裸足の人魚・第二部
第一章・新しい日
瀬波勇魚(いさな)が目を覚ますと、カーテンのすき間から澄み渡った春の陽光が射し込んでいた。枕元の目覚まし時計を見ると、セットしていた時間よりだいぶ早い。勇魚は綾乃から、女の身支度は時間がかかるから早く起きるようにと言われていたが、やはり心の中で緊張が抜けていないのだろうかと思った。今日は明桜学園の入学式だ。
勇魚は意を決してベッドから身を起こすと、まずはシャワーを浴びて気持ちを落ち着かせようと考えた。勇魚がパジャマを脱いで浴室に入り、全身に心地よいシャワーを浴びていると、心の中に溜まっていたわだかまりまでもが流されて、ひときわ身が軽くなったかのように感じられた。
ふと鏡に目を向けると、自らの整ったプロポーションが映し出されていた。長く伸びた黒髪や、少々ほてったきめの細かい素肌は、濡れてよりつややかさを増していた。勇魚は自分自身のこのような姿を目にしても、以前ほどには動揺や戸惑いを感じることはなくなっていた。
浴室から上がって素肌にバスタオルを巻きつけ、ドライヤーで髪を乾かしていると、ちょうど綾乃と鉢合わせになった。綾乃は勇魚のそのような様子を目の当りにして、快活な声をあげた。
「ずいぶん早起きじゃない。でもこうして見てみると、勇魚もずいぶん落ちつきが出てきたわね。こうやってきちんと体にタオル巻いてるとこなんか見てると、最初から女の子だったみたい」
勇魚は少し顔を赤らめながら自分の部屋に戻ると、綾乃もついて来た。勇魚は下着を身につけると軽く息をのんで、壁のハンガーにかかった明桜学園の真新しい制服を手に取った。そして勇魚は、ブラウスのボタンをとめてスカートを腰まで上げ、襟元にリボンをとめると、鏡の中に自分の姿を映して、あらためてため息をついた。リボンをとめた白いブラウスの襟元からのぞく細くて色白になった首筋、ベストの奥でふくらんだ胸、そしてタータンチェックのプリーツスカートから伸びたすらりとした両足。今の自分の姿を人が見ても、ほんの三月前まで男子として、詰襟の学生服で中学に通っていたとは誰も信じないに違いない。自分にとっても、今の少し前までは予想もできなかった現実には戸惑いがないはずがない。もしあのとき自分が、神社の奥の宝物庫に足を踏み入れて、鏡を手にしていなければこうはならなかったかもしれないと思うと、勇魚はあらためて自分を見舞った運命の不思議さを噛みしめていた。
しかし勇魚は、もはやそんなことはどうでもいいと思っていた。大切なことは、今の自分の目の前にある現実から目を背けずにしっかり見据え、そして自分が今できることをしっかりとやること。そう考えると、今着ている制服も、それを着ることでかえって身が引き締まるような思いがした。勇魚は鏡の前で、長く伸びた髪を肩の上に垂らすと、あらためて気合を入れ直した。
ちょうどそのとき、背後からその様子を見守っていた綾乃が声をかけた。
「ほんとにこれでいいの?」
勇魚は綾乃の顔を向き直すと、しっかりとした目つきでうなづいた。綾乃は勇魚のこのような表情をしっかり見据えると、勇魚を鏡台の前に坐らせて、ブラシで髪をとかし始めた。勇魚は髪が長く伸びて以来、髪にブラシを当てるたびに、心の奥の琴線まで揺さぶられるような感じがして、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
「髪型はやっぱりポニテにするの? あんたはせっかくこんなきれいなさらさらのストレートなんだから、結ばなくてもいいと思うけど」
「ああ、この方が動きやすくて楽だし。でもこんな身支度のために今までよりずっと早く起きなければならないんだから、女ってうっとうしいよな」
「慣れたら楽しくなるわよ。でもあんたの学校は髪型自由でいいよね。私の通ってた高校は、髪が肩にかかったら結べとか、色のついたゴムやリボンは禁止とかやかましかったけど。でも少し待ってな。せめて今日の入学式くらいは、きちんとした髪型にしなきゃね」
そう言って綾乃は、後ろ髪をゴムで結わえた箇所に、水玉模様のポップな感じのするリボンを結んでやった。
「あんたもいろいろ不安でしょ? これは勇気が出るようにという、私のおまじない」
その言葉に、勇魚は少し表情をほころばせた。
勇魚が机の引き出しを開けて定期入れを取り出そうとしたとき、引き出しの片隅にしまってあった一枚の写真に目がとまった。その写真は勇魚が「勇」として中学に通っていたとき、水泳部のみんなと一緒にプールサイドで撮影したものだった。その写真の中の自分は、水泳パンツ一丁で平らな胸をあらわにしながら、他の部員たちと一緒に笑顔を浮かべていたのを見て、勇魚はいささか気恥ずかしい思いがした。
──椎名…藤野さん…みんな新しい学校に通い出したんだろうな。
勇魚はその写真を手に取ってしばらくじっと眺めた後で、定期入れの中にそっとおさめた。
ダイニングに出ると、すでに朝食の準備が整っていた。勇魚の母親の則子は、すでに朝食を食べ終えて、入学式につきそうための身支度にかかっていた。則子は勇魚の髪を結わえているリボンに目をやると、さっそく嬉しそうな表情をした。
「そのリボンかわいいじゃない。でも綾乃、せっかくこの子の入学式だからおしゃれさせてあげようという気持ちもわかるけど、あまりあれこれやりすぎると遅くなるわよ。勇魚も早く朝ごはん食べちゃいなさい」
勇魚の制服姿に目を細めていた父親の雄一も、「がんばれよ」と一言だけ声をかけると会社に出かけていった。
「ほんとパパってはにかみ屋さんなんだから。せっかくのこの子の入学式なんだから、もう少し何か言ってもよさそうなものなのに。そりゃ勇がいきなり女の子になってショック受ける気持ちもわかるけど、こんなにかわいいんだから」
そう言う則子は女性用のスーツをきちんと着込んで、鏡の前で化粧の仕上げに余念がない。勇魚はパンを口に運びながらも、頬にファンデーションをあてる母親の姿をしばらくじっと眺めていた。
「どうしたの? 勇魚。母さんが化粧するとこなんかじっと見ちゃって」
勇魚はぼそりと答えた。
「いや、オレももしかしたらああなるのかなって…今まで家族で出かけるとき、母さんや姉ちゃんが準備に手間取ってたらうっとうしいとしか思わなかったけど」
