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二松学舎大学/小説作法実践/作品紹介


古道具屋の片隅で

前川博美
205A1229


   

 その日、高島は古道具屋の店番をしていた。
 菊が咲き始めた頃でまだ暑さの残る季節だったが、彼は綿で膨れた縦縞模様の羽織を汗ひとつかかずに着込んでいた。別段、冷え性というわけではない。その証拠に、ズボンの裾から覗く素足には下駄を履いている。周囲からすれば、なんとも言えぬ奇抜な格好をしているが、本人はそんなこととは縁がないような顔をして暇そうに店番をしているのだった。
 高島はビン底眼鏡の端をくいっと持ち上げ、寝癖のついたままの黒髪をつまらなそうに掻いた。片手には文芸雑誌を持っていたが何度も読んだ字の羅列は彼の目に映りはするものの、素通りするだけで頭には入ってこない。
 客足は完全に途絶えていた。
 その日店を訪れたのは近所の肉屋のおかみだけである。それも回覧板を持ってきただけで、陳列した商品には目もくれなかった。そういった状況を目の当たりにして、この店は本当にやっていけるのだろうか、と今更のように高島は思った。やっていかなければならないのは分かっている。ましてこれが家業なのだから、店が潰れるかもしれないという現実は覆したいとも思う。だが、高島はそれがそう簡単でないこともよく知っていた。
 そもそも彼に家業を継ぐ気持ちはさらさらなかった。大学を卒業したらどこかの会社に就職し、潰れかけの実家を支えようと思っていたのだ。しかし、時期がまずかった。就職難が社会問題にまでなった時分である。そのなかで彼を雇ってくれるところは皆無であった。それでも両親には楽をしてもらいたかったので、実家の手伝いをしつつ働き口を探すことになった。結果は見ての通り、卒業後四年が経ったいまでも彼は古道具屋の店番をしている。しかし当時、彼は就職浪人のまま人生を終える気はなかった。
 高島は勉強こそあまり得意ではなかったが、他のことなら一通りなんでもできた。そこで思いついたのが、便利屋である。いわゆる何でも屋のことで、家事や犬の散歩、子守、なんでもござれと近所を始めとして宣伝をして回った。それが三年前のこと。
 最初数ヶ月は音沙汰なく、これは駄目かもしれないと思い始めた頃に八百屋の旦那がぎっくり腰か何かで倒れたというので店の手伝いを頼まれた。よしきた、と高島は浮かれ気分で仕事に励んだ。荷物運びやら接待やらをこなしていくと、訪れた客が旦那はどうしたと不思議がるので自然と人々の耳に便利屋の存在が知れ渡っていった。その上、八百屋のおかみが高島はよく働いていくれるので助かった、などと知り合いの婦人方に言ったらしく、徐々に依頼も増えていった。
 すると今度は人手が足りなくなってしまった。そこで彼は、同じように就職浪人になった友人に声をかけ、自分は仲介料をもらうという形を取った。一回一回の収入は微々たるものだが、まとまればそれなりに暮らしていけるくらいにはなる。とりあえず、生計が立てられれば問題はないと思っている。仲介役を買って出たおかげで今度は暇を持て余すようになったのだが、それはまた別の話である。
 とにかくその日、高島は暇を持て余していた。
 彼はため息をつき、世の中そうそう甘くないのだな、と実感しているところだった。
 そこに一本の電話が入った。
 これが今回の始まりである。

     一

 旧式の黒電話がうるさく店内に響いた。
 それはレジカウンターの横に設置されているため、高島は一瞬びくりと肩を震わせた。受話器を取ると、中年の男らしい声が流れてきた。
「そちらが、何でも屋だと伺ったのですが……」
 控えめな口調で、男は電話越しにそう言った。
「ええ、はい。そうです」高島は愛想よく答えた。
「……依頼をお願いしたいのですが」
 なんでしょう、と首をかしげながら高島は先を促す。
 男はしばし沈黙してから、あの、と申し訳なさそうに切り出した。
「その、ちょっと特殊な依頼だと思うので、直接お会いしたいのですが」
 かまいませんよ、と高島。
 何でも屋に舞い込んでくる仕事の大抵が特殊な依頼であることを彼はこの三年で学んだ。男がためらいがちに申し出ても、よくあることなので今更気にはならなかった。
「では、日程を決めておきますか? 僕、あ、いや、私も店にいないときがありますので。いつ頃がよろしいですか?」
 いつでも、と答えが返ってきた。その声が少し寂しそうに聞こえたのは果たして高島の気のせいか。
「では、一週間後の今日、そうですね、午後二時にこちらに来ていただけますか?」
「それでかまいません。……すみませんが、場所を教えていただけますか」
 高島は古道具屋の所在地を丁寧に教えてやった。
 男は礼を述べると、では来週に、と電話を切った。
 しばらくしてまた電話が鳴った。
 今度は彼の友人からだった。
「運搬の手伝いが終わったんで、一応連絡しようかと思ってな」
 彼は高島から貰い受けた仕事の話を一通り話すと、話題を変えた。
「お前、いま人手困ってないか?」
「うーん、いまのところは……」
 高島が答えると、そうか、と抑揚のない声が返ってくる。
「実は俺の、後輩の後輩のダチの兄貴だったか従兄弟だったかが、仕事に困ってるらしくてな。……一応紹介しとくか?」
 そうだなあ、と高島は天を仰いだ。いまのところ人手に困ってはいない。だが、かつての自分と同じ状況にいる者はできるだけ雇ってやりたい。就職先が決まらないということは口で言うほど楽なものではないことを十分承知しているのだ。
「あ、そうだ」高島は先の電話主のことを思い描く。
「ちょうどさっき依頼が来たんだ。特殊な依頼だと言っていたから、僕がそれをやるにしろ、その人に他の仕事を回せるかもしれない」
「そうか、ならお前のこと紹介するけど、いいな?」
「うん。よろしく」
 高島は受話器を置いた。そして壁に貼り付けたカレンダーに赤ペンで一箇所丸印をつける。それからメモ欄に午後二時、依頼者訪問、となかなかの達筆で書き記した。彼はペンを元の位置に放り投げると、また文芸雑誌を片手に店番を始めた。

