はた屋開業 西南戦争の光と影  社員第1号  注文生産方式
 第6章 小川縞織商店

はた屋開業

 明治9(1876)年の春、日吉町の一角に「小川縞織商店」が誕生した。それほど広くない家屋に、織機1台を据えただけの店舗である。
 トクが恐る恐るタテ糸を張ってみる。掴んだ杼がうまく間を潜ってくれるか不安であった。
 亀大工の協力で完成した「小川式縞織機」で、1反を織る日数が5日もかかった。しかも、できあがりは娘時代のものに比べても遠く及ばない。売り物になるまでには相当の時間を覚悟しなければならないだろう。仕事がうまくいきかけると、3歳に成長した浅乃がにじり寄ってきて、作業を中断させる。
「焦ることはなかよ。トクちゃんにとってのはた織りは、20年ぶりのことじゃけんな。ゆっくり感触を思い出せばよか」
 本村庄兵衛が2日と空けずにやって来た。
「いつもすみません。おじさんもお忙しいでしょうに」
 トクの方が気を使った。


現在の新廓(日吉町)


「わしは隠居の身たい。隠居が店の中ばウロウロしとると、息子がうるさがるけんな。そうかと言うて家にゴロゴロしとったら、かあちゃんや娘に嫌わるるし。ここまで歩いてくると、丁度よか運動になるけん」
 相変わらず庄兵衛の声は大きい。
「あらあら松屋のおっちゃん、今日も来とらすばいね」
 シゲが現れると、賑やかさが倍加する。シゲの後には若い娘が立っていた。
「この娘(こ)は、広川(現八女郡広川町)でかすり織りばしとる知り合いの娘たい。トクさんとこの織り子にどげんかと」
「織り子は私1人で十分よ。織り機も1台しかないし」
 困惑気味のトクの返事に、シゲの大声が被(かぶ)さった。
「そげなことじゃ、はた屋のおかみさんは勤まりまっせんばい。はた織りは織り子に任せて、おかみさんは材料のこととか売りさばきのことば考えなきゃ。それに・・・」
「それに、何よ」
「お金のことたい。糸ば買うて、それば染めて織る。織ったものは売らなきゃ次の材料が買えんでしょうが。トクさんはこの店の大将じゃけん、そこのところばよう考えてもらんと」
「小川縞織商店」の看板を掲げて1ヵ月が経った頃、にわかに作業場の表が騒がしくなった。
「奥さん、女の人が5人も来て、中に入れてくれろち言うとりますが」
 シゲが連れてきたノリ子が、外の様子を知らせた。集まった女たちは、高機が珍しくて見物にきたらしい。
「仕事の邪魔にならなければかまわないわよ」
 作業場に入ってきた女たちは、若い娘から子供を背負った中年までさまざまである。
「どこから来たの?」と聞くと、町中の者もいれば、2里も離れた田舎からわざわざやって来たと言う女もいる。
「これなら、疲れんでよかね」
 彼女らの第一印象はそれであった。「うちの織り機を見て、どうするの?」と、トクが尋ねると、「ここで働かせてください」と言い出す。
 翌日の見学者は、更に増えて10人を超えた。
「奥さん、見物の人の子供が機械ににぶら下がったり走り回ったりして、仕事になりまっせん」
 ノリ子が悲鳴を上げた。
「よかね、この縄から中に入っちゃいかんよ」
 シゲが、織り機を遠巻きするように縄を張った。それでも見学者の数は増える一方であった。
「トクさん、機械ば増やしまっしょ。せめて5台くらいには」
「どうして? 見学者が多いから?」
「そうじゃなかよ。松屋の番頭さんから、出来上がった品物ば早う持ってくるごと言われたとですよ。それに、魚喜さんからも・・・。織り機1台じゃ、どげん頑張っても間に合わんけん」
 松屋とは、本村庄兵衛の店の屋号で、魚喜は、国武喜次郎商店の屋号のこと。
「いいよ、間に合うだけで」
「それがいかんとですよ。せっかく開店のご祝儀にと注文してくださるお客さんまで袖にしたら、何のために苦労してはた屋ば始めたかわからんでっしょうが」
「そう言うけれど、この家じゃこれ以上織り機は置けないわよ」
「大丈夫、うちの亭主に作業場ば建て増しさせるけん。機械も大急ぎで作らせるたい」
「手間賃はどうするの?」
「馬鹿だね。これだけ注文が来りゃ、そんくらいの金はすぐに出るくさ」
 シゲに言われれば、返す言葉が見つからない。押し切られた形で亀大工に織機を4台注文した。足りなくなった織り子は、見学者の中から採用した。
「よかね、今日からあんたたちは奥さんの弟子じゃけん、先生と言いなさい。ノリ子もよかね」
 新しい機械が入り、織り子が5人に増えたところで、シゲが念を押した。


