裸足の人魚


第二章・退院

 二月も半ば近くになって私立高校の一次入試が一段落すると、三年生の教室にも何かしらほっとした空気が流れるようになる。そんなある日の昼休み、石川晃子は教室でクラスの女子たちと一緒におしゃべりに花を咲かせていた。
「アッコ、明桜受かるなんてすごいじゃん。あそこはなかなかのお嬢様学校よね」
「いや
それ言ったら藤野さんはカトレアだもの。なんせあそこは偏差値67だもんね」
「でも明桜もカトレアも女子高でしょう? なんか女の子ばかりでつまんなさそう。私はやはり共学の方がいいな」
 そのとき、隣の席で午後の授業の準備をしていた一人の女子生徒が横から口を入れた。
「共学だからといって必ずしもかっこいい男の子がいて、彼氏ができるというわけでもないでしょ。女子高の方が男子の目を気にせずかえってのびのびできそうじゃない」
 そう答えたのは晃子たちのクラスメイトの一人、野沢美鶴だった。彼女は眼鏡をかけて、長めの髪をきちんと編んでまとめたクールな感じのする少女で、まじめで物静かな性格からクラス委員もつとめている。
「野沢さん、いきなり雰囲気壊すようなこと言わないでよ。そりゃ野沢さんなら、男子に興味ないかもしれないけど」
 晃子としゃべっていた女子生徒が不満そうな声をもらすと、一瞬場に気まずい空気が流れた。晃子はあわてて、その場を取り持とうとした。
「いや…。美鶴も明桜で、高校一緒よね。これからもよろしくね」
 美鶴は休み時間も一人で本を読んだりしていることが多く、どちらかというと友達も少なくクラスの中では孤立しがちだった。しかし気さくで明るい性格の晃子は、彼女と話しているうちに気が合うようになった。
「野沢さんだったらその気になれば、それこそカトレアだって行けたんじゃない?」
 女生徒たちの少々皮肉のこもった口調を相手にしても、美鶴の態度はあくまで落ち着き払っていた。
「学校は偏差値だけで決まるもんじゃないでしょ」
 そのときふと、一人の女生徒が教室の窓際の席にふと目を止めた。その席では椎名浩三がぼんやりと外を眺めていた。
「椎名君、どうしたのかな。せっかくスポーツ推薦で南隆に受かって、これから水泳部で練習すればインターハイだって行けるかもしれないとか言われてるのに」
「確かに椎名君、元気ないよね。これまで騒々しくて悪ふざけばかりしてた椎名君がああなって、少しは教室も静かになったかもしれないけど。でもあんなに元気ない椎名君なんてかえってらしくないよ。椎名君ってせっかく藤野さんともいい仲で、うちの学年のベストカップルとも言われてたのに」
 そこでまた美鶴が横から口をはさんだ。
「椎名君がああなったのは、瀬波君がいきなり病気で入院してからよね。たしかに瀬波君も椎名君と水泳部で一緒だったけど」
 美鶴から勇の名を聞いて、晃子は勇のことが気になり出していた。晃子が勇の席に目を向けると、その席は勇の入院以来坐る者もなく、教室の中でぽっかりと空いたままになっていた。晃子につられて、彼女と話していた女生徒たちも勇の席を見た。
「瀬波君って椎名君と部活も一緒で仲良かったよね。でも瀬波君もいったい高校どうするんだろう。この時期にいきなり病気になって入院なんて」
 美鶴は口調では落ち着いた態度を崩そうとしないながらも、どうやら内心では勇のことを気にかけているようだった。
「そうよね。いきなり学校の廊下で倒れて
。その先週までは体が悪いとかそんなこと全然なかったのに。でもアッコ、あんた瀬波君とうまくいってたんじゃないの。『勇』『晃子』なんて下の名で呼び合ったりして」
「バ、バカ、違うって。あいつとは家隣同士だし小学校のときからずっと一緒だし、それにうちは共働きだから、小さなころはお母さんの帰りが遅くなるとよく勇の家で面倒見てもらって、きょうだいみたいに一緒に遊んでたんだ。だから『瀬波君』なんてかえって白々しくて言いにくいんだもの」
 晃子があわてて話を取りつくろっても、それはかえって女子生徒たちをつけ上がらせただけだった。
「むしろ幼なじみだからこそ仲良くできるんじゃないの?」
 そうやって晃子がクラスメイトたちとふざけて話し合っている間も、美鶴はそのような話など興味がないといった面持ちでノートの整理を続けていた。
 放課後になって、晃子が友達と別れて帰途につこうとしたとき、美鶴が校門のところで晃子に声をかけた。
「石川さん、ほんとに瀬波君のこと大丈夫なの? 石川さんって瀬波君とは家も隣同士で小学校から一緒だったんでしょ。なんか知ってることないの」
「いや…あたしもあいつのことは何も聞いてないんだ。こないだ家の前で勇のお母さんに会ったから、病院にお見舞いに行きたいと言ったんだけど、病状が悪くて会えないと断られたの。どこの病院にいるかや、どんな病気かも何も言わなかったし。確かにあれだけぴんぴんしてた勇が、いきなり調子が悪くなって、そのまま重い病気で入院して面会謝絶なんて絶対変だと思うけど

 晃子が校門で美鶴と別れて、帰途についてからも、心の底では疑念が晴れなかった。晃子はとりわけ、勇が入院する前の日、うなじが白くなっていたことが気になっていた。

 タクシーの窓の外を、見慣れた街の景色が流れていく。相変わらず寒さは厳しく、街を歩く人たちもコートやジャンパーに身を包んでいる。しかし瀬波勇魚(いさな)
──この間までの「瀬波勇(いさむ)」──はその景色を眺めることもないまま、固く口を閉ざして目を伏せていた。いやむしろ、街を歩く人たちの目を避けるようにさえしていた。
 勇魚は男物の服を着込み、胸にはさらしを巻いて膨らみを隠していたとはいえ、ヒップの膨らみも、細くなった首筋も隠しようがなかった。胸をさらしで締めつけると、その圧迫感や窮屈さのために何度も息をつかなければならなかった。そして入院中に伸びた髪も、入院前に比べてよりつややかできめ細かいものになっていた。
 しかし体や声が変ってしまったとはいえ、いざ退院してみると入院前と同様に五感や体を動かすのにほとんど支障はなく、むしろ十日ばかりもの間病室のベッドで眠り続けていたことの方が信じられないほどだった。
