裸足の人魚
第一章・鏡
年が明けると、いよいよ高校受験、そして卒業も目前というわけで、三年生の教室の空気はより張りつめたものとなってくる。生徒たちは休み時間も、参考書や高校の入学案内を広げたり、進路について話し合ったりすることが多くなっていた。
ある昼休み、勇も穏やかな日ざしが深く射し込む教室の片隅で、浩三と進路について話し合っていた。あと一週間もすると推薦入試の出願が始まって、生徒もそろそろ志望校を決定しようという時期だった。
「椎名、やっぱりスポーツ推薦で南隆に行くのか。なんてったってあそこの水泳部は高校総体やインターハイに毎年選手出してるもんな。OBには実業団に入った人もいるし」
「ああ、さっき先生とも話したんだが、なんとか推薦もらえそうだ」
「ほんといいよな。オレもいちおう南隆に行こうと思ってるんだけど、推薦なんかもらえそうにないし。一般で進学コースに行こうと思ってるんだけど、オレの偏差値ではちょっと厳しいかもしれない」
「大したことないよ。オレなんか勉強さっぱりだから、スポーツ推薦なかったらよほど低いところしか行けないからな」
ちょうどそのとき、玲花が二人の前を通りかかった。
「椎名君、スポーツ推薦で南隆に行けそうなんだって? すごいじゃない」
「でも藤野さんこそカトレア女学院に行くんだろ? あの名門のお嬢様学校に。さすがは学年トップクラスの成績だもんな」
しばらく浩三と玲花は、入試や進路のことについていろいろ話し合っていた。勇はその二人に相づちを打つことしかできなかった。
勇はすでに気づいていた。昨年の夏の水泳の大会で、自由形の決勝まで進出した浩三を水泳部員たちで一丸となって応援したとき、力強く泳いで見事に優勝をおさめた浩三に声援を送る彼女の視線が、明らかに違っていたことに。それ以前の問題として、学年のアイドル的存在である彼女は常に男子たちの注目の的になっており、勇が不意に近づいたらみんなにどんな扱いをされるかわかったものではない。勇は何かきっかけでもつかめないものかと思いながらも、彼女に何か話しかけようとするたびに何も声が出なかった。その上さらに玲花がカトレア女学院に行ってしまえば、彼女は本当に自分の手の届かないところに行ってしまう…せめて卒業までの数カ月間にはなんとかしたいのに。そう考えると、勇の心の中には焦りばかりが募っていった。
玲花が離れると、勇は浩三に声をかけた。
「椎名…藤野さんとずいぶん仲がいいんだな」
「もしかして妬いてるのか? お前には石川さんがいるだろ」
「あいつは家も隣同士で小学校上がる前から一緒で、言ってみれば腐れ縁みたいなもんだからな」
「そんなこと言ったらあいつにひっぱたかれるぞ」
「でも藤野さんは仕方ないよ。オレなんかお前に比べたら水泳の腕はさっぱりだし、お前みたいに背が高いわけでもたくましいわけでもないし」
「そう自分のことを悪く言うなって。水泳やるのはタイムを出すためとか大会に出るためとか、まして女にもてるためとか、そんなんじゃないだろ。練習はきつかったかもしれないけど、みんなと一緒に水泳やってて楽しかっただろ。それにお前…中学で水泳部に入ってからだいぶ変ったよ。入部したころは全然目立たなかったのに」
「うん…そうだな」
「なあ瀬波、がんばって南隆に入ろうぜ。コースは違うかもしれないけど、そうなったらまた水泳部に入れよ」
「でも南隆の水泳部って、半端じゃないほど練習きついみたいだからな。休みなんて盆正月以外ないようなものだし」
「それはスポーツ推薦で入って、強化選手として大会を目指す人の話だろ。気にすることないって。それにお前には素質があるんだ。このオレが言うんだから間違いないよ。南隆にはいいコーチだっているみたいだし」
