受講生の作品を紹介します
本人の了解は得てあります
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<二松学舎> 空の歌、旅の空 (前) 高田友美
207A 国文学専攻
(二松学舎の学生の作品はいずれも作者の了解を得て掲載しています)
空から歌が降ってくる。それはとても素晴らしく、とても神秘的で、何より心が満ちあふれたような感覚だった。 ここまで来る辛い道のりも、この貴重な時間のためだと思えば我慢できた。そしてもっと険しくても、どんなに長くとも、この歌が降る空を見上げられるなら、何回でも挑むことができるだろう。 僕はここに来て、本当によかった。 後は里に帰るだけ。 後は自宅に帰るだけ。 この素晴らしい歌を持って帰れば、僕はこの旅の約束を終えることができる。 彼女の喜ぶ顔はどんなだろう。 彼女はどんなにびっくりするだろう。 その後の物語を書くんだ。この冒険の話を。 それを自分は心のそこから望んでいる。 そして、静かにこの物語を聴いていてくれる人たちのことを考える。 それは高ぶる心を落ち着かせた。 早く帰りたい。 僕は優しい空想に浸りながら、静かに降ってくる歌に耳を傾かせた。
金の女性が、抑揚のついた美しい声で歌う。 ため息が出た。 今日これからしばらくは生活が楽になるだろう。 ぽつりぽつりと雨が降ってきた。命の水は、歌う女性の紙と同じように、金色に光っているように見えた。 まだまだ女性の歌は続く。 天語歌は、空高く登っていった。 「凄かったね」 歌が終わり、大勢の体格のいい男女に護衛をされながら、金髪の女性が輿に担がれ帰った後、さくらがトトキにいった。 「明日から大変だよ。たくさん働かなくちゃ」 「あのね、トトキ。あんたは男なんだから働かなくちゃいけないの。そんなことばっかりいって働くの怠けてると、お嫁さんがこなくなっちゃうわよ」 「別にまだ嫁なんかいらないし」 「お父さんが聞いたら悲しむんじゃない?」 さくらは村長の娘だった。トトキのひとつ上の少し変わった女の子で、事あるごとにトトキと一緒にいた。 トトキにとってそれはまったく気にならなかったが、村長は最初だいぶ気にもんでいたようだった。なぜなら、トトキは少しどころか、だいぶ変わった少年だと村の人から言われていたからだ。 トトキは父親に絵を教えて貰っていた。九人兄弟の中でも、特にトトキは父親の絵に興味を持ち、幼いころからその絵に魅入っていた。父親の描く絵は、とてもわかりやすく、そしてとても簡単だった。兄弟たちも、近所の人たちも、皆おかしいというけれども、なぜかトトキには、その絵がとても魅力あふれるものに見えたのだ。 トトキは自分の父親が死ぬまで父親が描く絵を見ていた。決して学ぼうとしていたわけではない。ただ、トトキはその絵を見ていただけだった。 しかしその絵が問題だったらしい。 村の人たちには、みみずがのたくったようなものに見えた。その絵を描いているトトキの父親に、村の人たちはだんだん疎遠になりはじめた。 しかしそれも長くは続かなかった。トトキの父親は、ある日突然死んだのだ。 トトキは大きくなり、とうとう田畑の世話の手伝いをしなければならなくなってしまった。絵を見る時間は少なくなり、徐々に忘れていった。トトキの父親の部屋も、すでに物置になってしまい、かつての炭や墨の匂いは薄れていった。 「父さんはそんなこと気にしないよ。それより帰ろう。長く雨に濡れると風邪引くよ」 「そうね。それに明日はきっと休んでる暇なんてないんだから」 その言葉通り、乾いた茶の大地は次の日には緑色の大地へと変わっていた。 ちいさな野菜と一緒に、それより速い速度で成長をしている雑草の芽が一気に芽吹いたのだ。 きっとさくらの家でも田畑の手入れが大変だろう。今日までずっと水不足で心配されていたものが、たった一晩で手入れが行き届くかどうかの問題に変わっていた。 歌い人は、一瞬で、死の道へ進もうとしていた村を助けてしまった。詩い人の歌うその力は、それだけ神秘的で、そしてとても神々しかった。 トトキは亡くなった父のことを思い出していた。歌い人が好きだった父は、良く歌い人が歌ったという物語を語ってくれた。 絵を描きながら物語る父は、とてもうれしそうで、とても楽しそうだったのを記憶している。
ふと、トトキは土で汚れた手を休め、体を起こした。懐かしい匂いがしたような気がしたからだ。しかし、周りを見ても特に変わったところはなかった。 兄や姉、弟や妹は、忙しそうに畑に生えた草を抜いている。隣の畑でも、同じようなことをしている。 一瞬だけ香った匂いは、トトキの気のせいだったらしい。 太陽がさんさんと照っている。初夏のような陽気で、夕べ降った雨はすでに乾いていた。 「あっちーなぁ……」 三番目の兄が額の汗を、首にかけていた手ぬぐいで吹き、誰ともなくそう呟いた。太陽に負けないようにと、今日はいつもより草の芽の出が多かった。昨夜の雨のせいでもあるだろう。 「よそご兄。時間」 そろそろ昼飯の時間だろう。太陽が高くなり、地面に落ちる影も濃くなっていた。 「あぁ、もうこんな時間か。おーい、たつた兄、そろそろあがろう。飯時だ」 「……あぁ、今行く」 一番年上のたつた兄が疲れた腰をゆっくりと伸ばしながら立ち上がった。そしてこちらへこようと足を進めたが、足を止め、後ろを振り返った。 「何か騒いでるぞ」 「騒いでる?」 よそご兄が背伸びをするようにたつた兄が向いている方を眺めた。そこには、隣の家のおじさんが、村の中心へ走っていく姿があった。 「たつた兄、俺行って来てもいい?」 「好きにしろ」 そう言ってたつた兄はひとりで家の方へ向かって行った。よそご兄はおじさんのもとへ駆けていく。野次馬が好きな若者は、どこの村でも少なくないだろう。トトキもそのうちの一人で、よそご兄の後ろをついて行った。 おじさんが走って行ったところへトトキ達がついたころには、既に人だかりができていた。人を押しのけるようにして前へ行くと、喚くようにして話すおじさんの姿が見えた。おじさんは、何か凄い物がいたと言っているらしいが、どうも興奮しすぎて舌が回っていない。 この村の人の欠点は、言いたいことがあるのに、混乱するとうまく物事を伝えられないということだ。 とりあえずおじさんが指差していたのは、おじさんの畑の方だった。すぐにでも手が空くものたちは、手に鋤や鎌を持ちながらそちらに向かっていく。 トトキもその中の一人だった。 