勇魚が朝食をすませてテーブルから立ち上がり、ブレザーに両腕を通してボタンをとめると、綾乃は勇魚の全身をあらためて見返した。勇魚がどきりとする間もなく、綾乃は勇魚の腰に手を回してスカートのホックを外すと、ウエストで折り返して膝丈より少し短い程度にした。
「何すんだよ」
「あまりミニにしすぎるのはまずいけど、明桜くらいの学校だったらみんなこのくらいやってるでしょ。こういう学校では、高校から編入してきた子は、中学からいる子の中になかなかとけこめないって、大学の友達から聞いたからね」
勇魚は笑みを浮かべている綾乃の表情と、スカートの裾からかすかにのぞいている白い太ももを交互に見比べると、スカートの裾をおさえながら、赤面してその場に立ちすくんだ。そこで綾乃は、そのような勇魚の様子を見て、そっと勇魚の肩を抱いてやった。
「あんたはほんとに強くなったと思うよ。あんたがいきなり女の子になっちゃって、それでいろいろ苦しんでいたときのことを考えたら、もうこわいものなんか何もないでしょ? クヨクヨせずに自分を信じてドンといきな」
「ありがとう…姉ちゃん」
ちょうどそのころ、則子も準備を整えて玄関先に出てきた。
「綾乃、この子にちょっかい出すのもいいかげんにしなさい。勇魚も早くしないと入学式早々から遅刻するわよ」
勇魚は玄関に急ぐと、真新しい革靴に足を入れた。
勇魚がマンションの自室を出ると、ちょうど湯川昇がブレザーにネクタイの制服をきちんと着て隣の部屋から出てきた。昇も勇魚の制服姿を見て頬をゆるめていた。
「瀬波さん、これから入学式? 制服かわいいじゃん」
「湯川君はもう学校始まってるの?」
「うちは中高一貫だからね。高校の入学式といってもネクタイの色が変るくらいで、一学期の始業式と一緒だよ」
エレベーターで一緒に一階へと降りる間も、勇魚は昇とどのように間を取っていいのかわからずにまごまごしていた。則子はこのような勇魚の様子を見て、どこかおかしそうな表情を浮かべていた。
「湯川君の通っている尚洋学園って、明桜と駅一緒よね」
「はい。尚洋は南口、明桜は北口で駅からの方向は違うけど」
昇ははきはきと答えた。
「これから一緒に学校通ったらどうかしら。満員電車には痴漢が出るとかいう話を聞くけど、湯川君なら守ってくれそうね」
則子がそのように言うのを、勇魚と昇は二人で赤面しながら聞いていた。一緒に駅に向かう間も、二人は言葉少なにもじもじしながら並んで歩くのみだった。
駅のホームは人でごった返していた。新年度のはじめとあって、真新しい制服を着た新入生や、おろしたてのスーツに身を包んだ新社会人の姿も目についた。しかし勇魚は周囲の人波を眺めていて、その中におしゃれに装った女性の姿があったときには、自分が男だったとき以上に胸が高鳴るのを感じた。
そのようなことを考える間もなく、ホームに電車が入ってきて、勇魚は人込みに押されるようにして満員電車に乗り込んだ。勇魚は先ほど則子が言っていた、「満員電車には痴漢が出る」という話を思い出して、あらためて不安で身を引きそうになった。勇魚は自分の傍らに立っている昇の姿をちらりと見て、頼もしく感じる一方で、自分が昇をいつの間にか当てにしていることに気がついて、いささか複雑な気持ちになった。
明桜学園の最寄り駅で電車を降りると、昇は軽くあいさつをして勇魚と別れた。そして勇魚が改札を出たところで、ちょうど背後から明るい声がした。
「い・さ・な」
石川晃子の声だった。振り向いてみると晃子が野沢美鶴と並んで立っていた。二人とも勇魚とおそろいの真新しい制服をきちんと着こなしている。
「勇魚…制服似合ってる?」
勇魚の前で晃子はポーズをとってみせた。
「なかなかいいじゃん。けっこうかわいいよ。…でも晃子もこうしてみると女らしくなったよね」
「こないだまで男だったあんたに言われたくないよだ。それにあんた、そんなにスカート短くして。どうせ綾乃お姉ちゃんにやらされたんだろうけど」
晃子はさっそく悪態をついてみせた。勇魚が晃子や美鶴に目を向けると、二人ともスカートの丈をちょうど膝の辺りまで伸ばしていて、中学生のときと全然変っていなかった。
「なんかイモっぽいよな。晃子や野沢さんもこのくらいにすりゃいいのに」
「どうせあたしはあんたみたいに足細くないよ」
晃子は頬を膨らませた。
「姉ちゃんが言ってたよ。足ってものは視線にさらしとかないときれいにならないものだって。それに太い脚の方が好きというフェチだっているらしいし」
そこで晃子は、勇魚を軽くひっぱたいた。
「あまり調子に乗るんじゃないの。勇魚こそ変にスカート短くすると、先生に呼び出し食うよ。それにあんた、こんなリボンなんかしちゃって」
晃子は、勇魚の後ろ髪を結んでいるリボンを指先で軽くいじってみせた。
「よしてよ晃子…くすぐったいじゃん」
「でもこの髪の毛、ちゃんと手入れしてるじゃん」
「春休みの間に、姉ちゃんから髪の手入れの仕方をうるさいくらいに仕込まれたからね。おまけに姉ちゃんったら、この髪をさんざん髪型の実験台にしてたし」
「そんなこと言ってるけど、あんたこそけっこう楽しんでたんじゃないの?」
そこで晃子はあらためて、このように話す勇魚の全身を頭のてっぺんからつま先までじっと眺めていた。
「でもあんた…ほんとにこれでいいの? こうして女の制服着るのいやじゃない?」
しかしそれに答える勇魚の表情は落ち着きはらっていた。
「晃子、ほんとにいやだったら今こうしてここに来てるわけないだろ。だいたいスカートなんてただの布っきれじゃん。それ着たからって別に死ぬわけじゃないんだ」
「えらいよ…あんたって」
そのように言うときの晃子は、どこか神妙な表情をしていた。
「別に感心される覚えはないけどね。オレは女子高に入学してこんなかっこしてるからと言って、女として生きることを決めたとか、そういうわけじゃないんだ。オレはただ、今の自分ができること、今の自分がしなきゃいけないことをやってるだけだよ」
その勇魚の言葉を聞いて、晃子は少々どきりとした。
「男の子だったころのあんたって、そんなにかっこよかったっけ?」
「何言ってるんだよ、晃子」
「でも無理しないでよ。なんか困ったことがあったら、何でも遠慮しないであたしに相談してくれない?」
「ありがとう、晃子。ほんとに晃子がいなかったら、オレなんて今ごろどうなってたかわかんないから…」
そう言って勇魚は少し神妙な表情をのぞかせた。晃子はその表情を見て笑顔を浮かべた。