 それから数日後のことである。
 高島は友人を介して紹介された新たな働き手と、その従兄弟とを店に招き入れた。従兄弟のほうは友人の知り合いで、電話越しに何度か声を聞いたことがあったが、働き手のほうは声を聞くのも初めてである。友人の話によると働き手のほうが年上だということだが、そもそも五歳も離れていないのだから外見的にそう違いがあるわけもない。そういったわけで高島には彼らのどちらが働き手なのか見当もつかなかった。
 その来訪者二人の顔がどことなく緊張した面持ちで、高島には初々しく感じられた。就職の面接みたいだなあ、と呑気に思ったが、実際それと大差ないことをこれから行うのである。高島は用意したパイプ椅子を二人に勧め、彼らが腰かけるのを確認すると口を切った。
「僕は高島という者で、この店を実質上任されている。店舗自体は父の名義だが。……この時間、と言うかいつもだけど、客はあんまり来ないからここで話しても平気だろう。それで、仕事が欲しいというのは君かい?」
 二人を見比べて、いかにも怪しそうに高島を見ていたほうに声をかけた。これは全くの当てずっぽうである。ただ彼のまとう雰囲気が、自分に近い気がしたのだ。
そんなことを言われた当人が知るはずもなく、彼は顎を引き肯定した。高島は自分の勘も捨てたものではないな、と思いつつ頷き返す。そして少し首をかしげ、率直に聞いた。
「どんな仕事がいい?」
 彼は問いに答えず、その前に、と口を開いた。適度に低く少しこもった声だった。
「ひとつ質問したいのですが……」
 高島はさらに首をかしげ、先を促した。
 少しの間をおいて働き手は上目遣いに続ける。
「このご時世、仕事なんてそう簡単に見つけられないものです。なのにあなたは、聞くところによると、知人にいい働き口を紹介しているそうですね。どうやったたらそんなに簡単に仕事先を見つけられるのですか」
 そのやたらに固い口調から、彼が警戒心を抱いていることは、手に取るように分かる。彼はじっと疑念の目で高島を見据えた。その様子を、隣に座る彼の従兄弟がそわそわと心配そうに見つめる。
 彼らの表情の相違に、高島は思わず破顔した。
「そうだなぁ、確かに事情知らないと変に感じるよな。いや僕もね、実は職のない就職浪人というやつだったんだが、ただの寄生虫にはなりたくなかったもんでね。便利屋というか、何でも屋をすることにしたんだよ。つまり近所で犬の世話とか家の掃除の手伝いだとかしたわけだ。そしたら結構好評で、遠方からも依頼が来るようになってね、僕の体ひとつでは対応できなくなってしまったんだ。初めは断りもしたんだが、何度も断るのも気が引けて、今では同じような境遇の知人に手伝ってもらったりしているんだよ。君もそんななかの一人というわけだ」
 高島の言に、なるほど、と彼は素直に首肯した。彼の高島に対する疑念が少し薄れたようで、高島を見る目が真っ向とはいわないまでも上目ではなくなった。
「手が足りないというなら、誰でも人手を求めますね」
「誰でもいいってわけじゃないけれどね。こういう仕事は信頼が第一だから」
 そこで高島はちらと従兄弟のほうを見やる。
「君の従兄弟くん経由で君のことは大方聞いたよ。人付き合いが苦手で、でも根は真面目ないいやつ?」
 彼が高島に倣って従兄弟のほうを見やると、当人は気まずそうな顔を浮かべた。
 高島にはやはりその反応が初々しくて微笑を浮かべた。
 その後、彼の適性を知るため、雑談を交えながらいくつかの質問をした。それを尤もらしくいちいちメモ帳に書きとめた。質問が終わるとそれをぱたんと閉じ、締めくくりに、
「では後日、君に合いそうな仕事が見つかったら連絡するよ」
 と言って二人を見送った。
 彼らが視界から消えてしまうと、高島はさっそく資料作りに励んだ。
 カウンターの引き出しから分厚いファイルを取り出し、ぺらぺらとめくっていく。そして白紙のページを見つけると、まずは新しい働き手となる彼の名を記した。
 伊原隆志、それが彼の名前であった。そこに括弧付けで労働者と付け足す。労働者、と括ってしまうと差別的なものがちらついて高島はあまり好まなかったが、他にいい言葉も浮かばないので仕方がない。名前の下には控えておいた年齢、住所、質問の結果などを書き込む。そして高島の第一印象を最後に記入した。
 便利屋を営んでいく上で第一印象は大事である。高島が受けた伊原隆志という人物の印象は悪くはなかった。しかし彼は、自分がひねくれた考え方の持ち主であることを自覚していたので客観的に見ることも忘れてはいない。客観的な視点から高島は、なるほど、これは就職の面接で落とされるタイプだ、と受け取った。自信のなさそうな上目遣い、それに反したあの少し挑発的な口調。
「だけれど、こいつは与えられた仕事はきちんとこなしそうだ」
 高島はうれしそうに言う。こういった仕事を黙々とこなす輩を彼は好いていた。
 仕事こそ無愛想なために見つからないかもしれないが、本当はこういう人材が世の中には必要なのではないだろうか、と高島は常に思う。確かに愛想もよく、仕事もできるというのが理想であろうが、愛想がいいだけで面接に受かるというのは戴けない。
「世の中、本当にうまくいかないものだねえ」
 しみじみと呟いて、高島はファイルを閉じた。

