裸足の人魚
第四章・人魚姫
勇魚(いさな)は早春の光のさしこむ部屋の中で、一人たたずんだまま考えこんでいた。三月に入って明桜学園の入学手続きが終ったものの、いざ入試という目の前の目標から解放されると、勇魚はあらためて空虚さを感じずにはいられなかった。
勇魚自身うすうす気づいていた。初めてスカートをはいて『女の子』として外出して以来、自分の中で何かが変り始めていることに。しかし勇魚は、そのような自分自身に対してすら戸惑いを覚え、そこから依怙地に背を向けているように見えた。服装も入試が終って以来、ラフなトレーナーやパーカーにジーンズといった恰好で通していた。
もちろん勇魚自身も、このままでいいはずがないということはよくわかっていた。しかしセーラー服を着て入試を受けに行くことはできたはずなのに、この恰好でこれまで顔なじみだった学校のクラスメイトたちの前に出るのかと思うと、どうしてもその一歩を踏み出すことができなかった。そして勇魚はそのような自分自身に対して、なんともいえないいら立ちを覚えずにはいられなかった。入院するまでの、学校に行って授業を受けたり部活に出たり、友達とふざけあったりしていた何気ない日々はもう戻らないのだろうかと思うと、余計気分は沈んでいくばかりだった。
そのときドアの開く音とともに、綾乃が部屋の中に入ってきた。
「何ぼーっとしてるのよ。もうすぐ引越すから、荷物の整理しときなさいと言われたじゃない」
綾乃はふて腐れた顔をしている。勇魚が退院した直後、家族は都心に近いマンションへの引越を決めていた。勇魚にとっては物心ついたころから住み慣れた家を離れるのには抵抗もあったが、近所の目もある上、勇魚にとってもその方が学校にも近いし、新しい場所でやり直した方がなにかとやりやすいだろうということになると、返す言葉がなかった。
「姉ちゃん、ほんとに引越さなきゃいけないの?…オレのせいで」
「あんた、いいかげんにその自分を『オレ』と言うの何とかしなさい」
「しょうがないだろ。外で話すときにはきちんとするから」
「こういうのは日ごろから慣れておかないと、いざというときだけきちんとしようとしてもうまくできないものよ。それはともかく、家のことは気にしない方がいいわね。もともとここは借家だし、マイホームを買おうという話は前からあってちゃんと貯金だってしてたんだから」
「でもまだ引越まで十日以上あるじゃない」
「そう言って引越まぎわになってバタバタするんでしょ。夏休みの宿題でも何でも、いつだってそうなんだから。私は大学は春休みでも、サークルとかバイトとかあるんだからね。そりゃあんたは家でブラブラしてるかもしれないけど」
勇魚がその言葉に表情を険しくさせると、綾乃はしまったという表情をして、あわてて勇魚をなだめた。
「そりゃあんただって、好きでそうしてるんじゃないってことくらいわかるよ。でもこのまま部屋にこもってぼっとしてりゃいいはずがないでしょ」
「不登校や引きこもりなんて自分には関係のない話だと思ってたのに、まさか自分がこんなことになるなんて」
「だからそうやって、部屋の中でウジウジしてたって始まらないじゃない。あんたはまだこれからいくらでもやり直せるんだから」
そう言って綾乃は勇魚を強引に部屋から外に連れ出した。綾乃の部屋に入ると、室内は整理しかけの衣類やら書物やらが所狭しと並べられている。その中に勇魚は、ファッション雑誌がまとめて置かれているのを見つけた。勇魚は自分が男だったころは、もちろんこのような雑誌など目もとめなかったに違いない。しかし今の勇魚は、なぜかその雑誌から目を離すことができなくなっていた。
グラビアのページをめくってみると、そこに写っているモデルたちは皆顔にメイクをしてヘアスタイルをきちんと整え、流行のファッションやアクセサリーに身を包み、自らの「女」という性をのびやかに打ち出していた。勇魚には、グラビアのモデルたちがあたかもこうささやいているように見えた。
──何をそんなに悩んでるの? せっかく女の子になったんだから、おしゃれしたりかわいい服着たり、楽しいことなんかいくらでもあるのに。もっと自分に素直になりなよ。
勇魚は心の奥に何かがひたひたと迫ってくるのを感じて、身を縮こませた。綾乃はそのような勇魚の姿を見て、何やら笑みを浮かべている。
「なんだかんだ言って、あんたもそういうのに少しは興味あるんじゃないの?」
勇魚は赤面して、あわててファッション雑誌から目を離した。
「じゃあしばらくそれ見ておとなしくしてな。私はちょっと外で買い物してくるから、へんなとこいじんないでね」
勇魚は綾乃の部屋の中に一人とり残されると、さらに室内を見渡してみた。勇魚は本棚の中の、鮮やかな色をした大きな一冊の絵本に目をひきつけられていた。それは古くなってあちこちすり切れた、アンデルセンの人魚姫の絵本だった。この絵本は「勇」が物心ついたころから家にあったもので、特に綾乃はぼろぼろになるまでくり返してそれを読んでいたものだった。
勇魚は何気なく絵本のページを広げてみた。すると最初のページに、色とりどりの海藻が揺れ、魚の群れが行き交う海の底で、人魚姫が姉たちと一緒に貝殻や珊瑚を手にして遊んでいる様子が見開きいっぱいに描かれていた。