本村庄平

 トクが、はた屋として初めて売り出した縞織物の値段は、1反あたり80銭から85銭であった。ちょっと手のかかるもので1円30銭から40銭。当時久留米絣が、並みのもので1円50銭だったのに比べれば、縞織物は遥かに安い衣料である。
「評判がよかですよ、小川商店の縞は」
 時々顔を見せる庄兵衛の息子の庄平が、お世辞抜きで褒めた。
「やっぱり、値段が安いからでしょうか」
「それもあるばってん。買いにくる玄人さん(小売商)は、「品がよか」とも言いよらす」
 トクの問いかけに、庄平は、かすりにはない布地の柄の滑らかさを強調した。絹入りの双糸がその効果をもたらしているのだろうとも付け加えた。

西南戦争の光と影

 本村庄平らの援助で、小川縞織商店は順調に滑り出した。すっかりはた屋の番頭格に納まっているシゲが、金庫の中もうまい具合にまわっているとご機嫌である。
 開業から半年経った明治9年の暮れも近い頃。散歩のついでだと言い訳しながら、庄兵衛が現れた。庄兵衛はこの日、珍しく愚痴っぽかった。
「息子たちがかすりば売りまくるとはよかばってん。織る糸が足りんじゃどもならん」と。
「だっておじさん、織り手はいくらでもいるって言ったじゃないですか。その方たちに、糸も紡いでもらったらいいでしょうに」
「百姓の娘や嫁さんが紡ぐくらいじゃ、間に合わんとたい」
 話の途中で、庄兵衛の話が物騒な方向に飛んだ。
「ところで、また戦(いくさ)が始まるげな」
 鹿児島(薩摩)の不平士族らが、新政府に対して兵を挙げると言う。不平士族とは、西郷隆盛を師と仰ぐ薩摩の若い藩士らのことである。
 西郷や士族の動きを反乱とみなす政府は、「鹿児島県暴徒征討令」を発して、一挙に叩き潰しにかかった。征討総督に任じられた有栖川熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)は、3月16日に博多から久留米に入り、旧城内の師範学校(現明善高校)に本営を置いた。
「恐らく、筑後も戦場になるじゃろうない」
 庄兵衛は、久留米の町が壊されなければよいがと憂いた。
「くるめんあきんどの中では、戦争でひと儲けしようと張り切っとる者もおるそうですが・・・」
 シゲが、町の噂話を庄兵衛に確かめた。
「そうたい。魚喜の喜次郎も槌屋の雲平も、そしてうちの庄平までもが、滅多になか稼ぎ時だち言うて張り切っとる。特に雲平は、陸軍から大そう大きか注文ば貰うたげな。喜次郎も、売りもんの仕入れに総力ば挙げとる」
 世に言う「西南の役(戦争)」は、それから間を置かずして火を噴いた。


西南戦争時総督本営となった明善堂

 戦闘のすさまじさは8里(約32`)離れた久留米の町からも、容易に見てとれた。軍団病院に衣替えした久留米師範学校は、戦場から運び込まれてくる死傷兵でごった返した。記録では、戦時中1300人もの負傷兵が担ぎこまれたとある。