     二

 電話の主との約束の日が来た。
 一週間のうち、高島がした仕事といえば、毎日の店番と仲介役が一件、そして面接染みた新しい働き手との顔合わせだけである。ときたま店を抜け出して近くの古本屋で安い文庫を買ってきたりしたが、それだけである。ほかに特にこれといってしたわけではない。家事全般は両親がしてくれるので、彼は大方、無為な時間を過ごしたということになる。
 そして近頃座りっぱなしだったせいか、尻が痛む。カウンターに手をつき、年寄り臭い格好で尻をさする姿はなんとも情けない。痔になったらどうしようなどと頭を抱える毎日だ。
「約束までまだ時間があるな」
 時計の針を見て高島は確認するように独りごち、どうせ客も来ないだろうから少しくらい散歩しても平気だろう、と下駄をからころ鳴らしながら店の外に出た。
 昼間の日差しはまだ強く、肌を優しく焦がした。高島はちょっと顔をしかめる。
 からころと地元の商店街を歩くと顔見知りの肉屋のおかみや八百屋の夫婦に声をかけられ、高島は軽く会釈をしつつ挨拶を交わした。
「相変わらず暑苦しい格好をしているねえ」と無遠慮に肉屋のおかみは言った。
「あんた冷え性なんかえ? したらちゃんと靴下履きんしゃい。素足のまま下駄なんか履いてたら、余計ひどくなるでなぁ」と気遣わしげな八百屋のおかみ。
 高島は苦笑を漏らしてそれらをやり過ごした。
 自分の格好が奇抜だとは思わない。どこが変なのだろうか、と首をかしげる。確かに綿で膨れた羽織は古臭いかもしれないが、古道具屋を営む者の息子なのだから宣伝になっていいではないか。それに、やっと暑さの落ち着いたこの時期でも日差しは強く、肌の弱い彼にとっては天敵であり、それを防ぐには長袖を着るのが一番なのだ。別段、暑がりでもないし、あまり動かないから上着を着ていても彼には苦にならない。ただ、足はズボンを履いているとどうしても熱がこもり、じめじめとわずかに布地が湿る。その感覚が彼は嫌いだった。そこで通気を助けるため、靴下を脱ぎ、靴を脱ぎして涼しさを保っているのだ。
 どこが変なのだろう、と高島は理解できない様子で再び首をかしげた。

 二時になり、訪れた初老の男は高島の姿を見、なんともいえない顔をした。
「暑くありませんか……?」第一声がこれである。
 高島はそういった態度にもうなれていたので、とんでもない、と愛想よく返した。
「暑がりではないので。こちらにどうぞ」
 彼は初老の男にパイプ椅子を用意した。男は素直に腰かけると、そわそわと辺りに視線を漂わせた。高島の顔を直視しようとはせず、手を組んだり解いたりと落ち着かない。
「改めまして、わたしは高島と申します。それで、お電話では特殊なご依頼とお聞きしましたが、どういったものなのですか?」
 高島は通常、依頼内容を知る前に依頼主の名を聞くことを避ける。いや、拒むと言ってもいい。依頼を引き受けるか受けないかは内容によって決まるが、それが犯罪的なものの場合、彼自身があとあと困るのでできるだけ避けるようにしている。それも、本人になるべく悟られないように、うまく話を展開するよう心がける。用件が平凡な場合、そのことに気づかれると相手を不快にさせてしまうからだ。そして同様に、彼は常に名字しか名乗らなかった。
「あの、その、驚かないで聞いていただきたいのですが……」
 男は歯切れ悪くそう言ったが、用件を言うか言うまいか、踏ん切りがつかない様子で口ごもる。
 高島はビン底眼鏡の奥で目を細めた。
 ――この男はいったい何をためらっているのか。
「安心してください。頼まれても、僕にできないようなことならお断りしますが、ある程度の特殊なものなら何度かお目にかかっていますし、引き受けることもあります。万が一、断ったとしても依頼内容は他言しません。そんなことをしても僕に利益になるようなことはありませんから」
 言ってから、高島は男に対して口調がいつの間にか変化していることに気づいた。男の不審な動きに、無意識のうちにじれったさが生じたのかもしれない。しかし今更どうなるものでもなく、男が気にした様子もないのでこのまま通すことにした。
 むしろ、高島の言に男は一瞬、救われたような顔をした。
 そして始めて高島の顔を見た。
「……高島さん」
「呼び捨てでいいですよ」
 年上にへりくだって言い方をされるのは気が引けた。
「高島、くん。……他言しないと、誓ってくれるか?」
 男は、息子に語るように言った。実際彼らはそれほどの年の差があるので、違和感がない。高島もそのほうが気が楽だった。
 誓います、と高島は頷く。
「実は――」
 言って、男はつばを飲む。
「……人を、殺して欲しい」
 男は、疲れたように告げた。
 どこかで風鈴がちりんと涼しげに鳴った。
「……本気ですか?」
 高島はいたって冷静だった。男が思わず顔を上げるほど、その声は平坦に聞こえた。彼は実際、ビン底の奥で目を細めただけで、動揺した様子を微塵も見せていない。男が頷いてもその姿勢は変わらなかった。
「……僕のことを、誰に聞きましたか?」
「え? あ、と。私の知り合いに」
 誰です、と高島は重ねて聞いた。
「御堂という、知り合いが」男は困惑したように答えた。
「そうですか」
 高島は安堵したように目を伏せる。
 実のところ、彼に殺しを依頼したのはこの男が初めてではない。
 以前にも二、三件、そういった依頼があり、高島は面食らったのをよく覚えている。内、二件は依頼した者こそ違ったが、とある人物の影が背後にちらついていた。こいつを殺してくれ、と言ってあげた名も同一のもので高島は裏に潜んでいる者に執拗に頼まれていた。今回もその人物から使わされた者かと少しばかり身構えたのだ。が、取り越し苦労だったようだ。
「お断りします」高島はきっぱりと言った。
「どうしても、駄目かね……」
 男はまたそわそわし始めた。
「僕は、犯罪者になる気はありませんから」
「しかし……」
 男は未練そうに高島を見る。高島はため息をついた。
「どうして殺したいなどと思ったのです。ほかに解決策はないのですか」
「ち、違う、違うんだ。た、高島君、聞くだけでいい……」
高島は困ったように眉を寄せた。
「すべて聞いてしまったら、戻れないものなのです。僕がいくら隠しても、他言しなくても、どこからかそういう情報は流れてしまいますよ。特に今回は普通とは勝手が違う。僕にすべて話してしまったら、恐らくあなたはその思念をほかの誰かに話したくなります。そうなれば……後悔するのはあなた自身ですよ」
 高島が諭すように言うと、男は俯き、長く息を吐いた。
 高島はこれで引き下がってくれると助かるんだが、とひそかに思う。
 殺しを依頼するものは自分の状況を語りたがる。
自分はあいつにこんなにひどい仕打ちを受けた。殺してやりたい、などと。
 しかし高島から見れば、それは単なる愚痴でしかない。それほど憎い奴ならば他人に頼むこと自体が筋違いなのであり、それを頼む連中は結局のところ、はなから殺す気がないか、すでにその気が失せかけているかのどちらかだ。つまり他人に任せた時点でその話は終幕を迎えるのだ。
 だいいち、法律に触れるようなことをただの便利屋に頼むというのは筋違いもいいところだ。そういう込み入った話は専門家に頼んで欲しい。
 そう思いはするが、目の前の男に全く同情しないわけではない。ここに頼みに来るまでには相当な覚悟が要ったはずだ。
「大丈夫ですか?」
 俯いたまま動かない男を見かね、高島は彼の肩に手を置く。
 高島君、と男はゆっくり顔を上げた。
 その顔に曇りはない。
 決意の顔だ、と高島は直感的に思った。
「もう、これしかないんだ。どうか、話だけでも聞いてもらえないだろうか。もし引き受けてくれなくても構わない。ただ、私はほかにも依頼したいことがあって来た。そちらだけでも引き受けてもらいたい。だから少しでいい、聞いてくれないか」
 男はもう高島がうんと言うまでここに居座るつもりだろう。
 高島は眼鏡の端をくいっと押し上げ、首を捻った。顎に手を当て思案する。
 そこまでしてこの男は誰かを殺したいと思っているのか。
 ――危険だな。こんな人は初めてだ。
 このまま追い返すこともできるが、それはしたくなかった。それほど男には危機迫る何かを感じさせる。彼の口ぶりから推測すると、高島が断ったところで男は殺しを諦めはしないだろう。とすれば、とりあえず話を聞いておいたほうがいいのではないか。
 高島は男をちらりと見た。
 すがるような視線が彼に向けられる。
 そして一片の曇りもない、決意の顔。
「わかりました」
 自然と言葉が漏れた。
 高島は驚いて軽く口元に触れる。無意識のうちに答えを返していた。
しかし男にとってそんなことはどうでもよかった。
 そうか、と嘆息したように言う。
「ありがとう、本当にありがとう」
「……あくまで、話を聞くだけですよ」憮然と高島は言う。
「それで構わないよ」
 そう言って男は高島が用意した麦茶を口に含んだ。
 それからどうしてこのような依頼を頼んだのか、その経緯を男はゆっくりと話し始めた。

