弟子の独立 同業組合  蒸気機関車走る  生前墓(壽碑)  娘の死 商店から会社へ
第7章 手織りと機械織り

弟子の独立

 トクは、庄兵衛に連れられて篠山町(ささやままち)の国武織物工場を訪ねた。工場主の国武喜次郎は、西南戦争でもうけた大金を元手に店を広げる一方で、織物工場建設にも熱心である。
「俺が目指しておるのは、日本国中の婦人に国武商店の反物ば着てもらうことですけん」
 トクらの来訪を待っていた喜次郎は、工場内を行き来する使用人に指図をしながら、威勢のよい話をぶち上げた。この時期国武商店の売り上げは、久留米絣全体の半数を超えていたのだから、鼻息が荒いのもうなずける。
 喜次郎は、かすりと縞の大量生産のため、織物工程のすべてを工場で賄うのだとも言った。
「農家のお嫁さんや娘さんにやってもらっているはた織りはどうなるの」
 トクは、喜次郎の鼻息の荒さが、小川縞織商店の今後にも影響しそうで心配だった。
「あの人たちも、工場の雇われ者になるとたい。工場の外で仕事ばしても、うちが手間賃ば払うて、工場で下拵え(したごしらえ)した糸で織ってもらうだけですけん」
 喜次郎の考えを呑みこめないでいるトクである。
「糸紡ぎも染めものも柄つくりも、みんな工場でやるってこと?」
「そういうこと」
 喜次郎は、かすりの大量生産こそ、西南戦争後の久留米商人が受けた信用失墜を挽回する近道だと言いきった。
 喜次郎の大量生産に対する意気込みは、トクが少々首を傾げるくらいでは揺るぎそうになかった。釈然としないまま、国武工場を後にした。
 日吉町への帰り道、並んで歩く庄兵衛に対しても無口だった。
「喜次郎の話をトクちゃんに聞かせたのは、織物事情の変わり目ば、その目で見ておいて欲しかったからたい。これまでの商売のごと、店に大将がいて、その下に番頭がいて、そのまた下に手代(てだい)と丁稚(でっち)がおるといったありようは変ってしまう。はた屋も同じこと。久留米の反物ば日本中で売るとなりゃ、百姓仕事の合間にボチボチ織っておるようじゃ間尺に合わん」
 本村庄兵衛は、トクに急激な時代の変化を分からせようとしている。
「でもね、おじさん。喜次郎さんの言うのは、何でも工場でやって、一度にたくさんの同じ織物を作っていこうということでしょう。そんなことになれば、小川トクの出番がなくなるじゃありませんか」
「違うよ、トクちゃん。工場の機械で大量の反物ば織れば織るだけ、トクちゃんの手織りの価値は上がるというものたい」

 販売に加えて生産部門の経営にも着手した国武喜次郎は、自ら滋賀県宮庄村の織物工場に出向き、同地の上布織(じょうふおり)(麻織物)の生産方式を徹底的に研究した。宮庄村の技術を持ち帰って自前の工場に応用する。その時、紺屋(こうや)(染物屋)と手括(てくび)り職工も同時に雇い入れ、一貫作業によるかすりの自家生産に踏み切ったのである。
 問屋が織り手に原料を前貸しして作らせる「問屋制家内工業」から、商人が作業場を設けて奉公人(賃金労働者)を集め、分業と協業による手工業生産を行おうとするもの。これが久留米地方における、「工場制手工業=マニュファクチュア」の始まりであった。