「いいよ、気にしなくたって。でもあんた、あたしの前じゃいいけど、学校の他の子の前では、自分のことを『オレ』と言ったり、あまり乱暴な言葉でしゃべったりするのはやめた方がいいよ。せっかくリボンでかわいくおしゃれしたって、これじゃ台無しじゃん」
「わかってるよ」
美鶴はそんな二人のやりとりを、安堵したような表情で眺めていた。則子もこのような二人の様子を見てにんまりとした表情を浮かべると、晃子の母親の久美とおしゃべりを始めた。
三人でいろいろとおしゃべりしながら明桜学園への通学路を歩いていると、まわりに制服姿の少女たちが増えていった。襟元のリボンの色が違うのは中等部の生徒たちだ。
明桜学園は中等部と高等部が同じキャンパスにあり、体育祭や文化祭、クラブ活動などは中高一緒に行われる。高等部の生徒も四分の三ほどは中等部からの持ち上がりである。勇魚はまわりの少女たちの姿に目を奪われていた。
「なんかこうして見ると、中等部の子ってかわいいよね。いかにもお嬢様って感じで。今まで通ってた中学の女子とは全然雰囲気が違うよ」
「…どういう意味よ。なんかひっかかるわね。言っとくけど、あんただって中学入ったころは気の弱そうな美少年だったんだからね。それが中学入ってから下ネタばかり口にするようになって」
晃子はふて腐れた表情をしていた。
そうこうしながら勇魚たちが高台にある明桜学園に向けて坂道にさしかかると、沿道に植えられた満開の桜並木に花びらがはらはらと舞っていた。そこで勇魚たちは、色白でブロンドの髪の、レンガ色の瞳をした目鼻立ちがパッチリとした少女が一人、通学路を歩きながら舞い散る桜の花びらをうっとりと眺めているのに気がついた。
「外国からの留学生も来てるんだ」
晃子がその少女に目をとめる傍らで、勇魚はその少女が桜の花を眺めるときの嬉しそうな表情がとりわけ印象に残っていた。
桜並木を抜けて校門の前まで来ると、クラス分けの紙が貼り出されていた。晃子はその紙を見て歓声をあげた。
「よかったじゃん、勇魚。同じクラスで。美鶴とはクラス別になっちゃったけど」
「お前とは腐れ縁なのかもしれないな」
口ではそう言いながらも、勇魚ももし晃子と別のクラスだったら、この見知らぬ世界でどのようにすればいいのかわからなかったかもしれないと思うと、晃子とクラスが同じだったことに内心で安堵した。そのそばで美鶴は、いささか複雑そうな顔をしていた。
そこで二人は、自分の隣で先ほどのブロンドの髪の少女が、青みのかった瞳できょとんとしながらクラス分けの紙を見ているのに気がついた。あらためて勇魚と晃子のクラスの名簿を見返すと、「キャサリン・小浜・カーライル」と書かれている。勇魚はその少女が戸惑い気味なのを見て、思いきって声をかけてみた。
「あの…もしかしてキャサリン…さん?」
そう言われて、ブロンドの少女は軽くうなづいた。勇魚が彼女にどう声をかけるべきかとまごまごしていると、キャサリンの方から微笑を浮かべてしゃべりだした。
「気にしないで下さい。私の母は日本人で、ロンドンで日本人学校の先生をしています。だから私は小さいときから母に日本語を教わっていましたし、ロンドンには日本人の友達もたくさんいましたから」
勇魚はキャサリンがいきなり流暢な日本語で話し始めたのに驚いた。一方美鶴は、「ロンドン」という言葉を聞いて目を輝かせた。
「イギリス人とのハーフなんだ。でもいいなあ…私もイギリス行きたいなあ。私は前からホームズとかクリスティの推理小説もずいぶん読んできたし、ハリー・ポッターやナルニア国物語も好きなんだ」
美鶴の言葉を聞いて、キャサリンもニコニコしている。
「でもキャサリンは留学生なんでしょ? 今どこに住んでるの」
「今は祖父、つまり母の両親の家に住んでいます。母は英国の大学に留学していたときに父と知り合って、そのままロンドンで結婚したのです。私はロンドンに生れて育ったけど、母は私が小さいころから、日本のことをよく話してくれました。だから私はそれ以来、ずっと日本に憧れていて、もっと日本のことをよく知りたいと思って留学することにしたのです」
勇魚はキャサリンがていねいな言葉づかいで話すのを聞いて、どこかよそよそしい気分になった。
「ところであなたも私と同じクラスですか?」
「うん、私…は瀬波勇魚というんだけど。でも…キャサリンって制服着ても似合ってるよね」
晃子と美鶴は、勇魚がキャサリンを前にして変に身構えるような態度を取っているのを見て、互いに向き合って笑みを浮かべた。「ええ、英国でもパブリックスクールにはたいてい制服がありますから。でも瀬波さんの『いさな』って名前、珍しいですね。『いさむ』というのは日本では男の名前だと聞いていましたが」
「『勇魚』というのはクジラをさす古い呼び名だというけれど…。『勇ましい魚』とか言ってもクジラは哺乳類なのにね」
「そんな話、初めて聞きました」
キャサリンは目を丸めて、きょとんとした顔つきで答えた。しかしその次にキャサリンは、勇魚のポニーテールにした髪をそっとなでてみた。
「でも瀬波さんの髪って、黒くて長くてさらさらで、ほんとに『ヤマトナデシコ』という感じできれいですね。私の母もそうです」
勇魚の髪を眺めるときのキャサリンの瞳は、どこかうっとりしていた。晃子と美鶴はキャサリンが勇魚を『ヤマトナデシコ』と呼ぶのを傍らで聞いて、吹き出しそうになるのを必死でおさえていた。そこで美鶴が積極的に身を乗り出してきた。
「キャサリンとはクラス別になっちゃったけど、これから仲良くなれそうじゃない。私の名は野沢美鶴というの。『美鶴』というのは『美しい鶴』と書くんだけど、『鶴』というのは鳥の名前で、えっと、英語ではなんて言うんだろう。カラスはクロウでツバメはスワローだけど」
美鶴が首をかしげると、キャサリンはにっこりと笑顔を浮かべて言った。
「私の母は私が小さいころによく折紙を教えてくれました。これは日本に古くからある遊びだって…。その中に『折鶴』というのがあったけど、その鶴ですか?」
「そうそう、その通りよ」
美鶴がキャサリンと意気投合しておしゃべりに花を咲かせながら校門に入ると、キャサリンはさっそく少女たちの注目の的になって、多くの少女たちがまわりに集まってきた。しかしこの中から、一人のいかにもお嬢様然とした、気の強そうな感じのする少女が現れてつかつかとキャサリンの前に進むと、英語でキャサリンと話し出した。キャサリンも英語で受け答えしたが、その様子を見て勇魚は呆気にとられていた。