 実際、勇魚はここ一月ほどの間に起きたことが悪い夢であったならと思っていた。朝目覚めると自分の体が元に戻っていて、学生服を着て家を出て、学校に行くと授業に出たり、クラスメイトとしゃべったりふざけあったりといったいつも通りの日常が始まる
そうあってくれればと思っていた。しかし毎朝目が覚めるたびに一番に目に映るのは殺風景な病室の光景、そして体を起こすといやおうなしに目に映るのは大きくなったふたつの胸だった。こうして退院したとはいえ、今後の生活や進路をどうすればいいのかと思うと、勇魚の心は重くなるばかりだった。
 タクシーの勇魚の隣の席には、母親の則子が腰を下ろしていた。せっかく勇魚が病院を退院したとはいうものの、むしろこれからの進路をいったいどのようにすればいいのかと思うと、彼女の表情も晴れなかった。則子にとっても、勇魚のおどおどした落ち着かない表情を見ると、胸が痛まずにはいられなかった。
 ずっと寡黙なままの勇魚を見て、則子がぼそりと言った。
「トイレとかどうしてるの」
「うん
病院でもつい男性用の方に行っちゃいそうになるけど、なんとかできるようになったよ。でもいちいちズボンを下ろさなきゃいけないのがめんどくさくて」
 その声も、入院前と比べて高くなっていた。勇魚はその声に戸惑いを感じて、話をするときには感情を抑制するようになっていた。
「それに母さん
先生が言ってたんだ。そのうちに生理が来るかもしれないって。その話を聞いて以来、トイレに行ってズボンを下ろすのもこわいんだ」
 則子はこの話を聞いて、勇魚の体が本当に女になってしまったという事実にあらためて気づかされて、心の中で愕然とした気持になっていた。
「あのね、はじめてのときにはみんな精神が不安定になったり、気分がすぐれなくなったりするものなの。お母さんも綾乃も、みんなそうだったわ。でもこれはとても大切なことなの。その結果、綾乃やあなたが今ここにいるのだから」
 そこまで言われると、勇魚は心に重い荷物を背負わされたような気がして、体をこわばらせふさぎこんだ。則子もそれ以上、勇魚に声をかけることができなかった。
              
 タクシーが自宅の前に停まり、勇魚がドアを開けて車を下りたときだった。ちょうど目の前の道を、下校途中の晃子が近づいてくるのが見えた。よりによってこんなときにまずい相手に会うなんてと勇魚は思った。
 晃子は勇魚が車から下りたところを見て、驚きで目を丸くした。そして次の瞬間には、満面に喜びの表情を浮かべて勇魚のもとに駆け寄った。
「勇
退院できたんだ。よかったじゃない」
 しかし晃子が勇魚のすぐそばまで来ると、彼女の勘は自分の前にいる「勇」は、自分がよく知っている勇とは明らかに違うということをはっきりと見抜いていた。
「うそ
あんたほんとに勇なの?」
 晃子は息をのんだ。則子も観念して晃子に声をかけた。
「晃子ちゃん
時間はいいかしら。ぜひあなたにも話しておきたいことがあるの」
             
 則子は晃子を居間に通し、紅茶とケーキを出した。そして晃子に事の次第を全て話して聞かせた。
「信じられない
勇がこんなことになるなんて」
 晃子も則子の話の内容、そして目の前にいる「勇」の姿、そして声まで変ってしまったことに大きなショックを受けていた。
「せっかく体の方は元気になったのに、ほんとにどうすればいいのかしら。高校はまだ公立や二次の試験には間に合うというけど、もし行ける高校があったとしても、どうやって高校に行けばいいのか

 晃子は則子が表情を曇らせたのにやりきれないものを感じて、勇魚の方を向き直した。
「勇
そんなに落ち込まないでよ。せっかく退院できたのに」
 晃子は勇魚の手を取った。晃子の手の温もりに触れたとき、勇魚はふと息をついていた。晃子も繊細になった勇魚の手の指に触れてみると、勇魚の体が変ってしまったことをあらためて実感せざるを得なかった。
「確かに女の子になっちゃったけど、もう体の調子が悪いわけじゃないんでしょ? なんとかなるってば」
 勇魚は晃子にそう言われると、肩をすくめたまま瞳を少しうるませた。そのような勇魚の姿を見て、これが本当にあの元気だった勇なのだろうかと、あらためて晃子は内心で戸惑わずにはいられなかった。
 ちょうどそのとき、玄関のドアが開く音がした。綾乃が大学から帰ってきたのだった。
「ちゃんと退院できてよかったじゃん。それに晃子ちゃんも来てたんだ」
 綾乃はカバンを部屋に置いて手を洗うと、居間のテーブルについた。
「要するにあんたのことをどうすればいいか、みんなで話し合ってたわけね。ところで晃子ちゃんは高校決まったの?」
「はい、明桜学園に入学が決まりました」
「明桜ってなかなかいい学校じゃない。勉強がんばったのね」
 則子に声をかけられると、晃子は軽く照れ笑いを浮かべた。
「で、問題はこの子をどうするかよね。でも高校の二次受けるにしても、いまちょうど出願やってる最中だから、あまりうかうかしてる余裕ないよ」
「勇の志望校は南隆でしょ? 南隆は共学だけど、今年は二次募集ないみたいだし」
 晃子に言われて、勇は浩三から「一緒に南隆に行ってまた水泳部に入ろう」と言われていたことを思い出していた。しかし浩三と顔を合わせることを考えると、たとえ二次募集があったところで南隆には行く気が起きなかった。 
 一同がしばらく黙り込んで考えていると、晃子が思いきったかのように口を開いた。
「そうだ、いっそ勇も明桜に来れば? 二次の追加募集もあることだし」
 勇魚と則子は意表をつかれたような表情をした。
「えっ、明桜って女子高だろ?」
「いやその
少なくともあたしはこうして勇のこと知ってるわけだし、そういう人が一緒にいた方が学校通いやすいかなとちょっと思っただけで。確かに明桜は校舎もきれいで設備もいいし、制服だってかわいいし、なかなかいい学校だけどね」
 晃子はあわてて話をとりつくろった。
「もっとまじめに考えろよ」
 しかし綾乃は、黙って話を聞いて、少し首をひねって考えた後に口を開いた。
「なるほど
明桜に行くというのはなかなかいい考えかもしれないわね」
 一同は呆気にとられたような表情で綾乃の顔を見返した。
「でも
オレが女子高に行くなんて」
