<二松学舎> フェニックス(前) 福島正美
207A (二松学舎の学生の作品はいずれも作者の了解を得て掲載しています)
想像する。 暗闇の中、細い炎が文字を舐める。白い光が酸素を求めて、痙攣するように暴れる。言い知れない熱が高まっていく。僕は目を閉じる。赤。金属の皮一枚を隔てて、熾き火は密やかに燃え広がっていく。僕は腐蝕された金属の皮膚に、額を押し当てる。熱。耳の横で心臓が鳴っていた。剥げた塗装の先端を指先で折り取る。記憶。熱い、燃えているのだ。瞼の内側で、星が壊れていく。鼓動。文字がその本質を失い、永遠に暗闇の中へ消えていく。その華奢な断末魔を聞き取ろうと僕はますます顔を押し当てる。金色。吐く息が熱い。ぎざついた錆の匂いに、熱の籠もった煙が混ざった。炎上する、誰かの思い。それを吸う。逃がさないように呼吸して、取り込む。抱擁。僕は想像する。想像する。
深呼吸をして、僕は顔を上げた。 額に汗をかいている。手の甲でそれを拭い、乾いた唇を舐める。腕の内側のやわらかいところに張り付いていた、錆びた赤い塗装を指先でこそげ落とした。 朝の光が目に眩しい。まだ若い緑の稲が、風に凪いで揺れている。 ポストは普段と変わった様子もなく、湿った畦道に立ち尽くしていた。 腹の底に飼う熾き火のことなど、まるで知りもしないといった顔をして。 僕は口の端で笑うと、その赤い体を手のひらで軽く叩いた。平たい金属の音がする。 視線を感じて振り向くと、少し離れたところに女の子が立っていた。 白いワンピースから伸びた腕が、朝の太陽に薄く光っている。小さな犬がその足元に座っている。少し淡白な顔に見覚えがあった。同じ高校、いや、同じクラスだったかもしれない。切れ長の目が、茫洋と僕を見ている。僕もまた、色のない目で彼女を見返した。 数秒見つめあった後、彼女はなにも言わずにきびすを返した。小さな犬がそれに従う。まだ幼い太陽が、彼女のワンピースを薄明るく照らしている。その背中が畦道の遠くへ吸い込まれていくまで、僕は見るでもなくそれを見ていた。 僕はゆっくりと首を回し、地面に倒れていた自転車を引き起こした。朝露に濡れたサドルを手で払い、跨る。ペダルに掛かる抵抗を立って押し潰し、僕は走り出した。 高鳴っていた鼓動は、今は収まっている。色の薄い東の空を睨む。 象牙色の空に、青い雲の影がゆっくりと滑っていく。
家から自転車でほんの五分のところに、この田んぼの海はあった。 東京といっても郊外にあるこの街は、開発と頓挫を繰り返した名残で、パッチワークのようにちぐはぐな顔をしている。高台に作った学校や高層マンション、行き届いた街路樹のプロムナードの間を縫うように、田畑や小山が点在している、それが僕の街だ。垢抜けない部分を隠しきれないまま、むりやり近代都市のように取り繕っているのだ。 小学生の頃にこの街に引っ越してきた当初は、そのいびつさにずいぶん戸惑った。だが、高校も三年になった今では、その違和感ごと僕の体に馴染んでしまったらしい。 畦道からアスファルトに乗り上げる衝撃を、ハンドルを握る腕で押し殺した。
しばらく自転車を走らせ、歪んだ家の前で止まる。片足を地面に着き、自転車のベルをガチャガチャと鳴らしながら、僕は呼びかけた。 「キリエ、学校」 返事はない。元から一度で返事が返ってきたことなどないのだが、つい毎度手を抜こうとしてしまう。僕は舌打ちして自転車を降りると、スタンドを壊してしまっているそれを地面に横たえた。雑草の生い茂る庭へ、苦労して足を進める。 「キリエ、起きてないなら置いてくぞ」 僕は家の前まで歩み寄ると、声を大きくしてがなった。切江の家にインターホンなんて気の利いたものはない。テレビも電子レンジもないのだから、当然といえば当然だ。 返事はない。諦めようとしたとき、ギシギシという耳障りな音が聞こえた。 顔を上げると、二階の窓が内側から大きく撓んでいる。ガラスが割れるんじゃないかと思ったそのとき、窓はほんの僅かに右にずれて開く。そこから切江の顔が覗いた。 「おはよう、ちょっと待って!」 切江は切羽詰ったように叫び、その顔がすぐに引っ込む。慌しい空気が、薄すぎて用を成さない壁から伝わってくる。この家は、建築基準法に違反しているんじゃないだろうか。 切江の家は街でも有名な貧乏だ。建物全体が、地面に立っているのが不思議なぐらいに歪んでいる。古びた建材が惰性で抱き合って、どうにか建物と呼べる均衡を保っているみたいだ。この歪んだ家は十数年前から変わらずここにあって、再開発が盛り上がっていた頃にはずいぶん非難されたらしい。先に言ったようにテレビも電子レンジもなく、たぶん風呂もついていない。ナイジェリアなんかへ支援に行かなくても、ここへ来れば貧困の実態を目にすることができる。 切江はこの家に、父親と二人で暮らしている。理由は知らないが、母親はいない。父親は昼間はたいがい家にいて、遊びに来た僕と目が合うと照れくさそうに片手をあげる。彼は定職に就いておらず、ときどき働いては、ギリギリで食いつなげるだけの生活費を稼いでくるのだという。電気代やなんかは、切江のバイト代で賄われているらしい。 「悪ぃ、待たせた」 声がしてから立て付けの悪いドアが軋み、数秒してから切江が出てきた。本当だよと僕は言って、雑草の茂る庭を出る。切江が背後から、怒るなよと叫んだ。 「サワシロ、生物の宿題やった?」 「宿題? なにそれ」 「や、俺も今朝思い出して。もしサワシロやってあったら、写さしてもらおうと思って」 「やってあるわけないじゃん。つか、初めて知った」 「だよなぁ」 ロンパリ気味の目をたわませて、切江はへらりと笑う。自転車を引き起こす目の端で、それを見た。いい加減直せよスタンド、と切江が指差す。うるせぇなぁと言って切江の腿を蹴った。切江が笑う。 朝の空気を抜け、空が青く染まり始めている。僕は目を細め、ペダルを漕ぎ出した。
学校は、だらだらと長い坂を上りきったところにある。 坂道の負荷に足がしびれ始めた頃、学校についた。変な場所に建ててんじゃねぇよなと、切江が毒づく。自転車を止めてから、校舎へ入った。三年の教室は三階にある。だるく鈍る腿を引きずりながら、階段を登った。 教室へ入ると、数人が固まっている。荷物を机に置いていると、声がかかった。 「サワちゃん、宿題やってきた?」 「宿題? 生物の? やってねぇ」 「あ、生物もあったんだっけ。じゃぁ英語は?」 「英語もあったの? 知らない、やってない」 全滅かよ、と騒ぐ一群に、僕は入っていく。手近にあった椅子をがらがらと引いて、輪の中へ収まった。切江は僕から離れ、教室の一番後ろにある自分の席に鞄を置いている。そのまま席に着く切江を尻目に、僕は机の上に広げてあったスナック菓子をつまんだ。 「まぁいっか、吉田君とかやってあるでしょ」 「吉田君休んだらどうする、サワちゃん確か当たるよ今日」 「マジかよ、吉田来なかったら怒るよ俺」 「怒る前に自分でどうにかしろよ」 げらげら笑う輪の向こうに切江の姿が見える。僕はふと声を上げた。 「――キリエ、お前英語の宿題やった?」 一番後ろの席で頬杖をついていた切江の肩がぴくりと動き、切江はこっちに顔を向けた。声を掛けた僕に気づいたらしい。へらりと例の笑いを笑うと、首を横に振った。 そっかと言って僕は切江から目を離す。周囲が声を潜めた。 「キリエ君が宿題なんか、やってこねぇっしょ」 「や、そうでもないよ。あいつけっこう真面目だし」 「え、そうなの? でも授業中いつも寝てんじゃん」 「そうだっけ。でも宿題とかは俺よりちゃんとやってるよ」 釈然としない顔に囲まれながら、僕は切江を見た。胸が、がさりと音を立てる。 本人に人見知りの気があるせいもあって、切江にはあまり友達がいない。父親の風評もあり、街の人々はこの父子を避けていた。切江は、同い年の子供とほとんど遊ばずに育ったらしい。小学校のときに転校してきた僕は、そんなことは知らずに切江と友達になった。しかし、僕と切江が友達になった後にも、他の子供たちは明らかに切江を避けていた。いや、恐れられているのだろう。栄養失調で茶色い髪も、縦にばかり伸びた背も、周囲に威圧感を与えているらしい。少し話せばそれが誤解であることもわかるのだが、本人に誤解を解く気がないらしいので、僕も放っておいている。学校でも、僕が他の友達といるときに切江が話しかけてくることはなかった。 「サワちゃんさぁ、よくキリエ君と話できるね」 「別に、なんで」 「だってさぁ……」 幾人かの表情が曇る。気まずそうに顔を顰める様子に、僕は苦笑して立ち上がった。 「ジュース買ってくる。誰かなんか飲む?」 「あ、俺も行くわ。ツムラお前、ファンタいるっしょ」 そう言った中島と、連れ立って教室を出る。一瞬だけ、切江の方を見た。 切江は窓の外を見ていた。ニセアカシアの葉を、夏になりかけた陽光が透かしている。