「そのときはお前もコーチよろしくな」
「任せとけって。でもその前には、ちゃんと勉強しなきゃな」
「お前が言うかよ」
「そういうわけで、今度の日曜みんなを集めて、オレんちで勉強会やろうぜ。あと水泳部の連中も一緒にな」
「おいおい、お前んちなんかでやったらかえって勉強できなくなりそうだよ。でもお前んちは広い部屋があるもんな」
「そうだろ? どうせ勉強するなら、みんなで楽しくやらなきゃな」
「はいはい…そりゃお前にとっちゃそうだろ。まさかみんなが勉強するの邪魔しようというんじゃないだろうな」
そこまで話したとき、昼休みの終りを告げるチャイムが鳴った。勇と浩三は軽く「じゃあな」とあいさつをすると、それぞれの席に戻った。
日曜日。勇をはじめとする水泳部の三年生たちは、神社の片隅にどしりと構えている浩三の家の玄関に集まった。呼び鈴を鳴らすと浩三が現れて、みんなを大広間に通してくれた。ちゃぶ台の上に参考書やノートを広げて、わからない問題をききあったり冗談を言いあったりしながら問題を解き、それが一段落すると、浩三の母親の絹枝が出してくれた菓子をほおばったりもした。
勉強会が終ったのは、冬の日が西に傾いて、鎮守の森の葉を落とした梢が、暮れなずむ澄んだ空に鮮やかなシルエットを描き出すころだった。浩三の家の玄関で他の部員たちと別れると、勇はしばらく神社の境内を散歩し、冬の冷たい空気を吸って勉強で疲れた頭を少し冷やそうと思った。
勇は白い息を吐きながら、参道の石畳を踏みしめて歩いた。うっそうとした影を落している木立のすき間からは、ひんやりとした冷気が漂ってきそうな気がした。葉を落した木々の梢の彼方には、沈もうとする夕陽が真っ赤に輝いていた。さらにその鎮守の森の中に構えている、暗くてどっしりとした社殿の奥を眺めていると、勇は小さいころこの神社でかくれんぼや鬼ごっこをして遊んだことを思い出していた。
そのころから浩三はガキ大将格で、弱虫だった勇は鬼ごっこのときにはよく鬼にされたものだった。しかしそれでもなぜか勇は浩三とは気が合った。そして晃子も、小さなころは男の子に混じって元気に遊んでいた。
自分も、浩三や晃子をはじめとする、あのとき一緒に遊んだ仲間たちも高校に入り、それぞれの進路を歩もうとしている。あれはついこの間のことだったような気がするのに…勇はあらためて時の流れの早さを感じていた。
気がつくとそばに浩三が来ていた。
「瀬波、こんなところで何やってんだ」
「いや…勉強してちょっと疲れたから、散歩して頭を休めていたんだ。そうすると昔よくここでお前やみんなとも遊んだなって。社殿の裏の方でかくれんぼをすると、暗くて何も聞こえない神社の奥はオバケが出そうな気がしてこわかったたよ」
「そうだったっけ。でもそれだったら、ここにはもっといろんなものがあるみたいだぜ。オレも何があるか全然知らないけどな」
そして浩三は社殿の傍らに建っているどっしりとした古い宝物庫を示すと、ポケットから鍵を取り出して、普段は固く閉ざされたままの扉を開けた。勇が興味深げに宝物庫の扉に目を向けると、浩三も勇を手招きした。
「じいちゃんからこの中にあるものを取ってくるように言われてさ。お前もちょっと中見てみるか?」
勇が宝物庫に入ると、カビ臭いひんやりとした空気に思わず息をつかされた。しんと静まり返った薄暗い宝物庫の中には、埃をかぶった古い箱や木像が、誰からも目を止められることなくひそかに佇んでいた。鮮やかな色で塗られた古い絵馬も、薄汚れてなにかもの寂しそうな目で勇を見ているような気がした。勇はあたかも昔絵本で読んだ、魔法の森の中に足を踏み込んだかのような錯覚にとらわれていた。
勇は浩三から離れて、いつしか宝物庫の奥に足を踏み入れていた。そのとき勇は宝物庫の奥でふと何かがキラリと輝いたのに気づいた。──それは丸くて古い鏡だった。