「トクさんに相談があるとですが・・・」
 大石平太郎が、またまた神妙な顔つきで寄ってきた。
「今度は何? この家には、もう1挺(ちょう)の機械も入らないわよ」
「そんなことじゃなかとです。店のやり方ば変えてみたらどげんかと・・・」
「変えるって?」
「縞を織る作業場と、織った反物ば売る店ば分けるとです」
「魚喜さんが始めた、問屋と工場を同時にすすめるやり方とは、正反対ね」
「トクさんには、もっともっと着るもん(者)が喜ぶ縞ば織って欲しかとです。小川商店の品物ば売る仕事を、俺に任せてくれんですか。本村さんや国武さんに負けんくらい大きか店にしてみせますけん」
 想像すらしなかった平太郎の独立宣言である。トクは心に空洞ができた思いに駆られた。
「言い出したら聞かないあんたの性格は知り過ぎているけど・・・。でもね、平太郎さんがいなくなって、私だけでこのはた屋をどうやって切り盛りしていけばいいの?」
「何が一人なもんですか。トクさんにはおシゲさんという立派な後ろ盾が付いていなさるし、おシゲさんの息子の安男君も間もなく一人前になります。それに・・・」
「これ以上、私を困らせることを言わないで」
「俺よりよほど働き者ば見つけておりますけん」
 どこまでも手回しのよい男である。3日後には、元士族の息子だと名乗る青木倉蔵を連れてきた。間もなく平太郎は、苧扱川町(おこんがわまち)に「大石平太郎商店」の看板を掲げた。
 大石商店は、トクの作業場で織り上げた反物に、「久留米縞(くるめじま)」の商標を貼った。久留米の縞織物は小川トクが本家本元であることを、世間に周知徹底させるための平太郎の知恵であった。 久留米縞ブランドの始まりである。

同業組合

 国武喜次郎らは、間もなくして「絣同業者組合」を結成した。西南戦争から3年たった明治13(1880)年9月のことである。組合結成の最大の目的は、西南戦争後の信用失墜を挽回(ばんかい)することにあった。
 そのために組合は、地糸や染料についての共同管理を推し進めた。原料は内地紡績糸に限る、染料は筑後川岸など現地で採れた藍草か阿波(徳島)地方のものでなければならないことまで徹底した。また、個人織りたてを廃止し、はた屋で地こしらえをして、織工には単に織るだけの仕事をさせる。織工の報酬も、これまでの原料給付から、すべての「手間賃」を貨幣で支給する制度に改めた。半ば独立した状態の農家の主婦たちが、完全に織り元の管理下に置かれる賃金労働者に変化していく過程であった。
 織工たちは、同業組合が打ち出した「賃金制」に反対して、同盟罷業(どうめいひぎょう)(ストライキ)の手段に出た。同業組合が結成された翌明治14年のことである。この時期は、全国的に、労働者が資本家に対して自己主張を始めた時でもあった。
「久留米地方のかすりは、長年農村婦人が副業として織り立てをしてきたものであり、それが賃労働となれば、時間的自由が利かなくなるし、個人経営ならではのうまみも失うことになる」と言うのが彼女らの言い分であった。
 久留米市内で行われた集会には460人もの織女が参加し、向こう20日間のかすり織りの停止を決議した。その後開かれた集会では、その都度参加人数が膨らんだ。信州の諏訪地方で始まり、全国に吹き荒れた女工による同盟罷業は、ここ筑後の地にまで拡大したのであった。
 トクは、時々店にやってくる大石平太郎から労働争議の様子を聞きながら、自らは弟子たちと久留米縞を織り続けた。
 