ガコン、と乱暴な音がして、取り出し口からしぶきが散る。 買った紅茶のタブを起こしてその場で飲みながら、中島がジュースを買うのを待った。四本のうち二本を持ってやると、ありがとうと言って中島が笑った。 「なんかさぁ、サワちゃんてすげぇよなぁ」 ぽつりと、中島が呟いた。僕は目を開き、紅茶の缶を咥えたまま唸った。 「ん?」 「なんかさぁ、サワちゃんて超、いろんなことわかってる感じすんだよね」 「どこがだよ。俺、下から数えた方が早いよ、成績」 「そういうことじゃなくてさ。なんだろうな」 西に向いた渡り廊下に、朝の日差しは入り込まない。自販機の青白い光が、リノリウムの汚れた床を照らしている。中島は頭をかいて、続けた。 「なんか大人だしさ。キリエ君とも普通に話すし。俺らとは違う感じするんだよね」 中島が笑う。僕も笑って、目を細めた。 「俺、あんまり生きてないだけだよ」 中島は一瞬目を開いたが、意味がわからないみたいだった。僕は少し下を向いてから、中島の手の中にあった炭酸の缶を奪った。 「これ、ツムラのファンタ? 振ろうよ」 「え、振っちゃう?」 「振っちゃおうよ」 中島は目を丸くする。そして、喉の奥でくつくつと笑い出した。僕も笑う。 腕が外れるぐらい缶を振った。さすが元野球部、と中島が叫ぶ。 僕たちは教室に向けて走り出した。走りながら、バカになったように笑う。教室についた僕たちはまずそ知らぬ顔をして津村の周囲から離れた。野太い悲鳴と薄紫の泡が、教室に飛び散った。
三時間目は数学。 携帯をいじるのにも飽きて、窓の外を見上げる。 初夏の空は、光りすぎて色が薄い。ざらついた校庭の砂が白く光って、一瞬だけ海のように見えた。僕は目を細め、焼き付ける太陽から額を庇った。 あの日差しの中を、以前は毎日のように駆け回っていた。二年の初めに先発投手の座を得た僕は、そこから振り落とされないために必死だった。爪の間まで砂埃にまみれながらグローブの中の左手を握る、あの感覚が僕の誇りだった。 入道雲が僕を見下ろす。眩しく光る砂を踏む、靴の音がいやに大きく響く。 腕が軋む。白球が空を切り、キャッチャーミットに吸い込まれていく――。 肩さえ壊さなければ、今だってマウンドに立っていただろう。 細めた目には、あの頃の残像が見えるようだ。 肩を壊して野球部を自主退部してから、もう三ヶ月近く経つのに。 教室の中に顔を戻すと、日の光の焼きついた目が錯覚を起こして暗く濁る。前から二列目の席で堂々と眠っていても怒らない数学の教師は、僕にはわからない言葉で数式を説明している。僕は彼を一瞥してから、かくりと首を仰向けた。 見慣れた、汚い天井が見える。よく見ると画鋲が刺さっている。降ってきそうで危ない。蛍光灯の両端には黒い綿埃が纏いついている。火事でも起きそうだ。 取り留めのないことを考える。かさりと胸が鳴り、僕は目を閉じた。
ときどき、ポストを燃やす。 適当な紙切れに火をつけて、投函口から中へ放り込むのだ。誰の手紙を燃やしたいとかいう、明確な目的があるわけではない。ただ、ある日やけに首筋がざわついて、不思議に思って振り向いたところにたまたまひとつのポストがあった。そこに気まぐれに火種を放り込んでみた、それだけのことだ。 それだけのことに、僕はひどく興奮した。 息が上がる。体中の熱が凝る。僕は、勃起すらしているのだと思う。最中には激しい鼓動と熱に取り巻かれて、それすら遠い出来事のように感じる。自分の体よりももっと近しいものが、体の外側に生まれていく。僕のつけた火に燃え尽きる、いくつもの言葉や思いについて考えると、目眩がするほどの熱が僕の体を貫くのだ。こみ上げる煙が、熱を持つ金属の表皮が、僕にはたまらなく近しく、愛おしい存在のように思えてならないのだ。まるで恋人にするように、僕はポストに火を入れ、煙を吸い、強く抱きしめた。言い知れない熱を、喉の奥に飲み込みながら。 野球をやめてから、そんな興奮は初めてだった。今は恋人もいない。平坦な僕の生活の中で、そのときだけが僕の生きている瞬間だった。
視線を感じて、振り向いた。 教室の端の席に座った女の子が、僕を見ていた。 机の上に上半身を預け、頬を教科書に押し当てている。渦を巻く長い髪の間に、白い腕と切れ長の目が見えた。僕は瞬きをして、うっそりと会釈した。 今朝の彼女だ。 彼女もその姿勢のままこっくりと首を動かす。そして気だるげに眉を寄せると、首を反らせて前を向いた。黒板には相変わらず、呪文がたくさん書いてある。 僕はまた窓の外へ顔を向けた。色の薄い空を、飛行機が音もなく切り裂いていった。
「サワシロ、君」 購買で買ってきたパンを机に放り出した瞬間、後ろから名前を呼ばれた。 中島たちが怪訝そうな顔をする。振り向くと、さっきの彼女が僕の後ろに立っていた。 「だよね」 「うん」 僕は頷いた。彼女は目を細めて小さく笑うと、右手に持った小さな袋を示した。 「どこかで一緒に、お昼を食べよう」 うん、と言って、僕はぶちまけたばかりのパンをビニール袋に入れ直す。中島たちが、なに、どうしたの、と口々に聞いてくるのを、さぁねと首を傾げて往なした。彼女はとっくにきびすを返し、先に教室を出ていた。 後を追う最中に、やっと彼女の名前を思い出した。ウダさん、と僕は思った。 ウダさんは、いつも元気のいい友達に囲まれている。一人でいるところは、あまり見たことがない。ただウダさん本人はいつも眠そうで、まるで木蓮の花びらみたいにくたくたした女の子だった。彼女の明るい友人たちは、ウダさんのそんな様子を気にも留めていないようだったけれど。 校舎の外階段に腰を下ろし、ウダさんはここでいい、と尋ねてきた。うんと言って、僕はその横へ座る。部活棟の中で運動部がたむろしているのが、すりガラス越しに見えた。 「私の名前、知ってる?」 「ウダさん」 「すごい」 「ウダさんも、俺の名前知ってたじゃん」 「さっき思い出したの」 「実は俺も」 僕は買ってきたコロッケパンのビニールを破った。つんとソースの匂いが漂い、すきっ腹をくすぐる。大きくかぶりついて、口いっぱいに噛んだ。僕の学校の購買では、コロッケパンが一番うまい。よく味わって飲み込むと、ウダさんがじっとこっちを見ていた。 「朝、会ったよね」 ウダさんの言葉に、僕は二口目を口に入れながら頷く。 「会ったね」 「それについて、なにか言うことはないの」 「ウダさん犬飼ってんだね」 「うん。他には」 「あの近くに住んでんの」 僕は言った。ウダさんは切れ長の目を細めてから、スカートに伝っていた蟻を払った。 「やっぱり、サワシロ君って変わってるね」 僕は片眉を吊り上げ、そうでもないよと言った。 「私本当は今日、サワシロ君のほうから話しかけてくるかと思ってたんだよ」 ウダさんは袋の口を開け、自分のお弁当を取り出す。空になったコロッケパンの袋を丸めながら、僕は首を傾げた。サンドイッチの袋を開ける。 「あれ、いつもやってるの?」 ウダさんはちらりと僕を見て、言った。 さりげない風を装って目を逸らした、その目の端が僅かに震えている。 あぁ、たぶん彼女は、少しだけ緊張している。僕は目を細めた。 「たまにだよ。一ヶ月に一回か、もっと少ないか。変かな」 「まぁ、世の中にはいろんな人がいるとは思うけど。でも、うん、変かも」 ウダさんは指先で長い髪をいじった。俯いた細いあごの影が、胸のリボンに落ちる。 「それにあれって、犯罪でしょ。軽犯罪」 「犯罪なのかな」 「犯罪でしょ、たぶん。人の手紙燃やしちゃうわけだから」 「そんなつもり、ないんだけどねぇ」 「じゃぁどんなつもりなの」 「さぁ……」 僕は口の端で笑う。色の薄い空は、今ならまだ少しは涼しそうに見える。 昼飯を食べ終わった一年生が、校庭でサッカーを始めたようだった。 「サワシロ君って、やっぱり変わってる」 「ウダさんも、変わってると思うよ」 「うん」 遠いところで、甘い声の鳥が鳴いている。 サンドイッチの合間に、コーヒーを啜った。 「――年上の人と、付き合ってるの」 ウダさんがぽつりと言った。僕は遠くにいた意識を呼び戻し、体を曲げてウダさんの顔を覗き込んだ。ウダさんは箸を置き、風に翻ったスカートの裾を直す。 