勇魚はその絵を見て、はっと息をついた。その海の底の情景を見て、自分も幼いころにあの神社の鎮守の森で遊んだことを思い出したからだった。幼いころの自分にとって、街の中にうっそうと茂った鎮守の森は、あたかも不思議がいっぱい詰まった、絵本の中のような世界に見えた。
勇魚はしばらく絵本のページを開いたまま考えこんでいたが、気を取り直して絵本を読み直した。ページをめくると、王子に恋した人魚姫が、足を手に入れるために海の底に住む魔法使いのもとを訪ねる場面が描かれていた。そのあやしげな魔法の薬やアイテムが並ぶ魔法使いの館を見て、勇魚は神社の奥の薄暗い、ひんやりとした冷気の漂う宝物庫を思い出していた。
勇魚の心の奥底で、自分でもよくわからない感情が渦を巻いていた。勇魚は立ち上がると、部屋の片隅の鏡台の前に来て、そっと引き出しを開いてみた。勇魚は自分が幼かったころ、この鏡台をのぞきこんで遊んだことや、引き出しに入っていた則子の化粧品でいたずらして叱られたことを思い出していた。
しかし引き出しの中に納められたアクセサリーやルージュ、ファンデーションやその他の化粧品を眺めているうちに、勇魚は今までは何とも思わなかったそれらのものが、まるで魔法使いの引き出しの中の不思議なアイテムのように思えてきた。勇魚は手を伸ばすと、パールピンクのルージュを回してそっとケースから出してみた。
ちょうどそのとき、ドアが開いて綾乃が戻ってきた。綾乃はあわてふためく勇魚を見て呆気にとられながらも、辺りを見回してその傍らに広げられた人魚姫の絵本に目を向けた。
「懐かしい。その絵本、私もよく読んだっけ」
綾乃は絵本を手に取ると、パラパラとめくってみた。
「…これまで人魚姫なんて、女の子の読むような話だと思ってたのに」
そう話す間も、勇魚は絶えず落ち着かなさそうにしていた。しかし綾乃は絵本から目を離すと、勇魚がルージュを手にしているのを見てにんまりとした笑顔を浮かべた。その視線に勇魚はぎくりとしたが、そのときはもう遅かった。綾乃がクローゼットからブラウスを取り出して勇魚の前で広げてみせたとき、勇魚はもはや逆らうことはできなかった。
綾乃がクローゼットから何着か服を取り出した中で、勇魚は特にカラフルな模様をあしらった一着のスカートに目をひきつけられていた。そのスカートは裾のフレアがまるで花びらのように斜めにカットされ、そこにはフリルの飾りがついていて、それがあたかも人魚の尾ひれのように見えた。
「あんた、それを選ぶなんてなかなか目が高いじゃない」
勇魚がすごすごと自室に戻って、体操服の短パンを取ってくると綾乃はこう言った。
「これじゃああまりにも色気がないわね。こんなこともあろうかと思って、早速これを用意してたのよ」
そう言って綾乃は、太ももの半ばまで隠れる程度のスポーツスパッツを取り出した。勇魚はジーンズを脱いでスパッツを腰まで上げると、これならスカートをはいても多少は気にならないかもしれないと思った。
「このスパッツなら、ミニじゃない限りスカートはいても外からは見えないしね」
トップも春らしい色合いのカットソーと薄手のセーターに着替え、スカートに腰を通して両足に膝下までのストッキングをはくと、マーメイドラインのスカートはヒップから裾のフレアへとなだらかなラインを描いていた。勇魚はあたかも自分が本当に人魚になって、下半身が尾ひれに変ったかのような気分になったまま、しばらく心の動揺をおさえることができなかった。
綾乃はそのような勇魚の姿を見て、声をかけていた。
「せっかくそうやって服着替えたんだから、どっか行って気晴らししない?」
「でも、引越の準備があるんじゃ…」
「どうせ今ここにいたってやらないんでしょ? だったらこうやって気分を切り替えた方がはかどるじゃない。私も支度するからちょっと外で待ってて」
勇魚は人魚姫の絵本を手にしたまま綾乃の部屋を出た。勇魚が再び絵本を広げてページをさらにめくってみると、そこにはきらびやかなドレスを身にまとって、王子とともにお城の舞踏会で踊っている人魚姫の姿が描かれていた。
──人魚姫は魔法使いから声とひきかえに人間の足を手に入れたが、一歩一歩歩くたびに刃物の上を歩くかのような痛みに耐えなければならなかった。しかしその軽やかでかわいらしい歩き方に王子たちはひきつけられた…。
このくだりを読んで、勇魚はいたたまれないものを感じて絵本を閉じてしまった。
勇魚は玄関に向かうと、則子や綾乃のパンプスやミュールをじっと眺めていた。
──なぜ女って、わざわざこんな歩きにくそうな靴はくんだろう。
そうしているうちに、綾乃が外出着に着替えて出てきた。綾乃は勇魚に、スニーカーを少々おしゃれにした感じの靴をすすめた。
「わざわざ無理して自分に合わない靴はくことないでしょ」
そして綾乃は勇魚を連れて家を出ると、勇魚を車の助手席に乗せた。
「大丈夫なの…姉ちゃん。この前免許取ったばっかりでまだ若葉マークなのに」
「がたがた言わないの」
「それにこの車、ここにちょっと傷があるけど」
「これはこないだ駐車場ですっちゃってさ。でも大丈夫だから」
勇魚は少々悪びれた綾乃の表情に一抹の不安を感じながらも、助手席に腰を下ろした。シートベルトをとめると、自分の身体が拘束されたかのような感じがして、思わず身体をこわばらせた。