 今日も本村庄兵衛が作業場に来て、大声でトクに話しかけている。
「縞織業者もかすりの組合に入らんか」
 トクは、縞織の業者がかすりの同業者組合に飲み込まれそうで心配であった。
「そうはならんけん心配せんでもよか。トクちゃんの縞織は、トクちゃんの作業場からでしか生まれんとじゃから。トクちゃんが織ったものは、平太郎が絣組合と共同で全国に売りまくるたい。そのうち、海の向こうからも注文が来るごとなる」
 こうして、縞織業者が「久留米絣同業組合」に加わったのが、トクのはた屋開業から10年が経過した明治19(1886)年の12月であった。
 久留米絣同業組合は、これまでより使いやすい名古屋の佐々機(ささばた)の技術を取り入れた。既に起動していた四国の伊予機(いよばた)(長機)に佐々機の合理性を加えることで、生産は更に倍増することになった。
 まさしく、はた織りの機械化が、「手作業」を凌駕していく時代であった。
 この頃には、浅乃は12歳に成長していて、近くの日吉尋常小学校に通っている。
「学校は面白いかい」
 珍しくシゲも庄兵衛も店に現れない日、トクは日当たりのよい部屋で浅乃とくつろいでいた。
「この頃は、休む子が多うてつまらん」
「何でだろう?」
「習い事とか店のお手伝いで忙しかとげな。お宮さんのお祭りち言うても休むよ」
「もったいないね、せっかく読み書きの手習いが出来るというのに」
 このところの浅乃の体や喋りが、少しずつ大人に近づいていることが、嬉しいような淋しいような、そんな複雑な心情である。
「お母ちゃんが子供の頃は、学校なんぞなかったからね。せっかく勉強できるんだから、お休みするなんて、やっぱり贅沢だよ」
 母子の会話は、なかなかそれ以上に展開しない。間を置かずして、作業部屋から織り子がトクを呼びに来るからである。

 青木倉蔵が大石平太郎と一緒に現れた。この日の用件は、どうやら平太郎の考えを倉蔵と一緒に納得させようとするものらしい。
「作業場ば移しまっしょ。日吉町の作業場では、これ以上の建て増しは無理ですけん」
 平太郎がしゃべれば、倉蔵がいちいちうなずいている。
「丁度よか按配(あんばい)に、水道町のお侍さんの屋敷が空いたとです。あそこなら、織り機があと20挺(ちょう)や30挺(ちょう)は増やせます。場所も俺の店からすぐですけん、便利もよかです」
 平太郎の進言は、半ば強制的であった。水道町といえば、日吉町の店から西へ7町(763b)ほど離れた旧下級武士の屋敷街にある。
 トクは、初めて久留米で暮らすようになった新廓の場所から離れたくなかった。加えて、日吉尋常小学校に通学する浅乃を置いていくわけにはいかない。
「大丈夫だよ。正敏もいることだし、面倒みるのは同じだから」
 ウメが、同級生の息子と合わせて世話をするということで、渋々水道町移転を承知した。
 日吉町に未練を残すトクを尻目に、小川縞織商店は間もなく水道町に引っ越すことになった。本村商店や平太郎の店の若い者が、重い荷物を1日で移動させた。
 トクが借り受けた水道町の屋敷は、日本の西洋画壇に大きな足跡を残す青木繁(1882〜1911)が青少年期を送った屋敷のすぐ近くにあった。
「トクちゃん、開店祝いば持って来たぞ」
 織機の配置もだいたい片付いた頃、隣近所に響き渡る大声を張り上げて庄兵衛がやってきた。小僧に持たせている大きな風呂敷包みが祝いの品らしい。
「何ですか、それ? あまり大きなものは遠慮したいわ」
 気のない返事をよそに、庄兵衛は自分で包みを解いた。それは、削りたての杉の厚板に墨黒々と「小川縞織商店」と書かれた看板であった。


現在の水道町界隈

「こんな立派なものを。おじさんが書いたのですか」
「そうたい。庄兵衛さま、一世一代の傑作ばい」
 内装を受け持った亀吉が、早速看板を玄関前に掲げた。

蒸気機関車走る

 トクが水道町に作業場を移した明治22(1889)年は、久留米の町にとっても歴史に残る出来事の多い年となった。
 4月、福岡市と並んで久留米が市制を敷いた。名実ともに県南部の中核都市に位置づけられた年でもあった。横浜−新橋に鉄道が開通してから17年経って、博多(福岡市)から久留米までの鉄道も開通した。
 その日は朝から小雨が降り止まなかった。それでもトクとシゲは、物珍しさに誘われて、蒸気機関車に引かれる客車を見に出かけた。重量感をそのままに、大量の蒸気を吐きながら、ドイツ製の機関車「クラウス」が、7両編成の客車を引っ張る。二人は、棚引く黒煙の行方をただ茫然と眺めていた。
 蒸気機関車の迫力を目の当たりにして、興奮収まらないトクとシゲ。そのまま作業場に戻るのももったいない気がしている。
「おシゲさん、今町に行こうよ」
「仕事は大丈夫?」