よそご兄に呼び止められたが、「少しだけ」といって畑の方に走っていった。 畑には何もいなかった。おじさんの混乱した言葉では、どうも森の中にいるらしい。 ここの畑の周りは、森と壁のような崖ばかりだった。 「どこでそんな凄いものを見つけたんだろうねぇ」 隣の家のおばさんが、トトキの隣に来て言った。 このおばさんは、トトキたちが母親をなくしたころからずっとこの家の母親代わりのようなことをしていてくれる人だった。 「森の中にもいってみる?」 「そうね。でも凄いものってなんだかわからないんでしょう? 考えなしでいくのはあまりにも危険じゃないかしら」 「そうかなぁ」 「春だから熊もおなかいっぱい食べているだろうけど、冬眠から覚めるのが遅かった腹ペコ熊にあっちゃったら大変よ。殺されたくはないでしょう?」 トトキの父親は熊に殺された。突然のことだった。森のイチゴがなるころだといって森に入ったきり、絵を描くことができなくなってしまった。 それはこの村にとって驚くことではない。少なくない数の人間が、森に住む熊に家族を殺される経験をしている。 おばさんも旦那を虎にやられている。 それは三年前の冬のことだった。 虎は腹を減らしていたらしく、おじさんに残されていたものは粗末な服と、硬い骨くらいだった。 やはりそれも、この村では珍しいことではなかった。 「でも俺いって来るよ」 「危ないからだめよ」 「兄さんたちにはもういってあるし、それにほら、森に入っていく人もいるんだからさ。ついていくだけだって」 おばさんは深く考え込むように眉間にしわを寄せていたが、やがて自分を納得させるようにうなづいた。 「そうね。お前は止めても目を離した隙に行ってしまうのでしょう? いいわ。でも、ちゃんと戻ってくること。約束できる?」 「ありがとう、おばさん」 もう森の中に入っていってしまった大人たちを追いかけ、トトキは走っていった。 まったくいつもトトキはころころ走っている。まるで疲れを知らない子供のようだ。 そして、何事にも強い関心を持っていた。 トトキの父親は変人だと周りの大人はいい、その子供のトトキも、同じ年齢の子供から散々からかわれていた時期があった。しかしトトキはへこたれず、卑屈にもならずにあの父親を慕っていた。 いつもトトキの父親は変なことを口走っている。それももう昔のことだが、トトキはそれを一生懸命聞いていた。 おばさんは深くため息をついた。
森の中はいつもと変わらなかった。熊もいなければ虎もいなく、あえていえば、必死に口を動かしている二匹の兎にあったというくらいのものだった。 「何がいたんだろうなぁ」 「きっと木か何かが大きな獣に見えたんじゃないのか?」 「あぁ、あり得る。あの親父なら。いつも酔っ払っているしな」 いい加減おじさんの見つけたものを探すのに飽きてきたみんなは、構えていた桑や鋤を下ろし、森から出ようと話し合った。ただでさえ今日は忙しい日。何か危険なものがないとなると、ここにいても仕方がない。興味本位で来た若者たちも、そろそろ腹の減りのほうが勝ってきたのだろう。その意見に賛成していた。 「もう出るの?」 「なんだトトキ。お前だって仕事があるだろう? それとも怠けたいのか」 「それもあるけど、おじさんは何を見たか興味があるんだ」 「じゃぁお前はここに残ればいい。仕事を兄弟たちに任せて、ずっとここで探していればいいじゃないか」 「うん。そうする。気をつけて帰ってね」 大人たちは首をすくめた。何人かは眉をひそめている。 怒らせただろうか。でも本当のことだし、今日の森は昨日までとは違って、すがすがしい空気に満ちているような気がした。 「お前が死んだら俺たちが責められるんだ。わがままは言うな。第一どうしてついてきたんだよ」 「興味があったから。だって畑で仕事をしているより、森で探し物をしているほうが楽しいし」 誰かが何かをつぶやいた。何を言ったかは聞き取れなかったが、声のしたほうの人々は妙に納得している顔をしていた。 大方、「あの男の息子だからな」とかいっているのだろう。トトキはため息をついた。 「なら気の済むまでここにいたらいい。兄弟たちに迷惑をかけてまでここにいたいんだろ」 「うん。じゃぁ、兄さんたちには言っておいて。お昼ご飯はいらないって」 村の人々はそれを伝えてくれるかはわからないが、きっと兄さんたちは自分が森に入ったと知って、トトキの分のお昼ご飯なんて用意してはいないだろう。いつ帰るかわからないし、兄弟の中でもトトキは自分だけが少しだけ異質なような気がしていたし、それは兄弟たちも感じていた。 たぶんほとんど理由はないだろう。大人たちはトトキに強制しない。だからトトキはいつも素直に自分の心をいっても構わなかった。たとえ心を隠したとしても人は眉をひそめるので、自分の心をしゃべらないと損なような気がするのだ。自分の心を明かしてしまえば、人はその言葉に怒りを向ける。 最後の一人が見えなくなると、トトキは木の上に登った。実際いい加減仕事に飽きてきたところだった。探すのも飽きたし、一眠りしたかったのだ。 確かに森は危険だ。猛獣がたくさんでる。しかし、トトキはそんなことは構わなかった。たとえ猛獣が出たとしても、そこで自分の人生が終わるとは、どうしても想像できなかった。 目をつぶってみた。目の裏は真っ黒なようで、そうでもない。光があれば、瞼のうしろは赤く見える。 考えてみた。もしもこの森に驚くほどの物がいるとしたら、気味の悪い物なのだろうか。もしかしたら、神秘的なのかもしれない。大きな耳を持っているかもしれない。大きな翼をもっているかもしれない。目だってたくさんかもしれないし、尻尾だってあるかないかわからない。羽の生えた虎。ウサギのような耳をつけた狐。尻尾が二つある狼に、三つ目の熊。 そんなのはいないことは分かっているが、想像するのは楽しかった。 目をつぶってそんなことを考えてるうちに、トトキは本当に眠りに落ちていたった。 おなかいっぱい果物を食べている夢を見ている中、トトキが目を覚ましたのは、誰かが自分を呼んでいる声が聞こえたような気がしたからだ。 「誰?」 誰も答えない。 下を見ると、金髪の少女がこちらを見上げていた。 「君が呼んだの?」 少女はこちらを見ているだけだった。 そしてときどきかすかに首を傾げる。 「今、下に下りるよ。待ってて」 じっと青い目で見られているのも気味が悪く、トトキはゆっくりと木から滑り降りた。 「君は変なおじさんをみた?」 少女はこくりと首を縦に振った。 「僕はトトキ。君はここで何をしていの?」 少女は答えない。 「もしかして、君は詩い人?」 こくりと頷いた。 詩い人は言葉をしゃべれない。その声を聞くことができるのは、歌を歌うときだけだと、村の司祭が言っていた。 「昨日僕たちの村に別の詩い人が来たのだけど、知り合い?」 ふるふると少女は首を振る。 「迷子なの?」 うつむいた。 「なら、おいでよ」 少女は、青い瞳をこちらに向けてきた。 海のような色の目だった。