西南戦争の図

 内戦を商いの好機と考える倉田雲平の野望は、間もなく打ち砕かれることになる。開戦になれば、必ず官軍が買い取ってくれると踏んで掻き集めた軍需物資が、すべて当て外れになったからである。倉田雲平は、店を開いたときの貧乏店主に逆戻りした。
 国武喜次郎はというと、西南戦争をうまい具合に逆手にとって、大金を手にした。戦争は、喜次郎にとって豪商人へと駆け上がっていく踏み台になったのである。
 西南戦争が終わって、1年経ってもトクの顔が冴えない。小川縞織商店は順調に滑り出したというのに。
「喜次郎さんは、お金儲けができたかもしれないわ。でも・・・」
 何がそんなに不満なのか、トクの気持ちがわかる庄兵衛は、例によってキセルの首を叩いてキザミ煙草を落とすのに忙しい。
「2万人近か戦死者があって、金儲けもなかち言いたかとじゃろう」
「そうですよ。私には雲平さんや喜次郎さんのような商いがわからないわ。それに、久留米の人たちは、兵隊さんたちの購買意欲に悪乗りして、質の悪いかすりを売っているって言うじゃありませんか」
 トクが嘆くのは、久留米商人が、戦争帰りの兵たちに、かすりの粗悪品を売りつけていることであった。藍草であるはずの染料の代わりに、粗悪な化学薬品を使用しているという。悪い噂は、妙な流行り歌となって久留米商人の身に跳ね返ってきた。「戦争戻りに久留米でかすりを買うたれば、紅殻(べにがら)染めとは露知らず、男なりゃこそ騙された」と。
 西南戦争は、久留米を武家社会の城下町から商人の町に変貌させる大車輪の役割を担うことになった。だが、取り返しのつかない負の遺産をも同時に背負い込むことになったのである。

社員第一号

 西南戦争翌年の明治11(1878)年。農民の暮らしはますます厳しくなっていた。相次ぐ筑後川と同水系河川の氾濫で米の収穫はゼロに等しく、夜逃げをする者が後を絶たないという。加えて、地主や長男の権限ばかりが強くなり、二男坊以下の息子や小作人は、徳川の時代より暮らし難くなっているとも。女は、農作業の疲れを癒す間もなく、夜鍋作業を余儀なくされる。農業だけでは食っていけない者は、博多や大阪まで出稼ぎに出た。
 そんな時代の夏。
「トクちゃん、おるかい」
「おじさんの声は1里先からでも聞こえますよ」
 本村庄兵衛が、この日は若者を連れてきた。
「こいつはね、知り合いの息子で大石平太郎。二十歳(はたち)げな」
「それで、大石さんが私に何かご用でも?まさか、織り子志望でもないでしょうね」
「店で使って欲しかと、この男ば」
 庄兵衛の言葉に、トクは戸惑った。
「馬鹿なことを言わないでください。はた織りは女の仕事です」
 庄兵衛とトクが言い争っている間、連れてこられた青年は、黙ったまま外の景色を眺めている。織り子たちはというと、二人の会話には耳も貸さず、黙々と杼を左右に動かすだけだった。
「平太郎にはた織りばさせろちは言うとらん。織り上がった反物ば売らせる仕事たい。売り方はわしが教えるけん」
 庄兵衛の声が、壁を揺するように大きくなった。
「その平太郎さんとやらのお給金は、誰が払うの?」
「食い扶持ぐらい自分で稼ぐくさ」
「おじさんは気楽でいいですね。どんどん織ってどんどん売れる、そんなに簡単なものでしょうか、商いというものは」
「売れん時でもどげんかして売るのが、平太郎の仕事じゃなかか」
 両人の会話は、肝心の大石平太郎を横に置いたまま、延々と続いた。
「おじさんが私にこの若者を押し付ける、本当の理由(わけ)を聞かせてください」
 そろそろトクも、庄兵衛との話に決着をつけたかった。
「トクちゃんが織る縞は、これからもどんどん売れる。また、トクちゃんの真似ばして新しゅうはた屋ば興すもんも増えてくるじゃろう。そうなると、またまた信用失墜ば招く商いにならんとも限らん。そうならんごと、見張り役の組合ばつくらにゃならん」
「・・・・・・」
「そこでだ、かすりと同じごと、縞織りの方にも有能な人材ば育てておく必要があるとたい」
「その人材が、平太郎さん?」
 トクは、庄兵衛がまだまだ久留米の織物業界に君臨していることを再確認させられた。こうして、トクのはた屋に社員第一号が誕生することになった。

