勇魚(いさな)は退院してからというもの、自分の部屋の中で机に向かって問題集を解く日々が続いた。家族は勇魚がこんなに熱心に勉強するようになるなんてといぶかしんだが、学校にも行けず心にぽっかりと空洞をかかえたままの勇魚にしてみれば、何でもいいから目標となるものがほしかった。それに、このようにしてとりあえず問題集と向き合っていると、せめてもの間自分を取り巻くうっとうしい現実から逃れられるような気がした。
勇魚は学校の友達ともし顔を合わせたら、そしてそのとき自分の変ってしまった体を見られたらと思うと、外出さえはばかられるようになった。精神に不安定なものを抱えて落ち着きがないまま家の中に居坐り、あいかわらず寡黙なままの勇魚に対して、家族もどのように接していいのかわからなかった。勇魚の家庭には、あたかもどんよりとした暗雲がたれこめたかのような、重苦しい空気が流れていた。
勇魚はしばらく勉強の手を止めて、自分は今いったい何をしているんだろうと考えていた。どのような高校に進めばいいのか、入れる高校があったところでどのような学校生活を送ればいいのか…それを考えると気が重くなるばかりだった。
則子は勇魚のために二次募集がある高校の入学案内のパンフレットをいくつかもらってきていた。しかし勇魚がこのパンフレットを広げてみると、制服姿の女子高生がかわいらしい笑顔を浮かべて男子としゃべっている写真が大きく載っているのを見て身震いがした。
ここで勇魚は、「明桜に来れば」という晃子の言葉を思い出していた。明桜学園は歴史のある女子校で、パンフを見るとたしかに校舎もきれいで設備も行き届いている。勇魚にとって、確かに男子の視線を気にしなくてすむのはいいかもしれない、むしろまわりが女ばかりの世界というのもある意味楽しいかもという気持ちが一部にあったのも事実だった。しかしパンフのページをめくると、女子校らしく制服や小物の紹介にも力が入っている。そのブレザーにタータンチェックのスカートの制服は有名なデザイナーが手がけたというだけあって、おしゃれでセンスを感じさせるものだったが、その制服を着た女生徒の姿を見るのならともかく、自分がこの制服を着ている姿をイメージすることはできなかった。
もちろん勇魚自身も、いつまでも他人の目を避け続けるわけにはいかないということくらいは百も承知だった。しかし自分は何のために勉強しているのか、勉強した先に何があるのか──それをあらためて問われると勇魚も自信がなかった。
そんなある日、綾乃の携帯電話に晃子が電話をかけた。
「綾乃お姉ちゃん、勇…いや勇魚だっけ…は元気なの? 学校にも来ないから心配なんだけど」
「ああ、まだ自分で背中のホックをなかなかとめられなくて困ってるみたいだけど、それでもちゃんとブラだってつけてるし、ここんとこまじめに勉強してるけど…あの子もそれなりにふっきれたみたいね」
「でも二次の入試はもうすぐだよね。勉強も大変だけど、試験の面接はどうすればいいのかなあ」
「面接ねえ…確かにそれも頭が痛い問題だけど」
綾乃は携帯電話を握ったまま首をかしげた。
「あたしはだいたいどんなこときかれたかわかってるから、その点は教えてあげられないこともないけど」
綾乃は晃子に言われてしばらく考えた末、晃子に返事をした。
「晃子ちゃん、もし都合がよければ、今度の日曜家に来てくれない? あと家に持ってきてほしいものがあるの。くれぐれもあの子には言わないでね」
その「持ってきてほしいもの」の内容を綾乃にそっと耳打ちされて、晃子も受話器の向こうでうなづいた。
「でも…ほんとにそれでいいの?」
「確かにあの子にとっては少々きついかもしれないけど、いずれかは向き合わなきゃいけないことだわ。もしそれでダメだったら、また別のやり方を考えればいいだけの話よ」
日曜日が来た。雄一は釣り、則子はデパートに買い物に出かけて、家には勇魚と綾乃だけが残された。勇魚が勉強机に向かっていると、インターホンの鳴る音が聞こえた。しばらくして、綾乃と晃子が並んで勇魚の部屋に入ってきた。晃子は手に紙袋を持っている。
「何だよ姉ちゃん、それに晃子まで」
「あんた、入試の勉強はいいけど、面接のことは考えてる?」
綾乃にきかれて、勇魚はぎくりとした。
「そういうわけで、これから私がレクチャーしてあげようというわけ。晃子ちゃんも協力してくれるみたいだし」
「なんで晃子まで来るんだよ」
「あの、あたしは一応経験してるから、どんなこときかれるかもわかってるし」
晃子はそう言いながらも、どこか気詰まりな表情をしていた。しかし綾乃はそのそばから、椅子を持って来て向かい合わせに並べ、部屋を面接会場と同じようになるようにセッティングしている。勇魚が呆気にとられながら綾乃を見ていると、綾乃は晃子の持って来た紙袋を勇魚に手渡した。
「さ、これに着替えて」
勇魚は一瞬いやな予感がした。紙袋から中身を取り出してみると、案の定袋の中から出てきたのは、きちんと折り畳まれた紺色のセーラー服とプリーツスカート…つまり錦ヶ丘中学の女子制服一式だった。
「あの、これあたしの替えの制服なの。サイズが合わないなら、学校に相談して予備の制服を借りて来てあげるから。きちんと洗濯して返してくれればいいよ」
晃子に声をかけられても、勇魚は制服を手にしたまま硬直している。
「まさか…これを着ろというんじゃ…」
「当り前でしょ。あんた、いったいどういう恰好で入試受けに行くつもりだったの。着方わかんないんだったら教えてあげるよ」
「でもいくらなんでもここでやんなくたって…」
「今のうちにここで少しでも慣れておかないと、当日結果が出ないでしょ」
勇魚は手に持った制服と、綾乃と晃子の表情をまじまじと交互に見比べた。晃子は不安げな面持ちで勇魚を見ていたものの、綾乃はどうやら制服を着ない限りこの部屋から出してくれそうにない。
勇魚は観念して、部屋着代わりのスウェットスーツのシャツを脱いだ。綾乃はインナー代わりに勇魚が着ていたTシャツを見て、Tシャツはセーラー服の襟元からはみ出すから、キャミソールに着替えるようにと言った。勇魚がキャミソールに着替えた後、なんとか頭からセーラー服をかぶって袖に両腕を通し、胸元のホックをとめて脇のファスナーを下ろしたときには、セーラー服って変った着方するんだなと思った。
紺色のプリーツスカートを手に取って広げたときは、さすがに心拍数が高まって体がこわばるのを感じた。もちろん勇魚にとって、女になってから後もスカートに両足を通すのははじめての体験だ。綾乃は勇魚がスカートを手にしたまま固まっているのを見て、軽くため息をつきながら言った。
「まずはスウェットパンツの上からスカートをはいてみな」
勇魚はなんとかスカートに両足を通し、腰まで上げてはみたものの、どちらが前で、そしてどのようにしてホックをとめればいいのかまごついていた。すると綾乃がファスナーを上げてホックをとめ、スカートの丈を調節してくれた。次いで綾乃は、襟のスカーフの形を整えると、胸元でスカーフをとめた。
