強い日ざしが、プールサイドのコンクリートをじりじりと照らしつけている。もやもやと揺れるかげろうの彼方では、つきぬけるような青空の中に入道雲がぽっかりと浮かんでいる。土ぼこりの立つ校庭の傍らにある花壇には、黄色いひまわりや赤いカンナの花が咲き誇っている。じっとしているだけでも汗が吹き出しそうな、しんと静まり返った風もない夏の昼下がり。
ここ錦ヶ丘中学のプールでは、夏休み中にもかかわらず、水泳部の部員たちの威勢のいいかけ声が響いてくる。夏になると大会が連続する上、三年生にとってはこの夏の大会で引退して高校受験に専念することになるので、練習にも自然と熱が入るようになっていた。屋外のプールで練習を繰り返すうちに、どの部員も水着の跡だけを残して日焼けで真っ黒になっていた。
準備運動や基礎トレーニングが終ると、三年生の部員たちはプールの端に横一列で並んだ。瀬波勇もその中に混じり、飛び込み台に上った。彼は水泳部員の中ではむしろ小柄でおとなしい方だったが、中学入学と同時に水泳部に入部し、練習を重ねるうちにめきめきと腕を上げていった。すぐ隣のコースのがっしりとした体格の生徒は、彼と同じクラスの椎名浩三。彼は水泳部のホープで、スポーツ枠で水泳の名門高校に推薦入学することも有力視されている。
勇は両目にゴーグルを当て、揺れる水面をじっと見つめた。そしてコーチの笛の合図とともに体をすらりと伸ばして、プールの中に身を踊らせると、手足を動かして力の限り水をかいた。しかしどの部員も、ムダのないフォームで勢いよくプールの水面を切り裂いていく。
勇がターンしてスタート地点に戻ったのは、浩三が勇に大きく差をつけて悠然とゴールを決めた後だった。勇が遅れてゴールインすると、浩三が勢いよく勇に手を差し出してきた。勇はガッツポーズでそれに応えた。
ふと一息つくと、女子部員の方からも歓声が上がっている。特に一人の女子部員がプールから上がり、スイミングキャップを取ってセミロングの髪についた水滴をはらうと、男子部員たちの目は彼女にくぎづけになった。彼女の名は藤野玲花。水泳だけでなく勉強の成績も学年のトップクラスで顔も美人とあって、男子の間にはひそかに熱をあげている者も大勢いる。シンプルな水着は彼女の抜群のプロポーション、そしてそこから伸びたすらりとした手足を余すところなく強調していた。彼女が立つと、強い日ざしが照り返すプールサイドに一陣の涼風が吹いたような感じがした。
勇もしばらく玲花の姿に見とれていると、浩三にこづかれた。
「瀬波、なに見とれてるんだよ。練習再開だぞ」
勇は我に返って練習に戻った。
練習が終るのは、影が濃さを増して長く伸び、涼しい風が吹きはじめるころだった。水泳部の部員たちはシャワーを浴びて、一斉に更衣室へと戻った。
「椎名、お前ってやはりすごいよな。オレなんか全然かなわないよ」
「いや、瀬波だってタイムはだいぶ縮まってるじゃないか。人のことなんか気にしないで、もっと自分に自信持てよ」
「でもお前はこの夏の大会でも決勝まで行けそうだもんな。オレなんかせいぜい予選出るのがせいいっぱいだよ。あーあ、帰ったらまた勉強だ」
「ところでお前、さっき藤野さんの方ばかり見てなかったか?」
「い、いや…その」
「いや、藤野さんってほんと美人だし、スタイルも抜群だもんな。気持ちはわかるよ。でもだからといって練習サボるなよ。第一お前にはもったいないよ」
勇と浩三はタオルで体についた水滴をぬぐった。着替える前、勇は浩三の方をちらりと向き直した。彼はさすがに水泳部のホープというだけあって、背が高く肩幅も堂々としているし、たくましい胸や手足も贅肉がなくきりりと引き締まっている。それに比べると勇は背丈も低くて肩幅も小さい。顔つきもどちらかというと女顔で、浩三の精悍な顔に比べるとあどけなさが抜けてはいない。勇は浩三と自分を見比べてみて、ふとため息をついた。
勇は半袖のワイシャツと黒い学生ズボンの制服に着替えて、学校を後にした。勇と浩三は家の方向が同じなので、途中までは一緒に帰るのが常だった。
勇と浩三が世間話をしながら、西日が照り返す通りを歩いていると、やがてうっそうとした鎮守の森が見えてくる。浩三の実家はこの古い神社の神主で、鳥居に続く石畳の参道の脇にどっしりとたたずんでいる、社務所を兼ねた古い重厚な家が浩三の家だった。
鳥居のところで浩三と別れると、勇はしばらく神社の境内を眺めていた。喧噪が絶えない街の中で、この静まり返った神社だけは別世界のように見える。参道の石畳の上には、青々と葉を茂らせた鎮守の森の木立が濃い影を落している。そしてその参道の奥に構えている、古びてどっしりとした社殿の影は、真夏の太陽の照り返す中でも薄暗くてひんやりしている。時折思い出したように勢いよく聞こえてくるセミの鳴声も、そのしんみりとした空気の中にしみこんでいくような感じがする。
