伝説紀行 領布振る佐用姫 唐津市 古賀 勝作


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作:古賀 勝

第336話 2008年06月15日版

2008.07.06 2011.06.26 2019.05.12 2019.07.14

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 僕は筑紫次郎。筑後川のほとりで生まれ、筑後川の水で産湯を使ったというからぴったりの名前だろう。年齢(とし)居所(いばしょ)なんて野暮なことは聞かないでくれ。
 筑後川周辺には数知れない人々の暮らしの歴史があり、お話が山積みされている。その一つ一つを掘り起こしていくと、当時のことや人物が目の前に躍り出てくるから楽しくてしようがない。行った所で誰彼となく話しかける。皆さん、例外なく丁寧に付き合ってくれる。取材に向かうときと、目的を果たして帰るときとでは、その土地への価値観が変わってしまうことしばしばだ。だから、この仕事をやめられない。
松浦佐用姫物語
(まつらさよひめものがたり)

佐賀県唐津市
(唐津・呼子・厳木)


沖行く船に領布(ひれ)振る佐用姫(唐津市鏡山頂上)

 鏡山(唐津市・標高283b)の頂上から唐津湾を見下ろせば、一幅の名画を観賞したよう。彎曲をなす海岸線の手前に連なる、幅1キロ・長さ5キロの虹の松原が、更に絵画の深みを演出してくれる。
 奈良時代の歌人が、その景色に見惚れ、物語を空想しながら一句を記した。もちろんこの時代、松原は存在していないのだが・・・。

海原の おき行く船を帰れとか
    
領布振らしけむ 松浦佐用比売

海原(うなばら)の おき行く船を帰れとか、領布(ひれ)振らしけむ 松浦佐用比売(まつらさよひめ)
大伴旅人作(万葉集より)

領布: 古代に用いられた女子装飾具の一つ。首にかけ、左右に長く垂らした布畠。別れを惜しむときなどにこれを振った。(広辞苑)
大伴旅人(おおとものたびと):665〜731 奈良時代の政治家・歌人。太宰師として筑紫野国を題材にした歌が万葉集に多い。(以上数研出版刊日本史辞典抜粋) 2019年4月新元号「令和」発表で脚光を浴びる、大宰府政庁の「支配人」的存在であった。

 鏡山のことを別名「ヒレフリ山」とも呼ぶ。大伴旅人は、愛しい人に向かって領布を振る女心を、これでもかこれでもかと膨らませた。古事記や「肥前風土記」編纂の後、天平年間に編み出された万葉集に登場する絶世の美女の心を確かめたくて鏡山から呼子の加部島までを旅した。

海に向かって領布振る女

 時は、飛鳥時代を更に飛び越えて「古墳時代」にまで遡る。
肥前国の松浦潟を眼下に見る山(鏡山)に登った女が、海に向かって、身につけていた領布(ひれ)を大きく振った。この時代、領巾を振れば、いかなる願いも叶うと信じられていたからである。写真は、鏡山から望む唐津湾。手前の海岸線は虹の松原
 女の名前は佐用姫(さよひめ=佐用比売・佐與姫とも書く)といい、そこから南方へ20キロほど離れた篠原村(旧厳木町)に住む豪族(長者)の娘であった。姫が見つめる先には、港を出て行く船団を統率する大伴狭手彦(おおとものさでひこ)がいた。
「あなた、私を残して、どこにも行かないで!」
 届くわけもない声を振り絞りながら、姫は領布を振り続けた。船団が沖の高島を回り、水平線の島陰に消えようとする時、「爺い、旦那さまを新羅(しらぎ)(朝鮮半島)に渡らせてはなりませぬ。追いかけて引き止めましょうぞ」と供の末造を促した。
「無理でがすよ、姫さま」
 止める末造を振り切って、佐用姫は山を駆け下りた。

愛する人はヤマトの御曹司

 山を下りて砂浜に出るとすぐ、大きな河口が姫の行く手を遮った。栗川(くりがわ)(現在の松浦川)である。昨日まで愛しい狭手彦(さでひこ)と、三月(みつき)にわたって暮らした陣営跡であった。
 思い起こせば、あれは弥生半ばの頃だった。篠原村の長者屋敷で夕飯の支度中に父に呼ばれた。
「明日から大王(おおきみ)(天皇)の命により、新羅に渡られる狭手彦(きみ)のお世話をしなければならぬ。そなたもついてくるように」ということであった。
 狭手彦の父は、ヤマト政権の中枢にあって、越前の男大迹王(おおどのおう)を天皇(継体)に即位させた大連(おおむらじ)・大伴金村(おおとものかなむら)である。狭手彦の任務は、政権が朝鮮半島で手を結ぶ百済(くだら)伽耶(かや)諸国を脅かす新羅(しらぎ)を叩くための派兵であった。


佐用姫生誕の地と伝わる厳木の山里

 当時の北部九州では、新羅に通じる筑紫国造(つくしのくにみやつこ)磐井(いわい)が勢力を拡大中であった。狭手彦の身に思わぬ災いが降ってこないとも限らない。篠原の長者は、この度の狭手彦警護が命がけであることを覚悟していた。
 緊張が高まる中で、佐用姫は狭手彦の身の回りの一切の世話を言いつけられた。例え短い間であっても、2人は夫婦も同然である。凛々しい若武者姿に惹かれた姫は、狭手彦を心から夫として慕うようになった。