ひととおり着替えが終ってからも、勇魚ははじめてのセーラー服の着心地に戸惑っていた。もちろんこの制服を着た女子生徒の姿など、これまで学校でいやというほど見てきたが、いざ自分がこれを着る立場になると、空いた胸元や、腕を上げたときに裾からキャミソールがのぞくのにどきりとさせられた。
晃子はどこか複雑そうな表情を浮かべながら、勇魚をじっと眺めていたが、その一方で綾乃はにんまりとした表情を浮かべていた。
「なかなか似合ってるじゃん」
しかし綾乃は、そこでスカートの裾からスウェットパンツがはみ出しているのに目を向けると、勇魚にはっきりした口調で言った。
「スウェットパンツを脱いでみな」
勇魚は当惑した表情を浮かべながらも、スカートに手を入れてスウェットパンツをそろそろと下ろした。勇魚がようやくスウェットパンツを両足から引き抜くと、スカートの下であらわになった下半身の心もとなさのために、思わず両足を固く閉じ合わせてしまった。しかし勇魚はそこでまた、すべすべした太もも同士が触れ合う感触に戸惑いを覚えて、赤面したまま固まってしまった。
そこで綾乃が口を開いた。
「恥ずかしい? でもその『恥じらい』という感情があるからこそ、女はきちんとした身のこなしができるようになるものよ」
勇魚が心を落ち着ける間もなく、綾乃は勇魚にいったん部屋から出て、それからノックをして部屋に入るように言った。勇魚が両足を動かすだけでも、スカートの裾が膝をなでて外気が舞い込んできた。勇魚はその感触だけでも、なんともいえない落ち着かなさを感じずにはいられなかった。
勇魚がノックをすると綾乃の返事が返ってきたので、部屋に入ると綾乃が面接官になったつもりで、背筋を伸ばして椅子に腰掛けていた。そこで勇魚がいつもと同じ要領で綾乃の向かいの椅子に腰を下ろすと、スカートの裾が乱れてくしゃくしゃになった。その仕草を見て、綾乃はやっぱりとでも言いたげな表情を浮かべて椅子から立ち上がった。
「まあこんなこったろうと思ったわ。だから晃子ちゃんにわざわざ制服貸してもらったのに。スカートはいて椅子に坐るときには、こうやってお尻に手を当てて、そっと静かに腰を下ろすの」
勇魚は椅子に坐る動作だけで、何度もやり直しをさせられた。綾乃はそれが済むと今度は、勇魚に足をきちんと閉じて坐るように言った。そして勇魚が、スカートの中で両足を閉じ合わせてもじもじしているのもお構いなしに、綾乃は志望動機や将来の希望、中学時代に打ち込んだことなどをいろいろときいてきた。勇魚がそれに答えるたびに、綾乃の厳しいつっこみが入った。
面接の練習が終ったときには、勇魚は精神的にヘトヘトになっていた。綾乃はため息をつきながら言った。
「全然ダメだわ。あんたはただでさえ欠席数が多くて不利な面があるから、面接でかせがなきゃいけないのに。話の内容ももう少し練りこんだ方がいいけど、歩くときや坐るときなんか、もっとていねいにしなきゃだめでしょ。それに言葉づかいだってもっと気をつけなきゃ」
しかし勇魚は唇をかみしめて、じっと床を見つめているだけだった。
「姉ちゃん…オレ、これからずっとこういう恰好で学校通って、『女』としてふるまわなきゃいけないんだろうか」
そのような勇魚に対して、綾乃は突き放すように言った。
「そんなにいやだったら、受験も高校行くのもやめちゃえば? 無理して自分のいやな進路に行くことなんかないって、あれだけ言ったじゃない。高校行かなくたって進路なんかいくらでもあることだし」
「でも…姉ちゃんだって晃子だって、オレのことこんなに心配してるのに」
勇魚の言い訳がましい態度を見て、綾乃は語調を強めていた。
「この期に及んで、まだ自分をごまかし続けて、しかも私や晃子ちゃんのことを言い訳の口実にする気? そんなの関係ないじゃん。みんなあんた自身の問題でしょ。あんたがどんな選択をしようと勝手だけど、その結果を私のせいにされるのはいい迷惑以外の何物でもないけどね」
そこでこれまで黙って勇魚を見守っていた晃子が、いたたまれなくなって口を開いた。
「綾乃お姉ちゃん、ちょっと言い過ぎだよ」
そして晃子は勇魚を向き直して言った。
「勇もそんなに思いつめないでよ。あんたがそうやってるとこ見るの、なんかつらいよ」
しかし晃子に声をかけられても、勇魚は肩をすくめたままだった。
「晃子が同情してくれるのは嬉しいよ…。でもこれは姉ちゃんの言うとおり、オレ自身の問題なんだ」
晃子はそのときの勇魚の表情を、ただ困惑しながら黙って見守るしかなかった。勇魚は綾乃の方を向き直して、ためらいがちになりながらも言った。
「でも姉ちゃん…今は男らしく女らしくとかそんなんじゃなくて、性別にとらわれずにその人の個性を大切にして自分らしく生きようとか、そういうのじゃないのかよ」
しかし綾乃は、このような勇魚の言葉を一刀両断に切り捨てた。
「バカじゃないの? だったらそのあんたの個性や自分らしさって何なのよ。そんなものがそこらへんに転がってて、その通りにやってりゃ幸せな人生送れるようじゃ、人間誰も苦労なんかしないわよ。ちょっと来な」
そして綾乃は、勇魚と晃子を居間まで連れてくると、自らはピアノの蓋を開けてその前に腰を下ろした。そのまま綾乃は、ピアノ曲を何曲か淀みなく弾きこなしてみせた。勇魚と晃子は、ただ黙って立ちすくんだまま、そのピアノを聴いていた。
ピアノを一通り弾き終えた後、綾乃は勇魚と晃子を向き直して言った。
「こうやってピアノを自由に弾きこなせるようになろう、ピアノを通して自分の伝えたいことを思うがままに自由に伝えられるようになろうと思ったら、それこそきちんと楽譜を読めるようになって、音楽を何曲も聞き込んで、地道な練習をくたくたになるまで何度も繰り返さなければいけないのよ。私は小さいころはピアノの先生になりたいと思っていて、中学や高校でも音楽部でピアノを続けてコンクールで賞もとって、大学を選ぶときにも音大に行きたいという希望もあってかなり悩んだけど、本当にプロのピアニストになれる人なんて一握りしかいないからね。自由とか個性とか、自分らしさなんて言葉はね、そうやって一生懸命努力して、自分を否定されるような苦しい思いだってして、そこから自分は何をしなきゃいけないかしっかり考えて、そこから人に見せても恥ずかしくないような個性や自分らしさを身につけてから、はじめて口に出せるものよ」
そして綾乃は手のひらに力を入れて、ピアノの鍵盤をいきなり勢いよく叩いた。ピアノの鍵盤は、その場で騒々しい音を立てた。
「あんたが今言った個性とか自分らしさなんてものは、たとえてみればでたらめにキーを叩いて、自分が楽しければそれでいいと言ってるようなものよ。そんなものが音楽とは言えないし、あんただってそんなのを聴きたいとは思わないでしょ? 少なくともピアノの弾き方をマスターして、その上でうまくなるように努力しなければ、ほんとの自分らしさなんてわかるはずがないし、誰もあんたを認めてはくれないよ。私なんかからちょっとやそっと何か言われたくらいで押しつぶされるような、そんなつまんない自分らしさなんかにこだわるのはよしな」
勇魚が晃子の横顔をちらりと見ると、晃子も何か考え込んだような表情をして、黙ったまま綾乃の話を聞いていた。
さらに綾乃は言葉をついだ。