綾乃がハンドルを握って車道に出ると、曲がるときにハンドルを荒っぽく切り返したり、急停車や急発進を繰り返したりしたので、そのたびに車内は大きく揺れた。道を間違えかけて交叉点のまん中でもたもたするわ、車線変更しようとしたら後続のトラックからクラクションを鳴らされるわ、ウインカーは出し忘れるわ、車の列に強引に割り込もうとするわで、勇魚は心臓が縮こまるような思いがした。それでもようやく市街地を抜けると、いつしか車窓に海が見えるようになった。
綾乃は砂浜のすぐそばの駐車場に車を入れた。そのときも駐車場にまっすぐ車を停めることができずに何度も切り返したが、ようやく車を停めたとき、勇魚はようやくほっと一息つくことができた。
「ふう、死ぬかと思った…」
げんなりした表情の勇魚を見て、綾乃も少々ばつが悪そうにしている。
勇魚がこれまでと同じような要領で車を降りようとすると、スカートに足を取られそうになった。綾乃はやれやれという表情をして、スカートで車を降りるときには、両足をそろえてそっと降りるようにと言った。
それでも松林を抜けて、白い砂浜の向こうに一面に海が広がるのを見ると、勇魚は緊張で閉ざされていた心が少しづつ解きほぐされていくのを感じた。夏場は海水浴客でにぎわうこの海岸も、季節外れの今は人気もなくがらんとしている。さざ波が寄せては返す波打ち際には、打ち上げられた流木のかけらや貝殻が散らばるのみで、それがかえって寂しい感じをつのらせていた。
しかし勇魚は、このような大きな空を眺めることができたのは、入院以来久しぶりのような気がした。その大きく広がる青い空や海を見ていると、勇魚は自分を取り巻く悩み事もしばらく忘れられるような気がした。
勇魚は靴とストッキングを脱いで素足で砂を踏みしめると、細かい砂が素足をなでる感触にあらためて息をつかされた。そして両足で砂を踏みしめながら波打ち際に向かおうとすると、海からの風にあおられてスカートがひるがえるのに少々気まずさを感じた。
やがて海が間近に迫ると、勇魚は靴を砂浜の上に置いたまま、体中に潮の香りを浴びて波打ち際めがけて駆け出した。この日は波も静かで、穏やかな早春の日ざしが照らす海辺には、ただ潮騒の音と、ときおりカモメの鳴き声が聞こえる程度だった。勇魚はそのままくるぶしを海水にひたしてみた。勇魚はスカートをはいてきたことがこんなところで役に立つなんてと、少し意外な気がした。
勇魚は海に足を踏み入れたときには、海水の冷たさにどきりとさせられた。しかし慣れてくると、波が自分のくるぶしをなで、素足の裏で波に砂が流される感触に心地よさを覚えていた。目を落とすと、自分の素足も澄んだ海水の中でゆらめいて見える。
それと同時に勇魚は、自分が現実に追われる中で、このような生きた感触を久しく忘れていたことにはっとさせられた。
──自分の見たものや触れたもの、感じたものに対して素直に感動できる…それには男も女もないだろ?
そして白い波頭に泡が立ち、その泡が七色に染まりながら消えていくのを見て、勇魚は人魚姫が王子をナイフで刺すことを拒んで、自ら海の泡となって消えたことを思い出した。波はそのような勇魚の心中などそ知らぬかのように、ただ寄せては返すのみだった。
勇魚は顔を上げて、水平線の彼方を見つめた。波頭ではまだ春浅い澄んだ日ざしが乱反射してキラキラと輝いていた。海の色は波がゆらめくたびに、濃淡の度合いや色合いを変えてさまざまな表情を見せた。勇魚が少し波打ち際を歩いてみると、ぬれた砂の上に自分の足跡が残るのが深く勇魚の心をとらえた。
ふと気がつくと、すぐそばに綾乃が来ていた。
「昔、夏休みに家族みんなでこの海岸に海水浴に来たことがあったよね。そのときのあんたはキャーキャー騒いで、海に飛び込んだり砂で山をつくったりしてさ」
「あのとき姉ちゃんは、貝殻を拾い集めたりもしてたよね」
勇魚は、キラキラ輝く水平線の彼方をじっと見つめながら言った。
「姉ちゃん…人魚姫ってたしか海の泡となって消えた後、天に上り空気の精になったんだよね」
綾乃は、勇魚の横顔を見つめながら言った。
「あんた、あの人魚姫のことをかわいそうだと思う?」
そう言われて、勇魚ははっと息をついた。
「人魚姫はしっかり自分の意志で生きようとした。そしてどんな苦しみのもとにあっても、自分が人間の足を手に入れたことを悔やんだりも、誰も他人を恨んだりもしなかった。それどころか自分の命を犠牲にしても、王子への愛と人魚としての誇りを貫き通した。これってとても強くて立派な生き方だと思うね」
勇魚が綾乃の顔をちらりと見ると、綾乃の長い髪が潮風にはためいていた。勇魚が綾乃の顔をそのままじっと眺めていると、綾乃は勇魚の肩をぽんと叩いてやった。
「あんたは声をなくしたわけでも、王子と結ばれないと海の泡になっちゃうわけでもないんでしょ? だったら自分の足でしっかり歩いていきな」
勇魚はしばらくその場にたたずんでいた。綾乃はそのような勇魚の肩をそっと抱くと、そろそろ家に戻ろうと言った。
「帰りもまたあの車に乗らなきゃいけないなんて」
しりごみする勇魚を見て、綾乃は少々むくれた表情をした。
「だったら歩いて帰る? ところで、家に帰る途中に今度引越すマンションがあるんだけど、ちょっと見ていかない?」
勇魚は胸いっぱいに潮風を吸い込むと、砂浜に落ちていた貝殻をひとつ拾ってポケットに忍ばせた。そして綾乃について駐車場へと向かった。