勇はなぜかその鏡から目が離せなくなっていた。その鏡は薄暗い宝物庫の中で、ひときわ明るく輝いているように見えた。
勇はそっと鏡を手に取った。裏側に複雑な文様の刻まれたその鏡は、古いにもかかわらず、なぜか普通の鏡とは違った澄み渡った光を放っていた。勇はなめらかな鏡面に映った自分の顔を見つめているうちに、鏡の中に吸いこまれそうな感じがして、一瞬頭がくらりとした。
そのとき、勇の目の前にぼんやりとイメージが浮かび上がった。──あでやかな薄紅色の振袖の着物に身を包んだ、まだあどけなさを残した少女の姿が。しかしその少女は顔つきこそよく見えなかったとはいえ、なにやら寂しそうな表情をして勇の方を見ているらしいということはわかった。
ふと勇が我に返ると、先ほどの少女の姿はどこにもなかった。
──この鏡、いったい何なんだろう。それにさっきの少女の姿は…。
勇が気になりかけたときだった。いきなり鏡が強い光を放ったかと思うと、もやのようなものが鏡の中からたちのぼった。勇はなぜと驚く間もなく、次の瞬間目がくらみ、意識が遠ざかったままその場に倒れこんだ。
浩三も勇からふと目を離したすきに、宝物庫の奥からいきなり強い光が発せられたのを見た。浩三がいやな予感を感じてその方に向かうと、宝物庫の奥の収蔵品の間で勇が気を失って倒れていた。そしてその傍らでは、古い鏡がひんやりとした床の上に転がっていた。浩三はあわてて勇を介抱し、声をかけたが目を覚まそうとしない。浩三はいったい何が起きたのかに疑問を感じる余裕もないまま、勇を家へとかつぎこんで布団に寝かせた。
勇がようやく目を開けたのは、二時間ほどが過ぎて冬の早い日もとっぷりと暮れたころだった。勇が起き上がると、布団のまわりには浩三の家族が集まって、みな安堵の色を浮かべていた。
「オレ…いったいどうしたんだ。神社の宝物庫の中にあった鏡を見ていたら、何もしないのにいきなり鏡がキラリと光ったかと思うと…あれ、なんか頭がぼーっとするし、体がだるい…」
「ほんとに大丈夫か、瀬波。驚いたよ。いきなり変な光が出たかと思うと、お前が宝物庫の奥で倒れてたんだから」
「ほんと心配したんよ。みんながいくら声をかけても起きないし…」
絹枝も勇に声をかけた。
「あの鏡…いったいどうなったんだろう。それにあの着物を着た女の子は…」
「女の子?」
浩三の家族たちは、きょとんとして顔を見合わせた。
「ちゃんとかたづけといたから。それにしてもあの鏡、いったい何なんだろう」
そう言って浩三は勇に鏡を見せた。しかしその鏡を見て勇ははっと息をついた。その鏡は薄汚れた表面に光をただにぶく反射させるだけで、先ほどのような妖しい輝きは消え失せていた。
勇は布団から起き上がると、あたかもキツネにつままれたような面持ちで、黙ったままじっとその鏡を眺めていた。
「瀬波、勉強のしすぎで疲れてるんじゃないか? 今日は家帰ってゆっくり休めよ」
しかし家に帰ってからも、頭がぼんやりする感じと体のだるさは抜けなかった。勇は勉強の進み具合を気にしながらも、カゼかなんかだろうと思って早く床につくことにした。しかしそのときすでに、勇の体の奥では変化が始まっていた。
翌朝勇が目を覚ますと、パジャマは寝汗でじっとりと濡れていた。ベッドから起き上がっても、頭からは重苦しさがひかなかった。何か気がかりな夢を見たような気がするのだが、思い出すことができない。
さらに勇が違和感を覚えたのは胸と腰だ。胸の奥にはなにかむずむずするような感触がつきまとい、腰の奥にもなにかすっきりとしない、重苦しいものを感じた。
制服に着替えようとパジャマを脱いだとき、勇は思わずどきりとした。二つの胸が、ごくわずかにではあるが盛り上がっているように感じたのだ。