「すごいね…英語ペラペラじゃん」
そのそばで美鶴もじっとその少女を見ていた。
「ただ英語ができるだけじゃないわね。もしそうなら、アメリカやイギリスでは小学生だってみんな英語でしゃべってるでしょ。キャサリンを前にしてもああいう風に落ち着いて毅然としていられるなんて、あの子はただ者じゃないわ」
勇魚は美鶴の話を聞きながら、彼女をとりまく少女たちの姿を眺めていると、みんなが彼女には一目置いている様子がありありと見てとれた。勇魚はあらためて彼女の姿に目を向けたとき、あらためてぞくりとするものを感じた。
勇魚はこれまで、このような少女は小学校でも中学校でも見たことがないと感じていた。たしかにこの少女は容姿だけを見ても、さらさらとした髪の毛やつややかできめ細かな素肌、パッチリとした瞳に整った顔つき、均整の取れた全身のスタイルと、アイドルにも引けを取らないほどのとびきりの美少女であることは間違いなかった。しかし勇魚が彼女の姿に並ならぬものを感じたのは、そのせいだけではなかった。その少女は落ち着いた柔らかな物腰や柔和な表情といい、キャサリンを前にしても物怖じしない堂々とした様子といい、彼女の姿は周囲に集まっている少女たちの中でもひときわ際立って見えた。勇魚は彼女の姿がそこにあるだけで、周囲の空気がぴりりと引き締まるように感じた。
勇魚はたしかに中学生のころは藤野玲花に憧れていたが、今目の前にいる少女の漂わせている気品は玲花とも全く異なっていた。勇魚はあらためて、自分はとんでもないところに来てしまったのかもしれないと感じ始めていた。
キャサリンとその少女が話している様子を、勇魚がしばらくじっと眺めていると、そばにいたショートヘアの快活そうな少女が、明るくはっきりとした声で勇魚を呼び止めた。
「あんたたちB組なの? なんか緊張してるけど」
この少女はどこか大人びた雰囲気がして、勇魚より一年くらい先輩でもおかしくないような感じがした。勇魚と晃子が名前を言うと、その少女は勇魚にも何ら気負うことなく、元気な口調で気さくに返事をした。
「あたしは須藤成美っていうんだ。これからよろしくね。明桜には中等部からいたんだ」
勇魚はさっそく、キャサリンと話している少女について成美にたずねてみた。
「あの子はね、玉造鈴音っていうんだ。家は社長のお嬢様で、成績もいいだけじゃなく、体操部で大会に出るくらいなんだから、まさに完全無欠のお嬢様といったとこかな。これまでクラスの委員長や中等部の生徒会長もやってきたんだよ。今度も私たちと同じB組ね」
「英語がうまいのは…」
「玉造さんは去年の夏休み、カナダにホームステイしてたというからね。このときに勉強したんじゃないかな」
勇魚は思いきって成美に言ってみた。
「あのさ…。明桜ってあの子みたいなお嬢様っぽい子ばかりだと思ってたけど、須藤さんみたいな気さくにつきあえそうな子もいて安心したよ」
その言葉を聞いて、成美は明るい笑顔を浮かべた。
「だったらよかった。なんかあったら遠慮せずに相談してよ。このあたしにドーンと任しときな」
成美は快活な笑顔を浮かべて、手のひらで胸をどんと叩いてみせた。勇魚はなによりも成美の、姉御肌で明るい、さっぱりとした気取らない性格にひきつけられていた。
そうしているうちに入学式の始まる時間が来て、新入生たちは講堂の前で整列して開場を待つことになった。勇魚もその列に混じって辺りを見回してみると、自分は少女たちの間でも背が高い方なのに気がついた。勇魚は自分が男だったころは、小柄で背が低いことに対してコンプレックスを抱いていたが、あの鏡もどうやら背丈まではいじることができなかったらしいと思うと、いささか複雑な気持ちになった。
しかしそれよりも勇魚は、少女たちが講堂の前に整列してずらりと並ぶ姿を目の当りにして、圧倒されるような思いがした。もちろん勇魚も彼女たちと同じ制服に身を包んではいたが、やはり何かが違うのだ。制服の着方にしても、身のこなしにしても、彼女たちにはほとんど不自然さが感じられない。
特に勇魚が気になったのは、少女たちのスカートだ。明桜学園はさすがお嬢様学校と言われているだけあって、スカートの丈を極端に短く切りつめたり、ブラウスをだらしなく着崩したりしている生徒は見かけなかったが、中等部からの少女はほとんどが、スカートを膝丈よりも心持ち短めにしていた。しかもその長すぎもせず、短すぎもしないスカートの丈がかえってセンスを感じさせた。
勇魚は整列した少女たちの、スカートから伸びた脚を見ていると、綾乃が家を出る前に、自分のスカート丈を調節してくれた意味がようやく理解できた。それよりも勇魚は、彼女たちが背伸びすることなく自然に「女」としての自分を出していることに対して、気後れを感じずにはいられなかった。
勇魚が講堂の中に足を踏み入れると、体育館にパイプ椅子を並べたなどといったものではなく、高い天井のホールに、座席が舞台に向かってずらりと並んでいた。席についてからも、勇魚はただスカートの下で足を固く閉じて式典が早く終るのを待つしかなかった。
理事長の祝辞が終ると、勇魚の一年上の背が高くてすらりとした体格の生徒が、在校生を代表してあいさつを行った。彼女の名前は松崎千晶といって、高等部の生徒会長をつとめているという。彼女が話し始めると、勇魚は彼女の胸を張って、はっきりとした口調で話す姿勢が特に印象に残った。
式典が終ると、各クラスの教室に戻ってホームルームを行うことになっていた。講堂から出たところで、出席番号順の関係で勇魚の隣の席にいた成美が声をかけた。
「瀬波さん、大丈夫? すごく緊張してたじゃない」
その一言で勇魚はようやく緊張をときほぐすことができた。その様子を見た鈴音が、勇魚と成美に声をかけた。
「やはり高等部から入った子は緊張するみたいね。せっかくだから、ホームルームが終ったら高等部から入った子に学校案内してはどうかしら。須藤さんも手伝ってくれない?」
成美も笑顔で嘉子の誘いに同意した。勇魚はこの二人の落ち着いた物腰が特に印象に残った。