船を追って、北へ北へ

 いよいよ別れのときがきた。
「嫌でございます。一時なりとも、貴方と別れて暮らすことなどできませぬ。行かないでください」
 一晩中泣き崩れる姫を抱いて、狭手彦もともに泣いた。翌朝、鎧姿の夫を見送った後、佐用姫は家人の末造を伴って鏡山に登ったのだった。


鏡山全景

 山頂で領布を振ったあと、急ぎ山を下りた佐用姫が河口に着いたとき、狭手彦の軍船の姿は既に見えず、末造に櫓を漕がせて向こう岸へ。
「急ごうぞ、爺い」

恋焦がれて石になる

 佐用姫は、裸足のままで北に向かって走った。息も絶え絶えながら、佐用姫と末造が呼子の浜にたどり着いた時、前方を大きな島が(ふさ)いだ。
「あれなるは加部島(かべしま)と申します」
 漁師が、櫓を漕ぎながら教えてくれた。


写真は、田島神社境内に建つ佐與姫神社

「早く、早く」、佐用姫は、加部島の中でも一番高い天童岳(112b)によじ登っていった。
「私の念力で、愛しきお方の軍船を引き戻させましょうぞ」


天童島頂上で領布を振る佐用姫

 狂女と化した姫は、黒髪を逆立てながら、沖に向かって叫び続けた。
「かくなるうえは、神のご加護を」
 山を下りると、岬に建つ田島の(もり)へ。「何とぞ、狭手彦(きみ)を我れの手に戻したまえ」と祈り続けた。
「姫さまは、何処に・・・」、祈り続けて七日七晩。祈祷所に姫の姿が見えない。主人を捜しまわる末造。
「爺い、私はここにいますよ」、振り向くと、そこに人がうずくまったような大きな石が転がっていた。
「可哀想に、泣き疲れて、とうとう硬い石になりなさったか」
 末造もまた、佐用姫の“亡夫石(ぼうふせき)”に寄り添ったまま動かなくなってしまった。この石、現在も田島神社境内の佐與姫神社(さよひめじんじゃ)に安置されている。(完)

 今回は、読者からの便りがきっかけで取材を開始しました。鏡山にはこれまでも何度か登ってはいたのですが、佐用姫伝説までは考えが及びませんでした。
 資料の取っ掛かりは、万葉集の読み手として有名な犬飼孝さんが1964年に出版された「万葉の旅」です。例によって、「うなばらの〜…」から始まり、悲恋物語の主人公としての佐用姫(万葉集では「佐用比売」という)と唐津の海の美しさを重ね合わせて解説されています。
 僕はそれよりも、この物語が「継体天皇(ヤマト政権)−大伴金村(狭手彦の父)−朝鮮の新羅攻め」と繋がる時代背景に注目しました。6世紀前半のこの時代、
筑紫国造(つくしのくにみやつこ)・磐井が、新羅(しらぎ)と通じていることを理由に、ヤマト政権に攻撃されています。また、久留米市大善寺の奇祭「鬼夜会(おによえ)」での鬼の立ち回りと政権の対応なども、狭手彦の朝鮮出兵とは無関係には思えません。第41話の「鬼夜の起こり」と第138話の「筑紫の君磐井」を是非読み比べてください。
 その意味では、佐用比売(さよひめ)(佐用姫のこと)の大伴狭手彦に対する恋心は、朝鮮侵攻と合わせて、複雑な時代背景の中で生まれたものでしょう。

 この度、改めて佐用姫が領布を振った鏡山から天童岳までをたどり直しました。山を下りて松浦川の河口に立つと、なるほどその景色の幻想的なことに唸らされます。佐用姫が登った丘であろう唐津城からの眺めもまた素敵です。宝くじのご利益で有名な高島、別名「宝当神社」はすぐ目の前でした。


写真は、佐用姫が泣き崩れて化したという、佐與姫神社御神体の“亡夫石”
 
 海岸線を相賀の港から湊浜へ。追いかけて追いかけて、佐用姫が見失うまいぞと目を凝らした先に神集島が。更に奇形の窟で知られる七つ釜の土器岬にも立ってみました。さすがにここまで来ると、眼前いっぱいに玄界灘が広がります。


田島神社由緒

 呼子大橋を渡って加部島へ。雨上がりの狭い山道を天童岳の頂上に向かいました。何度も滑り落ちそうになるのを我慢してたどり着いたところに、領布振る佐用姫像が。「彼女」の見据える向こうには、朝鮮半島があるはずです。姫は力の限り領布を振り、後に嘆き疲れて石になるのです。
 まさかその“化石”をこの目で拝めるとは思っていなかっただけに、「佐用姫との再会」は、300話達成で気が緩んだボクが、またまた伝説紀行の更なる継続へと、押しだされた気分になったものです。(2008年7月6日)

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