いきなり頭を殴られた。どうして殴られなくてはいけないのかわからなかったし、今ここで自分を怒るべきなのは村長ではなく、兄弟のはずだ。農作業を怠けたことに対しては多少反省しているが、それを村長にとやかく言われる筋合いはないような気がする。 金髪の少女を連れて村に帰ると、トトキと少女の姿を見た村人たちが悲鳴を上げ、頭を下げた。 そういえば、詩い人はあがめられる存在だった。どうみても、金髪の少女は普通の人間には見えなかったが、それでも受け入れられるくらいの共通点はあった。それでつい、トトキは敬うのを忘れてしまっていた。でも、特に少女は気にしているようでもない。だからいいじゃないかとトトキはおもうのだが、村の面子の問題らしく、村長はまたもやトトキの頭に拳骨を落とした。 「馬鹿者! なぜすぐに人を呼ばない」 「だって人がそばにいなかったし。じゃなにさ、連れてこなければよかったって言うの? それこそ問題じゃない?」 「第一なぜお前は一人で森の中にいるのだ。子供は森の中にいってはいけないと習わなかったのか」 「一人で入っちゃいないよ。大人たちと一緒に入ってきたさ。ただ、帰りに一人になっちゃったってだけだよ」 その答えに、村長は顔を赤くして何かわけのわからないことを怒鳴り始めた。たぶん説教をしているのだろうが、トトキには聞き取れなかった。 「でもさ、こんなところで怒鳴っていてもだめじゃない? 早く詩い人を客間とかに案内してあげたらどうだろう」 もう一度拳骨が振ってきて、それで説教は終わりだった。 村長の家から追い出されると、トトキは素直に家に帰ろうとしたが、村人たちに囲まれ、うっかり夕飯を逃してしまった。なんとなく夕飯は食べられないような気がしていたので、期待をしていたわけではなかったのだが、いざ夕食をふいにしてしまうと、悲しいものがある。そして、トトキを囲む人々の中には、兄弟たちの姿はなかった。 夜遅くに家の中へ帰ると、家の中はしんとしていた。この時間に起きていること自体珍しいことなのだが、帰りを待たないで眠ってしまう兄弟たちに、トトキは少し哀しくなる。兄弟たちとトトキはいつもどこかずれている。それが悲しく、そしてトトキにはどうしようもなかった。どこがずれているのかがわからなかったから。 かめの中から水をすくい、一気に飲んだ。冷たい水が、空腹の体の中に染み込んでくる。もう一杯飲んでから、トトキは自分の部屋に入った。部屋は三人でひとつの部屋を当てられている。七人兄弟の五人姉妹の大家族は、両親をなくしたから一致団結してがんばってきた。それを自分が、砂で作った城のように一晩で崩してしまうのが怖かった。ここにいれば、いつか必ずいつか壊してしまう。トトキはいつの日かここから出て行くことばかり考えていた。 外の世界はどんなのだろう。森と見上げるほど高い崖に囲まれているここは、外に出ることを考え始めてから、鶏を囲む檻と同じように見えてきた。 「兄さん。トトキ兄さん」 姉妹の中でも、一番下のいちいがトトキを呼んだ。 「何? まだ起きてたの?」 「うん。……どうしてトトキ兄さんはいつもお仕事怠けちゃうの? どうしてそれなのに怒られないの?」 「それは、僕がわがままだからだよ。僕のわがままは直らないからね」 「兄さんがいなくなって、たつた兄さんが慌ててたよ。怪我しないかって」 「うん。たつた兄さんは優しいからね。でも大丈夫だよ。僕はここでは死なないから。僕はいってみたい世界があるんだ」 「またお外のお話?」 「兄さん達や姉さんたちには内緒だよ。驚かせちゃうからね。僕がこの村を出たらしゃべってもいいけど」 「約束?」 「約束」 唯一このいちいだけはトトキを慕っていた。いつか他の兄弟たちのようにトトキを避けるようになってしまうかもしれない。兄弟たちは、徐々にトトキと疎遠になっていってしまったのだ。それでもトトキには嬉しかった。まだ兄弟たちとは繋がっていることを実感できるからだが、つい、いちいにはいつかこの村を出ることをしゃべってしまった。後悔はしていないが、心残りができてしまった。 「いちい、もう寝なさい。今日は疲れたでしょう?」 「うん。兄さんももう寝るの?」 「そうだよ。もう寝なくちゃ。遅いからね」 「おやすみ」 「おやすみ」 トトキは今日の出来事を整理しようと目をつぶったが、考え始める前に深い眠りに落ちていってしまった。
畑仕事をしていると、村長のところの侍女がトトキを呼びにきた。兄弟たちのほうを向くと、いってらっしゃいというように手を振っている。 トトキは久しぶりに持った鋤を地面に下ろした。それをいちいがもとの場所へ片つける。 「お昼ご飯いらないや」 そういうと、よそご兄さんは頷いた。少しはとっといてあげるとか言ってもいい気がするが、それはわがままなことかもしれないと思い直した。 「村長さんの家でいいんでしょ? 早く行こう。でも、何の用だか知ってる?」 侍女は何を聞いても答えられなかった。村長さんは、侍女というものをいまいち信用していないところがあるから、それは仕方ないのかもしれない。でも、何の用事か言ってくれないと、このままの仕度でいっていいのか、それともちゃんと土を落としていったほうがいいのか悩む。 結局そのままの支度で出て行くことにした。 多少無礼になっても大丈夫だろう。村長は自分に期待なんてしてないだろうし。 「おじゃまします」 いつも失礼しますと言えといわれるが、それはなかなか叶ったことがない。そう言おうとはしているのだが、ここにくるときは殆ど怒られるときなので、ころりと忘れてしまう。 「トトキ。遅いぞ」 「何を着ようか迷っていたんで」 「その割には普段着のようにしか見えないのが」 「で、何のようです? 今日は忙しくなる予定なので、あまり長くここにいたくないのですけど」 「しばらくこのお嬢様の面倒をお前が見ていろ」 「何で僕が?」 わけがわからない。