「二十五歳の人、サラリーマンやってるんだけど。半年付き合ってる」 僕はなにも言わずに、サンドイッチを飲み込んだ。ウダさんは指先を弄んで、言う。 「子供が生まれるんだ」 僕はウダさんの顔を見る。ウダさんの黒い目が僕を見て、そして笑った。 「違う、私の子じゃない」 風が吹いて、丸めたビニール袋がはためく。片手で捕らえた。ウダさんは吹き流される長い髪を左手で押さえて、風上を睨むように見上げた。 「――私たちの間に、じゃない。彼と、彼が前に付き合ってた人に、子供ができてたんだって。私と彼が付き合い始めたころに、相手の女の人から手紙が来たの。だけどそのことがわかったときにはもう彼は私と付き合ってたし、その女の人もただの報告みたいな感じで、手紙を送ってきたの。遠くに引っ越しちゃってたから、直接会うこともできなかったし。でも、産みますって、手紙」 僕は階段についた自分の手を見た。ウダさんが続ける。 「お金も請求しないし、認知もしなくていい。でも、私はこの子を産んで、二人で生きていきます、って、その人言ってきたんだよね。住所も書いてなかったから、返事もなにも送れない。どう思う、サワシロ君」 僕は顔を上げる。ウダさんの目が青空を映して、白く光った。 「その女の人がそう言ってる限り、私たちにはその子供に関して負うべき責任はなにもない。遠い街でその女の人がその子と二人で生きていくなら、私たちはなにもできない。どこに住んでいるのかも、詳しくはわからないんだもの。彼女がそういうなら、私たちはその子についてなにも考えないほうが、本当はいいのかもしれない」 風が吹く。僕は瞬きをした。 「でも、そんなふうに単純に、考えられるわけないんだ。私たちはずっと、その子供とどこか暗いところで繋がってなきゃいけない。だって、その子は彼の子供なんだよ。私はその子供から父親を奪った。私たちはずっと、どこにいるのかもわからないその子供に、謝り続けなきゃならないんだよ」 ウダさんは淡々と言う。風が彼女の髪を攫い、弧を描いて返った。 僕は目を開いたまま、それを聞いていた。がさりと胸が、騒いだ。 「サワシロ君」 「なに」 「私、一度だけ、彼に手紙を出したんだ。まだ彼がその女の人と付き合ってる頃。あの手紙が彼に届いていたら、その子供もいなかったかもしれない」 また風が吹く。サッカーをしていた一年生たちが、校舎の中へ帰っていく。 「好きですって書いたの。でも、届かなかった」 僕は、目を細めた。騒ぐ。 ウダさんの顔が、五月の日差しの中で白くぼやける。 「きっとサワシロ君は、私の手紙も燃やしたんだと思うわ」
「サワシロ?」 「なに」 「元気ないね」 「そうかな」 「俺、なんかした?」 僕は振り返って切江の顔を見た。すぐに前に向き直る。学校の前の坂道は意外に急で、甘く見ると痛い目に遭う。ブレーキを利かせながら、ゆっくりと下っていく。切江の自転車は空気が抜けかけていて、荒いコンクリートに擦れてひどい音を立てた。 「なんにもしてないじゃん」 「いや、気づかないうちになんかしちゃったかなぁと思って」 僕は笑った。中島たちに聞かせてやりたいような声だと思う。友達が少ないせいか、切江はときどき過剰なくらい僕に気を使ってくる。少しかわいそうだと思って諌めても、こうした癖は直らないようだった。 「お前はなんにもしてないよ。気ぃ使いすぎだって」 「そうかなぁ」 切江は笑った。僕も笑って、ブレーキから手を離す。危ないってと切江が叫んだ。 「サワシロ、大学行くの」 「え?」 「もうすぐ、進路調査だろ。大学行くのかって」 切江の言葉に、僕はあぁと唸った。五月も終わりかけている。そんな時期なのか。 「キリエは」 「俺は就職だよ、わかるだろ」 切江が笑う。僕はなんとなく笑えずに、ふぅんと言って首を振った。 「サワシロは、どうするんだよ」 「俺は……」 僕は上を向いた。わざとらしく緑化された街の、並木の枝葉が頭の上をずらずらと流れて過ぎていく。目を細め、目眩を起こした頭を振った。 「旅にでも出ようかな」 「あはは、なんだよそれ」
家に帰ると、ガレージの中にセルゲイさんがいた。 暗闇の中にじっと立っていたので、いつものことながら驚く。煮染めたようなセルゲイさんの皮膚は暗がりに呆け、その白目だけが奇妙に目立って見えるのだ。 「こんにちは」 「こんにちは」 低く柔らかい声でセルゲイさんが言ったので、僕も挨拶を返す。僕はセルゲイさんに会釈をしてから、ガレージの奥にある階段へ向かった。 セルゲイさんはこの街に住んでいるらしい老人だ。毎日勝手に僕の家のガレージに入り込んでは、なにか作っている。なにを作っているのか、どうして僕の家なのかは、誰にもわからない。家を建てた頃には、連日勝手に家に入り込んでいる不気味な老人を、母も気味悪がった。しかし彼は特に危険なこともせず、穏やかになにか作っているだけだったので、最近では彼の姿が見えないほうが落ち着かないほどだ。身なりも毎日清潔だし、彼の行動のどこにも悪意らしきものは見当たらないので、僕ら家族は彼を容認していた。 セルゲイさん、というのは誰か近所の人がつけたあだ名であり、本当の名前は知らない。表情も国籍も皺の中に埋没してしまっていて、どうしてそんなあだ名がついたのか、彼が本当はどこの人間なのかも、僕にはわからない。ガレージの中で作られているものの正体も、誰も知らない。謎が謎のまま追求されることをやめてしまい、ゆったりと日常の中へ取り込まれてしまった、それがセルゲイさんなのだと思う。 階段の中ほどでふと振り向くと、セルゲイさんは階段のすぐ下で僕を見上げていた。 思わぬ距離の近さに僕は内心飛び上がり、それを悟られないように微笑んだ。 「どうしました」 セルゲイさんは彫りの深い顔をはにかませながら、礼儀正しく言った。 「すみませんが、やっとこをお貸しいただけませんかな」 「やっとこですか」 僕は瞬きをして、頷いた。階段を駆け上がり、探してみます、と叫ぶ。 家の中へ入り、工具やなんかを雑多に詰め込んだ棚をあさる。セルゲイさんと挨拶以外の会話を交わすなんて、珍しいことだった。そのせいか妙にはやる指先が、引き出しの中にやっとこの握りを見つけた。 「ありましたよ、やっとこです」 「あぁこれです、どうもありがとう」 やっとこを手渡すと、セルゲイさんは嬉しげに頭を下げた。僕は会釈してもう一度階段を上がり、家に入った。ドアに入る一瞬前に目だけで下を覗くと、セルゲイさんは背中を丸めて暗がりの中へ歩いていくところだった。
その夜、夢を見た。 瞼の内側で、たくさんの星が壊れて水になる。暗闇の中、僕はそれを掬った。 するとそれは僕の手に載った瞬間、ちいさなたくさんの火に変わるのだ。 手のひらを焼く熱に僕は驚き、それを投げ捨てた。 水面に僕の顔がうっすらと映っている。色のない顔をした僕は、壊れた星の波紋に揺られて消えた。僕は首を振る。奇妙に体が軽い。遠心力に吹き飛ばされそうだ。 遠くで子供の泣き声がする。ちかちかと世界が回り始める。 僕は目を閉じ、やけどした手のひらを庇った。 長い髪の先が、僕の頬を撫でる。目を開けると、ウダさんの髪が燃えていた。 僕がさっき投げたちいさな火が、彼女の髪を燃やしているのだ。 ウダさんが振り返る。切れ長の瞳が、僕を射る。僕は頭を抱えたかった。ただ、溜まった思いを還したかっただけなのだ。その熱を、僕は愛しただけなのだ。子供の泣き声がする。それは、遠い街でじきに生まれる赤ん坊のか細い声だった。 ウダさんが囁く。彼女の髪は、暗闇の中で真っ赤に光っている。 「サワシロ君が、燃やしたんだわ」 瞼の内側で星が壊れる。僕は首を振る。たくさんの火が僕を取り巻く。 暗い銀河に、光る煙が一筋昇っていく。