博多−久留米を走ったクラウス型機関車
(宇佐八幡神宮境内に展示)

 シゲも、気持ちは今町の劇場に向かっているが、一応は仕事のことも心配して見せなければならない。今町の劇場では、竹川壽鶴女一座の「オッペケペー」が評判を呼んでいた。
 川上音次郎が社会を風刺し政治を批判して歌ってから、2年もたたずにもう久留米で公演されている。もっとも、竹川一座の歌は社会風刺ではなく、久留米の有名商店や観光名所を織り込んだ宣伝ものだった。それはそれでまた評判を呼んだ。
「久留米市中は開けたね  三本松は陽気だね  諸品買うのは集産場  通じの早いは電信機、郵便、活版便利だね  界紙の機械は竹彦で  呉服反物安売りは、荒甚、森新、古賀勝か  国産かすりは赤松社  地縞のよいのは小川トク  槌屋の足袋は丈夫だね  音に名高いかすり店、魚喜に松屋に福童屋  綿太もこの頃大繁盛、オッペケペ、オッペケペ、オッペケペッポウ、ペポーポン」
「竹彦」とは、金物商の今村彦平商店(屋号は竹の屋)を指す。「界紙」とは罫紙のこと。綿太は、木綿太物の略である。
「とうとう小川トクも歌にまでなったもんだ」
 変なところで感心しているシゲである。
「そうだね。槌屋さんも魚喜さんも、それに松屋さんも、勢ぞろいだもんね。歌の文句にあるように、三本松は陽気だね」
 劇場を出て水道町に帰る途中、二人は笑ってばかりだった。
 急激に変わりゆく街中で、トクは水道町の作業場に、新たに20挺の織り機を加えた。前からの機械と合せて、33挺が作業場を賑わせている。平太郎や倉蔵の説得もあって、織り子や糸解き(管巻き)も含めて、働き手は一挙に50人に膨らんだ。
 トクの成功につられて、久留米近辺で縞織のはた屋が次々に開業した。新しく店を開く者は、かすり織りから転向する者、かすりと併業の者、いろいろである。トクのはた屋開業からわずか10年余りの間に、久留米地方で織り出される縞織物は年間6万反にも達した。(この時、久留米絣は18万反であった)
 
「先生、平太郎さんが来とらっしゃるですよ」
 青木倉蔵が取り次いだ。最近では、倉蔵もすっかり店の中核に座っている。
「あら、大店(おおたな)の大将ではありませんか。今日は直々にどのようなご用件で?」
 平太郎の姿を見ると、トクの口も自然と軽くなる。いつものことだが、平太郎のそばには必ず倉蔵が座った。
「今日は、よか知らせば持ってきたとです」


旧苧扱川周辺

 またまた大変なことを言いに来たのかと身構えるトクの前で、平太郎は風呂敷包を解いた。中からは分厚い印刷物が。それは、大阪商業会議所が発行した「各地商工業視察報告−久留米の部」であった。
「何よ、これ。久留米縞に関係があるの?」
「それが大有りですよ。トクさんのことが詳しく書いてあるとです。倉蔵、読んであげな」
 平太郎が指示すると、倉蔵が咳払いをして報告書を読み始めた。
 
「沿革、久留米縞は明治9年中小川トクなる者、久留米市に初めて長機(ながばた)(高機)を用い、絹綿織物を製造し自己の営業とし、側(かたわ)ら男女工を集めて之を伝えたるを起こりとす。其の後明治11年中当市苧扱川町在の者手織り縞と称し、別に綿織縞を製出したり。当時は主に自家用に充てるに過ぎず、何れも絣業者の兼業に止まりしも、幸いにして世の好評を博したりしかば、漸時改良を施し、色糸等の配合、柄あい、意匠等に注意を加え、同13年頃に至り初めて他県へ販出するに至れり。爾後連年織業者の数を増し、明治17〜18年頃には巳に1ヵ年6万反を製し、次て22年頃には殆ど10万反以上に達す」
 