勇は心臓が高鳴るのを感じた。乳首に手を触れてみると、なぜかはっと軽くため息をついてしまった。さらに素肌に手が触れると、心なしかその素肌が敏感になったかのような感じがした。アンダーシャツを着ると、その下から乳首がぽつりと透けて浮き出しているような気がしたので、あわててワイシャツを着込んだ。朝食のとき、則子は体調が悪いなら学校を休めばと声をかけたが、勇は入試前の大事な時期を落とすわけにはいかないと思い学校に向かった。
学校に着くと、浩三も心配そうな顔で勇に声をかけた。
「勇、大丈夫か。顔色悪そうだけど」
「あ、ああ、なんとか…」
「気をつけろよ。入試前の今の時期に体調崩したら一大事だからな」
浩三は前日の鏡の一件を思い出して少し不安になった。あれはただの病気ではないのではという悪い予感が少し頭をよぎったが、浩三は多少強引にでも「まさか」と思いこむことでその不安を打ち消そうとした。そしてその日は授業中も気分がすぐれなかったとはいえ、勇もなんとか一日を無事に過ごすことができた。
しかしその翌日になると、勇の胸はかすかながらさらに突っ張っていた。制服の黒いズボンをはいたとき、なんとなくヒップのあたりが窮屈に感じる反面、ベルトの部分がゆるくなっているように感じた。さらにトイレに行って用を足すときも、心なしか勢いがないかのように感じた。
それでもなんとか学校に来ると、校門でばったり晃子に出会った。晃子も昨日から勇の体調が思わしくないことをいぶかしんで、勇にそのことをきいてみたが、勇はただ「なんでもない」と言ってごまかすしかなかった。しかし晃子は、その勇の様子に何かなみならぬものを感じていた。
「勇、なんか声が少し高くなってない? カゼひいたの?」
勇は困惑した表情を浮かべながら、晃子のもとを立ち去ろうとした。しかしそのときの勇の後ろ姿を見て、晃子は黒い学生服の詰襟からのぞくうなじが色白になっているのに気がついた。晃子はその勇の姿に何かただならぬものを感じて、これ以上勇に何も声をかけることができないまま、しばらくその場に立ちすくんでいた。
そして授業が始まってからも、勇の頭の重苦しさはますます激しくなっていた。さらに重苦しい痛みが間断なく勇の下腹部を襲い、とうとう勇は休み時間に教室を移動する最中に、立つことすらままならなくなって、廊下の上に倒れこんでしまった。勇のまわりに人垣をつくった生徒たちも、数日前まで元気だった勇の容態の変化に戸惑っていた。
保健室に運ばれてからも、重苦しい痛みが間断なく勇の下腹部を襲い、起き上がることすらままならなくなった。勇の体の変化は、いよいよ本格的に加速し始めたのだ。額に汗を浮かべて激しく呼吸をしながら苦しげな表情を浮かべる勇を見て、保険医はただごとではないとさとると、すぐに病院に電話して勇を救急車に乗せた。
病院の医師たちにとっても、このような症状は今までに見たことがないものだ。勇は病院のベッドに寝かされると、ようやくぐっすりと眠りに落ちていった。そしてそのまま、すぐに勇は病院の奥で精密検査を受けることになった。その日は綾乃、そして則子や雄一も仕事を早く切り上げて病院へとかけつけたが、面会はかなわなかった。
病室のベッドで検査を受けている間も、勇は目を覚まそうとしなかった。しかしその間に、勇の体の変化の度合いはますます速まっていった。二つの胸はますます大きくふくらみ、丸みを帯びた弾力のあるものへと変っていった。全身の肌は血の色がひいて蒼白になっただけでなく、つややかできめ細かくなっていった。体毛も太くてごわごわしたものから産毛へと生え変り、ウエストはくびれて細みを増す反面、ヒップは大きくふくらんでいった。そして肩はなで肩になり、手足も筋肉が落ちて細いしなやかなものへと変っていった。