六月に入ると、雨が降り続いた。 例年より少し早い梅雨入りだと、気象庁は告げていた。 雨の日の切江の部屋は、うるさい。二階にあるその部屋はトタン葺きの屋根の真下だ。硬質の雨粒がそこを打ち付けるので、まるでスティールドラムの中に住んでいるような騒ぎだった。雨漏りこそしないが、トタンが浸蝕され始めるのも時間の問題だろう。 曇った窓を擦りながら、切江は上機嫌だった。 「雨だといいよな、工事現場のバイト中止になるんだ。テストと被ってて助かったよ」 部屋の中にはボブ・マーリィの歌が大音量で掛かっている。激しい雨の音が、なんとなく似合っている。切江はたいてい死んだ奴の歌しか聞かないし、死んだ作家の本しか読まない。 「今の歌って好きじゃねぇんだ。くだらないし、深みがないよ。耳のない奴が音楽聴いて、耳のあるふりしてるだけに見える。やっぱ、これくらいの歌が一番だと思うな」 とのことらしいが、これはCDを買う金のない切江の見栄だということを僕は知っている。切江の部屋にあるプレイヤーは驚くほどの旧式で、それこそオークションに掛けたらいい値がつきそうな年代物だった。聞いているのはたいていが擦り切れそうなカセットテープで、双方切江の父親が若い頃に買ったらしいものだった。 とはいえ今にも崩壊しそうな切江の部屋には、最近の音楽よりも古びたテープで聞く古い歌が似合っている。その空気が、僕はそんなに嫌いではない。 「ていうか、この部屋って二人入って大丈夫なのか」 「なにが」 「床」 「あぁ、大丈夫なんじゃないの? でもサワシロ、体重増やさないでな」 「体重増えたら俺もうここ来ないわ」 「だから体重増やさないでって。お前以外に友達いないんだから、俺」 「作ればいいだろうが。別に暗いわけでもダサいわけでもねぇんだから、クラスの奴らとかと話せばいいだろ。そしたら俺も手ぇ貸すし」 「うーん、友達増えたら、この部屋の床抜けちゃうからなぁ」 切江は冗談めかして笑った。僕は目を細める。 「そういう問題じゃないだろ」 硬い雨粒がトタン屋根を叩いている。胸が、がさりと鳴った。曇った窓を擦ると、外の町は白い雨の線に塗り潰され、向かいの家並みが霞んで見える。湿った雨の匂いが、歪んだ家の隙間から香った。目を閉じて、埃っぽいその匂いをかぐ。雲はうす青く凝って、世界ごと閉じ込めようとしているかのように分厚く見えた。僕は目を細め、切江を振り返ってぼやいた。 「……キリエ、せめてもう一本傘買おうよ」 「しょうがないじゃん、父ちゃんが持ってっちゃったんだもん。天気予報がいつでも見られる環境にいるのに、傘持ってこなかったお前も悪いんだって」 「……あとお前、せめて携帯持とうよ。それか、テレビ」 「二ヶ月飯食わないでも生きてられる技とか、編み出したらな」
あれ以来、ポストは燃やしていない。 ウダさんの話を気にしたつもりはなかったが、思った以上に意識に残っていたらしい。ときどき、夢に見る。子供の泣き声と火、ウダさんの髪。背中や腰や、布団に触れている部分が冷たくざわざわと痛む。目を覚ますと、いやな汗をかいていることが多かった。 半月以上、になるだろうか。時折首筋が粟立つような感覚に襲われたが、それでも踏み止まっていた。元々、たいていの人はポストを燃やすことなどしないで生きていくのだ。それをしなかったからといって、死ぬわけじゃない。
「サワシロ最近、元気ない?」 雨を見ていると、後ろから切江が言った。僕は振り返り、笑う。 「またそれ」 「うん」 切江は寝転がっていた体を起こし、座りなおす。正座したその顔を、だらけた姿勢から見上げた。色の薄い切江の髪が青い町並みを反射し、藤色に光って見える。 「なんかさ、一回俺が、元気ないって尋いたときあっただろ。あれ以来かなぁ。なんか、そう見えるんだよ。俺、なんかしたかな」 「してないって」 僕は笑ってみせたが、内心どきりとした。さすがは友達がいないだけある。 「お前は俺に、気ぃ使いすぎなんだよ」 僕は目を伏せて、冗談めかして言う。視界の端で正座した切江が、じっと僕の顔を見ている。大音量で掛かっていた曲の切れ間に、雨音が降り注いだ。 子供は、名前も知らない女の腹の中で今どれくらいに大きくなったのだろう。 「――それなら、いいけど」 切江がふうと息をついた。 「サワシロ、今度遊ぼうよ」 「遊んでるじゃん、いつも」 「そういうのじゃなくてさ。夜、遊ぼうよ。バイトの先輩がやってる店に、今度行こう。俺、本当なら金ないから行けないんだけどさ、先輩がときどき、あわれんで安く入れてくれるんだよ。そしたら行こうよ、きっと楽しいからさ」 僕は目を上げ、切江を見た。切江の重い二重の目は、右と左でほんの少し違う方向を見ている。それでも同じ色を湛えて、笑っていた。 「……あぁ、行く。ありがとな」 僕は頷いた。切江はへらりと笑ったまま、続ける。 「……もし本当にやなことあったら、俺に言えよ。聞くくらいは、できるよ」 「言うよ、ちゃんと」 僕は言って、下を向いた。切江はまた寝転んで、電球を見上げる。 「……そういえば最近、セルゲイさん元気」 「あ、元気元気。やっとこ貸した話、したっけ」 「えっなにそれ、知らねぇんだけど」 スティールドラムの中で暮らしていると、小さな声は拾えない。僕たちは雨の中ことさらに大きな声で話し、大きな声で笑った。
梅雨が終わる頃から、セルゲイさんの姿を見ることが減った。 今までは連日来ていたのが、間を空けるようになった。昔はセルゲイさんを嫌っていた母も、最近では少し心配していることすらある。だが、二三日間を空けた後、セルゲイさんはまたひょっこりと姿を現す。僕はいつのまにか、そのなにも考えていなそうな掘りの深い顔を見て、不思議な安心感を抱いてしまうようになっていた。 期末テストも終わった。もうすぐ夏休みに入る。七月の太陽はもう真夏と変わらず、ガラス窓を通して襲ってくる日差しが恨めしく思われるようになっていた。 ポストはあれ以来、燃やしていない。その必要も、なくなったように思えてきた。ポストを燃やす前の、首筋が粟立つような感覚も、最近では襲ってこない。卒業したのかもしれないな、と、僕は密かに思っている。 切江は相変わらず元気ない、と尋ねてくる。今度クラブへ連れて行ってくれるらしい。 進路希望は、一応大学とした。僕の頭でどこへ進めるかは、微妙なところだったが。 ウダさんとはあれ以来、ちょくちょく話すようになった。都合さえ合えば、二人であの外階段に座って、一緒に昼飯を食べたりする。彼女も僕も、同い年の子供たちの中で奇妙に熱の低いようなところがあったから、そうした部分で波長が合うようだった。一分後にはなにを話したか忘れてしまうような、くだらない話をした。ポストの話や、彼女の恋人の話はしなかった。それらを塗りつぶそうとするかのように、僕らは他愛ない話を重ねた。 テストの結果は思ったとおり散々だった。夏休みは補習に出なきゃならない。 今までとなにも変わりない生活を、僕は送っている。 ただあの夢を見る頻度だけが、増えていた。
家に帰るとセルゲイさんがいて、僕は挨拶をして通り過ぎた。 しかし、階段を登ろうとしたところで、セルゲイさんに声を掛けられた。 「……あの」 驚いて振り返る。以前やっとこを貸したときと同じ場所にセルゲイさんは立って、僕を見上げていた。涼しげな水色のポロシャツだけが、以前と違っている。 「なんでしょう」 「水を一杯、いただけませんでしょうか」 もちろんですと僕は言って、階段を駆け上がる。家へ飛び込み、セルゲイさんのためにお茶を入れた。そして少し考えてから、自分の分も合わせてお盆に載せ、セルゲイさんの元へ向かう。あの不思議な老人と、今更のように少し話をしてみたくなったのだ。 階段を下りると、セルゲイさんは腰を曲げるお辞儀をして、冷たいお茶を受け取った。傍にいることを咎められなかったので、セルゲイさんと並んで車止めの石に腰を下ろす。 「いつも車庫を使わせてくださってありがとうございます」 セルゲイさんはのんびりと言った。その低く柔らかい声は、ガレージの薄い暗がりによく似合った。日本語が上手だ。やっぱり、外国人ではないのだろう。 「いえ、昼間は誰もいませんし。好きに使ってくれていいんです」 セルゲイさんが喉を鳴らしてお茶を飲む。道を走る子供の脚が、ガレージの入り口に白く光って見えた。間延びした夏の空気に、この老人もやはり似合っている。 僕はお茶を飲みながら、こっそり辺りを見回した。セルゲイさんはいつも作ったものを持って帰るので、なにを作っているのか夜に覗いてみることはできない。彼が持ち込むのは小さなセカンドバッグと工具箱だけで、それほど大きなものではないのだろうという予想しか、つけられないでいたのだ。 周囲には鉄線が二巻きと、汚れた革の布とライターが転がっているだけだった。暗がりの中に転がり込んでしまっているのだろうか、セルゲイさんの作っている、そのものの姿を見出すことはできなかった。 「――もうすぐ、できあがるんですよ」 セルゲイさんが低く穏やかな声で、呟いた。 僕は顔を上げ、彼を見つめる。セルゲイさんは丸い指先で、お茶の入ったコップを弄んでいる。ガレージの入り口から差し込む薄青い光が、彼の深い皺に溜まっていた。 「もうすぐ、できあがるんです。完成したかと思うと形が変わってしまって、骨を折りました。