昨日あんなに恥さらしだの、もう二度と詩い人様たちに会うな、などといっておいて、今日になったら面倒を見ろとはいったいどういうことか。 「仕方ないだろう。私は隣町まで行ってくる。上に報告しないことには何も始まらん。いつまでもここにいるには、ここの村は退屈で汚すぎる」 ここの村が汚いとはどういうことか。ここが汚いのは村長の怠慢であるし、いつも働けといい続ける村長自身が怠けているのなら、今度から村長に働けといわれても、働く気に余計ならない。 「とにかく頼んだぞ。今仕事から離れても支障がないのはお前くらいなものだからな」 「わかったよ。行ってらっしゃい」 仕事をしないで休んでいられるなら、多少の不平もなんてことはない。ずっとここにいてもいいくらいだ。ただ、今仕事から離れてもあまり支障のないのが自分だけだとすると、昨日仕事を放り出して森にいっていたあの村人たちは何だというのだろうか。今日よりも昨日のほうが忙しかっただろうというのに。 村長が家を出て行ってから、どうも侍女たちまでが気の抜けた顔をしていた。気の抜けた人のところにいるのは気が楽だが、どうも今度は動かなくてはならないような気がしてくる。 「どうする? 外に行ってみる?」 それを聞いた回りの人たちはぎょっとしたようだった。詩い人は自力で歩くことは滅多にない。一人でいるときはもちろん歩くが、ほかに人がいる場合は、その人が抱えるか籠を呼ぶ。しかし狭いこの村にそんな高度な職業のものはなく、詩い人は自分で歩くしかない。 しかし少女は頷いた。 「籠とかないけど平気?」 昨日と同じように、こくりと頷く。 「なら行ってきます、おばさんたち。帰ってきたらお昼ご飯にしましょう」 そういえば夕べは何かご馳走してもらえたのだろうか。少女の手足は細く、病弱そうだった。 「ここが井戸。僕たちの唯一の水源。もちろん綺麗だよ。浄水とかしてないけど」 少女はくすくすと笑った。今のどこに笑いをさそうものがあるのかはわからなかったが、少女が笑っていることはよかった。 「んで、あそこが灯台。本当は灯台なんて海にしかないはずだけど、ここの森は隆起が激しいから、森の中にいるとき目印になりやすいんだ。今度迷子になったとき、なるべく高いところに行ってあたりを見回してごらん。あの灯台の明かりが見えたら、もう迷子だとはいえないから」 少女は感心したように灯台を見ていた。さびついてとても綺麗とはいえないけれど、それなり役に立っている。トトキは何度もこの灯台に世話になっていた。 「うーん、他に何か珍しいものあるかな。こう、田舎にしか見られないものとか……。」 「あれは何?」 「あれ? あれは牛が逃げないようにする柵だよ。とげがついてるから危ないけど、それなりに役に立ってる。本当はとげなんかついてないほうがいいんだけど、面倒を見る人間の数が少ないからね。仕方ないんだよ」 「ならこれは何?」 「これは樹液を採っているんだ。どうやって使うかは知らないけど、隣り町で売れるんだ」 白い樹液は、ブリキの缶の底に溜まっていた。とろとろとしていて、手で直に触れれば荒れてしまう。 「驚かないの?」 「驚いたよ」 トトキはブリキの缶の位置を直しながら返答した。そんなトトキを見ながら、少女は溜め息をついた。トトキの姿は、詩い人がしゃべったことに対して、それほど驚いているように見えなかった。 「疲れたら言って。すぐそこに湖があるんだ」 少女は何か言いたそうに口を動かしたが、結局「ちょっと、疲れた」 と言った。 少し森の中へ入ったくらいのところに、みどりの湖と名つけられた、湖があった。水の底の苔が、水面まで緑色に見せていたからこの名前がついたのだが、水自体は飲むことができるくらい綺麗に透き通っていた。 もしかしたらここの湖には妖精やら精霊やらが住んでいても不思議はないのではないだろうか。どうしてだかは知らないが、ここにいれば絶対に猛獣などに襲われることはなかった。兎と虎が近くで水を飲んでいることさえあった。 トトキが両手で水を掬い飲むと、少女も真似をしようとした。しかし、汲んでも汲んでも水は指の間から流れて行く。 見兼ねたトトキは、近くに生えていた葉の大きな草を採った。その葉と茎で酌を作る。 「ありがとう」 「お腹壊さないでね。僕が怒られるから」 「大丈夫。外の水は昔飲んだことあるから」 少女は冷たい水を、喉を鳴らしならが飲んだ。そして側にあった苔むした石へ腰掛けた。トトキも隣りの石に座った。 「ここはいいところね」 「そうだね」 遠くで鳥が鳴いた。ここの湖は、川の水が殆どなくなっても水を湛えたままだった。ここの湖が枯れたことは今まで一度もない。水不足の時、村の人々はこの湖に助けられていた。 「ごめんなさい」 「別に」 手元にあった小石を、トトキは湖の方へ投げた。軌跡を描く石を、少女は目で追った。 「私はネーレーイス。ネリネ」 「僕は十番目の子供だからトトキ」 「トトキ」 「うん」 もう一度トトキが石を投げると、ネリネは傍にあった石を拾った。 「私、歌を歌いたくてここに来たの」 「歌?」 「えぇ、山に降る歌を探して。でもどこの山かは分からないから」 「山に降る歌」 聞いたことがある。この世界には歌が降る山があると。誰が言っていたんだろうか。 「私、人を探してたの」 「誰?」 「キリィ」 「きりぃ?」 言葉の響きからして詩い人だろうか。しかし、ネリネは首を振った。 「キリィ。キーリィ。キリ。キリリ。」 ネリネが同じような言葉をつらつらと言うと、その中に聞き覚えのある名前があった。 「きり」 「知ってるの?」 「いや、僕の父親がきりって言うんだ」 ネリネの瞳が大きくなった。どこまでも底のない瞳に、一気に心が引き込まれそうになった。 「やっぱりこの村で良かったのね! あなたに見つけられて良かった!」 「まっ待ってよ! 人違いの可能性だってあるじゃないか。きりなんて、あの村長の兄弟だってつけられてるようなありふれた名前だし」 「……そう」 持っていた石を、ネリネは湖の方へ投げた。石は軌跡を描き、水辺へ落ちた。魚はいない湖に、小さく波紋が広がった。 「私は歌いたい」 「うん」 「歌を知ってる人に、歌が降る場所を知ってる人に会いたかった」 「どんな人だか分かる? そのきりっていう人」 トトキの言葉に、ネリネは目を伏せて考えた。そして、宙に指を振った。 「字を知ってるかもしれない」 「じ?」 初めて聞く言葉だった。 「字というのは、物事を書き記すためのものよ」 「かきしるす?」 