     三

 ある日、男はいつものように仕事を探していたという。
「実は小さな会社を経営していたんだが、傾いてしまってね。二年前に倒産してしまったんだ。父の遺産で借金は返せたが、手元にはわずかも残らなかった」
 男は妻を早くに亡くし、それまで息子と二人で暮らしていたという。息子は会社が倒産したとき、まだ大学生だった。息子はアルバイトで貯めたものと、奨学金とを合わせてなんとか二人の生活を支えようとしたが、学費を払うだけで精一杯だった。そこで、彼らは耳鼻科医を営んでいた男の兄を頼った。
 彼の兄は哀れな境遇に陥った彼らを見捨てず、家に招いた。おかげで男の息子は無事に大学を卒業することができた。
「しかしね、このご時勢だから。息子は就職浪人になってしまった」
 それを挽回すべく、息子は寝る暇もないほどアルバイトに励んだ。しかしそれはさすがに無理があって途中で仕事を減らしたらしい。その代わり、空いている時間に就職先を探していたらしいのだが。
 高島は眉をわずかに動かす。
彼は自分と同じような状況におかれた男の息子に、少なからず同情を寄せたのだ。
「私も息子に負けていられないと、いや、自分が情けなくて仕事を探し回った。始めは求人募集の張り紙を頼ったが、なにせこの年だから雇ってくれるところがなかった」
 男は疲れたように息を吐いた。
 そして、と言葉をつむぐ。
 彼の体に異変が生じた。胸部の辺りがなにやら痛む。それも激しい激痛で、立っていられないほどだった。しばらくすると治まったが、不安を感じずにはいられなかった。しかし、医者に行こうという気にはなれなかったという。
「どうしてですか?」高島が口を挟んだ。
「診察料がかかってしまう。これ以上、息子や兄に迷惑をかけるわけにはいかないからね」
「病状が悪化すれば、余計お金もかかるでしょうに」
「それまでに仕事を見つけられるだろうと、高を括っていたんだよ」
 しかしそれは淡い希望で、実際はいまでも仕事が見つかっていない状況だ。
 そして高島の言うとおり、病状は徐々に悪化していき、激痛に襲われる回数も増えていった。仕方なく、どうやら風邪をこじらせたようだ、と兄に頼んで診察料をもらったという。それもつい最近のことだ。
 そこまで話して、男は残りの麦茶を飲み干した。
 高島はその様子を観察しながら、首をわずかにかしげる。
 ――はて、一体いつ殺したい相手が出てくるのか。それとも、もう出てきたのか……。
 出てきたのならば、誰なのか。高島は顎をさすった。
 男は続ける。
「私はとりあえず総合病院に行った。診察料は高いが、医療に関しての知識がなかったから、まずどこへ行くべきなのかが分からなかったんだ」
 受付に胸部の痛みのことを言うと、外科へ行けと指示されたらしい。そこで外科へ行って、しばらく待たされやっと面会がかなうと、今度はレントゲンをとって来いと言う。総合病院はやたらと広いぶん面倒なところだ、と彼は思ったらしい。仕方なく、言われたとおりレントゲンをとり、また外科に戻った。
 外科医はレントゲン写真を見て渋くうなった。
「医者は、肺ガンだと告知したよ」
 それも末期とまでは言わないが、かなり進行しているらしい。これはすぐに手術しなければ手遅れになると医者は重々しく言った。
その言葉で、男は吹っ切れたという。
「まさか……」
 高島は漠然とした不安を抱いた。それは漠然とはしていたが、酷く確信に近いところにあった。
 男は高島をまっすぐに見つめ、言った。
「高島君。私は、……私を殺してもらいたいんだ」
 高島は目を見開いた。今度ばかりはさすがに驚愕した。
 しばらくは声を発せず、ようやく絞り出した声には覇気の欠片もなかった。
「そんなことはお止めなさい」
自分にそんな話を聞かせてどうしろというのか。
「家族が、悲しむ……」
「いずれにしろ、そう長くない命だ。惜しくないと言えば嘘になるが、兄の財産を食い潰すよりは、潔く逝きたいと思うんだよ」
「そんな、それではあなた自身があまりにかわいそうだ」
 高島が言うと男はかぶりを振った。
「いいんだ、これしかないんだよ。治療するにしても費用が要るだろう。高島君、いずれ尽きる命だ。私に手を貸してくれないか」
 男は朗らかに笑っていた。
 高島はいかにも不快そうに眉を寄せる。
「あなたが死んで後に何が残る? 悲しみしか残りはない。家族は少しでも長く、あなたに生きてもらいたいはずだ。それなのに、あなたは自分からその思いを踏みにじるのか」
 怒りを露にする高島に、それでも男は微笑していた。
「私には生命保険がある。受取人は、息子だ」
