所も見てみたいし」
晃子の誘いに、勇魚も深くうなづいた。そして勇魚は晃子や美鶴と一緒に、マンションの部屋から一階に降りて、春の陽光の中へと駆け出した。
(第一部・完)
この話を書き始めたのは2003年のはじめごろでした。なぜこのような話を書こうと思ったのかというと、こちらのようなサイトがありまして、それを読んで以来ジェンダーの問題に関心があったからです。このジャンルには古くから「とりかへばや物語」という話があり、近年でもマンガや小説などで使い古されたネタですが。
あとこの話を書こうと思った動機は「『自分らしく生きる』とはどういうことか」ということですね。小生がこの話を書きだしたころは勤めていた会社の契約を切られ、うまくいかない就職活動にも嫌気がさして、正直に言ってニートの状態でした。そこで「自分らしく生きる」とはどういうことかずっと考えていて、それをこの話にぶつけてみた次第です。世間では「自分らしく生きる」という言葉があふれていますが、本当の「自分らしさ」はどこにあるのか? それを手にして社会に立ち向かっていくにはどうすればよいのか? もちろんそれは答えが出るような問題ではありませんが、これを「考える」という姿勢こそが大切だと思っていきたいです。
しかし小生の悪いところは、一旦アップしたものを読返すたびに作品のあらが気になったり、ここはこうした方がいいのではと手を入れたくなったりするところです。それで続きを書こうにも書き直して、それをまた書き直して、設定も二転三転してと、こういう賽の河原のようなことばかりを二年ばかり繰返してきました。しかしこのようなあらを気にしていたら正直に言ってフィクションは書けません。これではいつまでたっても完成しないので、ここでまとめてアップさせていただきます。
キャラですが、書き出してみるとそれなりに「動いて」くれるものですね。この中で小生は綾乃姉ちゃんが自分で気に入っています。晃子は綾乃姉ちゃんに憧れていますが、人によってはイヤなやつだと思われる方もおられるかもしれませんね。でもこの性格のキツさがまた魅力というわけで。
ともあれこの話はここで「第一部・完」ですが、今後この話の続きを書くとしたら、勇魚のドキドキの女子高ライフということになるかと思いますが、小生は中学高校と男子校に通っていた上、これまで異性とつきあった経験も乏しいので、そもそも女子高とはどんなところか、いまどきの女子高生は何を考えて生活しているのか、そのへんちょっと難しい面があります。まあへんに時流に合わせようとすれば時代が流れたときにはまた時代遅れになるもので、自分の好きなようにやればいいのでしょうが。
あと問題は「水泳部」ですね。小生はスポーツのことにはまったく疎いばかりでなく、そもそも小生の学校には水泳部はおろかプールすらなかったので水泳部というのがいかなる世界かさっぱりわからず、その内情を知っている人間が見たら噴飯ものの作品になるでしょうが、そこらへん小生に御教示いただければ幸いです。
2005年9月2日
Annabel Lee