「共学の高校行ったって女子として通うことになるんだから、問題は一緒でしょ。トイレとか体育の時間はどうするの。それに変に男の目があるところに行くと、かえって落ち着いて学校行けなくなるよ。今のこの子にとっていちばん大切なことは、ゆっくり落ち着いて自分の進路について考えることだけど、その意味でも明桜みたいな女子高の方がいいんじゃないかな」
「こうなったら
やっぱり女子の制服着なきゃいけないの?」
 勇魚はおどおどした表情で言った。
「たしかに制服ない高校だってあるから、いやならそこ行きゃいいけど。ただしそういう高校行ったら、かえって着るものに気を使わなきゃいけなくなるよ。それにどうせ高校なんて義務教育じゃないんだし、高校行かないとしても進路なんかいくらでもあるわよ。定時制や通信制という道もあるし」
 勇魚の黙りこくった表情を見て、晃子も声をかけた。
「あのさ
勇。考え込まないでよ。あたしだって明桜に来ればとは言ったけど、無理に来いとは言わないから」
「晃子ちゃん、そもそもこの子の頭で明桜受かるかどうかが問題だわ。この子の偏差値では、なんとかまぐれで受かるかどうかってとこかしら。入院の間のブランクもあるし」
 そして綾乃は勇魚を向き直して言った。
「ともかくこれはあんた自身が決めなきゃいけない問題だから、時間はないけど悔いがないようにじっくり考えな」
 勇魚は自分の進路をめぐって、晃子や綾乃が話すのを黙ったまま聞いていた。勇魚には自分の進路をどのようにすればよいのか、落ち着いて考えるだけの余裕はまだなかった。
「あんたもいろいろ大変かもしれないけど、困ったことがあったらあたしにも遠慮せずに相談してよ。多少は世話になってあげられるから」
 帰りぎわに晃子が声をかけるのを聞いて、則子も安堵の表情を浮かべた。
「晃子ちゃんも心配してくれて助かるわ。この子のことをよろしく頼むわね」

 晃子が勇魚の家を後にしても、変ってしまった勇魚の姿が脳裏から離れなかった。そして隣にある自分の家に戻ると、栄介のカバンが部屋の中にほったらかしになっているのを見て、さっそく栄介を呼びつけた。
「栄介、いいかげんにカバンちゃんとかたづけろって何度言われたらわかるの。それからゲームばかりやってないで、ちゃんと勉強しなきゃだめでしょ。あと、お米といで炊飯器に仕掛けるのと、お風呂洗うのくらいはちゃんとやってよね。これからは女性も社会に出て働く時代なんだから、『家事は嫁さんにやってもらえばいい』なんて言ってるような男は結婚できないよ」
 栄介がすごすごとカバンを片付けるのを見守ると、晃子は携帯電話のメールをチェックした。そこには母親から、「今日も仕事で帰りが九時過ぎになります。夕ご飯の支度よろしくね」というメールが送信されていた。
 晃子はふと息をついて携帯電話をかたわらの机に置くと、自分の部屋に戻ってコートをハンガーにかけ、ベッドに腰を下ろした。
──勇がまさか女の子になっちゃうなんて。
 晃子はあらためて、先ほど見た「勇」の姿を思い出していた。自分が幼いころからよく一緒に遊んでいた、少々弱虫なところはありながらも内心では強がりな「勇」のイメージと重ね合わせても、晃子は「勇」の体が変化してしまったことをどうしても受け止めることができなかった。
──さっきはつい勢いであんなこと言っちゃったけど、ほんとにこれからどうするんだろう…。制服とかトイレとか着替えとか、それにやはり月に一度は女の子の日が来るということになるんじゃ…。そもそもあいつが女子のグループの中に混じって、本当にちゃんとやっていけるんだろうか…。
 考えれば考えるほど、晃子の心の中には疑念と不安が募っていくばかりだった。
            
 勇魚が自分の部屋に戻ると、部屋の様子は若干きれいに片付けられていた以外、「勇」が学校で倒れて入院した日の朝からほとんど変っていなかった。勇魚はふと息をついて、その場にへたりこんだ。
 勇魚は部屋の隅の棚に置かれたマンガ雑誌にふと目がとまったので、表紙をめくってみた。しかし巻頭でいきなり、水着姿で笑顔を浮かべているアイドルのグラビアが目に飛び込んできたので、勇魚は思わず身を引いてしまった。今の勇魚には、これまでむしろ興味深い視線で見ていたアイドルの、「女」であることを誇示するような身ぶりや表情までもが、心の奥底にぐさりと突き刺さるように感じた。勇魚は心の中に不安や戸惑いを抱えたまま、しばらくの間部屋の中にうずくまっていた。
 そのうちに日が暮れて、綾乃が勇魚の部屋まで夕食ができたことを告げに来た。綾乃がしり込みしている勇魚の背を押して食堂に入ると、勇魚の父の雄一もすでに帰宅していた。食卓には勇魚の退院祝いということで、いつもより豪華な料理が並んでいた。しかし久しぶりの家族そろっての夕食になったにもかかわらず、相変らず表情を押し殺したままの勇魚がテーブルに座を占めると、部屋全体によそよそしい空気が漂っていた。雄一も、ひところに比べたらだいぶ落ち着いているように見えたとはいえ、それでも体が変ってしまった勇魚に対して、どう接すればいいのか戸惑っている様子がありありと見てとれた。
 勇魚は父親の表情を見ながら、あらためて自分は同じ家で暮しながら、これまで同じ男同士だった父親のことを全然知らなかったことに気づいていた。
 これまで雄一は、家庭ではどちらかというと厳格な父親だった。勇の行儀が悪かったときや、言いつけを守らなかったりしたときには、げんこつをお見舞いされたこともしばしばだった。勇がいじめっ子に泣かされて帰ってくると、「勝つまで帰ってくるな」と言われて家の外に放り出されたこともある。しかし父の落ち込み具合を見て、勇魚はやはり雄一は自分のことを男同士としてとらえ、期待をかけていたということをひしひしと感じ取っていた。そのような父の姿を見ていると、勇魚も目を背けたくなった。
「パパ、せっかく勇が退院したんだからなんか言ってよ」
 則子に「パパ」と言われて、雄一はいやそうな目でちらりと則子を見た後、勇魚の方を向き直した。
「勇
入試が終ったら一緒にどこか行かないか」
「父さん
小学校のころは日曜日にはよく一緒に釣りに行ったよね。行かなくなったのはいつごろからだっけ」
「そうだな