 高島は絶句した。
「会社にいた頃入っていたんだが、友人のつてで、いまでもそのままにしておいてもらっているんだ。ただし会社が倒産してしまって保障は全く受けられないがね。けれど、死亡保険はまだ効く。いまはそれが唯一の頼みなんだよ」
「なぜ、……なぜ僕なのですか」
 高島の声は震えていた。男はすまないね、と軽く目を伏せる。
「どうしても、事故死に見せたいんだ。自殺では息子や兄に迷惑がかかってしまう。だが、事故死なら辛いのは始めだけで、すぐに吹っ切れるだろう。――以前、御堂が、高島君は口の堅い何でも屋で、絶対に情報を漏らさないと言っていた。それで」
 高島は額を押さえた。こんなところで便利屋の仕事が災いするとは。
 そんな高島の様子を見て、男は腰を丸める。それから思い出したように、ズボンのポケットから何やら取り出した。
「これは、私のへそくりだ。生活するには足りないが、それなりにまとまったものだ。いざというときに使うつもりで貯めておいた。これを報酬として払うつもりだ」
 そう言って男は通帳の中身を高島に見せた。高島はちらとそちらに目を向ける。なるほど、確かにそこそこの金額だ。一回の仕事でこれほど入ったことなどなかった。しかし高島は疲れたようにため息をつくばかりだ。
「……足りないかい?」と男は不安げに聞く。
 高島は答えない。
「しかし、これが私の出せる精一杯なんだ。これで何とか……」
「あなたの命は、ずいぶんとお安い」
 高島は珍しく皮肉をこめて言い、再びため息をついた。それは明らかに諦めの表れだった。
「いいでしょう。引き受けましょう」
 男の顔に喜色が走った。
ただし、と高島は付け加える。
「絶対に後悔のなさらないように。死んでから後悔されては困る。引き受けたからには、僕は決して手を抜きません。そして、あくまでも、あなたの手助けをするという依頼だということを確認しておきます。いいですね?」
 高島は力なく、念を押した。
 男は彼の手を取り、何度も頷いて、ありがとうと礼を述べた。
 高島は複雑な表情で笑んで、それでは、と切り出す。
「お名前を。ここに記入してください」
 言って取り出したのは例のファイルである。そこから紙を一枚抜き出し、男に差し出した。紙には高島の字で依頼書と書かれていた。この場にそぐわない手書きの紙に、受け取った男は頬を緩めた。
「そういえば、まだ名乗っていなかったね。すまない」
「いいんですよ」高島は微笑を浮かべた。
 自分が言わせないように話を進めて行ったのだから、と心のなかで呟く。本当はいまでも知らないほうが言いに決まっている。しかし高島は、死ぬぎりぎりまで追い詰められたとき、この男がふと思いとどまってくれるのではないかと期待しているのだ。自分で死ぬよりも、他人に殺されるほうが嫌だろうと彼は思う。
 しかしそれでも男が引かなかったら、という考えがちらついた。
 もし彼が引かなかったら、
 そのとき――。
 果たして自分はどうするのだろう。

     四

 男の資料を作成していた際、高島はあることに気づき、はっとした。
 男の名前は伊原総一郎といった。
「これは……巡り会わせとでもいうのかね」
 高島は顔を歪ませ、苦々しく言った。
 先日、職を求めて彼の元を訪れた青年の顔を思い出す。そういえば、目の辺りが似ていたような気がする。高島は資料に付箋をすると、何ページか前に戻り、書き込みの少ないまだ新しい箇所を開いた。
 ――伊原隆志(労働者)
「偶然とは……どうも思えないな」
高島は首を捻り、頭を掻いた。
 青年もちょうど大学を出たばかりだと言っていた。そして男の息子もそれくらいで、アルバイトに励んでいる。別段、今日ではそう珍しくもない構図だが、伊原という名を、高島はほかに知らなかった。ビン底眼鏡を押し上げ、高島は思案する。仮に、伊原隆志が総一郎の息子だったとして、これは総一郎を止める手段になりえないだろうか。息子が注意を促せば、息子に大事にされているのだからと、もう長くない命でも惜しくならないだろうか。
 だが、と高島は顎をさする。
 逆を言えば、これは諸刃の剣である。隆志に総一郎が止められなければ、高島が何を言ってももう止めることはできないだろう。一番こたえるのはやはり肉親の声なのだ。他人がとやかく言えるものではない。
 高島はじっと伊原隆志の資料を見つめていたが、やがて眼鏡をはずし、カウンターに放った。目頭を強く抑え、ため息をつく。
「試してみるか……」
 彼は今更ながらに、難儀な依頼を引き受けてしまったことを後悔した。