「もしあんたがほんとに女の恰好するのにどうしても耐えられないのなら、とっととこのセーラー服を脱いじゃいな。そしてこれから自分は何がしたいか、もう一度じっくり考え直すことね。あんたがこれから女子として高校を受験するか、それとも手術でもなんでもして男として生きようとするか、それはあんた自身が決めることだわ。もしそれがあんた自身の選択だというのなら、私ももう何も言わないから」
そこでこれまで綾乃の話を黙って聞いていた晃子も、勇魚を向き直して口を開いた。
「勇、あんたこれまで南隆に行こうと思って勉強がんばってきたんでしょ。それをこんなことでくじけちゃっていいの。それに…あんただって苦しいかもしれないけど、椎名君だって勇が学校来なくなってからすごく落ち込んでるのよ。勇のそんなとこ見たら、椎名君は余計落ち込むだけじゃない。もし勇がどうしても女の子として高校行きたくないならしょうがないけど、それでもなんか目標見つけなきゃ」
浩三の名を聞いたとき、勇魚は心の底に何か感じるものがあった。彼のことはずっと、勇魚の心の底にわだかまりとなって残っていたのだった。
「ねえ勇、がんばろうよ。そりゃあたしにはあんたの気持ちなんかわかんないかもしれないけど、それでも話し相手になることくらいはできるから」
勇魚はただ目を伏せていた。勇魚の心の中では、さまざまな思いが渦を巻いていた。
──今の気恥ずかしい思いから解放されるためには、ただ一言「いやだ」と言ってこのセーラー服を脱ぎ捨てるだけでいい。
しかしそこで、勇魚の脳裏に浩三や水泳部のメンバーたちの顔が浮かんだ。その仲間たちのことを思うと、勇魚はその「いやだ」の一言がどうしても言えなかった。そして勇魚は体をこわばらせたまましばらく考えた末、綾乃の顔を向き直しておもむろに口を開いた。
「姉ちゃん…オレは何のために中学で水泳部に入ったと思う? 水泳部も練習が大変だったときや、結果が伸びなかったりしたときにはやめようかとも思ったけど、それをなんとか乗り切っていけたおかげで、椎名やみんなとも仲良くなれたし、体だって丈夫になれて度胸もついたし。…このことを思い出したんだ。今の自分だってこの水泳部と一緒で、ここで逃げたら、強くなることだってできないし、今までやってきたことがなにもかもダメになりそうな気がするから…」
綾乃はしばらく考えた後に口を開いた。
「…なかなかいい根性してるじゃん。でもあまり根つめすぎないようにね。さっきも言ったように、高校がだめだって進路なんかいくらでもあるんだから、むしろそれくらいのつもりで気を楽に持った方がいいわよ」
ひととおり話も一段落して、勇魚はようやく一息つくことができた。
「で…もういいかげんこの恰好いいだろ」
勇魚はさっそくセーラー服の脇のファスナーに手をかけようとした。しかしまたそこで綾乃のストップがかかった。
「待ちな。面接受けるときには、もうちょっと立ち居振る舞いに気をつけないとね。そのためにはちゃんと慣れとかないと。それに、あんたがそうまで大見得を切った以上は、その覚悟とやらが本物かどうか試させてもらうわ」
綾乃は部屋を出ると、しばらくして自分の部屋から服を何着か持って戻ってきた。そしてその中から、制服に形の似たプリーツスカートを手に取って、勇魚の目の前で広げてみせた。
「今日から当分の間、これをはいて過ごすこと。いろいろチェック入れるからね」
勇魚はもじもじしながら、綾乃の表情とスカートを交互に見比べた。
「無理にとは言わないけど。そのかわり入試本番の時に落ち着かなくて実力が出なくてもあんたの責任だけどね。どうするかはあんた自身が決めることだわ」
そこまで言われると、もう後にひくことはできなかった。勇魚はごくりと生つばを飲み込むと、神妙な面持ちで言った。
「でも…スカートって足寒いんだけど」
「だったらこれはくとあったかくなるよ。ひっかけて伝線させないでね」
綾乃は勇魚に黒っぽいパンストを手渡した。勇魚がセーラー服を脱いで下着姿になると、綾乃がパンストを手繰ってはき方を教えてやった。勇魚が綾乃の手助けを借りながら、なんとかゆっくりとパンストを腰まで引き上げると、下半身全体をナイロンの薄い繊維で覆われる感触に思わず息をのんでしまった。
あらためて自分の下半身を見下ろすと、スレンダーな両脚は黒いパンストによってラインを引き締められ、そしてそのつややかな生地からは両脚の素肌が半ば透けて見えて、陰影がいっそう際立って見えた。勇魚はその両足が自分のものではなくなったかのような気がして、思わずパンストの中で足の指をこちょこちょと動かしてしまった。ショーツの上から腰の真ん中に通った一本の縫い目さえもが、勇魚の心をどぎまぎさせた。
そして勇魚は息をつく間もなく、綾乃によって淡いトーンのカシミアのセーターとプリーツスカートという恰好にさせられてしまった。
「あんた、こうしてみるとなかなかいけるじゃん」
綾乃が勇魚の肩をぽんと叩いてやっても、勇魚は気恥ずかしそうにしていた。晃子もそのような勇魚の姿を見ながら、何か複雑そうな表情をしてよそよそしげに口を開いた。
「勇…けっこうかわいいじゃん。スタイルだっていいし」
勇魚は赤面しながら、落ちつきなく自分の身のまわりをきょろきょろ見回している。
「髪の毛もそんなにぼさぼさにしてないで、もう少しきちんとした方がいいわね」
そして綾乃は勇魚を鏡台の前に坐らせた。勇魚は綾乃に髪をとかされる間、鏡の中に映る自分の姿が目に映らないように顔を伏せていたが、勇魚の髪は男の子だったころと比べて、デリケートさが増してブラシの通りがよくなっていた。綾乃にブラシで髪をとかされている間、勇魚は心の奥底までもがくすぐったくなるような感触がして、思わずスカートの中でパンストに覆われた両足をきゅっと閉じ合わせてしまった。
綾乃が勇魚の髪をとかし終わり、前髪にヘアピンをとめて勇魚の背後から離れると、鏡を見るのをためらっていた勇魚も、思いきって目を上げてみた。
しかし勇魚はもともと男の子だったころから目鼻が通っていてスマートな顔立ちだっただけに、ショートカットの髪型やどこかボーイッシュな雰囲気の漂う顔つきも、かえって今の服装を引き立たせているように見えた。やわらかなセーターの生地は両胸でふくよかな曲線を描き、膝丈よりも短いプリーツスカートは、黒いパンストで覆われたすらりとした両足とあいまって軽快な感じがした。勇魚は鏡で自らの姿を目の前にしても、気恥ずかしさを感じながらも、なぜかそこから目を離すことができなかった。
そのような勇魚の表情を見ると、綾乃はさっそく勇魚の手を引いた。
「さてお姫様のおめかしも終ったことだし、外でお披露目とでもいきますか」
「ちょっと待ってよ姉ちゃん、オレは勉強が…」
「一時間か二時間くらいいいでしょ。たまには息抜きも必要よ。どうせあんた、家にこもりっぱなしだったんでしょ? それから、私や晃子ちゃんと一緒にいるうちはいいけど、人前では言葉づかいにも気をつけなさい」
「だったらなんて言えばいえばいいんだよ」
「だから、『なんて言えばいいんだよ』じゃないでしょ。五つや六つの子どもじゃないんだから、そのくらい自分の頭で考えな」