また一緒に釣りにでも行くか。でも勇、その前に入試をがんばれよ。どこの学校行くにしてもあまり時間はないからな。大変なことはあるかもしれないが、悔いのないようにがんばるんだぞ」
「うん

 綾乃と則子は、にんまりしながら二人の話を聞いていた。
「パパは『あいつが大人になったら、一緒に飲み屋に行こうと思ってたのに』って言ってたのよ」
 雄一は則子に「パパ」と言われて、また眉をひそめた。
「女だって飲み屋に行って酒飲むくらいできるだろ」
「ああ、そうだな」
 雄一はまたうなづいた。
             
 夕食が済むと、勇魚は則子から風呂に入るように言われた。服を脱ぎ、胸に巻きつけたさらしをほどくと、大きくなったふたつの胸が姿を現した。勇魚は今の自分の体形はクラスの女子の誰にも引けを取るものではないと思うと、気恥ずかしさのあまり身を引きそうになった。ズボンを下ろすと、ボクサーショーツに覆われた腰が姿を現した。勇魚は病院の関係者に言われても、女物の下着を身につける気にはなれず、なんとか妥協してボクサーショーツをはいていた。
 浴室で体を洗うときにも、勇魚はずっと自分の体と目を合わせないようにしていた。特に両胸を洗う間は、敏感になった素肌にタオルや湯が触れたときの感触や、胸が揺れるのに心の奥底までもが荒々しくかきむしられるような気がした。慣れない手つきで体のあちこちを洗っていると、勇魚はあらためて自分の体が得体の知れないものになってしまったような気がして、何もかももみくちゃにして放り投げたいような衝動にとらわれた。体に湯をかけて石鹸を流し終ったときには、きめの細かくなった自分の素肌が湯で濡れて、いっそうつややかさを増したのにどきりとさせられた。
 それでもなんとか浴槽につかり、自分の体と目を合わせないようにしながら天井を見上げると、ようやく勇魚はふと一息つくことができた。
──なぜこんなことになってしまったのだろう。
 勇魚は浴槽の中で体のこわばりをほぐしながら、あらためてこの一ヵ月ばかりの間に起きた出来事について考えていた。
 勇魚は自分の手を目の前に持ってきて、手のひらを広げそれをしげしげと眺めた。勇魚は先ほど、晃子が細くなってしまった自分の指に触れたときの感触を思い出していた。
──晃子ああまでオレのことを気にかけてくれていたなんて。
 そこで勇魚は、晃子のことをいろいろ思い出していた。
 小学校のころの晃子は、おてんばで気の強い少女だった。学校の休み時間などは、よく男子に混じって校庭で元気に遊んだものだし、家でもしょっちゅう悪ふざけばかりして母親から「お行儀が悪い」と叱られていた。勇魚は晃子がいつの間にかしおらしくて面倒見がよくなっていたことに驚きながらも、あの芯の強さだけは相変らずだなと思った。
──晃子と一緒の高校に行くのは悪い考えじゃないけど、やはり
 勇魚はあらためて浴槽につかった自分の体を見下ろした。大きくなって丸みを帯びた胸、くびれたウエスト、ふくよかな腰、すっきりとした股間
そこには自分が一ヵ月ばかり前まで男だったことを示すものは何もなかった。
──いずれにしても、自分は「女」として扱われることになるのか。まあ女として学校に通えば体育の時間も女と一緒に着替えることになるし、修学旅行とかの部屋割りや風呂なんかも
 ここで勇魚は、自分がこの期に及んで不謹慎な想像をしていることに気恥ずかしさを覚えていた。勇魚はこれ以上くよくよ考えても仕方ないと思って、ゆっくりと浴槽から立ち上がって浴室のドアを開けた。しかしそこで、洗面所に入ってきた綾乃とはちあわせになってしまった。
 綾乃の目に、なだらかなラインを描く勇魚の体、その中でも特に大きくなった胸が飛びこんできた。綾乃は勇魚の体をしげしげと眺めた後で、不意に口を開いた。
「十五歳にしてはけっこう胸あるじゃん。この調子だったらまだまだ大きくなって、スタイルだってよくなるんじゃないかしら」
 綾乃は表向きは無理に明るくふるまい、口先で言葉をつなごうとすることで、気まずくなった場の雰囲気を取りつくろおうとはしていたものの、その口調は上ずっていた。勇魚は不自然でぎこちない態度を取っている綾乃をきっとにらむと、胸を腕で隠し、綾乃に背を向けてそそくさとさらしを胸に当てようとした。綾乃はそのときの勇魚の表情から、何か心にぐさりと突き刺さるようなものを感じて、すぐに勇魚の前を立ち去った。
 自分の部屋に戻っても、綾乃の心中からはさらしを胸に巻き付けようとする勇魚の姿が離れなかった。綾乃は何よりも、自分が女になったことを隠そうとする勇魚の姿に痛々しいものを感じずにはいられなかった。綾乃自身にも、勇魚の体が変ってしまったのは何かの冗談だろうという思いがこれまで心の奥底にあったが、いざその姿を目の当たりにすると、これは決して絵空事ではなく、まぎれもない現実だということをあらためて突きつけられたような思いがした。
──あれが本当に勇なの? 勇って小さいころはわがままできかんぼで、いつもちょこまかと動き回っては悪ふざけばかりして、周りの人を困らせてたのに。歳食ってからは私に対しても生意気な憎まれ口ばかり叩いててさ。あの元気な勇があんなことになるなんて、いったいどうすりゃいいんだろう
 綾乃は勇魚の何かにおびえるかのような、他人に対して自分自身を固く閉ざそうとするかのような様子がとりわけ気になっていた。
             
 翌朝目を覚ますと、勇魚の両目には見慣れた自分の部屋の天井が映った。勇魚はもしかしてと思って胸に手を当ててみたが、大きくなってしまった胸の形は相変らずだった。
 勇魚はパジャマを脱ぎ、さらしを手に取って胸を締めつけた。しかしこれで胸の膨らみはなんとか隠せても、ワイシャツを着ようとすると袖の長さも余り、またなで肩になった今の体型にはどうしても合っていなかった。黒い学生ズボンにしても同様で、どうしてもヒップのまわりが窮屈になってしまう。
 勇魚はこの恰好で学校に行ったら、先生やクラスメイトにどんな目で見られるか、トイレや体育の時間はどうするかと考えると身がすくむ思いがした。
 そのとき、ドアの向こうで則子が心配そうに声をかけるのが聞こえた。
「勇
学校行くの?」