何か絵を書くのだろうか。父親と同じように。 「たぶん、下界には字なんてない。みんな言葉だけで伝えていく。だからこそ私たちは歌を歌い、伝えることができるの。でも、私たちも、話を書き記した文は他人に見せないわ。だって、歌が広がってしまえば、誰も私たちの歌なんて聞かないから」 まるで意味が分からなかった。トトキは、詩い人の歌う歌には呪力があり、神と交信することができるため、理解できない軌跡を引き起こすことができると習ったし、そう信じて来た。 詩い人が住む天上界には歌が溢れ、溢れ零れた歌が、空から落ちて来る。そこが山になり、伝説となる。 詩い人の別名は天上人。下民が天上界に届く山に登ることは、禁忌だった。 「ごめん」 「いいの。私の我が儘も、もう終わり。すぐに迎えが来るわ」 村長は隣り村に行くと言っていた。隣り村の役人に話が通れば、すぐに祭司へと話が行き、そして天上界へ話が通る。そうなれば、ネリネはもうこの村にいられない。 トトキは心が痛んだ。 「ねぇ」 「何かしら?」 「どうしてあなたは私のことについて質問しないの?」 「たぶん、君は何も話さないと思ったからさ」 「せっかく断る文句を考えてたのに。言う楽しみをとったわね」 「些細な失望は常にあるさ」 「けち」 詩い人のことは誰も知らない。祭司に頼むと、祭司は長い祈りにはいる。そしてその祈りが巫女に届けば詩い人はくるが、届かなければ再び長い祈りに入らなければならない。その長い祈りのせいで命を落とす人もいた。 「何で私あなたの前でしゃべろうと思ったのかしら」 「知らないよ」 「だって、私しゃべる気なかったはずなのに、こうしてしゃべっているんだもの」 「ふぅん」 「どこか……あなたが似ていたのかもしれないわ」 「誰に」 ネリネはトトキに向かいなおった。青い目がどこか遠い国を思わせた。 「私たちに」 鳥が遠くで鳴いた。森に響かせるようにして鳴くその鳥の名前を、トトキは知らなかった。湖に棲む魚が跳ねた。それを木の上の鳥が狙っている。対岸に、狐の親子が水を飲みに来ていた。 「行こうか。もうお昼になるよ」 「えぇ、そうね」 二人は立ち上がり、森を出た。湖のそばは涼しいとは思わなかったのだが、太陽の下へ来ると、暑い、と感じた。現実に返ってきたようで、汗がにじんできた。ネリネはそれっきりしゃべらなくなり、さっきまでよくしゃべっていたのが嘘のように思えた。 黙ってブリキの缶のそばを通り過ぎた。刺のついた柵が見えなくなった。風車のそばも通り抜け、村長の家が見えてきた。 「さようなら」
トトキの言葉に、ネリネは小さく頷いただけだった。
「兄さん」 一緒の布団で寝ていたいちいが、トトキを呼んだ。夕べ怖い夢を見たといういちいは、トトキと一緒に寝たいと言い出し、一緒に寝ることで安心するんならいくらでも一緒に寝てもいいと、トトキは自分の布団にいちいの場所を作った。 月明かりがさす中、いちいはトトキの顔をじっと見ていた。 「どうした? 早く寝ないと、明日早く起きれないんじゃないかな?」 「詩い人さんは、なんて名前なのかしら」 「知らないよ。だって詩い人はしゃべることができないんだから」 「私、詩い人さんたちって、とおさんの部屋にある絵と同じに見えるの。同じ感じがする」 「そうかもね。でも、やっぱりちょっと違うと思うよ」 「私わからない」 いちいはもぞもぞと寝返りを打った。姉の一人が作ったぬいぐるみを抱きかかえて寝るいちいは、どうしてこんなに自分に構うのだろうと思う。いくらトトキに構っても、いちいに対する姉たちの愛情は変わらない。 羨ましいと、少し思う。 「兄さんは、あの詩い人さんが好きなの?」 「どうして?」 「だって姉さんたちがそういってたから」 「そう。でも、確かに思うところはあるかもしれない。あの人たちは外の世界にいる。僕はその外の世界にいってみたい」 「兄さんはどこか行っちゃうの?」 「どうだろう。いつかどこか行くだろうけど、まだ行かないと思うよ」 「どうして?」 「だって旅に出るにはまだまだ僕は幼いし」 十五になったばかりのトトキは、まだまだ大人から子供と判断される年齢だ。成人するまで後三年。普通十八歳になったらひとり立ちをする年齢に達したことになるのだが、実際ひとり立ちするのは二十歳がこの村では一般だった。 後五年。トトキはその後年で旅の知識を蓄えるつもりだった。 旅の途中で倒れるようなことや、困った出来事に遭遇し、足止めを食うこともしたくなかった。 「でも、もしも機会があれば出て行っちゃうんでしょう?」 「そんなことないよ」 「そんなこと?」 「うん」 「そんなことって機会のこと? それとも出て行かないこと?」 いちいは妙に鋭いところがある。こちらが曖昧にしようとしても、それが通用しない。 もしかしたら、いちいは女でありながらこの村の外交などの仕事につくかもしれない。村長もそう話していたことがある。そういったほかの村との連絡を取り合ったりする仕事は位が高い。優遇される職業だ。 トトキはその職業に就いたいちいを見たいと思うが、トトキの存在はいちいの障害になるだろうし、いちいがその職業に就く前にはこの村にいない可能性もある。 「機会だよ。だってまだひとり立ちをするまで五年もあるし、何よりも危険だから」 「本当に?」 「たぶんね」 「たぶんだよね」 「……」 むくれてしまったのだろうか。いちいの言葉にはどこかいつもと違った響きがあった。 トトキはその正体に気づかないまま、いつの間にか寝息を立て始めたいちいの背中を見ていた。 月明かりは、いよいよ部屋の中を照らし始めた。 「今日は手伝うんだな」 「まぁね」 そういうと、よそご兄はいたずらっぽく笑った。 「お前がいつもいつも怠けてるからよ、たつた兄が結婚できねぇんだぜ」 「関係ないよ、兄さんが結婚できないなんてこと」 この前一番上の兄の見合いがあったのだが、見事先方から断られたらしい。まさかトトキのせいかと思ったが、どうやらそのせいではなく、たつた兄と先方の都合が合わなかっただけだった。 「そうそう、詩い人は明日帰るんだってさ」 「へぇ」 「なんだその反応は。詩い人だぜ? もっと驚けよ」 「だって僕が見つけたんだし。もう驚いたから別にいまさら驚くのも……」 「明日盛大に祝うんだとよ。午後はその準備に取り掛かるらしいぞ」 「この時期にそんな暇があるんだ」 「作るんだよ。だからしっかり働け」 詩い人ひとりでどうしてこんなに騒ぐのだろうか。