そうして綾乃は、勇魚にハーフコートを着せて半ば強引に家の外へと連れ出した。外はすっきりと晴れ渡り、少し明るさを増した穏やかな陽射しは、春の訪れも遠くないことを思わせた。
家を出たところで、三人はちょうど向かいの家に住んでいるおばさんに出会った。勇魚はよりによって、しょっぱなから自分のこのような姿を見られるなんてと思った。
「綾乃ちゃん、この娘は誰?」
「い、いや…。この娘はうちの従姉妹で、ちょうど受験のために田舎から出てきて家に泊まってるんです」
綾乃はあわてて話をとりつくろった。
「でも勇君も病気で入院したとか言ってるけど大丈夫かしら。そういえばこの娘、勇君にそっくりね。やはり親戚よね」
勇魚はこうやって綾乃が話している間、気まずさのあまり一刻も早くこの場から逃げ出したくなった。おばさんと別れて街に向かってからも、特に中学の友人と顔を合わせたらと思うと、あたかも薄氷の上を歩くかのような気分になった。
ぽかぽかと照らしている陽気は春の気配を感じさせるとはいえ、二月の風はまだ冷たい。それに加えて、プリーツスカートがヒップや両脚の動きとともにひらひらと揺れて外気が舞い込んでくる。勇魚がなんともいえない落ちつかなさを感じて赤面するのを見て、晃子は不安げな表情を浮かべていた。
「勇…大丈夫なの?」
晃子にそう言われても、勇魚ははにかみながらしきりに手でヒップやスカートの裾を押さえている。
「やっぱりスカートって恥ずかしいよ…」
「でもそうやってちょっと恥ずかしがってるとこなんかも、なんか女の子っぽくてかわいいけど」
晃子にいたずらっぽい口調でそう言われると、勇魚はますます顔を赤らめた。
「バカ…何言ってんだよ、晃子」
その様子を見て、綾乃は勇魚に声をかけた。
「もっと顔を上げて、姿勢をよくして歩きな。そうすると自信だってついてくるから」
「でも…」
「まわりを見てごらん。誰もあんたのことを変だなんて思っちゃいないよ」
勇魚はとりわけ、街を歩いている若い男たちの表情を気にした。自分もほんの少し前までは見る方の立場だっただけに、彼らが自分に対してどのような視線を向けているか、彼らの視線は自分の体のどの辺りに集まっているのかはそれなりに理解できた。
──オレって…服を着替えただけでそんなにかわいく見えるんだろうか。
そう考えると、勇魚は胸が高鳴って頭に血が上るような感じがした。勇魚はいつしか小股でとぼとぼと歩くようになっていた。
「確かに乱暴にどたどた歩くのはよくないけど、もう少し身軽に落ちついて歩けるようになった方がいいわね」
綾乃に言われても、勇魚はスカートの裾を手で押さえて赤面したままだった。
「姉ちゃんこそそんなスカートだと足広げにくくない?」
綾乃は膝丈までのスカートを気にとめることもなく、ブーツの足音を歩道の敷石に響かせて足取りも軽く歩いている。
「むしろこれくらいの方が、ステップを意識して落ちついて歩けるようになるものよ。慣れればきちんとした身だしなみだって自然と身につくしね」
そこで勇魚はぼそりと口を開いた。
「姉ちゃん…。スカートなんて足広げにくいし、下スースーするし、女ってパンツ見られたらいやだとか痴漢にあうとか言ってるんだったら、なんでそんなものはくんだよ」
それに対して綾乃は、あくまですました態度を取っていた。
「動きやすけりゃいいんだったら、クマゴロウ(綾乃の在学当時から錦ヶ丘中学にいる体育教師のあだ名)みたいにいつもジャージ着てりゃいいでしょ。ま、私にしてみりゃズボンにばかりとらわれていて、さっそうとスカートひるがえして表歩く自由もない男の方がよっぽどかわいそうだと思うけどね」
勇魚はしばらくの間、綾乃のスカートが歩調に合わせて揺れるのをじっと眺めていた。 そこで勇魚があらためて晃子を見返すと、晃子もどこか気詰りな表情をしていた。その晃子は、ブルゾンに青いジーンズという快活な装いである。
「晃子だって人のことかわいいとかなんとか言ってるけど、学校の制服着てるとき以外はいつもジーパンばかりなのに」
「いいじゃん。あたしはジーパン好きなんだもの。言っとくけど、それなりにおしゃれには気を使ってるつもりだからね。…それに見てよ。綾乃お姉ちゃんは脚がすらっとしてるからいいけど、それに比べりゃあたしなんてダイコン足だから」
「確かにそうだよね」
「バカ」
そう言って晃子は勇魚を軽くひっぱたいた。
「晃子ちゃんはもっと自分に自信を持った方がいいと思うよ。そうすれば今までできなかったこともできるようになるから。そうやってしゃきっとしてたら、どんな服だって似合うようになるよ」
勇魚はこの綾乃のセリフを、あたかも自分のことを言っているかのように聞いていた。そして神妙そうな表情を浮かべて晃子の方を向き直すと、勇魚はいつしか自分と晃子との間に、妙に親近感を感じていた。
──オレももしかしたら、晃子と一緒なのかもしれない…。
そうこうしているうちに、三人は駅前の繁華街まで来ていた。勇魚は周囲の人の視線が自分に集まっているのではと思うと、足取りが重くなった。
ショッピングセンターに着くと、綾乃はさっそく店頭に並んだ服の品定めをしている。勇魚はそそくさとラフなシャツやジーンズが並べられた一角に向かったが、女物のパンツやジーンズをはいたところで、形によってはヒップや脚のラインが余計目立ってしまうと思うとため息が出た。
勇魚はそのまま買物客でにぎわうショッピングセンターの中をさまよい歩くうちに、いつしか女性向けの服の売り場のさなかまで来ていた。辺りを見渡すと、店内にはすでに春物の軽やかな色合いや柄の服が陳列され、女性客たちがそれらをを手に取って選んでいる。勇魚ははじめ、自分一人が場違いなところに足を踏み入れたような、その場から浮き上がったようなよそよそしさを覚えずにはいられなかった。
しかし勇魚はこのようにしてぼんやりと店頭のマネキンや棚に並べられた服を眺めているうちに、先ほどの綾乃の言葉を思い出していた。そして勇魚はこくりと息を飲んで、ハンガーにかけられた、花柄がプリントされたフレアスカートを手に取って広げてみた。それを眺めているうちに、勇魚はハーフコートの奥で胸が高鳴るのを感じて、パンストに覆われた両足をきゅっと閉じ合わせてしまった。
そのとき勇魚が背後に人の気配を感じて振り返ると、綾乃が晃子と並んで立っていた。晃子が不安げな表情を浮かべている傍らで、綾乃がニコニコしているのに勇魚はどきりとした。綾乃がスカートに合うような軽い色合いのブラウスを持ってきて、無言のまま試着室の方に目配せをすると、勇魚は困惑した表情を浮かべながらも、ここまでくるともうやけくそだと思って試着室に入った。
勇魚はためらいながらも試着室の中で服を着替えようとすると、ブラウスのボタンの合わせが男物のシャツと逆になっている点にも戸惑いを感じた。そして何とか着替えが終ってからも、胸の高鳴りを感じながらしばらく目を伏せていた。しかし覚悟を決めて、そっと目を上げて試着室の大きな鏡と向き合うと、勇魚は先ほどまでとも違う、自分自身の今まで見たこともないような姿にただどぎまぎした。ロングスカートの花柄をあしらった生地は勇魚の下半身をふんわりと覆い、少し歩いてみただけでその生地が歩幅に合わせてそっと揺れた。