勇魚が綾乃の荒っぽい運転にきりきり舞いさせられているうちに、車は勇魚の家族の引越すマンションの前に着いていた。このマンションは駅から丘を上った閑静な住宅街の一角にある、なかなかおしゃれな感じのするマンションだった。
勇魚が綾乃と一緒にエレベーターで新居となる部屋のある階に上がり、手すり越しに景色を眺めていると、ブレザーにネクタイの制服をきちんと着こなしてメガネをかけた、自分と同い年くらいのおとなしそうな少年が、すぐ隣の部屋に入ろうとしているのに気がついた。向こう側も綾乃と勇魚の姿に気がついたかのようだった。
綾乃はさっそく少年に声をかけていた。
「私たちもうすぐこの部屋に引越すんだけど、そしたらお隣さんになるのね。これからよろしくね」
少年は綾乃に声をかけられると気恥ずかしそうにしながらも、はっきりとあいさつをした。
「はい…ぼくは湯川昇といいます。よろしくお願いします」
綾乃は勇魚に目をやると、「あんたもきちんとあいさつしなさい」と言った。勇魚はもじもじしながら口を開いた。
「あの…私…は瀬波勇魚といいます。『勇ましい魚』と書いて『いさな』と読むのだけど。今度明桜学園に入学する予定です」
「今度高校入るんだ。じゃあぼくと同い年だね。明桜ってなかなかのお嬢様学校じゃん。でも『いさな』って珍しい名前だね」
昇が屈託のない表情で答えても勇魚はもじもじするような表情をして、それ以上会話が続かなかった。綾乃はそのような勇魚の様子を、じれったそうに見た。
「もっとほかに言うことはないの? 変に身構えることなんかないのに。ところで湯川君だっけ、高校はどこなの?」
「…尚洋学園です」
「尚洋ってなかなかのお坊っちゃん学校じゃない。だったら高校受験なくてエスカレーターよね。私もバイトで家庭教師やってるけど、尚洋の入試って難しいわ。どうりで頭良さそうな顔してるじゃない」
勇魚も尚洋学園の名は、一流大学に多数の進学者を出している有名男子校として知っていた。自分には縁のない世界だと思っていた学校の名をこんな所で聞くなんてと思っていると、昇は照れ気味にそそくさとあいさつをして、自分の部屋に入っていった。勇魚は昇のいかにも秀才タイプといった感じの、柔和でおっとりした顔つきや誠実で礼儀正しい態度は、自分がこれまで中学で一緒にバカ騒ぎしてきた悪友たちとは違うと直感的に感じていた。
エレベーターで一階まで降りる途中、綾乃は勇魚の方を向きながら言った。
「あの昇君…けっこうあんたのこと気にしてたじゃん。ちょっぴり内気で気が弱そうなところがあるけどなかなか優しそうで、あんたともいい友達になれそうね」
「冗談はよしてくれ」
「あまり変に気を使わないで、自然にしてりゃいいじゃん。そうすりゃきっと向こうもわかってくれると思うから。でもさっき、あんたはあの男の子の前で自分のこと『オレ』じゃなくて、ちゃんと『私』って言ってたじゃない」
「そんなことどうだっていいだろ」
ニコニコした表情を浮かべる綾乃を前にして、勇魚は語調を強めていた。
再び勇魚が綾乃の運転にげんなりしながら家に帰ったころには、あたりに暮色が漂い始めていた。二人がしばらく居間で休んでいると、則子も外から帰って来た。
「勇魚、今日は女の子の服なんか着ちゃってどうしたの。でもその服、なかなかかわいいじゃない」
「いや、ちょっとね…」
勇魚は軽く返事をするしかなかった。
「この子が落ち込んでたみたいだったから、私が海までドライブに連れてったの。引越の準備はかどらなくて困っててさ」
綾乃が答えた途端、さっと則子の顔面から血が引いた。
「綾乃、あなたはまだ免許取ったばかりで運転慣れてないんだから、あまり遠くまで行かない方が…」
「あれは慣れてないとかそういうレベルの話じゃないよ。もう姉ちゃんの運転する車には絶対乗らないからな。あの車ももう少ししたらスクラップになってるよ」
「そう言えるということは、あんたも少しは気が晴れたってことじゃない」
「話をそらすなよ」
勇魚はそう言うなり、自分の部屋に戻ってしまった。
勇魚は自分の部屋のドアを閉めて一人になると、あらためて昇の表情を思い出した。そして勇魚は、もう一度自分の姿を鏡で映してみた。春らしい軽快な色合いのブラウスとカーディガン、フリルの飾りをあしらったカラフルなスカートは、たしかに勇魚の目にもかわいらしく映った。しかしだからこそ、勇魚は昇が先ほど自分に向けていた視線が気になっていた。
昇は勇魚が女だということに対して、何の疑いも持っていないに違いない。
──姉ちゃんはあんな調子のいいこと言ってたけど、もしかして自分はあの男の子をだましていることになるんじゃ…。
勇魚がカラフルなスカートをめくってみると、その下から黒いスポーツスパッツが姿を現した。勇魚はその様子を見て、そのまま膝をついて床にへたりこんでしまった。
ふとそこで、勇魚の目に人魚姫の絵本の表紙があらためて映った。勇魚はあらためて絵本を手に取ると、先ほどの綾乃の言葉を思い出していた。
──オレだって自分の気持ちを伝えられる言葉なんかないのかもしれない。…その点で人魚姫と一緒か。でもたとえ自分がどうなるとしても、そこから逃げたくはないから。どんな苦しいことがあっても、それに負けたくはないから。今はただ…この人魚姫のように、前に進んでいける勇気が欲しいから。