医師たちはそのような勇の体の変化を見て、いったいどうすればいいのか、どのような治療を施せばいいのか、一切面会謝絶にしたまま手をこまねいて見守る以外になかった。
勇の下半身のレントゲン写真を見て、勇の担当医の黒田圭一は考え込んでいた。そこに写っていたもの…それは子宮と卵巣だった。一方で睾丸は溶けるようにしてなくなり、股間の膨らみも小さくなってあたかも体内に吸い込まれるかのように退化し、女性のものへと姿を変えつつあった。
黒田はそんなばかなと思いながらも、目の前にこうまであからさまに現実を見せつけられると、それを信じないわけにはいかなかった。勇は本当に回復できるのか、仮に回復できたとしてもその後の人生をどのように送ればいいのか、医師として何ができるのか──考えれば考えるほど、疑問は深まるばかりだった。
ちょうどそのとき、医務室のドアをノックする者がいた。神社の神主の衣裳を着た老人──浩三の祖父の椎名源蔵だった。
「椎名さん、今ここにいる瀬波君はあなたの神社で保管していた古い鏡に触れたときから身体に異状をきたしたようですが、何か心当たりはないでしょうか」
「あの鏡は当社に伝わる物なのじゃが、今になって保管されている文書を見て由来を調べてみたんじゃ」
そして源蔵は鏡の由来を語り始めた。
──その鏡は明治の昔、ある令嬢の持っていたものだった。彼女には意中の人がいて結婚の約束まで交わしていたが、その相手の家が事業に失敗して破産したために、結婚話は破談になってしまう。ほどなくして彼女は悲嘆のあまり重い病にかかり、若くしてはかない生涯を終えたのだった。──それ以来その鏡を持つ者には不幸が訪れたため、令嬢の無念がその鏡に宿っているのではとうわさされるようになった。そのため浩三の祖先にあたる神社の宮司が、厄払いをして鏡を神社の奥深くに封じ込めたのであった。
そして源蔵は、おそらく鏡の奥に封じられた令嬢の無念、そして生きたいという意志が勇の体に取りついたものだろうと語った。
「まさかこのようなことが本当にあるとは。我々としてはどのようにすればよいのでしょうか」
話の一部始終に聞き入っていた黒田が、神妙な面持ちで口を開いた。
「あくまで臆測じゃが…この鏡にとりついた魔力はさほど悪質なものではないようじゃ。勇君の体をつくりかえはしたものの、それ以外の点で危害を加えることはないじゃろう」
「ということは…我々としてはそのお嬢様のことを信じて、おとなしく行方を見守るしかないのですか。でも問題は、勇君が果たしてその現実を受け止めることができるかどうかですな。むしろ症状が回復してからの方が大きな問題でしょう」
源蔵も黙ってうなづいた。
勇の入院から一週間ほどが過ぎて、カレンダーもいつしか一月の末になっていた。その間に高校の推薦入試は終って合格者が発表になり、一般入試もいよいよ本番という時期にさしかかっていた。しかし勇はそのようなこともそ知らぬまま、あたかも羽化して成虫になる前の昆虫のさなぎのように、病室のベッドの中で眠り続けていた。
黒田は毎日勇の体の様子をチェックして、体の変化もほとんど終り、容態も安定しつつあることを確認していた。この調子でいくと近いうちに…と黒田は予感していたが、その結果については神に祈るしかなかった。
そしてついにそのときが来た。勇がゆっくりと目を開けると、まず殺風景な白い天井が目に映った。そこは冬のやわらかい日がさしこむ病室だった。勇は自分がどこにいるのか、そこで何をしているのか、にわかには理解することができなかった。
──そうだ、オレ、体調が悪くなって、そのまま病院に運ばれて…。