勇魚はためらいながらもそっと試着室のカーテンを開けた。晃子は勇魚の姿に両目を大きく見開いて、戸惑いの表情を浮かべていたが、綾乃は自分の目に狂いはなかったとでも言いたげだった。
「どう? 同じスカートといってもさっきまでとは全然感じが違うでしょ。こういうかっこすると、なんかしっとりと落ち着いた気分になってこない?」
勇魚はそっと、スカートの生地を手に取ってみた。花柄のフレアがそっと下半身全体に広がるのを見て、勇魚ははっと胸をつくような気持ちになった。
勇魚がそのままたたずんでいると、綾乃は膝丈まであるデニムのスカートを示してみせた。トップもそれに合うようなラフなシャツに着替えさせると、勇魚はさっきまでと比べて多少ボーイッシュな服装に、少しは息をつけるような感じがした。しかしデニムのスカートから膝小僧がのぞくのを見ると、いつものジーンズとは違った開放感に戸惑いを感じずにはいられなかった。
そのような勇魚の表情を見て、綾乃は晃子にもきいてみた。
「晃子ちゃんも服選んでみる?」
晃子は照れくさそうな顔をして首を横に振った。勇魚が試着室で元の服に着替えると、綾乃は勇魚が着た服を何点かレジまで持っていった。勇魚はそれをただ複雑そうな面持ちで眺めていた。
勇魚たちはショッピングセンターを後にして、ハンバーガーショップに入った。勇魚はやっと一息つけると思って椅子に腰を下ろそうとしたが、そこでまた綾乃のチェックが入ったことは言う間でもない。
「なんか疲れた…。こうやって外歩いている間も、みんなが自分のこと見ているような気がして落ちつかなかったよ」
「勇、ちょっと気にしすぎよ。こうやって見てても、全然変じゃないってば」
晃子に言われても、勇魚は絶えず落ち着きのない表情で、自分の周りのテーブルに目を配っている。
「そうやって落ち着きなくしてるから、かえって目立つのよ。もっとリラックスすればいいのに」
「だったら晃子、もし自分がいきなり男になったらどんな気持ちするか想像してみろよ」
そう言われて晃子は黙ってしまった。
「そういう晃子こそ、小学校卒業する前は制服でスカートはくのいやだとか言ってたくせに。あれは三年前、ちょうど今ごろの季節のころだったっけ」
そのように言われて、晃子は顔を赤らめてもじもじしていた。
「もう…昔の話じゃん」
──小学六年生も三学期になって、いよいよ中学への進学も目前という時期になると、休み時間の話題も進学や、中学生活のことが多くなる。しかし卒業式が迫るにつれて、晃子はなにか浮かない表情をしていた。
そんなある日、晃子は教室でクラスの仲のよい女子たちとおしゃべりをしていた。勇がその様子を立ち聞きしてみると、話題が中学の制服の話になったとき、晃子は中学に入学すると制服でスカートをはかなければいけないのがいやだとぼそりと言った。まわりの女子たちから「アッコってスカートはいてもかわいいと思うよ」と言われても、晃子はどこか気恥ずかしそうな表情をしていた。
たしかに活発で気の強い晃子は、小学校でもいつもズボンで通していた。下校の途中、勇は家の前で晃子とばったり出会ったので、思いきって先ほどの話をしてみた。晃子は「女の子の話を立ち聞きするなんてサイテー」と怒っていたが、それでも勇は晃子にこう言ってみた。
「晃子、こないだ家族でレストランに行くときにはちゃんとスカートはいてたのに。あのときの晃子はけっこうかわいかったよ」
「その『案外』ってどういう意味よ。だいたい、あたしはその『女だからスカート』というのがいやなの」
「でも中学入ったら制服なんだからしょうがないだろ」
「そんなこと言うんだったら、あんたこそスカートはいてかけっことかやってみなよ。それに男子にパンツとか見られそうだもの」
「足開いて坐るから悪いんだろ。だいたい晃子のパンツなんか誰が見るかよ。そんなだと男子にもてないぞ」
「あんたこそ女子にもてるようになってからそういうこと言いなよ」
そうやって玄関の前で二人が言い争っていると、当時高校一年生だった綾乃も学校から帰ってきた。晃子は綾乃の、制服の上にコートを着た姿を見ると、またため息をついていた。
綾乃はだいたいの話を黙って聞くと、勇と晃子に向かってこう言った。
「勇、女の子には男の子にはわからないいろいろな問題があるのよ。それに気づかないようなデリカシーのない男の子は女の子に嫌われるよ。でも晃子ちゃん、私は元気でおてんばなところが晃子ちゃんのいいところだと思うし、そういうところはこれからも大切にしてほしいわ。でもそれに加えてスカートもはけるようになったら、また晃子ちゃんの魅力が広がるんじゃない?」
そう言われて晃子は、少し考えこむような表情をしていた。勇が綾乃になだめられて自分達の家に入ってからも、しばらくの間脳裏からその晃子の表情が離れなかった。
翌朝勇が自宅を出ると、ちょうど隣の家からも晃子が出てきた。しかしそのときの晃子は、ジーンズの上にチェックのプリーツスカートを重ね着していた。
「変なかっこ」
「最近こうやって重ね着してる人だっているんだからね。それに今の季節は寒いんだもの。少しは寒い中スカートで通う女の子の身にもなってよね」
「晃子は夏の暑い中でもズボンばかりはいてるくせに」
勇と晃子が学校に着いて、晃子がジャンパーを脱ぐと、トップもかわいらしい柄のブラウスとセーターを着ていた。クラスの女子たちははじめ晃子のいでたちに驚きの目を向けたが、次の瞬間には「似合うじゃん」「かわいいよ」、さらには「ジーパン脱いでみたら」と口々に言った。晃子はその中で照れくさそうにしていた。
その日は午前中に体育の授業があった。授業が終って勇が着替えを済ませてからも、晃子はなかなか教室に戻ってこなかった。勇がどうしたんだろうといぶかしんでいると、ようやく休み時間が終る間際になって晃子が教室に戻ってきた。しかしそのときの晃子は、ジーンズを体操服と一緒に手に持って、プリーツスカートからはソックスをはいた足が伸びていた。晃子は周りの友達がニコニコしているそばで、どこか恥ずかしそうにしながら自分の席についた。勇がそのような晃子のいでたちに目を丸くする間もなく、すぐに授業開始を告げるチャイムが鳴った。
授業の間も、勇は晃子の方にちらりちらりと目を向けていた。晃子はそのような勇魚の視線を感じると、机の下でスカートの裾を押さえて勇をにらみつけた。
授業が終って休み時間になると、晃子は勇にさっそく文句を言いに行った。
「そんなに変? 着替える時間なかったからジーパンはかなかっただけじゃん。スカートはいても似合うって言ったの、あんたでしょ」
「そんなに怒ることないだろ。やっぱり晃子もこうしてみるとけっこうかわいいのに」
勇がそう言った瞬間、晃子のまわりの女子たちが歓声をあげた。それには勇と晃子もさすがに顔を赤らめた。
そのときクラスの悪ガキ数人が、晃子をからかうようなことを言ってきた。
「男女が女装してる」
しかしそこで勇は、「そんなこと言うことないだろ」と悪ガキに食ってかかった。そこで悪ガキががまた勇を冷やかすと、晃子が「あんなの気にすることないじゃん」と言って勇の腕を引いたので、なんとかその場はおさまった。