教室に入ると、中等部から持ち上がりの生徒たちは、すっかりうちとけた様子で同じクラスになれたことを喜び合ったりしている。そして、はじめは緊張していた高等部からの編入組も、席が近い者同士で携帯の番号やメールアドレスを教えあったり、おしゃべりに花を咲かせたりするようになった。中でもキャサリンはさっそく皆の注目の的になっている。勇魚はこういった少女たちの様子を見ながら、こうやってすぐに顔見知りになれる点では、女の子の方が人づきあいがうまいのかなとふと考えていた。しかし勇魚は、ここの少女たちは男子がいない分、中学校で見た女子よりもより気負わず活発にふるまっているように感じて、自分もその輪の中に入っていけるのだろうかと不安になった。
勇魚のクラスの担任は、英語を担当している二十代の、髪をソバージュにしたまだ若いぽよぽよした感じのする女性教師だった。彼女の名は吉野美咲、学園の理事長である吉野うららの娘で、明桜のOGだとも語っていた。美咲は生徒全員が席につくと、あらためて高等部から入学した生徒たちも一緒になってみんなで仲良くするようにと言った。中等部から明桜にいた生徒はすでに美咲とは顔なじみの様子だったが、勇魚は美咲の明るくて元気な、はつらつとした様子を見て、これからの学校生活も心配するばかりではないかもしれないと思い始めていた。
美咲は一通り話が終ると、クラス全員が簡単な自己紹介をするようにと言った。晃子が活発な声で自己紹介をしたのに対して、勇魚はそそくさと簡単に自己紹介を切り上げた。キャサリンの自己紹介のときには、生徒たちの間にざわめきが起きた。
ホームルームが終ると、さっそく鈴音と成美が声をかけて、高等部からの新入生に校内を案内して回ることになった。そのときに勇魚がまず気がついたことは、校内にゴミが散らかっておらず、机の並びも整然としていることである。やはり伝統のある女子校は違うと思わされると同時に、自分は中学にいたころは教室の中で悪ふざけばかりしていたことが恥ずかしく思い出された。
次に勇魚が注目したのは、畳を敷きつめた部屋だ。
「うちの学校には週に一度礼法の時間があって、マナーを学んだりするのよ。冬になると、ここで百人一首の大会をするんだけど、けっこう盛り上がるんだから。あと箏曲のクラブもあるし」
成美の説明を聞きながら、特にキャサリンは目を見開いて、その礼法室の様子を興味深そうに眺めていた。
ほかにも音楽室やパソコンルーム、理科室や図書室など、設備の充実ぶりに勇魚は目を見開かれた。さらに一行が校舎を出て体育館に向かうと、キャサリンはさっそく体育館のそばにある弓道場に目を向けた。
「うちは剣道部や弓道部などの武道もさかんなんだよ。剣道部にはさっき入学式で在校生代表のあいさつをした、高等部生徒会長の松崎千晶先輩もいるんだ」
成美の話をキャサリンは興味深げに聞いていた。
「私もロンドンで剣道の道場に通っていました。先生は日本人で、指導は厳しかったけどいろんなことを教えてくれました。でも弓道も面白そうですね」
「ロンドンにも剣道の道場があるんだ」
キャサリンの話を、一同は驚きの表情で聞いていた。
体育館に入ると、一階は体育館で二階は室内温水プールになっていた。勇魚は中学で水泳部に所属していた当時は、学校のプールを使えたのは夏場だけで、冬はたまに公営の温水プールを借りる以外は、もっぱら筋トレなどを中心に行っていたことを思い出した。勇魚はふと、中学ではどの部員も夏場になると日焼けで水着の跡を残して真っ黒になったけれども、ここだったらこんなこともないのになと考えていた。しかしそこで、自分の素肌に水着の形の日焼けがついている姿を想像すると、やはり気恥ずかしい思いがした。
勇魚はしばらく、プールのギャラリーから水面がじっと揺れるのを眺めていた。晃子はその横顔を見て勇魚の心中を察すると、勇魚の手を引いてプールを後にした。
学校案内の最後は、おしゃれな雰囲気のカフェテリアだった。
「このカフェテリアは生徒のたまり場になっていて、よくここでおしゃべりをしたりするんだよ」
このように話すときの成美の表情は、どこか楽しそうに見えた。
このカフェテリアの一角では、先ほど在校生代表のあいさつをしていた松崎千晶が、同じ学年の髪を伸ばした、おっとりとした穏やかで気が優しそうな少女と、紅茶の入ったカップを手にしながら談笑していた。しかし勇魚にしてみれば、むしろ主に中等部の少女が何人か、うっとりするような面持ちでこの二人を遠巻きに眺めていたことの方が気になった。
「あそこで松崎先輩と話しているのは椿絵里香先輩といって、華道部の部長と生徒会の書記をやってるんだ。去年の学園祭の劇では、松崎先輩が男役、椿先輩が女役をやったの。松崎先輩は渋っていたところをなんとか引き受けたらしいけど、それが二人ともすごいはまり役だったんだから。それ以来後輩の間にえらく人気が出ちゃってね」
成美が話すのを聞きながら勇魚が千晶と絵里香の様子を見ていると、この二人は中等部の少女たちが話しかけてきても落ちついた物腰で、親身に話していた。勇魚は千晶の背が高くてすらりとしたスタイルや、絵里香のまるで人形のようなかわいらしく整った顔立ちが特に印象に残っていた。しかしここでふと視線を鈴音に転じると、鈴音までもがその二人をうっとりするような目つきで眺めていたのには、いささか複雑な思いにさせられた。
ひととおり校内を回って教室に戻る途中、勇魚はそばにいる晃子に言った。
「やっぱ私立の学校って金あるんだな」
「あたしもお母さんからさんざん言われたよ。『明桜は授業料高いから、ちゃんと勉強しなかったら承知しないよ』って」
晃子はため息まじりに答えた。
ホームルームが終り、少女たちが教室に戻って帰り支度をしているとき、美咲が勇魚を呼び止めて声をかけた。
「瀬波さん、少し時間はいいかしら。話があるの。それから石川さんも瀬波さんと中学一緒だったわね」
美咲の表情を見て、晃子は無言のままうなづいた。そこで美咲は晃子にも声をかけた。
「石川さんも一緒に来てもらった方がいいかしら」
その声を聞いて勇魚はびくりとした。
美咲の後ろについて行くと、案内された先は理事長室だった。勇魚は自分の素性が学校側にばれたのではと思って、ますます不安が高まっていった。勇魚がちらりと晃子の顔を見ると、晃子も不安げな表情を浮かべていた。
美咲に理事長室の中へと通されると、立派なテーブルの中央には理事長の吉野うららが座を占め、その傍らには勇魚たちの学年主任で世界史を担当している、牧園久恵という年配の教師が控えていた。勇魚は背筋がぞくりとした。
勇魚が理事長の席の前まで進むと、うららはにこりと微笑んで勇魚に声をかけた。