勇魚はあらためて、人魚姫の絵本を両手で抱きとめていた。
三月も半ばになると、日の光はかなり明るさを増してくる。しかしいろいろなものを取り外してがらんとした自分の部屋に、まだ早い春の陽気が深くさしこむと、見慣れたはずの自分の部屋がよりぽっかりと広くなったかのような感じがした。綾乃に言われてから、勇魚はようやく引越の準備にとりかかるようになっていた。
勇魚はクローゼットを開き、中に入っている衣類を取り出した。今の体型に合わない男物のトランクスは処分することにしたが、なんとか今でも着られるシャツやトレーナーはそのままにしておいた。ジーンズやズボンは今の体形には微妙に合わなくなっていて、特にヒップのあたりが窮屈なのが難点だったが、それらを買い替えると金だってバカにならないから、必要となれば綾乃のおさがりを譲ってもらって順次買いそろえていけばいいだろうと思った。なんとか服を整理すると、勇魚はこれからこのクローゼットにはどのような服が増えていくのだろうと思った。
戸棚の中を整理すると、「勇」が小学生のときに描いた絵が出てきた。その絵にはロボットや自動車を描いたものが多かったが、勇魚はそれを見て、もしも自分がはじめから女だったら、やはり赤やピンクのクレヨンを使って人形や花、マスコットの絵を描いていたのだろうかとふと考えていた。
ミニ四駆やプラモデルといった、「勇」が小さいときから持っていたおもちゃも、このさい処分してしまおうと思った。しかしそのときには、本当に男の子だった自分の過去と訣別するような気がして、一抹の寂しさを覚えずにいられなかった。
そのとき綾乃が戸を開けて勇の部屋に入ってきた。
「どう勇魚、準備はかどってる?」
「うん…何とかなりそう」
綾乃は捨てるものと持っていくものに振り分けられた勇魚の持ち物を眺めて言った。
「このプラモやカードゲームも捨てちゃうの? あんたあれだけ好きだったのに」
「うん…どっちみちもう子どもじゃないんだ。あとこのサッカーボール、小学校でサッカークラブに入ったとき父さんが買ってくれたんだっけ…あまりうまくはなれなかったけど」
「捨てることないじゃん。女だってサッカーやってる人は大勢いるよ。ところで、もちろんあれは置いてくんでしょうね」
「あれって何だよ」
「またー、にぶいんだから」
そう言うそばから綾乃は、ベッドの下をまさぐってヌードのグラビアが載った雑誌を取り出した。
「違うんだ姉ちゃん、それはクラスの友達のお兄ちゃんが買ったのをもらっただけで…」
勇魚はすっかりあわてふためいている。
「今のあんたにはこれはもう必要ないわね。さ、捨てた捨てた」
そう言いつつも綾乃は、雑誌のグラビアをパラパラめくって眺めている。
「あんた、こんな娘の写真見ながら喜んでたの? この娘は顔だってもろに整形してるし、確かに胸は大きいけど垂れてるし。おっきけりゃいいってもんでもないでしょ」
綾乃が呆れ顔でページを広げると、勇魚は困った表情を浮かべた。
「だから違うんだってば」
綾乃はなんとかして勇魚を落ち着かせて、部屋から立ち去ろうとした。しかしその間際、黙々と荷物の整理に向う勇魚の寂しげな後ろ姿が目についた。
「あんたねえ、なんだかんだ言ってるけど、あんたこそが男とか女とかそういうのにいちばんとらわれすぎてるんじゃない。もっと自然にしなよ」
「自然にって…どうすればいいんだよ」
「そんなにくよくよしてないで、もっと自分に自信を持ちなって」
しかしここで勇魚は綾乃に食ってかかった。
「『自分に自信を持て』…よくそんなことが言えるよ。オレはその『自分』というものが何かわからないから…何を信じていいかわからないから…こんなに苦しんでるのに」
そう言い残すと、勇魚は部屋の整理も放り出したまま自分の部屋を飛び出した。綾乃は勇魚を呼び止めようとしたが、そこで則子が彼女をとどめた。
「そっとしておきましょ。あの子だってきっとわかってると思うから」
綾乃も黙って則子の言に従った。
勇魚は家の門から外へと駆け出した。そして玄関前から続く街路の景色に目をやると、小さいころからなじんだこの街並とこんな形で別れることになるなんてと、あらためて胸をかきむしられるような思いがした。
そのときちょうど、下校途中の晃子が角を曲ってきた。卒業式を目前に控えて、学校が終るのも早くなっていたのだった。晃子も勇魚の姿を見て不安げに声をかけた。
「勇魚…ほんとに引越しちゃうの?」
そう言って晃子は勇魚の家の庭の方を向き直した。勇魚は晃子もいつの間にか、自分のことを「勇」ではなく「勇魚」と呼ぶようになっていることに気づいた。
「ああ。もうすぐトラックが来るんだ…でも引越といったって、電車だったら三十分かそこらで行けるから」
「卒業式には来るの?」
「卒業式はたしかあさってだよね」
そしてそのまま、勇魚は庭先をじっと見つめていた。
「ねえ晃子、夏の日にはこの庭でビニールプールに水をはって泳いだりもしたっけ。姉ちゃんやお前、栄介とも一緒になって。そしてその後では母さんがスイカを切ってくれたよね。そのまま縁側で口のまわりを汁で真っ赤にしながら、みんなでスイカをほおばったりもしたっけ」
晃子も勇魚の元気のない様子を見て声をかけてやった。