下校の時間、西日の差し込む学校の玄関で、勇が靴をはきかえていると、晃子がためらい気味の表情で声をかけてきた。
「勇、さっきはありがとう。でもなぜさっき、あたしをかばってくれたの?」
「オレだって晃子にスカートはいたら似合うと言ったんだから、少しは責任あるだろ」
勇の態度に晃子はますます戸惑っていた。
「あんな連中、いちいち相手にしないでもいいのに。でも…あんな態度を取るなんて、あんたも少しは男らしくなったじゃん」
「お前、自分は女らしくするのいやだとか言っといて、人に向かっては男らしくしろと言うのかよ」
そう言われて晃子は、一瞬困った表情を浮かべて答えに窮していたが、しばらくして笑みを浮かべて言った。
「その通りよね。中学になったら、もう今までみたいにわがままばかり言ってられないもんね」
そのときの晃子のふっきれたような顔は、冬のやわらかな西日を浴びて明るく輝いているように見えた。そして、晃子の背負っていたランドセルの赤い色がひときわ勇の目をひきつけた。足取りも軽く校舎を出る晃子の足元には、夕焼けの中に影が長く伸びていた。勇はその影をしばらくじっと眺めながら、これまで幼なじみでいつも身近に感じていた晃子の方が、自分よりもいつの間にか前を歩いているように感じていた。
「…あの日は家に帰ってからも、栄介にさんざん冷やかされたんだ。そのまま栄介とケンカしていたところにお母さんが仕事から戻ってきたら、『晃子ももうすぐ中学生という歳になって、ようやくしゃれっ気が出たわね』と喜ぶしと、いろいろ大変だったけど」
晃子はどこかふて腐れた顔をしていた。綾乃はそのような二人の様子をニコニコしながら見守っていた。そのような綾乃の顔を見て、勇魚は不機嫌そうな顔をしながら言った。
「姉ちゃんったら、オレと晃子とでは全然態度が違うじゃないか。だいたいオレは着せ替え人形じゃないんだぞ」
そのような勇魚の態度を前にしても、綾乃はすました表情をしていた。
「あら。その割にはさっき服を着替えていた間も、いやそうな表情してなかったけど。これであんたも少しは、女の子のおしゃれするときの楽しみがわかったんじゃないの?」
「何言ってるんだよ」
「女の子の服って、ボーイッシュなものからかわいいものまで、色も形もいっぱいあるでしょ? そりゃ私もパンツでかっこよく決めたくなるときだってあるけど、おしゃれなスカートをはいてみたときにはそれだけで気持ちがウキウキしてくるし、おしとやかな感じの服を着ると優しくてしっとりとした気持ちになる。それこそが女の特権というものよ」
勇魚がちらりと晃子の横顔に目をやると、晃子も黙ったままどこか複雑そうな表情をしていた。
「あのね、さっきあんたはずっと自分が人からどう見られてるか気になったって言ってたよね。でも女っていうのは、常に『人から見られてる』ということを意識することによって自分に磨きをかけていくものなのよ。最初はどうすればいいか迷うことだってあるかもしれないけど、そうするうちに自分らしいスタイルだって見えてくるしね」
「自分らしいスタイルって…」
黙りこくったままの勇魚の顔を見て、晃子は心配そうに口をはさんだ。
「でも何かもったいないよね。勇…いや勇魚ってこうして見ると顔だって悪くないし、スタイルも抜群だし、脚だってきれいなのに」
そう言いながら、晃子は勇魚のセーターの下でふくよかに盛り上がったふたつの胸に視線を合わせた。
「どこ見て言ってんだよ。セクハラオヤジじゃあるまいし」
勇魚はあわてて両手で胸を隠すようなポーズを取った。
「でもさっき、晃子の制服着たとき胸のところが窮屈だったぞ」
「…バーカ。そっちの方がよっぽどセクハラだよ」
晃子は勇魚の頭をこづいた。綾乃は半ば呆れ顔でその二人を見ていたが、晃子は笑顔を浮かべると、勇魚を向き直して言った。
「でも勇がそんなにスリムでひきしまった体してるのは、水泳やって体鍛えてたおかげよね」
そう言われて勇魚は一瞬意表をつかれた気がした。
「女の子になっても、そしてスカートはいてても、やっぱりあんたは勇だよ。その一言多いとこなんかもね」
晃子のあっけらかんとした表情に、勇魚はいささか照れくさい思いがした。晃子と勇魚のやりとりを見て、綾乃もいつしか笑顔を浮かべていた。
勇魚は自宅に戻る途中、自分の身の回りを見る視点が明らかにこれまでとは違っていることに気がついた。特にスカートの丈をつめてミニにした女子高生や、おしゃれに装った女性を見ると、ついそちらに目が行ってしまうのだ。勇魚は自分が男だったときにもそんなことはなかったのにと思うと、あらためて胸の中で動揺を隠せなかった。
みんなで自宅の門の前まで戻ると、晃子は勇魚の姿をちらりと見て、何か複雑そうな表情を浮かべながら、あいさつもそこそこに家の中に入っていった。
勇魚がなんとか自室に戻り、勉強机に向かって雑念を振り払おうとしても、先ほどはじめて「女」として外出したとき、そして店の中でいろいろ服を着替えてみたときの余韻が心から抜けず、気持ちを落ち着けることができなかった。問題集に視線を集中しようとしても、意識はどうしても机の下のスカートや両足へと向かってしまう。そして心もとなさを感じて両足を固く閉ざすたびに、ナイロンの薄くてデリケートな繊維ごしに両足が触れあった。そうなると心の奥底までくすぐられるような心地がして、とても勉強どころではなかった。
勇魚はこれじゃだめだと思って、勉強を放り出してベッドに身を投げ出した。そしてそのままの体勢で天井をぼんやりと眺めながら、自分は今日一日いったい何をやっているんだろうと考えていた。
しかし勇魚はそうしているうちに、先ほどの晃子の表情を思い出していた。
──女の子になっても、そしてスカートはいてても、やっぱりあんたは勇だよ。
そこから勇魚は、これまで自分の記憶に残っていた、元気でおてんばな反面、少々意地っ張りで気が強い晃子の姿をいろいろ思い浮かべていた。勇魚にとって、晃子は自分が男だったころに比べて、より自然に屈託なく自分に対してふるまっているように見えた。
──晃子…やっぱりオレのことを「女」として認識しているのだろうか。でも晃子がオレに対して妙に優しいのは、やはりあのときのことを覚えているからなのかな…。
勇魚は自分自身ですら、今何を考えているのかわからなくなっていた。たしかに勇魚は、自分の身体が女になってから後も、スカートなんか意地でもはくものかと思っていた。しかし実際に今日一日を振り返ると、勇魚はスカートをはくどころか、その恰好のままで表を歩くこともできた。
──考えてみりゃ当り前の話だよな…。スカートはいたからって別に死ぬわけじゃないんだし。
勇魚はあらためてベッドから身を起こし、身のまわりを見回した。しかし綾乃に貸してもらったプリーツスカートがベッドのシーツの上に花びらのように広がっているのを見たとき、勇魚は自分の中で何かが動き出すのを感じていた。勇魚がセーターのやわらかな生地の上からそっと胸に手を当てると、心臓が大きく波打つのが感じられた。
そこで勇魚は、先ほどの綾乃の言葉をあらためて思い出していた。