勇はようやく我に帰ると、ゆっくりとベッドから上半身を起こした。しかしそこで胸の感触が今までとは違うことに気がついた。そう、勇のふたつの胸は大きくふくらんでいたのだ。勇がまさかと思ってあわてて胸に手を当ててみると、丸みを帯びた弾力のある乳房がむにゅりと凹んだ。そしてそのままそっと手を動かしてみると、その胸がパジャマの奥でかすかに揺れる感触に戸惑うあまり、思わず口から「あ」と声が漏れてしまった。その声も、これまでの自分の声よりずっと高くて澄んだ声だった。
勇は自分の身に何が起きたのか理解できなかった。あわてて毛布の中で下半身に手を這わせると、股間にあった膨らみは消えて、女性のものに変っていた。勇はもはや自分の手に触れるものすら信じられなくなって、その自分の両手を目の前に持ってきてしげしげと眺めた。すると手の指も細く繊細なものに変っていた。
──そんなバカな。
勇は毛布をはねのけ、そのままベッドから立ち上がった。しかしあらためて体のあちこちを眺め回し手で触れてみても、自分の体の感触が以前とすっかり変わってしまったということだけは疑いようがなかった。
勇はその場にうずくまった。なぜこのようなことになったのか、そしてここはどこなのか…考えようとしても意識が混乱して何が何やら理解できなかった。勇は自分が悪い夢のさなかを漂っているとしか思えなかった。
ちょうどそのとき、背後で病室のドアが開く音がして黒田が入ってきた。勇はそのときは黒田がどのような人物なのかわからなかったが、そのようなことを気にする余裕もないまま黒田に詰め寄った。
「これはいったいどういうこと…」
黒田は勇が目を覚ましたのを見てはじめは目を丸くしたものの、勇をなんとか落ちつかせてベッドへと戻らせ、そこで洗いざらい真相を語って聞かせた。
ひととおり黒田の話が終ってからも、勇はにわかにそれを信じることはできなかった。自分が十日以上もの間病院で眠り続けていて、そしてその間に自分の体が女に変ってしまうなんて…。ベッドの中でうなだれる勇の姿を見て、黒田もやりきれない表情を浮かべた。
「元に戻る方法は…」
「源蔵さんから話を聞いたけど、そのような方法は今まで確認されていないようだ。それにこれは医学の力でどうこうできるような問題でもないしね。ともかくしばらくは落ち着いて様子を見るしかないね。もしそれで君が心や体のことでいろいろ悩みが消えないのなら、私にも遠慮なく相談すればいいよ。その上で対策を考えればいいから」
「で、でもオレ…これからいったいどうすれば。受験だってあるのに」
「それは君自身が決める問題だな。ゆっくり考えるといいよ」
しかし勇には、自らを突然見舞った運命の重さを考えると、とてもそこまで考えをめぐらす余裕はなかった。
それ以来しばらく、勇は病室の中でただぼんやりと空を見つめるのみだった。病院でもこれは例がないケースだというので、検査ばかりを受けさせられる日が続いていた。それと平行してカウンセリングや生活面での注意も行われていたが、トイレで用を足す時には看護婦につきそわれて女性用に行き、坐って用を足す方法を教えてもらったとはいえ、パジャマのズボンを下ろすと、勇はそこから目をそむけたくなった。
もちろん勇も、思春期の少年の常として、性に関することには関心も一通り持っていた。クラスの友達と一緒に下ネタで盛り上がったこともしょっちゅうだったし、こっそり隠れてヌードのグラビアを見たことだってある。しかしこれがまさか自分自身のものになるとは想像もできなかった。
勇は一人病室に残されると、ベッドの中で胸を高鳴らせながら、何度もパジャマの裾から手を入れて、大きくなった自分の胸に手を触れてみた。そしてその胸をそっと揺らしてみると、今まで感じたこともなかったような感触が心を満たしていくのにどきりとさせられた。しかしいざ我に帰ると、自己嫌悪に陥り毛布の中でうなだれる以外になかった。