もちろんトトキのしても大事件ではあるが、たかが詩い人だ。この村に来ることは少ないだろうが、それでもずっと会えないわけでもない。 「で、どうして今日はこんなに話しかけてくるの? 何か用事があるの?」 「可愛くないやつだなお前。兄貴がこうして話しかけてきてるんだぜ? もう少し可愛い反応はできないのかよ」 「ありがとうお兄ちゃん。僕とってもうれしいよ」 「そうかいそうかい。俺もそんなに思っていてくれてうれしいよ」 よそご兄はトトキのそっけない返答に満足したのか、鋤を片手に畑に向かっていった。トトキはため息をつく。 今日は朝からみんな変だ。朝の挨拶をしてきたり、やさしく声をかけてきたり。何かあるのかと勘ぐってしまう。しかし、何かあるとは思っても、大して今日は何もないのだ。 あるとすれば詩い人の見送りの準備くらいか。そこでトトキが何かするわけでもない。 「トトキ。上着のそこ、穴開いているわ。貸して。縫ってあげる」 「はなな姉……。別にそのくらい自分でできるから」 「いいじゃない今日ぐらい。いつも構ってあげられなかったんだから」 はなな姉は半ば奪うようにして上着をトトキから受け取ると、家の中へ入っていってしまった。 その姿を見送ると、今度は畑の方からたつた兄が呼んできた。 「トトキ、さくらとはどうなんだ?」 「はぁ? どうって何が」 「少し気になってな」 「あいつ村長の娘だよ。何かあるとか、そんなのないから」 「俺たちでも掴めないお前のことを気にかけてくれている。どういう関係なのかと思った」 「掴めないとか酷いよ、兄弟でしょ」 そう言うと、たつた兄は考え込むように黙った。 「どうしたのさ、たつた兄」 「俺たちは兄弟だ。なぜこんなにお前のことを変だと思うのか、不思議でならない」 「うわぁ、本人前にしてそんなこと聞いちゃう?」 「お前はどこもおかしなところはない。だが、どこか俺たちとは違う」 「どこかってどこよ」 「強いて言えば、お前はお前の父親と同じ雰囲気を持ってる。表現しにくいものがあるが」 「雰囲気?」 たつた兄は頷いた。 雰囲気と言われてもぴんとこない。でも、確かにトトキはそれを感じていた。何か、自分には足りない何か。……周りの人に足りない何かを。 「ふぅん」 「軽い返事だな」 「だってたつた兄としゃべったのって何日ぶりだろ。そっちにびっくりしちゃって」 「俺は緊張している」 そんなことまで言ってしまうたつた兄は、本当に自分の気持ちに正直だ。正直すぎて、時々人をひどく傷つける。 (たぶん)と、トトキは考える。(たぶん普通の感覚なら僕よりたつた兄の方が変なんだろうな) だが、世間はそうは思わない。 トトキは変だと言われても、どこが変なのかがわからない。 どこが変かを指摘できた人もいない。 あえて指摘するのであれば……。 「お前はどこか空想的なところがある」 「空想的?」 「何をするにも何かを考えている。俺たちはそんなことを考えてはいない」 「何か……」 「俺たちは物語を知らない。何度も歌われた話なら知っている。だが、俺たちは生み出すことはしない。お前はどうだ?」 「どうって?」 「羽で旗を織る鳥などいない。植物に子供が入っているということなどない。地面の穴には小さい人はいるわけがない」 それは昔トトキが兄に言ったものだった。兄はその時不思議そうな顔をしていた。どうしてそんな変なことを考えているのかと。確かに今考えると変かもしれないが、想像することは変じゃないように思える。 「変かなぁ」 「俺には分からない。だが、世間では変だと思われるだろうな」 たつた兄は、一番最初に生まれたこともあって、兄弟の中では、あの父親に接してきた時間が一番長い。そして、父親のあの部屋の中で、トトキと同じ時間を、少しでも過ごしたのもたつた兄だけだった。だから兄は一番の理解者ではあったかもしれない。そして、たつた兄にとってトトキは、理解しがたい一面も持っているのだ。 なぜなら、たつた兄は自分から父親の部屋で過ごす時間をなくしてしまったのだから。 あの絵の中にいることは、なぜかとてもいけないような気がしたのだ。 「手伝いに行って来い」 「お祭りの?」 「そうだ」 急に話を変えてしまった兄は、くるりと踵を返し、もといた場所へ行ってしまった。もう話は終わったということなのだろうか。それにしても本当に何日ぶりに話したのだろう。 トトキは大人しく明日の準備に取り掛かることにした。 ここ何日か、畑仕事を手伝っていないような気がするが、兄がいいというのならばいいのだろう。 トトキは気軽に考えていた。
村全体で詩い人を見送ろうと、人々は飾った広場へ集まってきた。いいにおいもするし、軽快な音楽も流れていた。ネリネは少し高い所にいて、群衆に微笑み、手を振った。 もちろん口は開かない。歌いもしない。詩い人はしゃべることはしないし、ネリネは歌を知らないのだ。 トトキは低い水車の屋根へ上った。ここからなら何も聞こえない代わりに、広場全体が見渡せた。 さくらがネリネの手を取り、挨拶をしているのが見えた。そう言えば、詩い人は挨拶に握手するのが常だった。昨日、トトキ達は手を触れ合わせた記憶がない。手は体の中で一番敏感な場所だというが、一番外の世界を感じる手を触れ合わす詩い人は、なんだか悲しい存在に見えた。しゃべることができるのに、しゃべることをしてはならないのだから。 ――なぜしゃべることを許されていない? 昨日聞かなかったことが、今日悔やまれた。あの時トトキは怖かったのだ。下手なことを聞いて、詩い人が何もしゃべらなくなるのが。 ネリネがさくらの手を離し、こちらへ向いた。声を張り上げなければ聞こえないほど遠いところにいるトトキを、ネリネは見つけた。見つけたと確信を得たのは、トトキを見て、優しく、そして悲しそうに微笑んだからだ。 知ってる。 ひとりでいることの寂しさを。 自分の気持ちを喋れなく、一人ぼっちでいるのと、周りに人がいるけれど、一人ぼっちになってしまうのは、どちらの方が、どれだけ寂しいのだろうか……。 世界は開けている。後は一歩踏み出すだけ。 トトキは水車から下りた。 世界にはきっといろいろなことが待ち受けている。 トトキには想像もできないほど複雑なことが。 いつも想像している動物たちや、詩い人が語る精霊や神霊たちはこの世に存在しないのだろう。しかし、外の世界にはそんなことよりももっと興味深いことがあると思えた。 昨日聞けなかったこと。 ネリネがどうして聞かないのと聞いたこと。 歌が降る山。 聞かせてくれた“じ”のこと。 そして、詩い人のこと。