 勇魚の心には、その母親の声さえもがプレッシャーとなって重くのしかかってきた。勇魚は則子の問いかけに答えることもできないまま、耳をふさいでベッドの中でうずくまってしまった。
 ドアの向こうでは雄一の声も聞こえてきた。
「もう体は元気なんだろう? だったら部屋にこもってないで出て来いよ」
 部屋に閉じこもったまま反応しようともしない勇魚に、雄一がいら立ちを強めていく様子がドア越しにもありありとわかった。勇魚はますますその声やドアをたたく音に背を向けて、体をこわばらせるしかなくなっていた。
 ちょうどそのとき、騒ぎを聞きつけた綾乃がドアの前に来て雄一と則子に声をかけた。
「もうこうなったらどうしようもないわね。しばらくこのままそっとしておくしかないでしょ。無理に学校行ったって、ただでさえこの子の精神は不安定になってるのに、どんなことになるかわかったもんじゃないわ」
 綾乃の言葉を聞いて、雄一はそれでも何か言いたそうな表情をしている。そのような雄一の顔を見て、綾乃はさらに言葉をついだ。
「父さんはもし自分がいきなり女になっちゃったら、それでも顔に化粧して、女物の服着て会社行く気になる? 体面とこの子の気持ちのどっちが大事なの」
 そう言われると雄一も返す言葉がなかった。
「北風と太陽の話を知ってる? 今あの子を北風の中にむりやり放り出しても、ますますぶ厚いコートの中に閉じこもるだけだわ。でも今こそそうでも、きっとそのうち何かしたい、何かしなければと思うようになるわよ。私たちにできることは、そのときに太陽になってあの子の手助けをしてやる、それしかないわね」
 ドアの外で綾乃がそこまで話すのを聞いていると、勇魚もこれ以上はじっとしていられなくなり、ドアを開けて部屋の外にとび出した。則子はなんとか勇魚の肩をそっと抱いて落ち着かせると、無理に学校に行く必要はないから、しばらく落ち着いて今後のことをじっくり考えろと声をかけてやった。
 やがて雄一が不安げな表情を浮かべながらも、なんとか会社に出かけると、勇魚はワイシャツに学生ズボンといういでたちのまま、居間に出向いて朝食を口にした。勇魚が朝食を食べ終ってテーブルから立つと、綾乃がワイシャツを着た勇魚の胸に目を向けながら声をかけてきた。
「学校行かないんだったら、制服着てる必要もないじゃん。それにあんた、昨日から気になってたんだけど、その胸
さらし巻いてて苦しくない?」
 勇魚がたびたび息をつきながら、苦しそうにしている様子は他人の目にも明らかだった。
「ああ
さらしが胸の先にすれあってちくちくするし窮屈だし
「そうやって胸変に締めつけてると、絶対体によくないよ。だから、いっぺんこれつけてみたら。これは私が昔つけてて小さくなったもので、今のあんたにはサイズが合わないかもしれなけど。ほんとはちゃんと店でサイズはかってもらった方がいいんだけどね」
 そのように言う綾乃の手には、すでにブラジャーが何着か握られていた。勇魚はそれを見ると、ぎくりとしてしりごみした。
「やだ
そんなのつけられるわけないだろ」
「つける前から、そうやっていやがることないでしょ。だいたい、普段はそうやって胸を隠せたとしても、スポーツやるときなんかはどうする気?」
「そんなこと言うなら、姉ちゃんこそ男物のトランクスはいてみろよ。そしたら今のオレの気持ちがわかるから」
 二人が言い争う声を聞いて、則子がかけつけてきた。
「やめなさい、綾乃。この子が今どれだけ苦しんでると思ってるの」
 しかし綾乃は態度を変えなかった。
「苦しんでるから何なのよ。だったらその苦しいことから逃げて一生送る気なの。確かにこの子にとってはつらいかもしれないけど、この子はこれからずっとそのつらい現実と向き合っていかなきゃいけないのよ」
 そして綾乃は、勇魚を向き直して言った。
「私はたしかに無理して学校に行く必要はないと言ったわ。でもそれならその間に、自分は何がしたいか、また何ができるかちゃんと考えなきゃだめでしょ」
 じっと唇を閉ざしたままの勇魚を尻目に、綾乃はさらに言葉をついだ。
「ともかくこれはあんたが決めることだわ。どうしてもその胸を見られるのがいやなら、さらしを巻いてなさい。でもこれだけは言っておくけど、他人だけじゃなく自分自身からも逃げ隠れしているようじゃ、何をやってもうまくいかないよ」
 綾乃にそのように言われても、勇魚は身体をこわばらせたまま、唇をかみしめてじっと立ちすくんでいた。そのような勇魚の姿を見て、則子もそっと綾乃に声をかけた。
「綾乃、心配なのはわかるけどこの子の気持ちも考えてあげて。綾乃だっていきなり顔からヒゲが生えてきて声が低くなったり、トイレも男子用に行かなきゃいけなくなったりしたらいやでしょう。私もこれから出かけるけど、勇もあまり考えつめないようにね」
 則子が不安げな表情をしながら家を後にすると、綾乃も勇魚に声をかけてやった。
「まずは自分がどうしたいのか、納得いくまでしっかり考えることね。ところであんた、家にいるのなら洗濯くらいやってよね。私だってこれから大学行かなきゃいけないから」
 そう言って綾乃は、そそくさと大学に行く準備を整えて家を出た。
 がらんとした家の中に一人だけ取り残されると、勇魚はやはり心に空虚さを感じずにはいられなかった。そこで勇魚は、やれやれと息をつきながら、洗濯かごから洗濯物を取り出した。しかしこの洗濯物の山の中に、綾乃の脱いだブラジャーやショーツがあったのを見て、勇魚はごくりと生つばを飲み込んだ。
 勇魚は綾乃のブラジャーを手に取って広げてみた。そのブラは淡い色合いのデリケートな生地に花柄の刺繍が織り込まれ、裾にはレースの飾りがあしらわれていた。さらに洗濯物の山を漁ってみると、全体にフリルの飾りをあしらった大胆で大人っぽい感じの下着もあった。勇魚ははじめ綾乃がこのような下着を持っていたことに赤面したものの、そのようにして綾乃のブラをじっと眺めているうちに、さらしで締め上げた胸の奥がより苦しくなるのを感じていた。ブラのカップの裏にそっと指先で触れてみると、そのかすかに弾力のあるソフトな指ざわりに、勇魚はますますびくりとさせられた。