しかし体調そのものは、目が覚めてからしばらくの間こそ重苦しさや違和感がひかなかったものの、病院で検査ばかりを受けさせられるうちに徐々に回復していった。こうなってようやく周囲を見渡す余裕が出てくると、勇は受験や学校の友達のことが気になり出していた。今ごろはちょうど入試の出願期間の最中で、みんな志望校を選んだり勉強したりしてるのに…。そう思うと心の中で焦りばかりが募る一方だった。
そうして担当の医師や看護婦にも感情的に当り散らすばかりの勇を見て、黒田もどうすればいいのか考えていた。そして黒田は勇の家に電話をかけて、勇の家族を病院へと呼び寄せた。
勇の病室に黒田が入ると、勇はベッドの中で、黒田から手渡された「性」についての本を読んでいた。黒田はベッドの傍らに寄ると、勇に語りかけた。
「瀬波君…この本を読んでいてわかったんじゃないかな。男女の違いは単純にひとくくりにできるものじゃないということに」
「でも先生…わからないんです。自分はこれまで体も心も男だということを疑うことなんかなかったのに、それがこれから何を信じればいいのか…」
「君がそうやって悩むのは当然のことだよ。君はこれまで男として生きてきたんだからね。でもそうして君が君として生きてくることができたのは誰のおかげだと思う?」
そう言って黒田が合図をすると、病室に勇の両親と綾乃が入ってきた。勇はその家族の姿に思わず目を丸くした。入院以来久しぶりに見た家族の顔はやつれていた。勇が入院している間、みんな夜も眠れぬ不安な日々を過ごしていたのだろう。
ベッドに寝ている勇を見て、則子は表情をほころばせた。彼女はそのままベッドの傍らに行くと、勇の細くなった指を手に取った。
「勇…なんとか元気になったのね」
そのまま則子は両目に涙をためながら、勇の体をしっかりと抱きとめた。勇も則子に寄り添いながら、両目から涙があふれるのを止めることができなかった。
「母さん…オレ、まさかこんなことになるなんて…受験はいったいどうすれば…」
「勇が入院している間、みんなすごく心配していたの。黒田先生から話を聞かされたときは、さすがにショックだったわ。でもこうして見てると、いくら女の子になったとはいえ、やはりこの子は勇よね。どのような形であれ勇が元気になってくれることに比べれば、受験なんてなんでもないわよ」
「あの…椎名は…」
「あのね、椎名君は南隆に推薦で入学が決まってから、何回か病院にお見舞いに来てたのよ。面会謝絶と先生に言われたら、せめてこれを渡してくれって」
則子は勇に、浩三の書いたメッセージカードを手渡した。カードにはこのように書かれていた。
「瀬波へ。
オレはなんとか推薦で南隆に合格することができた。
でもお前のことが気になって、いまいち喜ぶことができない。
なあ勇、一日も早く元気になってくれ。
そのためだったらオレは何でもするから。
そして元気になったら、また一緒に水泳がんばろうぜ」
カードから目を離すと、勇はうなだれるしかなかった。浩三は自分のことを気にかけている。しかしこの今のような体で、いったいどのような顔をして浩三に会えばいいのか。「一緒に南隆に行こう」と言っていたのに…そもそも自分が、あのとき宝物庫の奥に足を踏み入れたりしなければ…。
深い苦悩の表情を浮かべる勇の肩に、則子がそっと手を置いた。
「勇、あまり自分を責めないで。椎名君だってすごく悩んでたんだから。あのとき勇を自分の家に呼んだりしなければ、入院したりはしなかったのにって…。勇、この鏡で自分の顔を見てごらん」