トトキは走った。 体当たりするように群衆の中に入り、大人たちの制止の声を振り払った。 近寄ってきたトトキに、ネリネの迎えに来ていた護衛が身構えた。トトキは決して武道が得意な方ではない。 「ネーレーイス!」 叫んだその名前に、護衛の手は止まった。トトキはそばにいた人を跳ね飛ばすようにしてネリネの前へ立った。 はたから見たらただの変人の行動に写っただろう。そう自覚するのだが、頭がくらくらして目が回った。 心臓がどきどきする。こんなにどきどきしたことは今までなかった。茫然としているネリネに、トトキは視線を合わせる。 不思議なことに、ネリネの名を呼んでから、村の人々は誰も手をだしてはこなかった。 「僕が探すから。僕が、歌を……」 いつか外の世界へ行きたかった。ただ、機会が欲しかった。機会なんて自分から作らなければならないとだめだということは知っていた。それでも目に見える形で機会が欲しかった。 どうして、とネリネの唇が動いた。声はなかったが、トトキはそれを感じ取った。 「僕は世界を見たい。知りたいんだ」 後ろから襟首を掴まれた。トトキはネリネから引き離され、地面に投げ出されるように押しつけられた。それは護衛の手によるものだったが、やはり村の人々は動かなかった。 地面に押しつけられたトトキは、そのさい頭を打った。涙で視界がにじみ、くらくらした。 それを一瞬で覚ますような軽快な拍手が一回なった。 「ネリネ様、何でございましょう」 トトキの頭を押さえる護衛の男が言った。 するとネリネは小さな動作をした。手によるものだったが、それが何を意味するものだったのか、護衛以外誰もわからなかった。何か言葉の代わりなのかもしれない。護衛は、ネリネの動きをみると、しぶしぶトトキから手を離し、トトキを立たせた。 「なぜおまえはネリネ様の名を知っている」 小さく尋ねられた。おそらく周りにいる人には聞こえないような声で。 トトキは大きく答えた。 「いつか見てみたいと思った海と同じような瞳をしているから。ネーレーイスのような精霊を思わせる目をしていたから、僕が勝手に名前をつけた」 「精霊?」 「詩い人が物語った中に出てきていた。ネーレーイスを祭った歌に出会ったことがあるんだ」 「ならばその海を見に行くがいい」護衛の男はそう言った。「この村から出ていくがいい」 今の時代、旅をするということは容易ではなかった。だからこそトトキは成人するまで待っているつもりだった。その前に機会があればトトキは出て行ったかもしれない。だが、がむしゃらに旅立って死にたくはなかった。 「村長」 護衛が呼ぶと、村長は唖然とした顔を引っ込め、頭を下げた。 「この者の鎖を持って来い」 鎖とは、旅人の身の照明のことを指していた。自分の故郷を出る時に、そこに住む代表からもらい、返ってきたときにその鎖を返すのだ。鎖をなくせば身を保障するものはなくなってしまう。 村長が用意する時間はそれほどかからなかった。いつトトキを村から追い出すか考えていたのかもしれなかった。 けれど、ただ追い出されるよりは、目標があった方がいい。 トトキは村長に渡された鎖を左手にはめた。鎖についている銀色の板には、絵か書いてあった。 「小僧、お前の名は?」 「トトキ」 板に書いてあった絵を見ると、護衛は満足そうに頷いた。板の絵は、確かにトトキを表す絵がかいてあったからだ。 「村の外へまでは連れて行ってやる。旅の支度をしてここに来るがいい」 トトキはすぐに旅の用意をしようと、家へ向かった。人々はトトキのために道をあけ、その姿を目で追った。みんなどこか掴みどころのない表情をしている。 人が作った道を歩いていると、最後のところに人が立っていた。 兄弟たちだった。 「兄さん」 いちいが小さく呼ぶ。たつた兄が小さくまとまった荷物を差し出した。小さい、といってもとても大きい。 「ありがとう……」 なぜこんなものが用意してあるのだろう。もしかしたら、こうなるとわかっていたのかもしれない。それとも、ただ単に自分をこの村から出て行かせるための、みんなの演技なのか。 「兄さん」 もう一度いちいが呼んだ。 「何? いちい」 「行ってらっしゃい」 「行ってきます」 くるりと踵を返した。なんだかこの展開の速さに、周りはついていけているのに、トトキは自分だけがついていけないことに寂しい思いがした。 「トトキ。あなた一人で行くつもり? どうして? 危ないわ」 さくらの声がした。その声は、周りの人の反応と違っていた。そう言えば、大人たちは神妙な顔をしているが、子供たちはそんな大人をまねているだけだとようやく気ついた。 「僕は外の世界に出てみたい」 「私もあなたと行きたいわ」 さすがにそれには驚いた。 「危ないよ!」 「あなたの方が危ないわ。それに、私はあなたよりもお姉さんなのよ」 「そういう問題じゃないし」 「なら、どういう問題よ」 旅自体が危ないのだ。村長の娘であるさくらがそのことを知らないはずはない。 「私も一緒に行くわ」 「だめだったら」 「あらそう。なら私はひとりで旅に出るわ。たまたま行く方向が一緒だったからって私を怨まないで頂戴」 「後味悪いじゃん」 さくらはどんなことがあってもついていくつもりだった。この村の人々はどこかおかしい。昔トトキにそう言って笑われたことがある。おかしいのは僕の方だよ、と。 そんなことはない。何か大人たちは隠し事をしている。そりゃぁ年若い親たちはトトキに冷たい。しかし、ある年齢以上の人々は、トトキに対する冷たさが少し違うのだ。なんというか、必死にトトキのことを守ろうとしているようだった。 「だから何よ。私は後味悪くないわ」 「そんな自分勝手な。ほら、村の人たちも村長さんも止めるって」 そういうと、ちらほらと周りの人々は頷いた。 しかし、さくらは年配の人たちが誰一人頷かなかったのを見逃さなかった。 「ふふん。お父様には私からお願いすれば許可が下りるわ。あなたと違って私はお父様に可愛がられているから」 「可愛がられているんなら止めるから、普通」 困惑顔のトトキに、さくらは腕輪を見えた。腕輪の内側には、鎖が埋め込まれていた。 「昔お父様に頼んで仕込んで貰ったの。あなたがいつ外の世界に飛び出して行っちゃうかわからなかったから、いつもこれを身につけていることにしたのよ」 正解でしょ、と、さくらは微笑んだ。トトキはその話についていけなくて、ますます眉間にしわを寄せた。 