「もっと元気出してよ。…でも、ちょっと時間あるんだったら一緒に来ない?」
「でもオレ…あ、いや、私…部屋の整理だって終ってないし」
「そうやってグズグズしてるくらいなら、思いきって気分を切り替えてすかっとした方がいいでしょ。それに無理しないでも、あたしの前じゃ『オレ』でいいよ。あんたが無理して女言葉しゃべったって、かえってあんたらしくないし」
勇魚が晃子の屈託のなさに戸惑う間もなく、晃子は勇魚の手を引いて通りへと連れ出していた。
勇魚と晃子はこれまで通い慣れた中学への通学路を歩いていた。外は早春の強い風が吹いていて、まだ肌寒さを感じさせた。これまで何も意識することなく、黒い制服を着て友人たちと冗談をとばしあいながら毎日通った通学路ともあと少しで別れなければならないということに、勇魚はどうしても実感がわかなかった。
やがて錦ヶ丘中学の校門が見えてきた。勇魚は入院するまで毎日通っていたはずの学校が、自分にとって縁遠い場所になってしまったことを今さらのように感じていた。それでも勇魚と晃子が校門から足を踏み入れると、そこでばったり担任の先生に会った。
「瀬波じゃないか。それに石川も一緒か」
先生は一瞬目を丸くしながらも、そのまま勇魚を校舎に迎え入れた。ひととおり話がすむと、勇魚は先生や晃子と一緒に自分の教室へと向かった。勇魚はまだ同級生が校内に残っていないだろうかと気がかりだった。
放課後の校内は、運動部員の練習のかけ声が響いてくる以外、人気もなくがらんとしていた。教室の「勇」の席はそのまま残っていたが、机の中は空っぽになっていた。勇魚がこの席に腰を下ろすと、坐り慣れたはずの椅子がひどく冷たく感じられた。勇魚はそのまま、澄んだ光の深くさしこむ人気のない教室の中で、「勇」として過ごした日々をいろいろ思い出していた。
──授業を聞いたこと、休み時間に浩三やほかのクラスメイトたちとふざけあったこと、テストの結果に一喜一憂したこと、体育祭や文化祭…ときには先生に叱られたことや、ケンカをしたこともあったっけな。
教室の窓からはプールが見渡せた。そのプールは今となってはまったくの季節外れで、汚れた水面がまだ寒さの残る風に吹かれてさざ波を立て、日の光をにぶく反射させていた。プールサイドも全く人気がなく、砂ぼこりの舞うコンクリートの地肌がわびしさを感じさせていた。
勇魚はしばらくぼんやりとプールの水面を眺めていた。晃子も勇魚の寂しげな表情を直視することができなかった。勇魚は先生にたずねてみた。
「椎名はどうしてるんですか」
「たしかにスポーツ推薦で南隆には受かったとはいえ、テストの点はともかく、スポーツの腕と元気だけは人一倍の椎名がああまでしょげ返るとはねえ。これじゃあ高校入ってもうまくやっていけるか心配だよ」
先生はため息をつきながら答えた。勇魚はやはり浩三も自分のことを気にしているのかと思うと、気が重くなった。
そのとき、背後で戸が開く音がした。勇魚がぎくりとして後ろを振り向くと、そこには野沢美鶴の姿があった。美鶴は数日後の卒業式の準備のために、今まで学校に残っていたのだった。
「瀬波…君?」
しかし美鶴も、まずは勇魚の胸に目を向けた。そのときはいつも落ち着いた美鶴も、さすがに動揺しているのがわかった。晃子は観念して、美鶴に全てを打ち明けた。
晃子の話が終ってからも、美鶴は晃子の話が信じられないような表情をしていた。しかし目の前の勇魚の姿を見て、晃子の話を信じないわけにはいかないようだった。ようやく気持ちを落ち着けると、美鶴は声をあげた。
「瀬波君、いろいろ大変だったみたいだけどせめて卒業式には来てよ。たしかに瀬波君にとっては行きにくいかもしれないけど、椎名君だってクラスのみんなだって、心配してるんだから」
美鶴が話すのを黙って聞いていた先生も、勇魚に声をかけた。
「瀬波、みんなそう言ってるんだから、卒業式くらいは出たらどうだ」
勇魚は驚いて先生の顔を見た。
「お前は三年間この錦ヶ丘中学でみんなと一緒にやってきたんだろう? だったらきちんとけじめをつけた方がいいんじゃないのか」
「そうよ、そんなことなんか気にすることないじゃん。卒業式出ようよ」
先生の言葉に晃子が乗り気になっても、勇魚はためらい気味にしていた。
「制服だって全然サイズとか合わなくなっているし」
「服は別に制服でなくても、私服でも何でもいい。ともかくまだ時間はあるから、しっかり考えるんだな」
「先生…ありがとうございます」
そして勇魚は晃子と一緒に教室を後にした。
美鶴は勇魚に対して何か言いたげな表情をしていたが、晃子が勇魚をそっとしてやってほしいと言ったので、校門で二人と別れることにした。
勇魚と晃子は家へと戻る途中、小さな児童公園のそばを通りかかった。この公園では、「勇」と晃子も小さいころからよく遊んだものだった。
晃子は公園に入ると、さっそく遊具の上によじ登った。勇魚は晃子の下にまわりこんで、そこから上をのぞくようなポーズをとった。
「見えるぞ」
「バーカ。そんなこと言うなら、あんたも登っておいでよ」
晃子は舌を出しながら、制服のスカートの裾を手で押さえた。
勇魚も遊具の上に登ってみた。晃子の屈託のない表情は、おてんばだったころとちっとも変っていなかった。勇魚は晃子も自分を元気づけようと気を使っているのだということに気づいて、いささか気後れがした。