 勇魚は心を鬼にして洗濯機に洗濯物を放り込んでからも、胸の高鳴りを抑えることができなかった。勇魚は居間に出向くと、先ほど綾乃の持ってきたブラを手に取ってみた。そのブラは洗濯物の中にあった綾乃のブラに比べて、色も柄もどちらかというと控えめでおとなしい感じのするものだった。勇魚は綾乃が、やはり自分に対してそれなりに気を使っているのだと思うと、いささかの気恥ずかしさを感じた。
 勇魚は軽く息を吸い込むと、ワイシャツのボタンを外し、肌着代わりに着ていたTシャツも頭から引き抜いた。部屋の片隅に立てかけられた鏡台にちらりと目をやると、上半身さらしだけになった自分の姿が映っていた。あらためて鏡を眺めると、ウエストのなだらかなラインやすべすべしたきめ細かな素肌が、黒い学生ズボンのためにより強調されていた。そして勇魚は、顔を伏せてためらいがちに両胸を締めつけていたさらしをほどいてみた。ふたつの胸が外気にさらされる瞬間には、やはり胸がひときわ大きく高鳴るのを感じずにはいられなかった。
 勇魚はしばらくの間、血の気が引いたかのような顔色でおどおどした表情を浮かべたまま、身体をこわばらせ、両手で胸を固く覆い隠していた。その背中には鳥肌が立っていた。勇魚はあたかも、自分以外誰もいない家の中の、しんと静まり返った空気が自分の素肌全体にまとわりついてくるような感じがした。
 勇魚はしばらくの間身をすくめながら、なんとかして心を落ち着かせようとした。ようやく胸の動悸が多少は落ち着いてくると、勇魚はそっと両胸を覆っていた腕をゆるめてみた。すると勇魚は、鏡の真ん中ではっきりと存在感を示している両胸から目を離すことができなかった。
 勇魚の丸みを帯びた両胸は、均整の取れたたおやかなラインを描いていて、あたかも寒空の中にこれから開こうとする花のつぼみのような、みずみずしさと気品にあふれていた。そしてその細やかな素肌の真ん中には、桜色をした乳首がぽっちりと浮き出していた。そのまま指先でそっと胸に触れてみると、弾力のある胸がかすかに揺れるのにはっと息をつかされた。勇魚はこの胸が、すでに自分の体の一部と化していることをはっきり認識せずにはいられなかった。
 そこで勇魚は、綾乃の言葉をあらためて思い出していた。
──でもこれだけは言っておくけど、他人だけじゃなく自分自身からも逃げ隠れしているようじゃ、何をやってもうまくいかないよ。
 そこで勇魚は、思いきって綾乃の持ってきたブラを手に取ると、そっとカップを胸に当ててみた。しかし敏感になった胸をカップのデリケートな生地でそっと覆われてみると、思ったより感触がいいことに気がついた。しかし勇魚はブラのホックをどのようにして留めればいいのかわからなかったし、少なくとも綾乃のブラは勇魚の体には少々サイズが大きすぎた。
 勇魚はため息をついて、ブラを体から離した。しかしさらしを手に取っても、再びさらしで胸を締め上げる気にはならなかった。勇魚は少し考えた末、綾乃の部屋に忍び込んでクローゼットの引き出しを開けてみた。すると中にハーフトップのスポーツブラがあったので、それを胸に当ててみた。その上からTシャツを着て、服も部屋着代わりのスウェットスーツに着替えたものの、綾乃のスポーツブラは勇魚の体にはサイズが合わず、少し動くだけでも落ち着かない感じがした。さらに少し目を落としただけで、丸みを帯びた胸がいやでも目に入ってくるのに赤面せずにはいられなかった。それでもさらしを巻いていたときと比べて、胸をしめつける圧迫感がなくなってより自由に体を動かせるようになったことは明らかだった。
 勇魚は自分の部屋のベッドの上に腰を下ろして息をつくと、ふと息をついて自分はこれからいったいどうなるんだろう、いや、どうすればいいんだろうと考えていた。しかしこんなことばかり考えていても仕方がないと思って、机に向かい問題集を広げてみた。
 今の勇魚には、入院まではいやだったはずの勉強や入試が、むしろ懐かしいもののようにすら思えた。もちろん今勉強したところで、どのような高校に行けばいいのか自分にもわからなかったが、入院の間のブランクもあるし、ともかく勉強はしなければと思った。
 勇魚は机に腰掛けて無理にでも問題集に目を向けようとしても、視線を落とすと絶えず存在感を示している自分の胸が気になって仕方がなかった。さらに勉強の合間にふと窓から空を見ると、みんな今頃学校で勉強してるのになと思ってついため息が出てしまった。

 そうしているうちに、外はいつしか夕方になっていた。ちょうどそのころインターホンが鳴ったので勇魚が出ると、晃子の声がした。晃子は学校でもらったプリントを勇魚の家まで届けに来たのだった。しかし勇魚が玄関先に出ると、晃子は勇魚の胸を前にして目のやり場に困っていた。
「あたしより
でかくない?」
「好きででかくなったんじゃないからな。だいたい晃子と比べたら、たいていの女はでかいだろ」
 勇魚がぶっきらぼうに答えると、晃子も眉をひそめた。
「何言ってんのよ」
 そうやって二人でいがみ合っているうちに、綾乃が大学から帰ってきた。すると綾乃はさっそく勇魚の胸に目を向けた。
「やはりさらしを巻いて、胸をずっと隠しているのは無理だったということかしら」
 そして綾乃は一旦自分の部屋に戻ったものの、すぐにそこからものすごい剣幕で飛び出してきた。
「あんた、勝手にあたしのブラいじってたでしょ。いじるなとは言わないけど、せめて後片付けくらいきちんとしてよね」
 そのとき勇魚は、気恥ずかしさのあまり逃げ出したいような気分になった。しかしそこで綾乃は、勇魚をはっきり見据えて言った。
「で、あんたは今胸に何つけてるわけ?」
 勇魚は綾乃の刺すような視線を感じると、あたかもヘビににらまれたカエルのようになって、おどおどしながらスウェットスーツの上半身を脱いだ。
 勇魚は上半身スポーツブラだけの姿となってからも、肩をすくめて綾乃と視線を合わせないようにしていた。しかし綾乃は、勇魚の胸に当てたスポーツブラをじっと眺めながら言った。
「これを選ぶとは、あんたにしてはなかなかいいセンスしてるじゃない。女の子はつけはじめの頃は、こういったブラをつけるものよ。でもあんたはいきなりこれだけのサイズになったんだから、カップつきのブラでもよさそうね。せっかくの機会だから、ちゃんとブラ選びに行きましょ。いっぺん店でちゃんと体のサイズに合うようなブラを選んでもらった方がいいし、実際つけてみないとどれが合うかわかんないしね。晃子ちゃんも一緒の方が行きやすいじゃない」