則子はハンドバッグから手鏡を取り出した。「鏡」と聞いて、勇はあの宝物庫での事件を思い出して身を引きそうになったが、思いきって手鏡で自分の顔を見てみた。しかしそこに映っていた自分の顔は、心なしか以前より頬がきめ細かなものになり、両目がぱっちりとして眉が細くなり、まつげが長くなったような気はするものの、「瀬波勇」の面影はそっくりそのまま残っていた。入院中にうなじにかかるくらいまで伸びていた髪も、以前に比べてつややかなものになっていた。勇はあらためて鏡を見て、自分の顔がさほど変っていなかったことに多少安堵した一方で、自分の顔が女になってもそれほどの違和感がないということには、別の意味で複雑な気持ちにさせられた。
「勇、むしろこれからが大変かもしれないけど…私もパパも、綾乃もついてるから」
「母さん…」
勇は母親の膝枕で泣き崩れていた。則子はハンカチで勇の頬の涙をぬぐってやった。
綾乃もその間、うつむいて唇を噛みしめながら勇の姿を見ていた。雄一は無言のまま、勇ともあまり視線を合わせないようにしていた。日ごろから無口な父親だったが、表情にもありありと疲れが浮かんでいることが勇の目からも見てとれた。
「父さんはいったい…」
「パパはあなたが入院して、病院からほんとのことを聞かされるとすごく落ち込んでるのよ。パパは勇に対して、一人息子として期待をかけてたのに」
これまでは雄一は則子に「パパ」と呼ばれるといやそうな顔をするのが常だったが、今の雄一はそのようなことを気にするそぶりもないほど考えつめた表情をしていた。勇も謹厳だった父親の元気なくしょげた姿を見て、これ以上どのような言葉をかけていいのかわからずに戸惑っていた。そのとき綾乃が勇に声をかけた。
「勇、もっと元気出しな。あんたがそんなに落ち込んでるとこなんて見てられないよ」
「でもオレ、これからいったいどうすればいいんだろう」
「それはこれからじっくり考えればいいことだわ。いくら体が変ったからといって、何も朝目が覚めたらへんてこな虫になってたとかいうわけじゃないでしょ。ともかく今は、体を健康にすることを第一に考えな」
「でも…ほんとに大丈夫なんだろうか」
「そりゃあんたのがんばり次第だわ。ところで、もしこれから生活するとしても、女が『勇』という名前なのは不自然じゃない?」
勇はすでに、自分が綾乃からも「女」として認識されていることに戸惑いを覚えた。しかし綾乃はさらに言葉をついだ。
「あのね、その点についてはもう考えてあるの。『勇魚』というのはどう?」
「いさな?」
勇がきょとんとしていると、綾乃は傍らにあったメモ用紙に「勇魚」と書いた。
「『勇ましい魚』と書いて『いさな』と発音するの。『勇』とは一字違いだからいいでしょ。『勇魚』というのはクジラの古い呼び名なのよ」
「クジラは哺乳類で魚じゃないだろ」
「えっと、まあ細かいことは気にしない」
勇は一瞬綾乃に不審そうな目を向けた後で、雄一の顔を見た。以前に自分の「勇」という名は、生れたときに雄一が勇敢に育ってほしいという願いをこめてつけたものであるという話を聞かされていたからだった。雄一はそのまま黙ってうなづいた。
しばらくして黒田が家族に面会時間が終ったことを告げた。あいさつをして家族が病室を出る間際、黒田は勇に声をかけた。
「これでわかっただろう? ベッドにしばりつけられていることを考えたら、健康な体さえあればその気になれば何でもやれるって」
勇もうなづいて黒田にお礼を言った。家族が立ち去って病室に一人残されると、勇はテーブルの上に「勇魚」と指で字を書いてみた。
「勇ましい魚、か…」
勇はいろいろ考えごとをしてばかりいても仕方ないと思って、ふと息をついて病室の天井を見上げた。
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