「そんなに緊張しなくてもいいのよ。そこの椅子に坐りなさい」
勇魚は綾乃からさんざん言われた椅子の坐り方を思い出しながら、そっと椅子に腰を下ろした。勇魚はその動作を見守る、うららや久恵の視線も気になっていた。
ようやく体が椅子になじんでくると、勇魚はしっかりとうららの顔を見据えた。そこでうららはさっそく口を開いた。
「瀬波さん、学校の様子はどうだったかしら。かなり緊張してるけど、やはり入試の直前にあれだけのことがあったんですものね。でもそれでありながら本校を受験して入学するとは、やはりそれだけの覚悟があったのでしょうね」
勇魚はうららが事情を全て知っていたことに気づいて、思わず息を呑んだ。その傍らでは、晃子も緊張のあまり蒼白になっていた。
「何が言いたいかはだいたいわかるでしょ。あなたがさっき椅子に腰掛けるときだって、スカートに慣れない中で緊張している様子がよくわかったわよ」
勇魚はうららの顔を見据えると、やがておもむろに口を開いた。
「私…が高校受ける前まで男だったこと、もうわかってたんですか」
「わかってたも何も、あなたの中学の提出した調査書にはっきり書いてあったわよ」
うららの傍らに立っていた美咲があっけらかんとした口調で話すと、勇魚は拍子抜けしたような気分になった。晃子もやれやれとでも言いたげな表情で息をついていた。
「その調査書には、あなたの主治医だった黒田先生の手紙も添えられてたの。詳しくあなたの症状について説明した上で、学校としてもきちんとした対応をしてほしいとはっきり書いてたわ」
「だったらなぜ…学校は私の入学を許可してくれたのですか」
「そんなに気にすることはないわね。『性』というもののあり方にはいろいろあるということも明らかになってきているし。あなたはたとえ過去がどうだったとしても、今は体の上では女子なんだし、本校の入学試験を受験して合格した、それだけの話よ。何も引け目を感じることはないわ」
勇魚は美咲の明るい口調がむしろ気になっていた。そこで今までの話を黙って聞いていた久恵が口をはさんだ。
「瀬波さん、ひとつ聞いていいかしら」
勇魚がぎくりとする間もなく、久恵は言葉を続けた。
「ちょっと髪をほどいてみなさい」
勇魚がびくびくしながら、後ろ髪を結んでいたリボンとゴムをほどくと、長く伸びた黒髪がはらりと垂れて両肩を覆い隠した。それを見て久恵は言った。
「瀬波さん、この入試の願書の写真を見ると、あなたの髪は短いのに、今ではこんなに髪が長く伸びているのはどういうことなの。一ヶ月か二ヶ月で髪がこれだけ伸びるなんて、どう考えても不自然だわ。そりゃ本校では長髪にしてはいけないという校則はないけど、まさかかつらかぶってるんじゃないでしょうね」
久恵は話している間も、あくまで冷徹な様子を崩そうとしなかった。晃子もびくりとした表情で勇魚に目を向ける中で、勇魚は一瞬身を引いてたじろいだものの、そこでしっかりと久恵の顔を見据えて、中学校の卒業式の日に神社を訪れたこと、そしてそこで令嬢の持っていた着物に触れたら髪が伸びたことをはっきりと話した。その話の間、晃子はかたずを飲んで勇魚の顔を見守っていた。
久恵はきょとんとした顔つきで勇魚の話を聞いていたが、勇魚の話が終ると美咲が口をはさんだ。
「まあいいんじゃないの。男の子がいきなり女の子になっちゃうなんて話聞いた後では、どんな話聞いても驚かないわ。ウソでわざわざこんなこと言うはずがないでしょ。石川さんもその通りだと言いたいみたいだし。それにしても、着物とともに愛する人への思いが生き続けてるなんて、ロマンチックな話よね」
美咲がどこか上気したような口調で話すと、久恵はどこか煮え切らない表情を浮かべながらも、なんとか納得したようだった。
さらに美咲は勇魚の不安げな様子を見て、なだめるように口を開いた。
「あまり過去のことにとらわれてクヨクヨしない方がいいわよ。それに学校生活でもいろいろ不安はあると思うけど、心配することはないわ。この話は学校の先生の間でも一部しか知らないから。困ったことや相談したいことがあったら遠慮しないでどんどん相談しに来なさい。それに石川さんも頼りになりそうね。石川さんが同じクラスにいるだけでも心強いんじゃないかしら」
そこで勇魚が少し安堵した表情をすると、美咲は態度を一変させた。
「ただし、あなたはこの学校では要注意人物だということをくれぐれも忘れないようにね。何か変なことしたら、牧園先生のきつーいお灸が待ってるし、さらに問題があったら即退学よ」
その美咲の言葉に、勇魚はほっとしたような困ったような、複雑そうな表情を浮かべた。
「牧園先生は私が明桜の生徒だったとき、私のクラスの担任だったの。今でこそ年取って丸くなったけど、私が学校行ってたころは、ちょっと校則破ったり態度悪かったりしたら容赦なく反省文書かされたり礼法室で正座させられたりしたし、化粧品やマンガ、お菓子なんか持ち込んだら即没収されたんだから」
美咲がしゃべるのを、久恵はいやそうな表情で眺めていたが、うららはそのような様子をニコニコしながら眺めていた。
話が一段落すると、久恵は不安げに声をかけた。
「瀬波さん、明日と明後日のオリエンテーションは大丈夫かしら。もし何か困ったことがあるなら、特別に個室を用意しているから、それを使いなさい。でもあまり羽目を外して騒いだりしないようにね」
「はい…ありがとうございます、先生」
勇魚がきちんと礼をして、晃子と一緒に理事長室を後にすると、美咲は勇魚の立ち去ったドアを見つめながら、表情を少しほころばせた。
「なかなかいい子じゃない。あれだけ肝っ玉の坐っている子はそうそういるもんじゃないわ。私も最初話を聞いたときはさすがに驚いたし、学校でうまくやっていけるか心配だったけど、これから楽しいことになりそうね」
それに対して久恵は、困ったものでも見るかのような顔で言った。
「たしかに長年生徒指導をやってきたけど、あの口調や態度はウソをついているようには見えないわね。あんな子ははじめてだわ。でも吉野先生、あまり調子に乗らないでほしいわね。生徒と仲良くなりたいという気持ちもわかるけど、いくらうちの学校の卒業生だからといって、いつまでも学生気分で生徒に甘い顔をしていたら困るわね。もうちょっと先生としての自覚と威厳を持ちなさい」
久恵に釘を刺されて、美咲は悪びれたような表情を浮かべた。うららはこのような二人の様子をニコニコしながら見守っていた。