しばらく二人ではしゃいだ後、晃子は木陰のベンチに勇魚と二人で腰を下ろして空を見上げた。
「なんかこうやってると、こうやってこの公園で遊んだこととか思い出しちゃうよね」
そう言う晃子は、本当に童心に帰ったような表情をしていた。
「そんなこと言うなら、それこそ昔みたいにこのままのかっこで鉄棒でさか上がりやってみろよ」
「あんたこそあたしができるようになってからもさか上がりできなくて、さんざん居残り練習させられてたくせに」
晃子は膨れっ面になった。勇魚はその晃子の表情をまじまじと見つめていた。
「どうしたのよ。あたしの顔に何かついてる?」
勇魚は気まずそうに言った。
「晃子ってさ、小学校のころまではおてんばで乱暴だったのに、何か変ったよね」
そう言われると、晃子は急に神妙な面持ち
になった。
「…あたしはずっと女なんて損だと思ってたんだ。あたしの家は両親が共働きなのに、お母さんが仕事から帰って疲れていても、その上また家事とかやらなきゃいけないしさ。それにあたしが少し大きくなると、家のお手伝いとか栄介の世話とかするのはあたしの役目だったの。おまけに栄介とケンカしたときやいたずらしたときだって、『お姉ちゃんなんだから優しくしなさい』とか『もっとお行儀よくできないの』とか怒られるのはあたしの方ばっかりだったし、部屋散らかしたって栄介は何も言われないのに、あたしばっかりが怒られたし。ピアノのレッスンだってあまり好きじゃなかったんだ」
「晃子は小学校のときは『男女』とか言われてからかわれてたしね。女子高に入ったのはそのせいじゃない?」
そう言った後で勇魚は晃子のパンチが飛んでくるかもしれないと覚悟したが、今日の晃子は静かだった。
「…そうかもしれないね。服だってちっちゃいころはお母さんの買ってきたかわいいスカートなんかはいたりもしてたけど、小学校の三年くらいからは普段はいつもズボンばかりだったし。校庭で遊んだりするのにはズボンの方がいいとか思っているうちに、自分でも似合わないとか思ってきちゃってさ。お母さんは『晃子ったらせっかくかわいい服買ってきても、見向きもしないから張り合いないわ』とかぶつくさ言ってたけど」
勇魚はただじっと黙って晃子の話を聞いていた。
「…でも小学校も六年生になると、ませてる子なんかはおしゃれに気を使ったりするようになるし、友達どうしでしゃべってたって流行とか男子とかの話が多くなるし…あたしはそんなことより栄介やあんたとバカやってる方が楽しかったのに」
「でも晃子ってピアノの発表会行くときや、たまに家族でレストランに行くときはちゃんとよそ行きのワンピース着てたじゃん」
「そうよね。…あたしもほんとはわかってたんだ。自分は単に意地張ってただけだって。それにあたし、最近になって気づき始めたんだ。そうやって『女らしさ』に反撥してつっぱってるのもなんか違うって。友達なんかは、『彼氏でもできたんじゃないの?』とか言ってからかってたけどね」
「晃子に彼氏なんかいるのかよ」
勇魚がふき出しそうになるのを、晃子はいやそうな顔で見ていた。勇魚は気を取り直して言った。
「でもその意地っ張りで素直じゃないところも、晃子らしいといえば晃子らしいけどね」
「どういう意味よ」
晃子はむっとして言った。
「まあまあ…でも晃子はオレがこうなっても、心配していろいろ面倒見てくれたじゃん。それだけでも晃子は十分変ったと思うよ。でも…晃子はオレが知らない間にもいろいろ悩んだり考えたりしてたのに、オレはその間仲間とつるんでバカやってばかりいてさ。なんか恥ずかしいよ」
勇魚はあわてて話をとりつくろった。
「よしてよ。あんただってここのところいろいろ大変だったと思うけど、その分あんたは十分強くなれたと思うから。だいたいあんたが困ってたら助けてあげるのは当然でしょ?…それにあたし、最近よく考えるんだ。もし栄介があんたみたいにいきなり女の子になっちゃったら、綾乃お姉ちゃんみたいにできるのかなって。あたし…これまでずっと綾乃お姉ちゃんに憧れてたんだ」
「まじかよ…あんな性格きつい冷血鬼女に」
「綾乃お姉ちゃんって優しいじゃん。もし綾乃お姉ちゃんがいなかったら、あんたは今でもずっと部屋に閉じこもったままで、絶対こうしてあたしとも話できるようになってなかったと思うよ」
「優しい…どこがだよ」
「それに何より綾乃お姉ちゃんって、無理することなく『女』としての自分を自然に引き出してるし、それでいて決して他人に媚びたり自分の意志を曲げたりしない。あたしもピアノ習ってたけど、練習サボってばかりいたから綾乃お姉ちゃんみたいにうまくならなかったし、それにおしゃれしようとしたって、とても綾乃お姉ちゃんみたいにびしっときれいに決まらないし。せめて綾乃お姉ちゃんみたいになれれば、もっとおしゃれしても似合うようになると思うけど」
「なんかすごく勘違いしてるような気がするけど…でも気にするなよ。姉ちゃんだって晃子が言うほど大したものじゃないから。…教えてあげようか。姉ちゃんはこないだ車の免許取ったけど、姉ちゃんの運転はヘタクソなんてものじゃないよ。こないだ姉ちゃんの運転する車に乗ったけど、あのときは死ぬかと思ったね」
晃子は綾乃の意外な弱点を聞かされて、どこか戸惑ったような顔をしていた。