思ったよりずいぶん長くかかってしまいましたが、どうにか作り上げることが、できそうだ。肩の荷が下りるとは、このことなのでしょうね」 セルゲイさんはにこにこと嬉しそうに笑っている。僕の手の中で、お茶に入れた氷がからりと高い音を立てた。僕は瞬きをする。 「私も年を取ったようで、まぁ少し疲れました。今年の夏はことさら暑そうですし、本当なら春のうちに仕上げたいと思っていたのですが、そうもいかなかった。けれど必要なものですからね。私にそれができるのだから、ゆっくりでも、やり遂げてみます」 セルゲイさんは遠くを見ながら、続けた。 「まるで、氷でできた彫刻を、手探りに探るようでした。繊細でいて大きく、そうして途方もなく、冷たい。やっとその輪郭を掴んだように思っても、そのときには私の手の熱で形が変わってしまっている。もう一度指先に辿りなおそうとはするのですが、その頃には私の指も冷たく痺れてしまっていて、もういけない――。若い時分からこういうことが得意なつもりでいたのですが、いや、中々どうして大儀なものでした」 老人はコップに口をつけ、その影絵を見ながら、僕は目を細めた。 家の前の道を走る、子供の笑い声が聞こえる。 「――なにを、作ってらっしゃるんですか?」 僕は、訊いた。 セルゲイさんは皺の中に埋まった大きな眼を一瞬見開き、そして笑った。 夏の空気が彼と僕の間に入り込む。浮かされたように、僕は動けなくなった。 お茶をありがとうと彼は言い、コップを盆に戻す。僕は頷き、家へ帰った。
「嫌な夢、見るんだ」 「夢?」 あるとき僕は、ウダさんにぽつりと漏らした。ウダさんが小さな頭を傾げる。 部活棟に臨む外階段は鉄製で、七月の陽気に熱せられたそれは、触ると痛く感じるほどだった。ときどき吹く風に息をつきながらサンドイッチを食べ終え、なにを話すでもなく続いていた会話が、ふと途切れた瞬間だった。 呟いたあとに、まずいと思った。 暗い銀河。星が壊れる。その中心で、ウダさんの髪が赤く燃えている。 あの夢は、ウダさんに話していいものではない。 「どんな夢なの?」 ウダさんが聞く。僕はサンドイッチのセロファンをいじりながら、考え考え言う。 「宇宙で火事になる夢」 「なにそれ」 ウダさんは小さく笑ったが、あながち間違ってもいないと思う。僕も笑って続けた。 「……暗くてさ。水とか星だったものが、俺が触ると燃えるんだ。子供の泣き声とかが聞こえて。恐い夢じゃないんだけど、体が冷たくなるっていうか、寝苦しいんだよな。起きると首の後ろが強張ってて、変な汗とかかいてんの。春ぐらいから、けっこう見るんだ」 「ふぅん……」 ウダさんが足の下にスカートをたくし込む。僕は飲み終わったペットボトルの飲み口を齧りながら、空の端に盛り上がった雲の輪郭をなぞった。ウダさんは長い髪をうるさそうに肩の後ろへ払ってから、目を細めて呟いた。 「なにか、ストレスでもあるのかもね」 「ストレス?」 うん、と言ってウダさんは校庭に目を向ける。暑さのあまりだろうか、校庭にはひとつの人影もない。 「サワシロ君って、けっこう溜め込んじゃうタイプに見えるから。物事を一歩引いて見る感じっていうか、なんとなく、他の子よりも大人びてるでしょ」 「そんなこともないけどなぁ」 「でも、よくそう言われるでしょ」 「それは……そうかな」 頷いた僕に、ウダさんは紅茶を飲んで続けた。 「私も、そうだもん」 僕はウダさんの顔を見る。ウダさんは誰もいない校庭に顔を向け、続けた。 「進路のこととか、そのほかのこととか……、いろんなこと考えてはいるんだけど、それが人からは見えないんだよね。昔からそんな感じだから、今更そういうのを人に見られるのも、なんだか決まり悪くて。つい平気な顔して、そのまま進んじゃうの。私は昔からそうだった。今つきあってる人が、そういうのを見抜いてくれる人だったから、私はそれで救われたみたいだけど」 ウダさんは風に顔を上げながら、胸のリボンを整える。僕は空になったペットボトルのキャップを閉めた。胸が、がさりと鳴った。 「サワシロ君は」 僕はウダさんの顔を見る。 ウダさんの目が一瞬だけ薄く光り、そして閉じて、また開いた。 「……サワシロ君は、野球やめちゃったからね。それが、大きいのかな」 僕は頷いて立ち上がると、右手のペットボトルを握り締める。 校庭には、誰もいない。 僕は閉じるほど目を細めてから、ペットボトルを振りかぶった。 シュ、と、空気の裂ける音。 遠ざかるペットボトルが、透明な光に一瞬だけ消えた。 青空。放物線の先で、高くて硬い音が響く。 「ナイス・ピッチ」 ウダさんが背後で呟く。投げた後のフォームはむちゃくちゃによろけて、そのまま振り返って僕は笑った。白く光る校庭に、ペットボトルは見えないほど小さかった。 その後は野球の話を少しして、僕たちは教室に戻った。夢の話は、それきりだった。 「サワシロ君も、彼女でも作ったら」 教室で別れぎわ、ウダさんが言った。 「作れるならもう作ってるよ」 苦笑いしながら僕が言うと、ウダさんも笑う。 「それはそうだけど。でも、寄りかかるのって大事なことだから。恋人でも、友達でも」 僕は頷いた。ウダさんが、切れ長の目を細める。 ちょうどそのとき教室に先生が入ってきたので、僕は片手を上げて自分の席に向かった。窓際のこの席は、一学期の最後には日差しがきつい。僕は顔をしかめて、カーテンの隙間を下敷きで覆った。
背中の冷たさで目が覚める。 また、あの夢を見ていた。痛みなのか痺れなのかもわからないような奇妙な感覚が、足先まで続いている。僕は小さく呻きながら、両手で目を覆った。目の奥がしこったようになっている。そこを揉み解しながら、暗闇の中にウダさんの顔を思い浮かべた。 ――いろんなこと考えてはいるんだけど、それが人からは見えないんだよね。 乾いた喉につばを飲む。クーラーをつけたまま眠ってしまって、部屋は冷たく冷えていた。枕元に置いたはずのリモコンを手探りに探したが、見つからない。寒い。 ――つい平気な顔して、そのまま進んじゃうの。昔からそうだった。 寒い。夢の中に置き去りにされたように濁った意識の狭間で、とても強くそれを感じた。暗い。校庭は、あんなに光っていたのに。痛みなのか。痺れなのか。 ――サワシロ君は。 そう言って、ウダさんは言葉を切った。 その目の光を読み取れないほど、僕は愚かでも、楽天的でもなかった。 ここは暗く、寒い。 首の後ろがざわめく。胸が、がさりと鳴る。 圧倒的に、熱が足りないのだ。 夢の中に繰り返し見る、あの火はけれど、恐ろしい。 僕の手を離れて、炎は僕の知らない誰かへ飛ぶ。ウダさんの髪を燃やし、遠い街で子供の泣き声になる。僕が燃やしてきたもの。言い知れない、誰かの言葉たち。 けれど、僕はその熱を求めて止まない。 ここは暗く、寒い。 がさりと胸が鳴る。やっと探し当てたリモコンでクーラーを切り、僕はもう一度両手で顔を覆った。顔が冷たく強張っている。首の後ろがざわめく。 胸の内側に、なにかが溜まっている。 燃やしてしまいたい。僕は胎児のように、凍った体を丸めた。
光の筋に脳を焼かれる。 天井のダクトから塵が降る。酔いの回った目玉が、それを誇張して見つける。塵はフロアの光を浴びて、エメラルドの粉のように輝いて見えた。床に落ちて踏みにじられ、光を失うまで、それを見つめて踊った。首を振るたくさんの女たちの、髪の先からダイヤが飛ぶ。音がそれを攫い、砕いてちりばめた。目玉が広がる。音に酔う。 切江の姿は人の波に飲まれ、見えない。僕は一人で踊った。 ニュータウンを越えたところにある、切江のバイトの先輩が経営しているという店だった。二階まで吹き抜けになった店内を、光と音が満ちている。先輩もその友達も、明るいいい人だった。終業式の夜、僕ら子供二人を驚くほど安く迎え入れてくれた。なにより、僕以外の人と楽しげにしゃべっている切江を見るのが久々で、その表情に僕はなにか安心した。酒を飲みながらしばらく話をして笑うと、スタッフたちが黒い影になる。音と光がひとつの方向性を示し始めたころ、店は本格的に動き始めた。 十時を過ぎると、人々がひとつになる。酒と音が回った。光が駆け巡る。ゆれる。なにか薬をやってくしゃくしゃになっているのもいるみたいだ。僕はそれをすり抜け、音に乗る。最初は少し戸惑ったが、すぐに体は場のサイズになじんだ。針先で穿つような鋭いグルーヴと、抱き込む波音のようなメロディ。踊る。溶ける。肺胞のひとつひとつまで満ち満ちて、鼓動を止めては揺り動かす。重低音。アンセム、雨音に似た太鼓。人々の腕が空気を撫でる。隣の人間の鼓動を、自分のものと錯覚する。芳醇に少しずつ、少しずついかれていく、銀河を入れた箱の中で、僕たちは踊る。 心地いい。僕は少し微笑んでいた。誰もが笑っている、そういえば切江はどこにいるのだろう。無性に顔を見たくなって、僕は踊りながらフロアを前に進んだ。かき分ける人々の汗に濡れた肌を触れる。同じ体温が快い。じんと痺れたようになりながら、僕は踊る。ふと目を上げると、目の前に髪の長い女が踊っていた。 なにかが、粟立った。僕はふと足を止めた。音楽が遠ざかる。しんと冷える。 女の、長い髪が赤く光る。僕の頬を、撫でる。 熱い。火に触れたように。僕は息を飲んだ。 女が振り返る。暗闇の中、薄く光る切れ長の瞳が僕を射た。 僕は小さな悲鳴をあげ、目を瞑った。