 勇魚は表に出ることに抵抗を感じたが、いつまでもこうして閉じこもっているわけにもいかないと半ば強引に思い込むと、男物のシャツとジーンズを着て、その上から体形がわかりにくいように厚手のジャンパーを重ねた。
 日が短い季節であるだけに、日はすでに西に傾きかけ、透き通ったやわらかい光が葉を落とした街路樹の梢のすき間から漏れていた。そのような木枯らしが吹く通りを駅前の商店街に向かう間も、勇魚は固く唇をかみしめて目を伏せていた。そのような勇魚の表情を見ていると、晃子もやりきれない気持ちになって、ぼそりと口を開いた。
「学校には病院から連絡が行ってたみたい。先生も残念がってたよ。『瀬波もここのところ勉強も調子が出て、一ランク上の高校も狙えるかと思ったら、まさかこういうことになるとはねえ』って…」
 そこで勇魚が表情を曇らせてうつむきがちになったので、晃子はあわてて弁解した。
「あ、いや、これはさっき職員室であたしと二人で話していたときに言ったことで、先生はほかの生徒には誰もこのこと言ってないから」
 晃子が重苦しい雰囲気を振り払おうと話題を切り出しても、それはかえって勇魚の気を重くさせただけだった。晃子は入院までの「勇」の姿を思い出すと、ますます何を話せばいいのかわからなくなっていた。
 駅前のショッピングセンターは買物客でにぎわっていた。勇魚が下着売場に連れられて辺りを見渡すと、レースの飾りや刺繍をあしらったもの、やわらかい色合いのものからポップな感じのするもの、そして派手なものなど、色も柄も形も様々な種類の下着が売場いっぱいに飾られ、店の照明に照らされて光沢を放っていた。勇魚はそのような光景を見るだけで、素肌をそのデリケートな布地でなでられたような気がして、全身がむずかゆくなるような心地がした。そして恥ずかしさのあまり身を引きそうになったが、綾乃はそのような勇魚に試着室に入るように言った。
 勇魚が試着室のカーテンをしっかり閉めると、メジャーを手にした店員が上半身裸になるように言った。勇魚はシャツとキャミソールを脱いだ後も、身をすくめて店員と視線を合わせないようにしていた。店員にメジャーでバストの大きさをはかられる間も、乳首にメジャーが当ってひんやりとした感触がしたときには、ただじっと唇をかみしめるしかなかった。そのうちに店員はヒップのサイズもはかるかどうか尋ねたので、勇魚はもはやどうにでもなれという気持ちになってベルトを外し、ズボンを下ろした。
 店員がこのようにして勇魚のスリーサイズをはかっている間、綾乃と晃子は試着室の外で聞き耳を立てていた。晃子は勇魚のサイズを聞いて気まずそうにしていた。
 しばらくして、綾乃が店員から聞いたサイズに合ったブラを何着か持ってきた。勇魚はその中から、淡いブルーの比較的シンプルで落ち着いたデザインのブラを選んだ。
 綾乃は勇魚に、まずストラップに両腕を通した後、前屈みになってカップをバストにしっかり合わせるように言った。綾乃に背後でホックをとめてもらった後、カップに手を入れてバストをしっかりおさめる方法を教えてもらったときには、心臓がとび上がるかのような心地がした。そして綾乃がストラップの長さを調節している間は、勇魚は女って毎日こんなじゃまくさいものをつけているのかと思わずにはいられなかった。
 そうしながらもようやくブラをつけ終ると、両胸をそっとデリケートなカップに守られる感触にはじめは胸騒ぎを感じたものの、しばらくするとかなり落ち着けるように感じた。そこで綾乃が勇魚に声をかけた。
「どう? だいぶ落ち着いて楽になったでしょ。ちょっと腕や上半身を動かしてごらん。窮屈なときやサイズが合わないときはすぐに言うのよ」
 たしかに綾乃の言うとおり、両胸をブラでそっとカバーされると、かえって胸を落ちつけられるような感じがした。綾乃に言われるままに両腕や上半身を動かしてみても、胸の揺れを気にする必要もなく、少なくともさらしで両胸をきつく締めつけていたときの窮屈さや息苦しさと比べると、体の動きがだいぶ自由で身軽になったことは疑うべくもなかった。勇魚はため息をついて、もはやこれまでだと観念した。
「胸はデリケートなところだから、そっと大事に守ってあげなきゃね。それを無理やりさらしで締めつけたらかわいそうだわ。せっかくだから、ショーツもペアにしてみる?」
 綾乃はそのように言うと、勇魚にそのブラとペアになったショーツを手渡した。勇魚はそのショーツを手に触れてみて、そのすべすべした手触りにどきりとした。それを両手で広げてみると、勇魚はこのような小さな布に自分の体が収まるのかと思ってしまった。
 勇魚は何も考えないようにして、ボクサーショーツから綾乃から手渡されたショーツにはきかえた。すると肌ざわりのいい生地が体形にしっかりフィットして、ボクサーショーツよりずっと落ち着いて動けるような感じがした。勇魚はその感触に戸惑いを覚えて、両足を固く閉ざしてしまった。
 下着をつけ終ると、勇魚は唇をかみしめたままじっと身体をこわばらせていた。勇魚が肩をすくめておどおどしながら、試着室の鏡の中の自分から目をそむけているのを見て、綾乃は声をあげた。
「あんた、いくら女になったからといって、根性までそんな卑屈になってどうするの」
 綾乃はさらに語調を強めた。
「あんたは死んだわけじゃないんでしょ? あの生意気でわがままだったあんたはどこに行ったのよ。もっと胸を張ってしゃきっとしないと、これから何やるにしたってうまくいかないよ」
 綾乃にそう言われて、勇魚は意を決すると、ゆっくりと目を上げて鏡の中の自分と向き合った。しかしいざ自分の姿を鏡に映してみても、ブラとショーツは今の自分の体形にフィットしていて、鏡で眺めてもまったく違和感はなかった。今勇魚がつけている下着は、どちらかというとデザインの点では控えめなものだったが、むしろそれが勇魚の引き締まった初々しい身体のなだらかなラインや、均整のとれたプロポーションをより引き立たせているように感じられた。勇魚は特に、ブラによって強調された胸の谷間が気になっていた。