「美咲が学校に通っていたころから、牧園先生と美咲の様子は全然変ってないわね」
「理事長先生、吉野先生はここでは理事長先生の娘ではなく1人の教師なのですよ。けじめをつけてもらわなければ困るわ」
久恵は苦々しい表情をしていた。
勇魚が晃子と並んで理事長室を後にすると、理事長室の戸口で美鶴が少し心配そうな表情をしながら待っていた。
「瀬波さん…理事長室に呼ばれたのは、やはりあのことなの?」
「ああ…学校はみんなわかってたよ」
「でもいいじゃん。いつまでもごまかし続けられるものでもないでしょ。むしろ先生も知ってる方が学校通いやすいじゃない」
「たしかにオレや晃子のクラスの担任の吉野先生は、この点理解がありそうでほっとしたよ」
「でも勇魚は先生になぜ髪が伸びたのか聞かれても、ごまかさずにはっきりほんとのこと言うんだもの。はたで聞いてるあたしの方が冷や冷やしたわ。ところで美鶴のクラスの担任はどんな人なの?」
「山代紗智先生というんだ。生物の先生で、髪はショートで、クールでかっこいい感じがするので、生徒にも人気あるみたい。明桜学園のOGで、吉野先生とは同級生で中等部のときからの友達だと言ってたわ」
そこを成美やキャサリンたち、勇魚と同じクラスのメンバーたちが通りかかった。成美はさっそく、勇魚が髪をおろしているのに目を向けて、驚いたように声をあげた。
「瀬波さんってポニテも似合ってたけど、こうして髪の毛おろしてもかわいいじゃん。すごくいいよ」
キャサリンも勇魚の髪をうっとりしながら眺めている。勇魚がまごついていると、成美が元気よく三人に声をかけた。
「瀬波さんたちも駅まで一緒に帰らない?」
みんなで校門を出て、駅前の商店街に向かう途中も、キャサリンは道端のショーウィンドーや看板をあれこれ物珍しそうに眺めていた。そこで勇魚は、成美に思いきって尋ねてみた。
「あの…うちのクラス担任の吉野美咲先生ってどんな先生なの」
「いい先生だよ。理事長先生の娘だけどえらそうにすることもないし、勉強以外にもいろんなことで相談に乗ってくれるし、なによりあの先生がいるとクラスがぱっと明るくなるからね。んだ。あたしたちの間では『みさきち』って呼ばれてるんだよ」
成美が明るい口調で答える一方で、晃子は髪の毛をツインテールにした、小柄でどこかあどけなさも残る、元気そうな少女とさっそく意気投合していた。彼女の名前は袋田恭子といって、勇魚や晃子と同じ高等部からの新入生だった。やがて恭子は、勇魚にも快活な声で話しかけてきた。
「瀬波さんって石川さんと中学一緒だったんでしょ? これからよろしくね。よかったら携帯の番号やメアド教えてくれない?」
そう言って恭子は、かわいらしい感じのマスコットがついたストラップをいくつも結んだ携帯電話を取り出した。恭子は携帯に勇魚の電話番号やメアドを登録すると、さっそく勇魚に向けて自分の通っていた中学のことや、趣味などについて快活な口調でおしゃべりを始めた。勇魚もいつしか、恭子の明るい様子にひきつけられていた。
駅の近くの本屋にみんなで入ると、キャサリンが真っ先に向かったのはマンガ売場だった。勇魚と晃子はキャサリンがマンガを手に取って熱心に見ているのに呆気にとられた。
「最近は英国などのヨーロッパでも日本のマンガは人気があるんですよ。こうやって本物が読めるなんて感激です。今度アキハバラにも行ってみたいなって思ってるんですが、案内してくれないでしょうか」
勇魚と晃子はお嬢様然としたキャサリンの意外な一面を知って苦笑した。
CDショップに入ると、恭子はさっそく最新流行のCDをチェックした。恭子は流行にも詳しくて、キャサリンもこのような恭子の話を興味深げに聞いていた。
「いつかみんなで一緒にカラオケに行かない? キャサリンが英語の歌歌うところ聞いてみたいな」
恭子が明るい口調で話すのを聞いて、キャサリンもニコニコしていた。晃子と美鶴は、ロンドンにもカラオケがあるのだろうかと思いながら顔を見合わせていたが、勇魚はもし自分がカラオケに行ったら、これまで自分がよく聴いていた男性ロックグループの歌はなかなか歌えないだろうし、かといって女性歌手の歌を歌うのもいまいち似合わないだろうし、いったいどんな歌を歌えばいいんだろうと考えていた。
このようにしながらしばらくみんなで通りを歩いていると、呉服屋の前を通りかかった。そのショーウィンドーに飾られた着物の色鮮やかな生地に、キャサリンは目を引きつけられていた。
「私もいっぺんこんな着物を着てみたい…」
そのキャサリンのうっとりするような表情を目の当りにして、勇魚は中学校の卒業式の日、神社で令嬢の形見の着物を身にまとったときの、胸の奥が甘酸っぱくなるような感触を思い出していた。
「確かに着物ってきれいだけど、けっこう窮屈だよ。着るのめんどくさいし」
「瀬波さんって着物着たことあるんですか。いいなあ」
キャサリンは勇魚の話の内容などまるで聞いていないようだった。
「うちの学校の華道部では、お茶会のときには着物着ることだってあるのよ。この華道部の部長はさっき言った椿絵里香先輩がやってるんだけど、先輩が着物着たらほんとにきれいだったんだから。それに礼法の授業でも、七月になると浴衣の着付けの仕方を習うの。今年の夏には、キャサリンも一緒に浴衣で夏祭りか花火大会に行けるといいね」
キャサリンは成美の話を目を輝かせながら聞いていた。
みんなと別れた後、晃子は勇魚と一緒に歩いて駅に向かう途中でぼそりと口を開いた。
「ねえ勇魚…やっぱりもう一度椎名君にはっきり自分の気持ちを伝えた方がよかったんじゃないの」
「何でいきなりそういうこと聞くわけ」
「いや、さっきあんたが着物についてキャサリンと話していたとき、ついついあの卒業式の日のことを思い出しちゃったから…」
そこで勇魚は、声をすくめて言った。
「実はおととい、あの神社にある椎名の家に電話をかけたんだ。でもそのとき浩三の母さんが出て、浩三は何日か前から水泳部の寮に入ったと言ったんだ。ほんとに選手になってインターハイとか出ようと思ったらそうしなきゃいけないみたいだし、それに浩三はあの神社から離れたかったんじゃないかな」
勇魚の少し口ごもる様子を見て、晃子は勇魚を気づかうようにそっと声をかけてやった。
「勇魚…あまり気にしない方がいいよ。あのことはあんたが悪いわけでも、椎名君が悪いわけでもないんだから」