酔っているのかもしれない。ラウンジまで下がり、口元を押さえながらカウンタへ寄りかかる。さっき話したドレッドの男が、カウンタの中でグラスを冷やしていた。 「どうしたの、酔った?」 「そうかもしれません」 思慮深げな視線に苦笑して、僕は水を頼んだ。彼は気を使って、レモン味のトニック水を出してくれる。礼を言って、冷たいグラスを手で包み込んだ。火照った肌に、冷たい感覚が心地よい。結露をまとったガラスに、緑の光が一瞬を照らし出して止まる。目がちかちかして、僕は目を閉じた。ドレッドの彼が心配そうに声を掛けてくれる。 「サワシロ君、初めてだもんな。ちょっと下がって、座ってたほうがいいよ」 頷いて、僕は少し照れくさくて笑った。カウンタを離れ、グラスを持って奥の椅子に落ち着いた。痙攣的な光の中でたくさんの男女が踊っている。僅かに頭が痛む。ここはスピーカに近い。首の後ろを、音に殴られているような気がした。脅迫的な重低音によって、体の中に無理矢理もうひとつの心臓を作られてしまったみたいだ。 目を閉じると、切れ長の女の瞳が浮かぶ。 真っ赤に燃えて光る髪。熱。僕の頬を、撫でる。 子供の泣き声。愛すべきか、厭うべきか、躊躇にゆれる腕がある。 銀河の水の中に、子供は体を丸めている。 体の中に、鼓動がある。僕は頭を抱える。胸ががさがさと鳴る。 あぁ、ここは、あの夢の中じゃないか。 僕は顔を引きつらせて立ち上がった。がさがさと鳴る。溜まってしまっている。 首の後ろが、ぞくりと粟立った。冷たい。 やはり、燃やさなくてはならない。
店を出て、おぼつかない足取りで暗い道を歩いた。 いびつな街。ちぐはぐな、強引な街。わざとらしい都市化と、千切り取られた田畑の断片。その段差を、街灯の明かりと濃密な暗闇の狭間を、縫うように徘徊する。酔ってざらついた肌に、その違和感は刺すように感じられた。がさりと胸が鳴る。気分が悪い。なにを隠そうと言うんだ。なにも変われはしないと言うのに。夜の道を歩く。元の道が辿れないほどに、複雑な路地を進む。 ポケットに指をねじ込む。しばらく使っていなかったライターの感触を、そこに覚える。首の後ろがざわりと鳴った。濃密に湿っているくせ奇妙に粗い、夜の粒子をすり抜ける。足音は、暗闇が啜った。目の周りに熱が凝っている。歩き回る。見慣れない街に、目指す姿がない。心臓が速い。闇の底を這い回るように、僕は足を引きずった。 首筋が、粟立つ。 ほとんど明かりの落ちたアーケード街を出たところに、赤いポストの横顔があった。 夜の隙間へ、僕は飛び込む。ポストの陰は暗く、アーケードからの光は届かない。僕は震える手で辺りの電信柱から汚いチラシを引き剥がすと、ライターを握り締めた。 かちり。小さな音を立て、透き通った火がともる。 そのちいさな火に、僕は震えるほどの安堵を覚えた。 僕は笑った。ゆっくりと、紙切れを火にくぐらせていく。 卒業した、だなんて笑わせる。お前はこんなにも、今もここにいるじゃないか。 胸の奥に溜まったものを、焼き尽くす熱さえ持たないのじゃないか。 だから、共有するその熱を、お前は愛したのだろう。 贖罪するふりをしながら、罪悪感に苦しむ自分を、擁護したいのだ。 お前は、なにもわかっていない。 僕は、なにもわかっていない。 僕は笑って、炎をポストへ落とし込んだ。
僕の目は暗く光る。瞼の内側で星が壊れる。僕はポストにしがみついて、笑った。 熱い。がさがさと溜まっていた思いが、言葉が、燃えている。 錆びてまくれ上がった塗装に、額を押し当てる。息を吸う。酸素を求めて、ポストの中の手紙が身悶える。熱い。煙が立ち上る。僕は微笑んだ。がさり。がさり。背筋に噛み付いていた冷たい熱が、その本質を大気に拡散させていく。涙が出るほどの、それは快楽だった。骨身が熱に溶けていく。瞼の内側で泣く胎児の夢想を、それは霞ませる。 僕は一生、このままなのだろう。がさがさといらない思いを溜め込んで、そ知らぬ顔をするんだろう。生きる方法もわからないくせに、知ったふりをして笑うんだろう。自分のために誰が傷ついても、こうして小さな火を投げるのだ。 そうしなければ生きていかれないのだと、いいわけをしながら。 僕は笑う。金属の表皮を、抱きしめる。言い知れない熱が、高まっていく――
視線を感じて、僕は振り向いた。 アーケードの薄い光の中に、切江が立っていた。
切江は右と左の焦点のずれた、重い二重で僕を見つめている。 僕は半分目を閉じて、燃え尽きていく誰かの思いを考えていた。 逆光の中、切江の痛んだ茶髪が、金色に透けていた。その口元が、へらりとあの笑いを刻む。けれど、僕には見えている。その色の薄い目が、透き通って悲しみを湛えている。 「――アベさんから、酔っちゃったみたいだって、聞いたから。大丈夫?」 切江は平静を装おうとしている。けれど僕にはわかっていた。 「キリエ、知ってたのか」 切江の笑顔に、罅が入ったような震えが走った。 「どうしてなにも訊かないんだよ。見てたんだろ?」 僕はポストから離れ、切江に歩み寄る。切江は困ったような顔で、僕を見下ろす。 あの店からここまで、一本道ではない。何度も角を曲がり、坂を上り下りして、夜の隙間を縫うように、ここまでやってきた。後からやってきた切江が、まっすぐここへ来られるわけがない。僕の後を、ずっとついてきたのでなければ。 目の周りに、光の球が弾けるようだった。目がくらむ。切江の腕を掴んだ。これまで何度も、なにかと言えば僕を気遣ってきた切江の目の色を思い出す。 「どうして、なにも言わないんだよ」 こいつは、僕がポストを燃やしていたことを、知っていたのだろうか。 全てを知っていて、僕といたんだろうか。近頃僕がポストを燃やしていなかったことも知っていて、その上で僕を気遣っていたのだろうか。まるで何も知らないという顔で。 そしてこの期に及んで、まだそ知らぬ顔をしようとしているのか。 逆立つ。目の前が赤く染まる。 僕は、切江の頬を殴った。 「サワシロ」 切江が僕を呼ぶ。僕は切江に背を向け、走り出した。夜の底へ。
家に帰り着いたのは、四時を回った頃だった。 いやな汗を体中にかいていたが、風呂に入ろうにも体が動かなかった。部屋へ飛び込み、服も着替えずにベッドに倒れこんだ。いつもの夢には、切江が出てきた。 燃え上がる水に驚く僕を、少し離れたところから切江が見ている。 切江の頬が、赤く燃えている。僕が殴ったところだ。 重い二重の目が、僕を見ている。それは悲しげで、あのへらりとした笑みはなかった。 煙が立ち込める。赤い髪の流れが、僕を取り巻く。がさがさと耳元で音が騒ぐ。 キリエ、と名前を呼んだとき、目が覚めた。 正午を過ぎていた。窓の外は白く曇っている。細く、勢いのない雨が降っていた。 こんな雨をあの部屋で聞いたら、どんな音がするんだったろうか。