注文生産方式

 商いが順調にいけばいったで、トクの悩みが消えることはない。
「本当に気が重いのよ。外のことは平太郎がやってくれるとして、作業場の中のこととなると」
「何ば言うとるの。目の前のおシゲさんじゃ頼りにならんち言うとね」
 シゲは、亭主の亀吉に織機の改良を促しながら、トクの仕事を補助していくことを仕事にしている。
 西南戦争の影響で物価は高騰し、農民の暮らしはますます悲惨さを増していた。そのことが、皮肉にも、縞織物を業とするトクには幸いしている。かすりは値が張って買えない農民が、安くて丈夫な小川縞織商店の反物を重宝したからである。最近では織り子の休み時間も十分に確保できないほどに多忙を極めている。
「相談があります」
 平太郎が改まった口調でトクに近づいた。こんな時の平太郎は、必ず新しいことを提案してくる。簡単に「わかった」とでも言おうものなら、実際の仕事はその何倍にも膨らんで跳ね返るから厄介である。
「うちの店は、このままじゃいかんと思うとります」
「・・・・・・」
 トクは返事をせずに、うつむいたままで仕事を続けた。
「これからの売りもんは、仲買人が売りやすかごと、作り方ば変えにゃならんち思うとです。柄もこちらで考えるとじゃのうて、仲買人に決めさせればよかです」
「あなたが言っていることって大変なことよ、平太郎さん」
 いちいち仲買人の言うとおりの物を織っていたら、言われた数だけ柄の図面を描かなければならない。そのための人手も必要になる。
「おるとですよ、図柄を描かせたらなかなか腕の立つおなごが」
 翌日の朝、平太郎は荒木村に住む二十代半ばの女性を連れてきた。手回しのよいことでは、シゲも舌を巻くほどの男である。女の名前は、野田ハツコといった。
 小川縞織商店の織り子が8人に膨れた。ハツコと一緒に採用された妹のマサヨとともに、作業場が華やかさを増した。
 注文生産方式がうけて、仲買人の出入りはますます頻繁になった。ある時には、5人も6人もが同時に玄関口に座り込むこともある。
「ご覧のとおり、私どもでは、織るものに限度がありまして」
 トクがどんなに断っても仲買人は帰ろうとしない。それどころか、紙に包んだ5円とか10円の手付金を勝手に置いていく始末である。こうなると、嬉しい悲鳴を通り越して絶叫したい心境にもなる。
「そんなに注文を断っていたら、そのうちお客さんが来なくなります」
 平太郎がトクに意見した。
「どうすればいいと思う? これじゃ、松屋さんにも魚喜さんにも不義理のしっ放しじゃないの」
「魚喜さんと松屋さんなら大丈夫ですよ。あちらには、関東とか関西からかすりの注文が殺到しとるそうですけん。本当は縞を扱うゆとりなんぞなかとです。それより・・・」
 平太郎がまた何か言おうとするから、トクも自然に身構えた。
「織り機ば増やしまっしょ。せめて15台くらいには」
 店を立ち上げてからまだ日が浅いのに、一挙に拡大することが怖かった。金の出し入れはシゲに任せているが、果たしてもうかっているのかどうかさえよくわかっていなかった。
「大丈夫です。店は確実にもうかっとります。織り機と織り子ば増やせば、その分だけ売り上げは上がりますけん」
 平太郎は、何の心配もないと言って笑った。
 