──ま、私にしてみりゃズボンにばかりとらわれていて、さっそうとスカートひるがえして表歩く自由もない男の方がよっぽどかわいそうだと思うけどね。
たしかに今までの勇魚は、目の前に大きな壁が立ちふさがったかのような気がして、その壁の前で戸惑っていた。しかし今日一日の、男だったころには想像すらできなかった体験によって、自分はその壁を越えられないとただ自分で思い込んでいただけではないかと思い始めていた。
勇魚はもはやじっとしていることはできなかった。部屋の中でくよくよ悩んでばかりいるわけにはいかない、ともかく少しでもいいから何か前に踏み出さなければならないという強い思いが心の奥で芽生え始めていた。こうなると、勇魚はこれまで自分を縛り付ける鎖のように思っていた女物の服ですら、一方では自分の心をがんじがらめにしていた呪縛から解き放ってくれる鍵でもあるかのようにも感じ始めていた。そして勇魚は、その矛盾した感情の狭間でただ戸惑っていた。
それと同じころ、晃子も自分の部屋の中にたたずんだまま、あらためて自分の記憶の中にある勇のことを思い出していた。
──あたしは勇とは小さいころからしょっちゅう一緒に遊んでいた。勇と一緒にいたずらや悪ふざけをして、叱られたことだってしょっちゅうあったっけ。勇は小さなころはあんなに元気だったし、性格に裏表がなくて素直なところは好きだったのに…。
晃子は勇魚のことを考えているうちに、あらためて切ない気持ちになった。そして晃子は、今度は綾乃のことを思い出していた。
──あたしは小さなころから、何をやっても綾乃お姉ちゃんにはかなわなかった。綾乃お姉ちゃんはいつも優しくて親切で、四歳年下のあたしに対しても遊び相手になってくれた。それだけでなく、おしゃれの仕方や料理や、そのほかにもいろいろなことを教えてくれたし、相談相手になったりもしてくれた。うちのお母さんったら、何かにつけてこう言うんだもの。
──晃子、またピアノの練習サボって。綾乃お姉ちゃんみたいになりたいから、自分もピアノ習いたいと言ったのは晃子でしょ。
──晃子、栄介とケンカばかりするんじゃないの。お姉ちゃんなんだからもうちょっと優しくしてあげなきゃダメでしょ。綾乃お姉ちゃんはあんなに素直で気立てがよくて、勇君に対しても優しいのに。
──そのうちにあたしは、綾乃お姉ちゃんのおしゃれでかわいく装った髪型や服に対しても、自分はあんなの似合わないと引け目を感じるようになっていた。…別にそういうかっこするのがいやだったわけじゃないのに。綾乃お姉ちゃんは無理しないでもあんなに自然に女らしくできるのに、あたしはいったいどうしたいんだろう…。
そこで晃子は深くため息をついた。しかしここで晃子は、あらためて先ほどの勇魚の姿の変り方や、そのような勇魚に対する綾乃の態度、そして少々戸惑い気味の勇魚の表情を思い出すと、自分自身もかすかに胸の高鳴りを覚えていた。
そこで晃子は、クローゼットから柔らかい色合いのブラウスとカーディガン、フリルのついたロングスカートを取り出してみた。そして今まで着ていたシャツやジーンズから着替えて、身なりを整えると、自分の姿を鏡で見て、あらためてため息をついた。しかしそこで晃子は覚悟を決めると、自分の部屋を後にした。ちょうど玄関口で栄介と鉢合わせになると、栄介は珍しいものでも見るような表情で呆気にとられていたが、晃子はそんなことなどお構いなしに隣の勇魚の家に向かった。
晃子が勇魚の家のインターホンを鳴らすと、ちょうど買物から帰ってきたばかりの則子が玄関口で晃子を出迎えた。
「まあ晃子ちゃん、今日はおめかししちゃってどうしたの」
その声は勇魚の部屋まで聞こえてきた。勇魚がどきりとする間もなく、部屋のドアが開いて綾乃が入ってきた。
「ちょっとあんた、勉強もしないで何やってるの」
綾乃は半ば呆れかけた表情をしていた。そしてその傍らには、晃子がどこか心配そうな表情をしながら立っていた。しかしさっきまでとはうって変った晃子のいでたちに、勇魚はあらためて目を見開いた。
「晃子…その恰好は何」
「あたしだってかわいい服くらい持ってるんだからね。おしゃれができるのは女の子の特権だって、綾乃お姉ちゃんも言ってたでしょ。家帰ってからもずっと心配だったから、こうしてあんたのとこまで来たのに、そんな言い方はないじゃない」
晃子はどこか不満そうな表情をしていた。しかし勇魚はここで、まじまじと綾乃と晃子の顔を見つめて言った。
「姉ちゃん、晃子、オレ…やっぱり明桜に行くことにしたよ」
綾乃はじっと黙ったまま勇魚の顔を見つめていた。さらに勇魚は話を継いだ。
「姉ちゃん…オレはグズで弱虫で、そのために学校でもさんざんバカにされたり、父さんに叱られたりしてきた。だからずっと強くなりたい、強くならなければいけないと思っていた。…でも今になってわかったんだ。ほんとうの強さってものは、自分から目をそらさずにしっかり見つめることができることだって。オレが退院してからずっと勉強してたのだって、ほんとは目の前の現実から目をそむけて、そのような自分をごまかすためだったんだ。…もうこんなまねはしたくないんだ。…今日だってこの恰好で表を歩いたときには、はじめは恥ずかしくてたまらなかったけど、こうしてみるとそこまでやれたんだから、あとは何だってできるような気がするんだ。今日もし姉ちゃんがオレをこうさせてくれなかったら、そして晃子もオレのそばについていてくれなかったら、ずっとこのまま自分の部屋の中に閉じこもってるしかなかったから…」
その言葉を聞いて、晃子は表情をほころばせた。
「よかったよ、勇…入試のこととかで心配なこととかあったら相談してよ」
「ありがとう、晃子…晃子のおかげで少しふっきれることができたよ」
晃子にそっと手を握られて、勇魚は少し瞳をうるませていた。綾乃もその様子をしばらくじっと見つめた後で、深くうなづいた。
「…わかったわ。でもそう言うんだったら、やっぱり勉強しなきゃね」
そして綾乃は勇魚を勉強机に向かわせた。しかし勇魚が問題集を解きはじめてからも、綾乃は勇魚の勉強机のそばを離れようとせず、椅子に腰かけたままファッション雑誌を広げている。そして晃子も、綾乃のそばに控えていた。
「なんだよ姉ちゃん」
「一人になったらまた変なことしそうだから監視してるの」
「余計気が散るだろ」
「なんだかんだ言って結局勉強しないんでしょ。それじゃあ明桜受からないよ」
「晃子までオレの部屋にいることないだろ」
「勇、勉強わかんないとこあったら教えてあげるよ」
「晃子のやつ、ちょっと自分は入試終ったからといって余裕こいてるんだから」
晃子の悪びれない様子を見て、勇魚はやれやれと息をついた。勇魚は勉強中に慣れない服装に落ち着かなさを感じるのに加えて、普段よりもかわいらしく装った晃子の姿に対しても、勇魚は勉強の合間にちらちら目を向けずにはいられなかった。しかし傍らにいる綾乃や晃子の視線を感じると、問題集に目を向けざるを得なかった。
そしてようやく勇魚が問題集を解き終るころには、冬の日もとっぷりと暮れて外は暗くなっていた。勇魚は普段の勉強のときより何倍もの気力を消費したような気がして、精神的にヘトヘトになっていた。綾乃は問題の答え合わせの結果を見ながら言った。