 伊原隆志宛に書いた手紙には、仕事の内容を一切書かなかった。高島は常に連絡を取る際、情報がほかに漏れないように細心の注意を払うが、今回はいつも異常に注意を払った。茶封筒に入れる紙には必要最低限のことしか書かず、封をするときには糊付けした後にテープを二度、丁寧に貼り付けた。封筒の裏に本来書くはずの差出人の名も記入しなかった。
 彼は初め、電話で伊原隆志を呼び出すつもりでいたが、それはあえて避けた。彼の家に電話をかけたとして、もし伊原総一郎が受話器を取ったら、高島にはごまかせる自信がない。その上、自分からやはりやめるべきだなどと言ってしまいそうで怖かった。
 隆志は手紙を投函してから、三日経った日に店に訪れた。
 高島は例の如くパイプ椅子を勧める。隆志は腰かけながら、郵便で来るとは思はなかった、と固い口調で言った。まだ高島になれていないのか、どことなく緊張した雰囲気はまだ消えていない。
 その初々しさに少し救われて、高島は朗らかに笑ってみせた。
「そう緊張しなさんな。仕事とは言っても一回だけのものだ。ちょうど、君が依頼したあとで面白い仕事が入ってね……」
 高島はカウンターの引き出しから、例の分厚いファイルを取り出し、伊原総一郎のページを隆志には見えないようにして開いた。そしてクリップで留めておいた総一郎が書いた依頼書を隆志に差し出す。
 隆志はそれを受け取り、軽く目を見開いた。驚いているというよりは、いぶかしんでいるようだった。
「これは……?」
「知っている人かい?」
 高島はわざと問い返した。隆志の一挙一動を監視するように見つめる。
 隆志はそんな彼に気づいた様子もなく、しばらくは口を開かなかった。そうしてようやっと絞り出された声には明らかに動揺の色があった。
「父です……」
 高島はビン底眼鏡を押し上げ、微笑した。
 とにかく彼は、ここで悪役のようなことを演じなければならない。そして隆志に父親の危機を悟ってもらい、総一郎に注意を呼びかけてもらわねばならないのだ。
「やはりね。そうじゃないかと思ったよ。ならやはり、この仕事は君に任せるべきだろうな。それが慈悲と言うものだ」
「……それはどういう……?」隆志は眉をひそめて言った。
 高島はできるだけ静かになるよう努めて、告げた。
「今回、僕の引き受けた仕事は――人殺しだよ」
 隆志は息を呑んだ。
 そして馬鹿な、と呟く。数度かぶりを振り、馬鹿な、と繰り返した。
 高島はつと隆志に本音を悟られまいとするように、また彼の視線から逃げるように、羽織のシミに目を向けて言った。
「人殺しと言っても大層なことはないんだよ。期限はもうけられていないからね、時期を待って事故に見せかければいい。なに、簡単なことだよ。君なら父上がどこに出かけるなんてことはすぐに分かるだろう。電車を利用するなら、駅のホームで背中をそっと、何かに躓いたように押してやればいい。外を歩くならあらかじめ人通りの少ない、狭い路地を探して電線を切っておくんだ。そして電線の先に水溜りを作っておいて、近くを通ったとき軽く肩にぶつかってやればいい」
「何を……」と隆志はひどく狼狽したように声を上げた。
高島は羽織についたシミを指でいじりながら続ける。
「先にもこんな依頼はいくつかあった。ずっと断っていたが、執拗に頼まれるもので何度か手を貸したのだよ。それ以来……こんなに簡単な仕事はほかにないと思った」
 言い終えると、高島は隆志をじっと真っ向から見た。隆志もじっと睨み返してくる。
 嘘を隠すにはそれを悟られないよう、堂々と振るわなければならない。隆志が真偽を確かめようとしているいまは、視線をそむくことは許されない。そしてあまり視線を合わせたままでもいけない。後ろめたさがある分、長期戦になれば高島の心情が相手にも伝わってしまう。この間合いが重要だ。顔が強張っていないか、不安だった。
 しばらくして、高島はとうとうファイルに目を落とした。
 長く感じられた時間も、時計の針を見れば一分と経過していない。
 隆志が言った。
「冗談でしょう……」
「僕は人にうそをつくのは嫌いだよ」
 これは高島の本心だった。
「だいたい、そんな話を俺なんかにするわけがない」
 隆志の言に、高島はため息を漏らした。
「それもそうだ。……信じる、信じないは君の勝手だ。僕がこうして言っても仕様がない。じゃあ、この仕事は引き受けてはくれないわけだね?」
「引き受けるも、何も……」
 高島としては隆志に断ってもらいたかったので、この返答はありがたい。
 隆志は堪えきれないといった様子で立ち上がり、高島に背を向ける。
「失礼します」そう言ったときには彼はすでに歩き始めていた。
 その背中に高島は声をかけた。
「……また連絡しよう。そのときはよろしく頼むよ」
 返答はなかった。
 彼の背が見えなくなると、高島はため息をつく。
「これでうまくいけばいいが」
 伊原総一郎とは打ち合わせをするため、数日後に会う約束をしている。それまでに隆志がどう動くかによって、事態は変わってくるだろう。果たして、思惑通りことが進めばいいのだが。
 またどこかで風鈴の音が鳴った。