「そうだよね…オレはあれからしばらくの間、自分はなぜ女になっちゃったんだろうとか、そんなことばかりずっと考えてたんだ。しかしそうやって考えてると、自分がなぜ男として生れてきたのか、それさえもわかんなくなってさ。だからそんなことばかりクヨクヨ考えたってしょうがないよ。それにオレがもしあのとき鏡に触れてなかったら、今ごろあのまま何も考えずに、相変らずクラスの連中とバカやってたままだったんじゃないかって思うんだ。苦しいことだってあったけど、そのおかげでいろいろわかったことだってたくさんあるし。だからオレはこうして女になったことを後悔なんかしてないし、今の現実から逃げる気もない。無理に女らしくしようなんて気もないけどね」
そこで晃子は、少し戸惑いの表情を浮かべて言った。
「ほんとにそれでいいの?」
勇魚は晃子の表情から、いつにないような影を感じ取っていた。
「男の子だったころのあんただって、なかなかいいやつだったし、けっこうかっこよかったのに。でも今になってからはじめてそれに気づくなんて…あたしってバカだよね」
晃子の言葉に勇魚は一瞬びくりとしたが、次の瞬間むっとした口調で答えた。
「何言ってんだよ。オレが男だったころは、そんなこと一言だって言わなかったくせに」
しかし次の瞬間、晃子はけろりとした表情をして口を開いた。
「ちょっと言ってみただけじゃん。気にしないでよ。男の子の『勇』がいるからこそ、今のあんたがいるんだから」
その晃子の言葉に、勇魚は少し表情をほころばせた。しかしそこで勇魚は、自分たちのすぐそばを赤いランドセルを背負い、カラフルな服をまとった小学生の女の子たちが小走りに通り過ぎていったのに目を向けて、気恥ずかしそうな表情をした。
「でもオレには、あの女の子のような過去なんかないわけじゃん。こういうの見てると、自分はなんかすごく後ろめたいことをしているような気がするんだ」
勇魚が表情を少し曇らせると、晃子はそのような勇魚をいたわるようにそっと声をかけてやった。
「そんなの気にすることないじゃん。そりゃ確かにあんたには、普通の女の子とは違うかもしれないよ。でもあんたはあんたなんだから、もっとしゃきっとしな」
晃子が明るく振舞おうとしても、勇魚はまなじりを険しくさせたままだった。その様子を見て、晃子は話題を変えた。
「キャサリンって話し方もていねいだし、礼儀正しくておしとやかな子だよね」
勇魚も晃子に答えた。
「ああ…並の日本人よりずっと『大和撫子』って感じがする。それに偉いよね。高校で親元を離れて一人で外国に留学するなんて」
そこで晃子は、軽く笑みを浮かべて言った。
「あんたと一緒だね」
そう言われて勇魚はきょとんとした。
「どういう意味だよ」
「あんた見てるとつい思っちゃうんだ。あんたってこないだまで男の子だったからこそ、逆にかえって普通の女の子より女らしいんじゃないかってね。変な言い方だけど」
「何言ってるんだよ」
「さっきあんたが街歩いてたときだって、店のショーウィンドーにかわいい服やおしゃれな服が飾ってあったら、けっこう熱心に見てたじゃん」
そのように言われて、勇魚はすっかり赤面していた。
「いや…姉ちゃんに着せ替え人形にされるのも最初はいやだったけど、気がついてみたら女物の服って男物よりずっとバリエーション広いしさ…いろいろ服選んでみるのも楽しいかなって…」
「なんだかんだ言って、あんたもけっこう女の子の生活を楽しんでるんじゃん」
「どうだっていいだろ」
勇魚はふて腐れた表情をした。
「でも勇魚、キャサリンはせっかく日本に憧れて留学したんだから、日本の恥になるようなことしないでよね」
「それはお前だって一緒だろ」
勇魚は少し困ったような表情で答えた。
「ところで明日のオリエンテーションは、何持って行くかわかってる?」
「姉ちゃんにきけばいいかな。でも…女の子ばかりいる中で自分だけ一人泊まるのってやはり不安だな」
勇魚が心配そうな口調で話すのを、晃子は呆れた様子で見ていた。
「今さら何言ってるのよ。でもあんた、あまり変なことしちゃだめよ。もしそんなことがあったら、あんたとは二度と口きかないから」
「オレをもうちょっと信頼しろよ」
勇魚が顔を赤らめてむっとした表情をした。
勇魚は晃子と別れて電車を降り、マンションの自室に戻ると、私服に着替える前にふと息をついて、壁にかかった姿見に自分の体を映してみた。そして勇魚は鏡の中の自分の姿に、あらためて今日学校で出会った少女たちの姿を重ねてみた。
──たしかにオレは、女子校に入れて周りは女の子ばかりで、体育の時間なんかは着替え見放題とか思っていた。でもこの学校はそんな甘いところじゃない。…しかし明桜ってなんであんな美人でかわいい子ばかりなんだろう。でもそれだけじゃない。あんな女の子たちに囲まれて、オレはどう接していけばいいんだろう。
しかしそのうちに、勇魚はもし自分が男のままでキャサリンや鈴音、その他の少女たちに出会っていたら、どのように感じていただろうとふと考えていた。
──オレはようやく自分の体が変ってしまったことを受け入れられるようにもなってきたし、「女」として明桜に通うことへの覚悟もそれなりにできていたつもりだった。でもオレが男のままだったら、たとえ高校で彼女たちに会っても、あんなかわいい子と一緒に学校に通えて良かったくらいにしか思わなかったかもしれない。
そこで勇魚はクローゼットの奥から、卒業式の日に神社から譲ってもらった、令嬢の形見の着物を取り出してそっと広げてみた。勇魚はその薄紅色の生地や、全体に織り込まれた細やかな模様をじっと眺めているうちに、古びたモノクロの写真の中の、あどけなさの中にも凛とした気品のある表情を浮かべた令嬢の姿を思い出していた。
──あのお嬢様に比べたら、オレの悩みなんて何でもないかもしれない。少なくともオレが明桜に入ったのは、誰からも強制されたわけじゃない。全ては自分の意志で決めたことだ。オレは昔だって、ただ藤野さんを遠巻きに眺めることしかできなかった。でも今は違う。たとえそれがどんな結果になったところで、少なくともオレは自分の前にあるものから…そして自分自身から逃げたくはない。
勇魚はあらためて鏡を向き直すと、あらためて胸を張ってみせた。
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