 トクの所には、弟子志願者が後を絶たなかった。多い日には10人もの女が作業場を占拠してしまう。シゲが張った縄の仕切りもいっこうに役立たない。彼女らは、家の手助けのためにはた織りを覚えたいのだと言う。ついにトクの弟子が20人に膨らんだ。
 そこに、新たに5台の織機が入ったものだから、作業場は足の踏み場もない状態になった。そこで亀吉に頼んで、更に作業場を継ぎ足させた。
「先生、ここはどげん織ればよかですか」と聞かれれば、トクは嫌がらずに丁寧に指導した。巣立っていく娘たちは、いずれは自分の支えになってくれるはずである。そのためにも、仕事ができる者には給金をケチらないことにした。それがまた、「弟子願望」の増加にも繋がっている。
 順調に滑り出したはずのはた屋稼業だったが、何もかもうまくいくとは限らない。開業から3年が過ぎた明治12(1879)年の夏も終ろうとする頃。あんなに喧(やかま)しかった蝉の声が「ジリジリ・・・ジリ」と、疲れたように小さくなった。
 そんな時、仕事熱心だったツタエが、突然「仕事をやめさせてください」と言い出した。ツタエは、矢部川近くからやってきた女である。一緒に現れた亭主は元久留米藩の下級武士で、維新後は近くの植木職人のもとで働いていると言う。
「こちらから働かせてくださいとお願いしておきながら、無責任だと怒られることはわかっています。先生には何とお詫びを言ってよかかわかりません」
 ツタエは、訳を話す前に泣き出してしまった。
「どうしたのよ。何があったの?」
「亭主の友助は、根性が足りんとです。どこの植木屋さんに移っても、ひと月と持たんのですけん。こちらからいただくお給金も、この人のやけ酒のために消えてしまいますし・・・」
「それで・・・」
「森尾茂助というお侍さんに、家族ぐるみでの開拓団に加わらないかと誘われたとです。行き先は、東京を通り過ぎて、もっと北に行った会津の安積(あさか)というところです。遠か国は嫌だと、私は反対しました。それなら俺一人で行くと言うんです。こげな根性なしば一人で寒か国にやるわけにはいきまっせん。これでも私たちは夫婦ですけん・・・。心機一転、他国で出直すことに決めました。先生にはお世話になるばっかりで心苦しかですが、許してください」
 友助とツタエ夫婦が向かう、安積開拓のいきさつはこうだ。


安積の開拓地に祭られた水天宮


 旧長州藩での暴動の首謀者を匿(かくま)ったとして、新政府から旧久留米藩士らに厳しい処罰が下ったことがある。明治4年のことだった。その時、旧藩士の森尾茂助も熊本の刑務所に繋がれた。そこに西南戦争が勃発し、森尾ら受刑者が官軍への参戦を条件に仮釈放された。終戦後、森尾らは内務卿の大久保利通から、安積で始める士族授産の開拓に参加するよう命じられたのである。
 維新から10年以上もたっているのに、これといった定職につけずに迷っている元藩士たちが、森尾の誘いに乗った。友助もその中の1人である。森尾らにとって安積開拓への参加は、幕藩久留米との決別をも意味していた。
 ツタエ夫婦が、他の家族とともに安積に向かったのは、明治13(1880)年が明けてすぐの寒い朝だった。トクは5歳になった浅乃を伴って、櫛原の渡し場で見送った。
「堪えられなくなったら、いつでも久留米に戻ってらっしゃい。それからこれ、少ないけど・・・」
 トクは友助に気づかれないように、小銭の入った紙包みをツタエに握らせた。渡し舟が向こう岸に着き、一行が土手を越えて見えなくなるまで、トクは身動き一つしないで見つめていた。友助とツタエがその後どうなったか、トクに知らせてくれる者もなく、また時間が経過していった。


旧宮地の渡し付近

 ツタエが作業場を去って半年たった頃の早朝、野田マサヨが駆け込んできた。姉のハツコが大量の血を吐いて倒れたと言う。そういえば最近の彼女の顔色が悪かった。忙しさに紛れて、気を遣うことをしなかった罰がトクを襲った。注文生産の担い手であるハツコを失う痛手は計り知れなかった。
 何とか治って欲しいとのトクの願いも空しく、吐血から10日目にハツコは他界した。トクがはた屋をやっていくのに両腕と頼む、ツタエとハツコの2人を同時に失うことになった。

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