「だから晃子もそんなに人のことばかり気にするなよ。晃子には晃子の良さがあるって」
「そうやってお世辞を言えるようになるとは大したものよね。でも勇魚も『女だから』なんて気にしない方がいいよ。あたしみたいに十五年女をやってきたって、女とはとか自分らしさとはなんてさっぱりわかりゃしないんだから」
晃子がそう言うと説得力あるよな。ちょっと安心したよ」
「そういうこと言うってことは、あんたも口で言うほどには懲りてないってことよね」
晃子はむすっとしながら言った。
そのようにして二人でいろいろなことを話しているうちに、傾いた西日が公園の葉を落した木々の隙間からもれて、長い影を地面に落とすようになっていた。
「勇魚、そろそろ帰った方がいいんじゃない?」
「うん…晃子と話してて少しは気が楽になったよ」
「でも勇魚…さっき先生や美鶴も言ってたけど、あさっての卒業式には来てよ」
そう言われても勇魚は、表情にためらいの色を浮かべていた。そのような勇魚の姿を見て、晃子は思わず声をあげていた。
「あたし…あんたのそういうとこ見てると耐えられないんだもの。あんたって入院するまでは、水泳だって一生懸命がんばってたし、クラスのみんなとも悪ふざけばかりしてたとはいえ仲良くやってたし、それに…あんたのそういう一本気で裏表のない、さらっとしたところは好きだったのに」
黙って険しい表情を浮かべたままの勇魚に対して、晃子は語調を強めていた。
「あんたは何も悪いことしたわけじゃないんでしょ? あれだけのことがありながら、ちゃんと明桜に受かったんでしょ? だったらもっとしゃきっとしなよ。そりゃあんたとは比べられないけど…あたしだってはっきり言って、美鶴ほど成績だってよくないし、明桜みたいなお嬢様学校でちゃんとやってけるか不安なのに」
「わかった…わかったよ、晃子」
勇魚に言われて、ようやく晃子も落ち着きを取り戻した。
「勇魚…きついこと言っちゃってごめん。でもこんな形でみんなと別れたら、あんたにとってもみんなにとっても後味悪いじゃない」
「ありがとう、晃子…なんか話してて気が楽になったよ」
そして勇魚と晃子は、一緒に家の前まで並んで帰り、玄関先で別れた。
晃子が自分の家に戻ってからも、勇魚の頭からは晃子の表情が離れなかった。あの元気が取り柄に見えた晃子があんなに内心で悩んでいたなんてということが、今の勇魚の胸にひしひしと迫ってきた。
──オレはたしかに男から女になってしまって、いろいろ苦しい思いだってした。でもオレはそのことに逃げ込んで甘えすぎていたのかもしれない。悩んでるのは椎名だって晃子だって、みんな一緒なのに。
玄関のドアを開けると、綾乃が勇魚を出迎えた。そこで勇魚は晃子と会って話した内容をあらためて綾乃にも話した。
「そっか…晃子ちゃんもなんか無理してるところがあるって、私も気づいてたのよね。あんただったら晃子ちゃんとも仲良くできると思うから、いろいろ相手になってあげな」
「しかし晃子のやつ、姉ちゃんのことを『やさしくて女らしい』なんて言ってたもんな。それ聞いたときには思わずふき出しそうになったよ」
「あんたねえ…でも私だって自分の好きなようにやってるだけで、別に晃子ちゃんからあこがれられるほど大したことやってるつもりないけどね」
そこで勇魚は、神妙な面持ちになってぼそりと口を開いた。
「でも姉ちゃん…もしオレがこうして女になっていなかったら、いやもしはじめから女だったとしても、晃子はそこまで自分の心のうちを打ち明けてたかなあ」
綾乃は勇魚が自分のことを「オレ」と言うのにやれやれといった表情をしながらも、気を取り直すと少し顔を曇らせている勇魚にしんみりとした表情で話しかけた。
「…そうやって人の気持ちがわかるようになった、人のことを考えることができるようになったということは、あんたもそれだけ成長したってことよね」
「そうかなあ」
綾乃が笑顔を浮かべるのを見て、勇魚は気恥ずかしい思いがした。
「でもあんた、部屋の整理放り出して飛び出したりして、さっさとやっちゃいなさい」
勇魚はそそくさと自分の部屋に戻ると、先ほど久しぶりに見た学校の景色や先生の顔をあらためて思い出していた。そしてその次には、晃子の気の強い、どこか怒っているような顔が勇魚の心の奥に浮かんできた。
──あんたは何も悪いことしたわけじゃないんでしょ? あれだけのことがありながら、ちゃんと明桜に受かったんでしょ? だったらもっとしゃきっとしなよ。
勇魚はそこですっくと立ち上がり、海辺で拾った貝殻を取り出してじっと眺めてみた。そのうちに、綾乃の言葉が勇魚の脳裏に甦ってきた。
──人魚姫はしっかり自分の意志で生きようとした。そして自分が人間の足を手に入れたことを悔やんだりも、誰も他人を恨んだりもしなかった。それどころか自分の命を犠牲にしても、王子への愛と人魚としての誇りを貫き通した。これってとても強くて立派な生き方だと思うね。
勇魚は貝殻を手で強く握りしめた。そのうちに、勇魚の心の中にひとつの決意が芽生えていた。
──やはり卒業式には行こう。たとえそれがどんな結果になってもかまわない。…自分は自分なんだから。ありのままの自分を、これ以上隠すこともごまかすこともできないんだから。
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