「先生、これはすごかことですばい。何たって、天下の大阪商業会議所(昭和29年に大阪商工会議所に改組)が、先生の久留米縞ば日本中に知らせてくれたとですけん。久留米絣や博多織と同列に並べてですね」
 読み終えた倉蔵が興奮覚めやらずの体である。
「褒(ほ)めすぎよ。でも、『久留米縞』って名づけた平太郎さんのことが書かれていることは嬉しいわ」
 トクが、言葉とは別に、実は誰よりも喜んでいることを平太郎は見抜いていた。
「ところで・・・」

生前墓(壽碑)

 頃あいを見て平太郎が切り出した。
「やめてよ、あんたが真剣な顔をするときは、ろくなことがないんだから」
「まじめな話です、これも」
「だから、何だって言うのよ」
 そこまで真顔で迫られると、トクもつい引き込まれてしまう。
「実は・・・、この機会にトクさんのお墓ば建てようと思うて・・・」
「なに、墓? 誰の?」
「またまた、聞こえんふりばして。あなたのお墓ですよ」
「私の・・・? 私はまだ五十(歳)よ。この通りピンピンしているわ。お墓なんて・・・」
「むかしから、生きているうちに墓を建てると、その人は長生きすると言うじゃありませんか。トクさんにはいつまでも元気でいて欲しかと思う弟子たちの気持ちですけん」
 平太郎がトクに相談に来る時は、いつでも次の手当てを済ましている。今回も墓を建てようとする梅林寺との話は既に済んでいると告げた。
 平太郎と青木倉蔵が、トクの弟子たちに呼びかけて寄付金を集め、やがて梅林寺の本堂脇に立派な石碑が建立された。

 
 小川トクの生前墓

 石碑の正面には「小川徳先生の墓」と記され、右側に「高機先生小川徳者生国武蔵国北足立郡丸ヶ崎村之産也 今般七十余の門人為恩志建立石碑云爾・・・」と記されている。
 
 久留米絣同業組合と合流した縞織業界は、かすりとの相乗効果も手伝って、次第にその販路を広げていった。売れるとなると、業者の中には、またまた粗悪品でもかまわないといった風潮が生じる。
「悲しいことね」
 このところのトクの口からは、嘆き節が頻繁である。
「こんなときこそ、平太郎さんが何とかしなきゃ」
 すかさずシゲが相槌を打つ。
「そうね、平太郎さんだよね」
 トクとシゲに後押しされて、平太郎は久留米絣同業組合の中に「久留米縞改良会」を立ち上げた。
「よいことを考えたね、平太郎さん。絣の人たちも、早く縞の悪評を払ってくれないと困るだろうから」
 縞改良会が発足したのが明治24(1891)年。平太郎の呼びかけに、多くの縞織り業者がすすんで参加した。彼らは連日会合を重ねて、意匠の改良や乱造防止など縞織りの進化を目指した取り組みを具体化していった。
 この日も平太郎が、真剣勝負の表情でやってきた。
「久留米で縞を織る者が130人(軒)にもなったとです。生産高も、5年前まで6万反だったものが、今じゃ20万反(年生産高)に届きそうですけん」
「それで・・・」
「ここらで縞織業者は、かすり組合から独立ばしようと思うとります」
「それは、縞織業者がかすり組合と張り合うということ?」
「そうじゃなかとです」
「縞織りの人たちに、かすり組合から独立してやっていける実力があるのかしら?」
 この頃では、平太郎が持ち込んでくる計画に素直についていけない自分を、惨めにさえ感じているトクである。宗野末吉がそばにいたら叱られそうだが、やっぱり自分は弱い女なんだと考えこんでしまう。平太郎が縞織業者の絣同業組合からの独立を言うのは・・・。
 縞織業者が製品の改良を主張しても、かすりとはもともと色糸の配合や意匠の考案などがまったく異なる織物である。加えて、組合への出費はかすりも縞も同じ額なのに、使われる金はかすりに偏ることに。そして何より、人的構成で、先輩格のかすり業者に縞業者が従属するありさまでは、今後の発展が望めそうにないということだった。
 トクは、若い平太郎の熱弁に押されっぱなしであった。彼の言葉も歯切れがいいし、流行語や業界用語など、トクが知らない事柄がどんどん飛び出してくる。
「私には、組織がどうだとか、工場がどうだとかわからないことが多過ぎるわ。平太郎さん、これからはあなたたちの時代ね」
 こんな形で若い弟子の意見に従うのが精一杯だった。