「よくがんばったじゃん。明桜受かるためにはもう一息だけどね。でも少し休んだ方がいいわね。そろそろ夕ごはんだし」
そして綾乃は、勇魚の背をそっと押して居間へと向かった。
セーターにスカートといういでたちで居間に現れた勇魚の姿に、雄一と則子も目を丸くした。複雑そうな表情を浮かべてむっつりしたままの雄一はともかく、則子が嬉しそうな表情をしているのに勇魚はどきりとした。そして綾乃が勇魚を先ほど買ってきた服に着替えさせると、則子はまたその服をほめそやした。
「晃子ちゃんも今日はかわいい服着てるし、こうして並んでみるとなかなかいいじゃない」
則子にまでほめそやされたのには、晃子も照れくさそうにした。そこで勇魚は、ふとため息をつきながら言った。
「姉ちゃん…自分でもわかんなくなってきたよ。オレはこないだまで正真正銘の男だったはずなのに、そのオレがこうやって女物の服着てるんだから…やはりオレ、心の中まで女に変ってるんだろうか」
そのように戸惑っている勇魚の顔を、綾乃はまじまじと見つめて言った。
「人の心の中なんて、本当は自分自身が一番よくわかってないのかもね。女の子が服やおしゃれに気を使うのは、そうやって自分の心の中を知ろうとするため、もっと言えばどんな自分になりたいかを探すためじゃないかしら。でもこれはファッションだけじゃなくて、進路だって何だって一緒よ。男だって女だって、自分の思い通りに生きられないからつらい、自分らしい生き方って何なのか、そのためにはどうすればいいのかわからない、そんなの当り前じゃん。…こうしてみると男って、自分の感情を表すのが下手なところがあるのかもね。でもあんたはそうやって無理に自分自身の気持ちをため込むことなんかないのよ。だからあんたも焦らずに、そのなりたい自分を見つけていくといいわ」
綾乃は晃子が自分の話を聞きながら、どこか考えこむような表情をしているのを見て、晃子にもそっと声をかけてやった。
「晃子ちゃんもあまり無理しない方がいいよ。これからもこの子はいろいろ迷惑かけると思うけど、そのときはよろしくね」
綾乃の言葉に、晃子もようやく安堵したような表情を浮かべると、いささかいたずらっぽい口調でこう言った。
「勇、スカートはいて恥ずかしいとか寒いとか言うんだったら、下に短パンはけばいいのに」
そして晃子は、自分からスカートをまくり上げてみせた。勇魚は一瞬ぎょっとしたが、晃子がスカートの下に体操服の短パンをはいていたのを見て、ほっとしたようながっかりしたような、複雑そうな表情をした。晃子はそのような勇魚の表情を見て、軽く舌を出してみせた。
「でも短パンはいてるからといって、見えてもいいとかいうわけじゃないからね。あまり足広げて坐ったりしてはだめよ」
晃子は勇魚が目を白黒させているのを見て、さらに勇魚に声をかけた。
「ねえ勇、入試が終ったら一緒に服買いに行こうか」
「そのときには晃子にもっとかわいい服選んでやるよ。晃子もこうしてみるとけっこうかわいいのに。…でも今日はいろいろ面倒見てくれてありがとう」
勇魚の悪態をつくような口調に晃子はふと息をついたが、その表情はどこか安心したように見えた。そして晃子が自分の家へと戻ってからも、勇魚は晃子の今まで知らなかったような表情や態度が心の中から抜けなかった。
──晃子はもしかして、オレが女になってよかったとか思ってるんじゃないだろうか。
勇魚が言葉少なにそそくさと夕食を済ませて部屋に戻ると、則子は雄一に上気した表情で声をかけた。
「ねえパパ、あの子も女の子の服着るとかわいいじゃない。やはり綾乃はセンスあるわ」
雄一は何か複雑そうな表情を浮かべてむっつりしていたところに、則子に「パパ」と言われたことで、さらに不機嫌な表情で則子の方を見返した。しかし則子は、安堵の色を浮かべながらさらに話を続けた。
「パパ、私もあの子のことは心配だったけど、最近になってやっと安心したわ。晃子ちゃんも面倒をいろいろ見てくれるし、ここは落ちついて子どもたちのことを信用しましょ。それにしても綾乃もしっかり者になったじゃない。あの子は晃子ちゃんとも仲良かったけど、ほんとは妹がほしかったのかもね」
勇魚は翌日、さっそく明桜学園の入試の願書を書いた。証明写真を撮りに行くときには、セーラー服に着替えて、その上に厚手のコートを羽織って写真屋に向かったが、そこでカメラを向けられる間は、かなり時間が長く感じられた。願書を送ってから数日たつと、受験票が送られてきた。
そしていよいよ入試の当日が来た。その日は朝から冷たい雨が降り続く寒い日だった。勇魚は晃子から借りたセーラー服の上にコートを着て、白い息を吐きながら傘をさして明桜学園に向かった。もちろんセーラー服を着ることに対する抵抗がなくなったわけではないが、綾乃に練習をさせられたおかげで多少は覚悟ができたような気がした。勇魚は当分綾乃に逆らうことはできないなと考えていた。
明桜学園は緑に囲まれた高台にある。雨に煙るスロープを上って構内に入ると、キャンパスは小ぎれいに整備されていて、その中央にはどっしりとした立派な構えの校舎が建っていた。私立の伝統ある女子校だけあって、金もあるんだなと勇魚は思った。
受付にはいろいろな中学の制服を着た女子生徒たちが集まっていた。指示に従って教室に入ると、説明があった後で問題用紙が配られた。試験が始まると、勇魚はもうここまできた以上はやるしかないと思って、必死で解答用紙と向き合った。
午後は面接だ。勇魚は冷え冷えとした控室の中で順序を待つ間、どのようなことをきかれるのかと身を硬くしていた。ようやく順番が来ると、深呼吸をして心をしずめて、面接会場のドアの前に立った。
面接会場の中央に坐っていたのは、髪の毛も銀色になりかけた温厚そうな五十代の女性で、その傍らには男女の教員が一人づつ控えていた。勇魚が綾乃にさんざん仕込まれた坐り方のことを思い出しながら席につくと、中央の女性は明桜学園理事長の吉野うららだと名乗った。
勇魚はもう後には退けないと思い、しっかりと理事長の顔を見すえると、その質問のひとつひとつにはっきりと受け答えした。ここでごまかしたりすることは、自分自身から逃げることになると勇魚は思った。面接官のひとりから、今年に入ってから学校を長期欠席していることについてきかれたときには、病気で医師の診断書もあると言ってこの場を切り抜けた。時間がきて面接会場を後にしたときには、勇魚はとりあえず心に背負った重い荷が下りた気がして、なんとか一息つくことができた。
合格発表はその日の夕方に行われる。受験生たちが不安な面持ちのまま控室で待っている間、勇魚はすでに自分のできることはやったのだから、たとえその結果がどうであれ悔いはないと思っていた。
合格者の受験番号が発表になると、その中には勇魚の受験番号もあった。勇魚は周囲で合格を決めた少女たちの歓声を聞きながら、嬉しいというよりもむしろ、自分がすでに運命の扉を開けてしまったこと、そしてその扉から中に足を踏み入れた以上は、二度とそこから引き返すことができないということをひしひしと感じ取っていた。