 数日経って、伊原総一郎が訪ねてきた。
 相変わらず古道具屋の店内には客がなかったが、高島は念のため店の戸を閉め、準備中の札をかけておいた。
 高島はパイプ椅子に腰掛けると、総一郎の様子を観察する。どこも変わった様子はなかった。むしろ以前よりも落ち着いている。
 駄目だったか、と高島は胸中で肩を降ろす。
「高島君」総一郎は優しい口調で語りかけた。
「はい」
「今日、息子に出かけ際、声をかけられてね」
 高島は目を軽く見開き、期待をこめて総一郎を見返した。
「事故には十分気をつけろ、と言われたよ。わたしは、すごく嬉しかった」
「……そうですか」と高島は微笑する。
「そこで私は考えた。――今回の依頼のことなんだが、高島君」
「はい」
 高島の期待はますます膨れた。
 総一郎は静かな目で彼を見て、続けた。
「すまないが、やはり実行してくれ」
「――本気ですか?」
 高島は思わず問い返した。
 ああ、と総一郎は頷く。
「やはり私は息子が可愛い。その息子のためにできることなら、なんだってしようと思うんだ。あの子は私のためにずいぶんと苦労し、いまも懸命に働いている。少しでも兄の負担を減らそうとしている。そして私に気苦労をかけさせまいとしてくれている。不器用だから、なかなか口では言わないがね。そんな息子のためなら、この命、少しも惜しくはない」
 高島は堪らず眉間にしわを寄せた。隆志の言葉でも止められないこの男を、どうして高島が止められるのだろう。彼は額に手を当てた。そしてもう自分がすべきことはひとつしかないのだと失望感に打ちひしがれた。
「……すまない、高島君。君には辛いかもしれない」
 総一郎が気遣わしげに言った。それが、もう後戻りはできないと言っているように高島には聞こえた。
 高島が顔を上げる。
 二人は互いに決意の顔を目にした。
「後悔、しませんね?」
「もちろん」
 総一郎は強く頷いた。

     五

 それから数週間経ったある日、伊原総一郎は家にいた。
 正確には世話になっている兄の家である。
 その日はもう季節は秋に移り変わった頃で、風が心地よかった。陽光も夏とは違って柔らかい。実に清々しい朝だった。こんな日は散歩がてら求人募集を探すのが一番だ、と総一郎は思った。思った途端、思わず苦笑した。もう彼にそんな必要はないのだ。
 そこで彼は庭木の手入れをするつもりだったので早々に動きやすい格好に着替えることにした。
 いつもなら総一郎は朝も遅くになってから広間に顔を出す。昔から低血圧のため朝に弱かったのだ。だが、その日はまだ皆が家にいるうちに二階から降りてきた。広間では兄とその妻がソファに腰かけていた。
「総、どうしたんだ。今日は珍しく早いなあ」
 彼の兄はいまでも総一郎のことを幼少から馴染んだ呼称で呼ぶ。
「目が覚めたんだよ。そのせいか気分もいいんだ」
 それはなにより、と言って兄は手にしていた新聞に視線を戻す。
その横から夫人が顔をひょいと覗かせた。
「総一郎さん、朝食食べます?」
「ええ。すみません、お願いします」
 総一郎の脇を通って彼女は台所へ向かう。入れ違いに、彼の息子と甥が広間に入ってきた。二人は総一郎の姿を見て、あれ、と声を上げた。
「珍しいな、親父」
「ほんと、ほんと。叔父さん朝駄目なんでしょ?」
 二人の反応に総一郎は朗らかに笑った。
「今日は気分がよくてね。二人はこれから出かけるのかい?」
 ああ、と答えたのは息子の隆志だ。
「バイトに遅刻しそうだから、こいつに送ってもらおうと思って」
 隆志はまだ免許を持っていなかった。それも時間と費用の都合が悪いせいだったが、本人は大して気にしていないようだ。しかし総一郎は隆志の言葉に、一瞬顔を曇らせた。
 そうか、と彼は二人の背を見送る。
 その背を見ながら、もうお前に迷惑はかけないからな、と心中で誓った。