縞織の拡大写真

 久留米絣同業組合から独立して「久留米縞同業組合」を立ち上げた大石平太郎は、事務所を苧扱川(現本町5丁目)の店の近くに置いた。明治25(1892)年の梅雨時であった。トク55歳、娘の浅乃は18歳になっていた。はた屋の後継者として考えている浅乃だが、尋常小学校を卒業するあたりから元気が薄れ、この頃では体の痩せ方と顔色の悪さが気になっている。それでも販路を全国に広げてからは、水道町の作業場の大忙しは増すばかりで、娘にかまっていることを周囲が許してくれない。
 平太郎らが打ち出した組合の政策は、まず原料の糸染めを一元化することであった。間もなく、組合内に色染めの作業場が完成した。それからは、織屋が使う原糸は組合で染めたものに限るということになった。
 最近では縞の種類も豊富になって、瓦斯糸縞(がすいとじま)・綾地織(あやじおり)・畦織(あぜおり)・並縞(なみじま)などさまざまである。原料と織柄が複雑になった分、1反あたりの価格の幅も広がって、当時80銭から1円20銭といったところが小売相場であった。
 
娘の死

 ウメの息子の正敏が水道町の作業場に駆け込んできた。
「大変だよ、浅ちゃんが・・・」
 後は言葉にならない。正敏の慌てように、トクはただならぬものを感じて駆け出した。
「血を吐いたんだよ、洗面器いっぱいに」
 日吉町の家まで急ぐ間に、正敏は息を切らせながら説明する。たかが7町足らずの距離が、トクには10里にも感じられた。
「浅乃、浅乃」
 どんなに叫んでも、娘は固く目を閉じたままである。
「今朝からご飯も食べずにいるものだから心配していたのよ。昼過ぎになって正敏が見に行ったら、うつ伏せの状態で血を吐いていた」
 ウメがとり急いで経過を告げた。
「目を覚ましてよ、浅乃。お願いだから、目を開けて」
 トクは娘の体を揺すり続けた。トクの願いも空しく、浅乃はその日のうちにこの世を去った。18歳という短い人生だった。通夜に集まった客は、トクのうなだれた様子に、慰める言葉も失っていた。
「元気を出してよ、トクさん。あんまり自分を責めんで」
 葬式以来部屋に閉じ籠りっきりのトクに、シゲが声をかけた。
「いくらはた織りが好きだからって、子供の命より大事なわけがないのにね」
 やっと出たトクの言葉は、やはり自分を責め立てるものだった。
「トクさんが付きっ切りで浅ちゃんの面倒を見ていたとしても、あの病気に取り付かれたらどうにもならなかったと思うよ」
 不治の病と言われた肺の疾患が、母親も気づかない間に娘の体を蝕(むしば)んでいたことをシゲは言っている。
「そうじゃないの。例え短い命であっても、せっかくこの世に生を受けたのだから・・・」
 そこまで話して、もう次の言葉が出てこない。トクは親の愛を十分に受けられなかった娘に、先に逝った徳三の分まで謝りたかったのである。
「トクさん、あんたが元気を出してくれないと、作業場の娘(こ)たちの仕事もうまくいかないよ」
 言い残してシゲが去った後も、一人繰言(くりごと)ばかりだった。
「毎日泣いてばかりというじゃないか。これじゃ、せっかくのトクちゃんの才能も駄目になってしまうが」
 庄兵衛は、相変わらずのだみ声でトクと向き合った。
「もういいんですよ。1人しかいない子供が死んでしまえば、私がはた織り稼業をやっていく意味もないのだから」
「そげな弱気でどげんするとか。わしは、どげな逆境にでん負けんトクちゃんが好いとるとばい」
 庄兵衛は、落胆し通しのトクを立ち直らせる術(すべ)が分からないままでいる。
「でも、おじさん。これ以上縞を織って稼いでも、そのお金を何に使うというのです? 貯まったお金を誰に残しようもないわ」
 トクには庄兵衛の慰めが煩(わずら)わしかった。
「トクちゃんがそげん情けなかこつば言うとは思いもせんじゃった。小川トクが織る縞は、そげん安っぽかもんじゃったか」