 勇魚があらためて、背筋をしゃきっと伸ばしてみると、これまで自分がその胸をさらしで隠していたことの方が、かえって不自然なことのようにすら思えた。そしてそのまま、指先でブラのストラップを軽くいじりながら、はにかみ気味な表情を浮かべて、しばらく鏡に映ったその姿をじっと見つめていた。
 勇魚はこれまでに想像すらできなかったような自分の姿を鏡の中でじっと眺めながら、やはり今の自分は「女」として生きるしかないのだろうかと考えてふとため息をついた。そこで綾乃が勇魚の肩をぽんと叩いて、そっと声をかけた。
「なかなか似合ってるじゃない。ま、たしかにあんたは悩んでるかもしれないけど、だからこそ自分を見失わないようにね。そうすればどんな進路であれ、道はきっと開けると思うから」
 勇魚はここで再び、先ほどの綾乃の言葉を思い出していた。
──だったらその苦しいことから逃げて一生送る気なの。
 勇魚はもし、自分が胸のふくらみを隠して「男」として生きようとすることを選択したとしても、その「苦しいこと」から逃げられないということをまじまじと認識していた。こうなるとかえって度胸が坐って、今の自分をとりまく現実も素直に受け入れられるような気がした。
 気がつくと、晃子もカーテンの隙間から勇魚の姿をじっと眺めていた。そのときの晃子は赤面しながら、複雑そうな表情で唇をかみしめていた。晃子も勇魚が本当に女になってしまったという現実をあらためて目の前に突きつけられて、ショックを受けている様子がありありと見てとれた。
「勇…本当に女の子になっちゃったんだね。…でもスタイルいいし、肌だってきれいじゃん。こういう下着つけたって似合ってるよ」
 そう言いながらも、晃子は勇魚の姿に対して正面から目を合わせないようにしていた。そのような晃子の様子を見て、勇魚も肩をすくめながらぼそりと口を開いた。
「晃子こそ気にすることないじゃん。オレ…たしかにこれまで男子の間で、あの子は胸がでかいとかなんとか話してたけど、そんなんじゃないって、今こうなってみてわかったんだ」
 勇魚に言われて、晃子は気恥ずかしそうにしていた。しかしそこで綾乃が声をかけた。
「せっかくだからあんたも、ここで晃子ちゃんにかわいい下着選んであげたら? 女同士なんだから、一緒の試着室入っても問題ないじゃん」
 そのとき晃子は、顔を真っ赤にしながら手を振って断ってみせた。勇魚はほっとしたような、がっかりしたような複雑な気持ちになった。
 さらに綾乃は、いろんな種類のブラを持ってきて、これは胸がグラマーに見えるタイプだなどといろいろ教えてみせた。勇魚はいつしかその種類の多様さや、色とりどりの柄から目が離せなくなっていた。多少大人っぽい感じの下着を目にしたときには、さすがに胸がこくりと高鳴るのを感じた。晃子はその様子を、ただ恥ずかしげな表情で遠巻きに眺めていた。
「晃子ちゃんもせっかくだからブラ選んでみる?
 その中からなんとかおとなしめの柄やデザインの下着を選び、まとめて買って店を出るころには、冬の日はさらに西に傾いて、寒気の中に街灯がぽつりぽつりとともり始めていた。みんなで家に帰る途中、勇魚は思いきって晃子にきいてみた。
「晃子も
最初はやはりこんな気持ちがしたの」
 晃子は顔を赤らめて答えた。
「小学六年の終りだったかな。お母さんに相談して、今のあんたみたいに店に連れて行ってもらったっけ。女子の間ではもっと早いころから、このことを話題にしたこともあったけど。…やはりあたしも、最初はちょっと恥ずかしかったかな。体育の時間に着替えるときも、ほかの女の子の視線が気になったし…。でもこういうのは人によってみんな違うんだから、早いとか遅いとか、大きいとか小さいとか、そんなの気にすることないよ」
「晃子にそう言われると説得力あるよな」
「どういう意味よ、それ」
 晃子は頬を膨らませた。しかしそこで晃子は、一呼吸おいて神妙な顔立ちになって口を開いた。
「勇…ほんとにこれからどうするつもりなの」
 晃子が不安げな表情でたずねても、勇魚は表情を険しくさせて押し黙っていた。それを聞いて綾乃はそっと晃子に言った。
「今はこの子をじっと見守ってやることが大切だわ。晃子ちゃんもこの子のことをよろしくね」
 しかしそこで綾乃は、勇魚を向き直して言った。
「あんた、なんだかんだ言ってけっこういろいろ興味深そうに見てたじゃない」
「い、いやその
なんでブラって男物の下着に比べてあんなにいろんな色や形の種類があるんだろうって。でも自分がそれをつけてみると、そのような女の気持ちも少しはわかったような気がするけど」
 勇魚はすっかりもじもじしている。
「見えないところにこそ気を使うのが女のたしなみってものなの。ともかく下着のことでわかんないことや困ったことがあったら、いつでも私に聞きに来な」
「どうせエッチなの着せる気だろ」
「あんたがそういうの着たいと思うようになったらね。そのときはあんたに似合いそうなの選んであげるよ」
「バカ」
 晃子はその二人のやりとりを見ながら、その二人の様子は以前とほとんど何も変っていないと思って、心の底でかすかに安堵の念を浮かべていた。
 勇魚と綾乃が門の前で晃子と別れて家に帰ると、すでに則子も帰宅していた。則子は勇魚のブラをつけた胸に真っ先に目をやると、心配そうな表情を浮かべた。
「勇…ちゃんと下着選べたの」
「そのために私がついて行ったんじゃない」
 勇魚のそばで綾乃は、とりすました表情をしている。しかし勇魚は則子の心配そうな表情を見て言った。
「母さん、もういいんだ。実際にこうやって下着をつけてみて、少しは覚悟ができたような気がするよ。ともかく今はやるしかないんだ。これからどうすればいいか、学校はどこに行けばいいか、まだわからないけど。でも部屋の中でうじうじしているだけでは何もならないんだ」
 退院してからずっと張りつめた表情をしていた勇魚の顔に、かすかながらようやく落ち着きの色が生れてきた。則子と綾乃も、そのような勇魚の様子を見て、かすかに表情をほころばせていた。


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