 その日は木曜だったので、兄夫妻は休日だった。総一郎はせっかくの休みなのだから二人で出かけて来いと勧めた。彼の勧めに乗って、夫妻は近くの土手へ散歩に出かけて行った。恐らく総一郎が家に残っているから昼前に戻ってくるだろう。彼の甥も、あと一時間ほどで帰ってくるはずだ。
 総一郎は広間の畳の感触を楽しみながら、縁側に向かった。南に面した縁側はそう広くもない庭に趣をもたらしている。彼はこの縁側が好きだった。広間の縁側からは、もみじの木と大きめの切石が見える。つまるところ、この家の庭にはそのふたつと奥方が趣味でやっている小さな菜園しかない。その菜園も縁側からは見えない、庭の片隅にあった。
 縁側に出ると総一郎は深呼吸した。そして下駄を履いて庭の倉庫に足を向け、もみじの木の手入れをするために脚立と枝切りばさみを持ち出す。
 もみじの前に、少し切り石よりに脚立を設置する。そして彼は辺りを見回し、手のひらに収まるほどの小石を拾った。もう片一方の手に枝切りばさみを持ち、脚立を危なげにのぼる。地面が平らでないのか、ねじが緩んでいるのか、とにかく脚立はひどく不安定だった。それでも総一郎がのぼると、彼の体重で少し安定した。
 そして総一郎は奇妙なことをした。
 片手に握っていた小石を道路に面している塀のほうに投げたのだ。
 小石は塀の向こうへ飛んで行って、からころとむなしい音を立てて地に落ちた。
 途端に、塀の向こうから小石の代わりと言わんばかりに茶色の猫が放り込まれてきた。投げ出された猫はびっくりして、辺りを威嚇するように数度鳴いた。しかしその瞳に脚立が目に入ると、首をかしげるような動作をした。
 そして猫は突然脚立に向かって勢いよく突進した。
 もともと不安定だった脚立はその衝撃で大きく揺れた。その上、総一郎は下駄を履いたまま脚立に上っていたため、大きく体制を崩した。
総一郎の後頭部が切石に激突する。
 そのとき彼は、笑っていた。
 脚立が倒れる音と、切石に何か重いものが当たる音が重なった。
 茶の猫は放り出されたときより驚いて反射的に飛び退き、通り越してきた塀のほうへ一目散に駆けた。塀に前足をかけ跳躍し、軽々と塀の上に乗る。そしてちらと怖いもの見たさで後ろを振り返った。
 倒れた脚立、もみじの根元に横たわるもの、赤く染まった切石と地面。
 猫はそれらを見ると興味を失ったのか、すぐ塀を越えていった。
 総一郎は不幸なことに即死できなかった。切石に後頭部をぶつけ、その勢いで背中から地面に落ちてもまだ意識があった。苦しく、激痛が襲っていたはずだが、彼にもう痛みの感覚がなかったのは幸いだった。切れ切れの呼吸はそう長く続かなかったが、彼は最期に誰に向けるでもなく言った。
「こ、う……かい、かいは、して……な、い、」
 ――後悔は、していない。
 その顔は、わずかな苦しみはあったが充実感に満ちていた。
 そして総一郎は、息絶えた。
「……わかってますよ」
 伊原家の塀に寄り添って高島は呟いた。
その服装はいつもと明らかに異なっていた。ワイシャツに黒の上下、ビン底眼鏡は着用しておらず、方々に散った髪もくしが通っていてきちんとおさまっている。
 そして彼の腕には茶の猫が抱かれていた。
「わかっています」
 掠れた声で高島は言い、その場を離れた。もうすぐ昼だというのに、周囲には人通りは全くない。まるで彼の店のようにがらんとしていた。
 高島の腕の中で、猫は主人の気も知らずごろごろと呑気にのどを鳴らす。
 その頭を撫でながら高島は顔をゆがめた。
「僕は、あなたに後悔して欲しかった……」

     六

 彼は黒の上下に身を包んだまま、古道具屋の片隅でときが来るのを待っていた。
 高島は総一郎からの依頼を引き受けたとき、このような結末になるかもしれないと危惧していた。だからこの件に決着がついた折には引っ越すつもりでいた。そして親に自分の収入で何とかやっていけるだろうから店をたたんで祖母の家に移り住もう、と持ちかけたのである。父の代から始めた古道具屋だったため、二人は名残惜しそうではあったが、店の客足が途絶え、ただの負担になりつつある店に見切りをつけるいい機会だと承諾した。
 彼の両親はすでに二日前に出立し、彼の祖母が生前使っていた他県の家に移り住んでいる。そして高島だけはここに残った。
 親には友人に引っ越すことを知らせるためと言っておいた。実際に彼はそれを実行していたから嘘ではない。
 総一郎が事切れて三日が経っていた。
 高島はいつも、店内がよく見えるようにと引き戸を全開にしている。しかしこの日、店こそ開いていたものの引き戸はその半分しか開いていなかった。そこからだとカウンターはまるきり見えない。いつも客足のない古道具屋に入りたくても入れない雰囲気があった。
 店全体が人を拒絶している、そんな印象を与えた。
 そのなかで高島は人を待っていた。
 そろそろかな、と高島はぼんやりと思う。
 真相を知ったらあの青年はどんな反応をするのだろうか。
 きっと、高島を非難するだろう。
 高島はそれから逃げることもできたが、そうはしなかった。
 彼は、総一郎から別口にもうひとつ依頼を受けていたのだ。
 総一郎から受け取った白い封筒。そのなかには総一郎の想いが詰まっている。
 ――これを、息子に渡してくれないか。
 そう言って差し出された彼の手のしわが思い出される。
 ――息子にだけは全てを知っておいてもらいたいんだ。
「損な役割だな……」
 高島はカウンターに腕を乗せ、そこに顔をうずめた。
 そのとき、引き戸ががらりと開く音がした。高島は身を起こしてそちらに顔を向ける。伊原隆志が、立っていた。その顔には憤怒と驚愕とが入り混じっている。
 高島は沈んだ声で、やあ、と声をかけた。

     七

 伊原隆志は高島への妙な感情が生まれるのを感じた。
 真実を聞かされ、現実離れした空間に引きずりこまれた気分だった。
なぜか父を殺した真犯人は、いま自分の目の前で暗い顔をしてうつむいている。
 この、事故に見せかけた総一郎の死は彼の望んだことであり、それは高島に消えることのない傷を残し、そして隆志にはただ喪失感だけが残った。やるせなくとも怒りはまだ燃え盛っているはずなのに、悲しいはずなのに、悔しいはずなのに、それらは皆、目の前にいる高島のほうが大きいように思えた。それが彼には少し妬ましい。
 周りのすべてが他人事のように、さらりと流れ去っていった。
 隆志は白い封筒の中に入っていた、保険金受取人が記載されている権利書をくしゃりと手に握りこむ。同時に総一郎の字で記された一枚ばかりの手紙を持つ手が震えた。
 冷めた体に熱い想いが染み込んでくる。
 そして隆志はようやっと、泣いた。

     跋

 高島夫妻が田舎に連れてきた猫にはいつの間にか変な癖がついていた。
 その猫は夫妻の息子が可愛がっていたもので、夫妻にはその癖がいつついたものなのか知らない。
 猫は台や脚立の類を見ると、なぜか猛然と突進する。そしてそれらが倒れると驚いて飛び退くのだが、猫はその行為をしたあと、必ず何かをねだるように主人を探した。
 何を期待しているのか、何を求めているのか、高島夫妻には分からなかった。
 結局、夫妻の息子が彼らに五日ほど遅れて田舎に移り、夫妻から事情を聞いてその猫をなだめるように撫でるまで、奇妙な癖はなくならなかった。