「・・・・・・」
「よかか、トクちゃん。あんたが創りだした双子縞がどうしてこげん評判ば呼んだか、ようく考えてみることたい。どげな不景気の時でも、久留米縞ば買うてくれる人がおるのはどうしてか。それは、糸入り(木綿糸の中に絹糸を混ぜて織った織物)の地糸に唐糸ば使うという、トクちゃんでしかできんかった独特の織物じゃったからじゃろうが。安うて丈夫で洒落(しゃれ)とるトクちゃんの縞じゃったからじゃろが。トクちゃんの縞織りに対する情熱が高機ば作り、トクちゃんでしかできん柄も創り出してきた」
「でも・・・」
「黙ってしまい(終わり)まで聞かんか。トクちゃんが久留米に来て、縞織りにこだわった最も大きか理由(わけ)は何じゃったか、もう一度じっくり考えるこつたい」
「それは、知らぬ他国で食べていくために・・・」
「それもあったろう。ばってん、もっと・・・」
「ほかに何があると言うんです?」
「伝さんたい。井上伝が織るかすりば見て、やる気ば起こしたとじゃなかったね。一日にいくらも織れん複雑なかすりば見て、あんたは、貧乏人でん買える安うて上品な反物ば織ろうと考えた」
「・・・・・・」
「トクちゃんが縞ば織るのは、何も自分が食うためだけのものじゃなかったはずたい。まして、娘に財産ば残そうとして始めたもんでもなか。そうじゃろう、トクちゃん」
 歳の功とでもいうのか、20歳年上の庄兵衛の一言一言が、トクの胸を打つ。
 浅乃の遺骨は、梅林寺のトクの生前墓に合葬された。トクのたっての願いに、大石平太郎らが納得したためであった。
 墓石の表には、次のような文字が書き加えられた。
小川トク娘浅乃の墓
法名 麗顔院智鏡妙相信女
明治二十五年九月十三日死去 行年十八歳
「これからは、ずっと母さんと一緒だからね」
 毎日通う浅乃の墓に向かって、トクは張り裂けるような思いを伝え続けた。
 
商店から会社へ

「近かうちに、清国(しんこく)との戦争が始まるげなよ」
 シゲが昨夜亭主から聞いたという話を持ってきた。徳川時代末期の京都・江戸での騒乱や西南の役など、日本国内での壮絶な戦いを目の当たりにしてきたトクには、戦争と聞いただけで嫌悪感が走る。お国の都合で人の命が簡単に奪われることが、どうしても理解できないのである。
 明治27(1894)年。朝鮮半島で農民による反乱が起こったのをきっかけに、日本と清国との戦争が勃発した。いわゆる「日清戦争」である。
 近代的な軍事力を有して圧倒的に優位に立つ日本は、わずか8ヵ月の戦いで清国軍を打ち破った。日本政府は、間を置かずして、九州北部に大規模な軍事力を配備した。久留米には、第四十八連隊が置かれた。明治維新直後に城下町から商業都市に姿を変えた久留米の町は、この時から軍隊(陸軍)との共存関係の道を進むことになる。
 イギリスの産業革命から遅れること100年余り。明治22(1889)年からの10年間で、国内の綿糸生産が11倍にも伸びた。明治28(1895)年にいたっては、久留米絣の年間生産高だけでも、80万反を突破したのである。
 製糸業も同じ10年間で約2倍の生産増をなした。機械による製糸の生産高がそれまでの座繰り式製糸を上回ったのが明治27年で、その頃から各地に大規模な製糸工場が建設された。工場で大量生産された生糸は、フランスやイタリアなどそれまでの主要生産国を押しのけて、アメリカやヨーロッパ各国にも盛んに輸出されるようになった。
 機械化が進んだのは紡績や製糸業だけではない。絹織物・綿織物・製紙・製糖など、軽工業部門でも着実に近代化が進んでいった。とりわけ綿織物では、明治30(1897)年に豊田佐吉が考案した「国産力織機」が、それまで農村で行われてきた手織り機械による問屋制家内工業生産を、工場制機械工業による小工場生産に転換させることになったのである。