「ほら、ぼんやりしない。早く行きましょ。私の荷物は向こうにあるわ」 トトキはさくらに腕を引っ張られながらネリネのところへ行った。確かにネリネの近くにはトトキよりも小さめの荷物が置いてあった。 「でっでも、良くないよ、こんなこと」 「どんなことよ」 「女の子を旅させるのなんて」 その必死の叫びは、さくらの耳に入らなかった。さくらは村長の方をじっと見つめた。 村長はかすかに頷いてみせた。 護衛が二人に近づいた。 「その者も一緒に行くのか」 「そっそんなことは」 「そうよ、私も行くわ。だから私も送って頂戴」 護衛はそれを認めたようで、ネリネを迎えに来た馬車にさくらを招き入れた。当然というように、トトキもそこへ押しやられる。中にはネリネがすでにもういた。 馬車のドアが閉まる途中、向こうでおばさんが手を振っているのが見えた。手を振り返そうかと思ったが、それより早くドアは閉まってしまい、目を合わせるだけにとどまってしまった。 馬車が動き出した。村への哀愁や住み慣れた村への思い出にはせるなどといった時間さえなかった。 荷物の検査をしているさくらを横目に、ネリネも何も言わず、トトキも何も言えなかった。きっとネリネはさくらがいるため何もしゃべらないだろうし、そんなネリネに話しかけても、さくらに不思議がられるだけだった。 じきに馬車はゆっくりと止まった。歩くよりも早く村の外へつき、なんだかあっけないような気がした。日も暮れ始めたころだ。歩いてここまで来ようとしたら、真夜中になっていたかもしれない。 馬車から出る時に、やっと馬車の中がとても豪華だったことに気づいた。赤い絹でできたクッションに、色とりどりの綺麗な光る石たち。貝殻もふんだんに使われて、虹色に光っていた。 「ここからは歩いていけ。この道をまっすぐ行けば次の村にたどり着くだろう」 そう言って示された道は、とうてい道と呼べるものではなかった。 どうも馬車がひどく揺れると思ったが、草は生え、まともに整備されていない道を走ったのなら納得がいく。 ネリネが馬車から身を乗り出した。何かを渡そうとしているらしい。 トトキが手を伸ばし、それを受け取ると、馬車のドアを御者の人が閉めてしまった。そのまま馬車は森の中に消えていった。 「乗り心地良かったわね」 「そう?」 とりあえず、荷物の検査をしなければならない。何があるのかしっかり見ておかなければいざというときに困る。 ついでに天幕の用意もしようとすると、さくらが了解したように、慣れた手つきで幕を張って行った。 「さくら、もしかしてこういうの得意?」 「そうね。昔からお父様に教えてもらってたし。それより、早く荷物の検査しなさいよ。このあたりは村を出たところだといっても人が住んでいるところまで行くのにはとても遠い距離だし」 村長に天幕の張り方を教わっていたということは、初耳だった。 荷物を広げると、一通りのものは出てきた。文句を言うならば、二人分のカップが入っていたことだ。こうなることを、兄弟たちは予想していたらしい。 そして、一束の紙が出てきた。 「何、それ。何か絵が書いてあるわね」 天幕を張り終えたさくらが寄ってきた。トトキは日の光が見えなくなる前に、この絵を見ておきたいと思った。これを書いたのは父か、たつた兄だろう。それ以外にこれを理解できる人間がいるとは思えなかった。 「何の絵かしら。みみずがのたくったような絵ね」 「そうだね。でも分かる。父さんに教わったから」 「教えて」 「いいよ」 長かったのは、きっと兄弟みなによって書かれたものだからだろう。書いたのはたつた兄であったに違いない。拙い絵であったが、そこにはこう書かれていた。 トトキへ これが目に入るころ、お前はここにいない。お前が旅に出ることを我ら兄弟は応援する。村の人がぞんざいだったのはお前を守るため。父は虎に襲われたために亡くなったのではない。字というものを人は知らない。父が必死になって書き続けていた絵は、字というものだ。これは決して表に出してはいけない。知られれば、父と同じ道をたどる。なぜここに文字があるかはしらない。しかし、あるという事実は認めなくてはならない。じきあの部屋のものは燃やすだろう。村のもののためにも、お前のためにも、お前が村を出ることは決まっていた。我たつたも本来は出て行くところなのだが、我は字を書くことはもうこれっきりない。なぜならば、書き記すものがないためだ。しかしお前は違う。お前はいつかその手で語り歌を作るだろう。予言が出た手前、みすみすそれを覆すこともない。我らはお前を守ることに決めた。なぜかは知らんが、語り歌を作るということは、我らの暮らしを変えるだろうからだ。 まずお前は隣村に行ったら、すぐに出ろ。そして北にある山を目指せ。父の書いたものにはその話があった。「北の山々のふもとの中には」から始まる歌だ。知っているな? 知らないなら探せ。 健闘を祈る。 そのほかにもいろいろ書いてあったが、それは兄弟たちの忠告や助言ばかりが書き連ねてあった。 トトキは最後までそれを読むことはできなかった。日が落ちたからでもあり、今までの寂しい生活に意味があったことを知り、文面がぼやけたからだった。 兄弟たちの言葉は、悲しくなるくらい、優しさで満ちていた。 「私たちが行くところは決まったわね」 「そうだね」 「あなたが物語を作るところを見てみたいわ」 そのためにはまず山へ登らなくてはならない。本物の歌を探さなければ、何を書いてよいのかわからなかったからだ。 「ねぇ、あなたと私の名前はどうかくの?」 「さくらの名前?」 「えぇ、知りたいわ」 トトキは地面にしゃがみ込んだ。もうほとんど周りが見えない。 十時 桜 そう書くと、桜はそれをなぞった。 「面白いわね」 「そうかもね」 そして、二人は天幕の中に入って行った。 明日はきっとたくさん歩くのだから トトキは今までとは違った気持ちでいた。 今まではどうにかしてこの村を出たい。この世界を見てみたいという気持ちが強かったが、今ではこの世界を見て、それをいつか兄弟たち、村の人々に語って聞かせたいと思った。 そこにいくまで、いろいろな苦労があるだろう。それでも挫けず歩いていこう。そうすれば、きっといつか報われる。 きっと、自分のことを心から誇れるときがくるのだろう。 妙に、静かなときが流れると、トトキは思った。
(終)
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