白い雨の中、傘をさして切江の家へ向かった。 相変わらずスタンドの壊れた自転車を、コンクリートに横たえる。見上げると歪んだ家は、雨に霞んで今にも崩れ落ちそうだった。 二階の窓には、動く影がない。雨だというのに、電気もついていない。なにかが首の後ろを刺した。僕は弾かれたように、夏草の茂る庭へ踏み込んだ。 玄関の前に切江の父親が立って、雨に濡れていた。 「……キリエ、くんは」 雨に塞がれる呼吸の下から、僕は訊いた。彼は目を細め、呟くように言った。 「うん、どこかへ、行ってしまったんだ」 明るい曇り空が、雨を透き通らせる。僕は瞬きをした。彼の高い鼻を雨粒が伝い、ぽたりぽたりとその胸元へ垂れた。すっかり濡れた白いシャツが、その雫をたくし込んだ。 「家で一番大きいリュックを持ってねぇ」 帰ってくるのはいつになるか、と、彼は呟いた。立ち尽くす足元を覆い隠すほど茂った雑草に、水が宿っている。右手の甲が、痺れるように疼く。熱を持つ。 この手で、切江を殴った。 呼ばれた声にも振り向かずに、そのまま切江を置いて、逃げた。 「……あの、キリエの部屋に、入ってもいいですか」 気づかないうちに僕は、呟いていた。切江の父親が目を細め、呼吸の合間に頷いた。 「あんな狭いところでよければ、どうぞ」 立て付けの悪い扉に続く歪んだ急な階段を、僕は登った。 床板が軋む。弱弱しく弾む、スティールドラムの音色が、近づいてくる。 切江の部屋はこの前来たときと変わらず、狭くて汚かった。 扉を閉めると、トタン屋根を打つ雨音が部屋に響く。僕は目を伏せ、切江のいない部屋の中を見渡した。昨日着ていた服が、床に転がっている。白く曇った光に照らされて、それはやけに粉っぽく、空々しいものに見えた。乱雑に転がった古いテープを、今流す気にはなれない。弱々しい雨音が、小さな部屋を満たしている。 ふと目をやると、窓の下に白く光るものがあった。 見慣れないそれに、僕は無意識に歩み寄る。 それは、ひとつの封筒だった。 外からの光を浴び、それは古びた部屋の中で、奇跡のように真新しく見える。 なにかが首の後ろを指す。僕は、封を切った。
*
沢代へ
迷惑たくさんかけました。本当にごめん。 前にウダさんに話しかけて、ポストのこと聞いたんです。沢代が元気ないなと思ってて、俺は力になりたかったんです。そしたらまた迷惑をかけて、本当にごめん。沢代から言い出してくれるのを待っていて、けっきょくまた、なにもしないのと同じだった。 沢代は、俺があきらめてることに全部向き合ってるから、俺よりいろんなものを、たくさんためこんでしまうんだと思う。沢代は俺やみんなより、降ってくるスピードがほんの少しおそいから、いろんなことが平気に見えるだけで、本当は俺たちと同じくらいいろんなことを思ってるんだって、俺は知ってた。ゆっくり降ってきたぶん吐き出すタイミングがわからなくて、またためこんじゃうんだって俺は知ってた。でも、そのままにしてたんです。本当に、ごめん。そばにいたのに、また俺はあきらめてました。 俺はすこしここを離れて、いろんなことを考えてみようと思う。今まであきらめてたものに、向き合える人になりたいんです。ひょっとしたら俺は帰ってこないかもしれないけど、たぶんこれが俺の吐き出し方です。 今まで俺の友達でいてくれて、本当にありがとう。 もし俺が帰れたら、そしたらまた友達でいてほしい。
*
切江の汚い字に、窓を伝った雨粒の影が落ちている。 僕は何度も、その手紙を読んだ。あいつは俺の名前を漢字で書けたんだな、ということを、場違いに思った。何度か瞬きをして、手紙を封筒にしまった。そして、立ち上がる。 切江がこの文章を手紙として僕に託したことで、次にすべきことはもうわかっている。 急勾配の階段を、軋ませて駆け下りる。歪んだドアを抜け、雨の中に出る。切江の父親はいなくなっていた。傘を差すと、濡れたコンクリートにその身を横たえていた自転車を引き起こす。ポケットの中に切江の手紙を確認すると、僕は走り出す。 勢いのない七月の雨。僕はペダルをこいだ。雨が口に入り、呼吸を塞ぐ。 ――降ってくるスピードが、人よりほんの少し遅いだけで。 そうだ。それだけなんだ。それだけで、悲しみも怒りも、人と同じように僕に降り注いでいる。ただそれはやさしい躊躇や、目に見えないもので、ほんの少しだけ勢いを止める。ゆっくりと、それは降ってくる。耐えられるように見える、けれどそれは溜まっていく。 僕にも見えていなかったそれが、切江には見えていたんだ。 だけど切江も、様々なことを誤解していた。僕がいったい、何に向き合っていたと言うんだろう。卑屈で鈍くて、隠し事ばかりで、そんな僕のなにを、切江は見上げていたのだろう。降り注ぐものを振り払おうともせずに、じっと溜まるのを待つだけだった僕を。 七月の雨に加速度がついて、僕の体を強く打った。
緑の草の海。 僕はポストの前に立った。 雨の畦道に、ポストは立ち尽くしている。あの朝と同じように。塗装の剥げかけた赤い体を雨に濡らして、そ知らぬ顔をしてそこに立っている。 足元で泥がぬかるむ。僕は手を伸ばし、その赤い金属の体を手のひらで叩いた。平たい金属の音は、今日は湿っている。剥がれた塗装のとげが、手のひらを刺す。 僕はライターを取り出した。切江の手紙が濡れないよう、庇う。湿った空気の中、ライターの火は小さい。あの夜の半分ほどに。僕は目を閉じ、手紙の端を炎にくぐらせた。 白い手紙に、火がともる。僕は眉を寄せた。雨が静かに降り込め、背後に横たえた自転車を、辺りに広がる田園を、濡らしている。傘の端から、雫が滴りポストに落ちた。 投函口に、落とし込む。 ことりという音を聞く前に、僕は濡れたポストに額を押し当てた。両手でしがみつく。取り落とした傘が、地面に落ちて転がった。湿った濃密な大気が、僕に襲い掛かる。切江の手紙が燃えている。その熱を、金属を一枚隔てたそこに、感じる。首の後ろの粟立ちは、なかった。高揚も鼓動も、全て遠かった。白い雨と、胸の内側を焼かれるような痛みだけが、僕にその存在を教えていた。 僕は小さな声で、なにか呟いた。自分にも聞こえない、それは声だった。 雨が降りしきる。どこへも行けずに、僕は泣いた。
これで、燃え上がる。 誰かの思い。飲みこんだ言葉。これまで僕に降り注いだもの。胸の内側に溜まっていたもの。首の後ろに凍り付いていた、あの冷たい痛み。 これで、燃えてしまう。 燃やすべきではなかったもの、燃えてはいけなかったもの。切江が残したもの。 目を閉じた瞼の裏の闇には、幼い僕がいる。 切江。なぁ切江、お前はありがとうって言ったけど、俺だって嬉しかったんだよ。この街に転校してきて、お前が友達になってくれて、本当はとても嬉しかったんだ。お前といられて、すごく楽しかったんだ。本当だよ。学校や街の奴らが切江のことを誤解してるのが、本当は嫌で嫌でたまらなかった。そのことに切江が怒らないのが、本当は嫌だった。でも、俺にはなにも言えなかったんだ。教室の後ろに一人で座っている切江の姿を、俺は見ているだけだったんだ。 野球ができなくなって、悔しくて仕方なかった。でも、哀れまれたくなくて、自分から背を向けた。校庭の白い砂もグローブの感触も、しがみついたなら今だって感じられたはずなのに。でもできなかった。悔しいと口にすることもしなかった。 一人で生きる方法もわからないくせに、誰に寄りかかろうともしなかった。 そうして、誰を支えようともしなかったんだ。本当は誰の言葉も聞かずに、本当は誰にもなにも言おうとはしていなかった。ゆっくりと降り積もるのを待って、燃え上がる熱を探していたんだ。溜まった思いを重ねながら、自分のことだけ考えていた。 愚かだった。それをやっと、こんなにも遅く、気づいた。
瞼の裏には幼い僕がいる。閉ざし続けていた思いが、もう届かない言葉が、そこにはある。差し伸べようとしなかった腕が、踏み出さなかった足が。凍ったたくさんの星になって、そこには散りばめられている。 これで、燃え上がる。 そして瞼の内側で、星が壊れていく。
「やっと、完成したんだ」 老人の横顔が、呟いた。 星の壊れた水が流れる。手で掬いはしない。触れれば火になることを、僕は知っている。重みのない世界に僕は身を固くしている。老人の影はたくさんの光源に投影され、四方から僕を見ていた。きんと遠い星が鳴いた。 銀河の水が、その彫りの深い顔を下から照らしている。奇妙な遠心力に僕は目を瞑り、もう一度目を開けたときには、老人は真正面から僕に微笑んでいた。僕と老人の間に細い星の水が、銀色の体を横たえている。老人の低い声が響いた。 「実に骨が折れた。けれど、若い時分からこういうことが得意でしたからね。どうにかやり遂げることができました。今日、やっと完成したんですよ」 老人の顔は、ひどく穏やかだった。まるで春の陽の中にいるように、老人は微笑む。 「さぁ、手を出して」 老人は言う。夏の日にこの顔を見た、と僕は思った。薄暗いどこかで。夏の日差しの飛沫のような青い明かりに、照らされたその顔をいつか見たのだ。それは心地よい記憶だった。低く穏やかな声とその記憶が、僕を促した。僕は銀河の水を越え、老人に手のひらを差し出した。 「君に、あげましょう」 そして老人は、それを取り出した。 「俺に?」 「君のために作ったものです。どうして君以外にあげましょう」 不思議な形をしていた。手のひらに入るくらいの大きさで、赤く光っている。