ちょうどそのとき、後ろで呼び止める声があった。
「勇、部活の帰り? 椎名君と一緒に帰ったところでしょ」
振り向くと勇の同級生の石川晃子が、鳥居のかたわらに立っていた。彼女は勇と家も隣同士で、二人が物心つかないころからずっと家族ぐるみのつきあいをしていた。
「ああ…晃子じゃないか。いままで塾か?」
「そうよ。でも勇、水泳部に精を出すのはいいけど、ほんとに高校受験大丈夫?」
「八月の頭に大会があるからな。それ済んだらやめて勉強するよ。椎名くらいの腕があったら推薦もらえるかもしれないけど、オレはとてもそこまではいかないし」
「だったらこんな神社で油売ってないで、さっさと家帰って勉強したら?」
「いや、ついつい昔ここで遊んだこと思い出しちゃって」
「そうよね。あたしもよく勇や友達とこの神社でいろいろ遊んだっけ。椎名君なんかあの高い木に登ろうとしたこともあったし」
そう言って晃子は、明るさを失いかけた夏空を見上げた。
二人はそのまま一緒に坂道を登り、二人の家のある高台の住宅地に向かった。
「勇は高校どうするの?」
「あまり遠くないところがいいかな。できれば水泳部のあるとこ行きたいし。晃子は?」
「できれば私立に行こうかなとか思ってるんだけど。まだ決めてないんだ」
「晃子の成績だったら、高望みしなきゃだいたい行けるんじゃないか」
二人の家の前まで来ると、ちょうど勇の四歳年上の姉の綾乃も家に戻ったところだった。彼女はちょうど今年の春に大学に入ったばかりで、一見ちゃらんぽらんそうに見える。しかし晃子は彼女のことを「綾乃お姉ちゃん」と呼んで、実の姉のように慕っていた。
「勇、晃子ちゃんと一緒なの」
「綾乃お姉ちゃんはサークルですか?」
「うん、まあね。でも晃子ちゃんはちゃんとまじめに勉強してるのに、勇ももうちょっとまじめにやんなきゃ。母さんもぶつくさ言ってたよ」
「なんだよ、姉ちゃんまで」
「ま、勇が水泳やりたいなら悔いが残らないようにとことんまでやればいいけど。そうやって気持ちを切り替えた方が、勉強にも身が入るでしょ? それに勇、中学入るまではあんなグズで弱虫だったのに、水泳部で鍛えられたおかげですごくたくましくなったよ」
綾乃が勇の浅黒く日焼けした顔を見て言うと、晃子もそれに続いた。
「そうよね。勇は小学校のときはどっちかというと目立たなかったのに、中学入ってからなんか男らしくなったもんね」
ちょうどそのころ、晃子の二つ違いの弟の栄介もサッカー部の練習から家に帰ってきた。
「姉ちゃん、このところ勇兄ちゃんと仲いいよね」
「どういう意味よ、栄介」
晃子はふて腐れて言った。
「でも晃子も小学校のときは乱暴でいたずらばかりして、しょっちゅう怒られてばかりいたのに、最近なんか大人っぽくなったよな」
「そうそう。姉ちゃんは最近アクセサリーとか集めたり、ずっと鏡に向って髪型とか考えたりしてるし」
「あんたら、言わせておけば…栄介も後で覚悟しときなさい」
そう言って晃子は勇の手をつねった。
「晃子ちゃんもそういうとこなんかは昔のままよね」
綾乃に言われて、晃子は顔を赤らめた。
「たくもう…。でも綾乃お姉ちゃんも大学に入ってからますますおしゃれになったのに、あたしもそういうのにもうちょっと気を使った方がいいかなって思ってるんだけど」
「おしゃれなんかいつだってできるでしょ。高校受験は一生に一度だからね。それに自分らしいおしゃれの仕方なんて、そのうちわかるようになるわよ」
晃子が綾乃の言葉に少しほっとした表情を浮かべて、栄介を連れてそそくさと自分の家に入るのを見送ると、勇と綾乃も自分の家に入った。
日が暮れるころになると、勇と綾乃の母親の則子が保険外交員の仕事から帰ってくる。そして夕食の準備が始まり、勇と綾乃、則子の三人で夕食のテーブルを囲んでいろんなことについて話し合う。父の雄一は仕事が忙しくて、夕食の時間に間に合わないことが多くなっていた。
夕食がすむと勇は自分の部屋に戻り、テレビも見ずに机に向かった。しかし練習疲れが残っているせいか、ノートにシャープペンシルを走らせる速度も鈍りがちだ。ついうとうとしかけると、いきなり後ろから頭をこづかれた。
「これ、寝るんじゃないの」
勇魚が振り向くと、綾乃が立っていた。
「姉ちゃん…部屋に入る前にはノックくらいしろよ」
「何よ、今ごろこうなってるだろうと思って起こしに来たのに」
そうやって二人がいがみあっているとき、則子が声をかけてきた。
「二人ともいいかげんにしなさい。お風呂わいてるから早く入ったら。でも勇、ほんとに水泳部もいいけどもうちょっとまじめに勉強したら?」
「だからもうすぐやめるって」
ちょうどそのとき雄一も会社から帰ってきて、瀬波家はひときわにぎやかな談笑のひとときを迎えた。
──しかし、このわずか半年後に、どこにでもいるような中三の受験生だった勇の運命が急転するとは、いったいだれが予想しただろうか。