体がばらばらになるような懐かしさと、遠く引き伸ばされたようなぬくもりが、そこにはあった。銀河の水に赤い光が映える。老人はそれを、そっと僕の手のひらに乗せた。 それは、熱かった。僕は瞬間手を引きかけ、けれど留まった。やけどをするほどの熱ではない。むしろ僕は、それを求めていたような気すら、した。ゆっくりと引き寄せ、両手で包むように持ち直す。水音の向こうに、泣き声が聞こえた。僕が泣かせてしまったなら、僕は行かなければならない。僕にはそれが、わかっていた。 「なにを燃やしていたか、わかりましたか」 老人が言う。僕は頷いた。やっとわかった。がさついたもの。諦めてしまったもの。燃えてほしかったもの。決して燃やすべきではなかったもの。思い。言葉。誰かの。 僕は目を閉じて、手のひらの上の熱を思った。首の後ろに纏いついていた、氷が溶けていくのを感じた。失ったもの。瞼の裏で、数え切れない数の星が壊れていく。 「これは、なんですか」 「名前は、まだないようです。ただ、君に必要なものです」 僕は目を開けた。老人はにこにこと、子供のような顔で笑っていた。 「ありがとうございます」 僕は言った。老人の目が、魚のようにしなって光る。彫りの深い顔に、光が満ちた。 辺りが目映く輝き始める。壊れた星たちが、白く光っているのだ。 僕はもう一度、祈るように言った。 「ありがとうございます」 「大切にしなさい。一度失えば、もう見つからない」 暗い銀河に、星が弾けていく。その輝く音に、老人の声がかき消され始める。 眩しさに僕は、顔をしかめる。遠く、誰かの声を聞く。僕とどこかで繋がっている誰か。僕が傷つけた、僕が抱きしめた、これからそうすべき、誰かの声だ。 「しっかりと持っていなさい。失うことのないように」 老人が言う。眩しさに僕の目は、老人の姿を見失っている。星が弾ける。暗闇が駆逐されていく。名前を呼ぼうとして、けれど僕は老人の名前すら知らないことに思い至った。 最後の銀河のひとかけが、弾けると同時にその声は囁いた。
「そして君は、君自身になりなさい」
世界は真っ白に光り、僕は目を閉じた。 耳の横で、心臓が鳴っている。手のひらに、赤い光が瞬いている。 僕はそれを握り締め、胎児のように体を丸めて、それを胸に押し当てた。 鼓動。熱。光。そして僕は静かに、燃え上がった。
夏休みに入った。 引退した野球部仲間と遊んだり、大学の見学会に行ったり、僕はそれなりに忙しく七月を過ごした。壊滅的だった期末テストを挽回すべく、少しは勉強したりもした。 夏休みの三日目の朝に、セルゲイさんが亡くなった。 近所の人がそれを教えてくれた。僕は学校の制服で、葬儀に参列した。 セルゲイさんは僕の家から少し離れたところに住んでいた。やはりセルゲイさんは普通の日本人で、息子夫婦や孫とごく普通の生活を営んでいたようだった。僕にはそれが少し不思議だった。僕の中でセルゲイさんは最後まで、僕の家を出たあと夕方の電信柱の影に吸い込まれてしまうような、そんな人であったのだ。 セルゲイさんが昼間僕の家に通って来ていたことは、息子夫婦も知っていたらしい。彼らは僕の顔を見て、詫びながら深々と頭を下げた。僕は困って、頭を下げ返した。 遺影を見ながら、少し涙が出た。あの優しい低い声を、もう聞くことはないのだと。 胸に手を当てると、それは今も確かに僕の中にある。
八月の最初の週に、犬の散歩をしているウダさんと偶然会った。 少し日に焼けて、元気そうにしていた。髪は茶色く染めている。大学へは行かずに、高校を卒業すると同時に二十五歳の彼と結婚するのだという。みんなが受験戦争してる間どうしようかなぁ、と、あまりに気楽そうな伸びをするので、僕は笑ってしまった。 「じゃぁウダさん、俺の受験勉強手伝ってよ。ウダさん俺より頭いいじゃん」 「そりゃサワシロ君と比べたらねぇ」 「ウダさんってけっこう言うよね」 「あはは、今更気づいたの?」 そう言って笑うウダさんの茶色い髪が、真夏の日差しに透けて光る。その色がきれいだったから、僕も笑った。足元の小さい犬は、行儀よく座って僕らを見上げている。 「サワシロ君」 犬を見下ろしていると、ウダさんが改まったような声で僕を呼んだ。 「なに」 面食らって返事をする。ウダさんはいたずらめいた表情で、僕を見上げた。 「手紙が来たの」 僕は瞬きする。ウダさんはにっこり微笑んで、言った。 「あの女の人から、手紙。もちろん彼氏宛だけど、ちゃんと住所も書いてくれてた。北海道の実家だって。やっと落ち着きました、手紙が書けなくてごめんなさいって」 僕は空を見上げた。プロムナードの街路樹が、夏の空を遮っている。 「子供が、生まれたんだって。女の子。写真も送ってくれた。すっごく可愛い子」 ウダさんは一息に言って、僕の顔を見た。僕はなにも言わなかった 「産んでよかったって、書いてあった」 ウダさんはそう言って、微笑んだ。 「いろいろ悩んだけど、今は幸せですって。あなたたちを恨む気持ちはありません、幸せになってください、って――そう書いてくれたの、あの人」 僕は瞬く。ウダさんは、街路樹の緑を見上げて、切れ長の目を細めた。 「全部を鵜呑みにしちゃいけないって、それはわかってる。その女の人も、私たちに気を使ってくれてるんだって。でも、幸せです、って。――それはきっと、本当だった。手紙の文章からも、写真からも、それは伝わってきた」 ウダさんの目は遠い緑を映していて、そしてそれは、とても優しい。 「私たちは、その子のことを忘れちゃいけない。これから先その母子が苦しむとしたら、その責任の一端は私たちにある。だからその繋がりを、忘れるわけにはいかない」 僕は目を伏せる。僕が燃やした、ウダさんの思い。言葉。それを思って。 「……でも今、その子が祝福されていて、あの親子が幸せでいることが、私は嬉しい」 ウダさんは僕の目を見て、微笑んだ。 「私、自分のことしか考えてなかった。でも、今は思うの。サワシロ君は私の手紙を燃やすことで、あの子の命を繋いだんだね」 僕はウダさんの言葉に、目を開いた。 繰り返し繰り返し、夢の中に出てきた赤ん坊の泣き声が、耳に蘇る。 それは、産声だったのかもしれない。僕が繋いだかもしれない命が、この世に生まれ出る未来からの。それは僕が飛ばした小さな火が、唯一与えた祝福だったのだろうか。 決して、いいことはしていない。僕はただ自分の苦しみから抜け出すために、闇雲にもがいていた。熱を欲して火を放ち、たくさんの人を傷つけた。降り積もった暗く鈍いものの中で、凍りついた自分の体だけが、僕に見えていた全てだった。 ただその火が、小さな命を生んだ。 そのことに、僕は救われた気がした。 自分のしたことを、忘れはしない。――でも、そこに小さな祝福がある。それだけで。 「サワシロ君」 ウダさんが僕を呼ぶ。僕は目を上げ、なに、と言った。 「――キリエ君、いなくなっちゃったんだって?」 ウダさんの声は、掠れていた。僕は目を伏せようとして、そして堪えた。 「うん」 僕は頷いた。ウダさんの顔に小さな緊張が走り、そして、そう、と言った。 「……もう、帰ってこないの?」 「わからない」 僕は首を振る。燃やした手紙。失いたくはなかったもの。 右と左で少し別々を向いている、色の薄い切江の目。 僕たちはお互いになにかを諦めて、そしてお互いに、とても臆病だった。 そのことを、言い出すこともできなかったほどに。 「俺はあいつを傷つけた。すげぇ馬鹿だった。ウダさんの言ってたとおり、寄りかかろうとも、支えようともしないで、平気な顔してそのまま進もうとしてた。キリエのことも何も考えてなかった。自分のことしか、考えてなかったんだ」 僕は口の端で笑う。ウダさんが僕を見上げている。 「――でも今は、それに気づいたから」 僕は空を見上げた。 「キリエともまた会えるような、そんな気がするんだ」 八月の空は、恐いぐらいに、青すぎるほどに、青い。 街路樹の隙間から、手に取れそうなほどはっきりとした入道雲が、顔を覗かせている。 これから、もっと大きくなるだろう。
「……サワシロ君、なんか明るくなったね」 ウダさんがそう言って笑った。僕も首を傾げて笑う。彼女の小さな犬が退屈そうにしていたので、僕たちは手を振って別れた。ウダさんの背中が並木道の向こうへ吸い込まれていくのを見届けてから、僕は自転車にまたがり、ペダルを漕ぎ出した。
それは僕の胸の奥に、赤く燃える火だ。 それは僕をあたため、僕を焼き尽くす。 そうして僕は、僕自身になる。
想像する。 胸に手を当てるとそれは今も、確かに僕の中にある。 〈了〉
|