「トクさんによか知らせばもってきたですよ」
 また大石平太郎である。
「何事なの、今度は? まさか・・・」
「その、まさかかもしれんですよ。縞の同業組合で、トクさんば特別に表彰することになったとです」
「今さら小川トクでもないでしょうに。お伝さんと小川トクでは格が違い過ぎるわ。それに、伝さんは、とっくに亡くなった方よ」
「そうじゃなかですよ。縞の同業組合が、福岡県の重要物産組合に指定されたとです。そこで組合として、優秀な織工を表彰することにしたとです。ばってんその前に、トクさんの功績ば称えなきゃならんということになって・・・」
 今回の褒賞の件は、必ずしも平太郎だけの思い付きでもなさそうだ。100軒を超す縞織り業者のすべてが、何らかの形でトクの影響を受けている。だが、中には金儲け主義から縞織の技術を軽視する者もいて、このところのトクは、組合との間に距離を置いている。
「でも、久留米の縞織りはトクさんがいなければなかったことですけん」
 平太郎は、トクが築いた縞織産業にもっと自信を持つよう説いた。久留米縞同業組合が小川トクに贈った褒賞状には、次の文言が記された。

「久留米市庄島町(現荘島町)小川トク殿は、我久留米縞の泰斗(たいと)(その道で世人から最も仰ぎ尊ばれている権威者)にして、夙(つと)に多数の織工を養成育掖したる功実に顕著なり。其の今日の盛あるのも一に君の賜と云う可し。本日織工の技能を彰揚するにあたり、君丕績(おおせき)を追想し茲に君の芳名を永遠に保存することを記録するもの也」明治27年5月
 
 最近の庄兵衛は、トクの作業場に来ても機嫌が悪い。
「庄平の奴、わしのことを、石頭の頑固親父だと言いよる」
「それはまた、どうして?」
「わしがここまで大きゅうした本村商店ば、根本から変えると言いだしおった。それは駄目ち言うたら、今度は石頭ときた」
「庄平さんは、お店をどんな風に変えると言うのです?」
「本村商店ば会社にするとげな」
「会社に?」
 トクには、会社と言われても、それがどんなものかすぐには理解できない。
「金持が資金を出しおうて会社ばつくり、そこで儲かった金ば、出資してくれた人に配るという仕組みのことたい。それにもう一つ。この頃では、庄平の奴が魚喜の喜次郎と仲が悪うなってな」
 同じかすり売り仲間の本村庄平と国武喜次郎が、何かにつけて競争意識をむき出しにしていると言う。
「庄平さんと喜次郎さんの2人で、久留米のかすりと縞の大半を売捌(さば)いているのですからね」
「それだけならよかばってん・・・。同業組合の組長と副組長の人選ばめぐって、どっちも譲ろうとせん。それぞれの奉公人が、町の中でむき出しでいがみあっとるとたい。これには、両方の店と付き合ってきたはた屋たちもほとほと困ってな。久留米の町が二つに割れたごとあるとたい」
 両人の勢力争いはますます激しくなっているらしい。本村庄平は、間もなく久留米市内に「絣工場本村合資会社」を設立し、この地方では真っ先に個人商店から会社組織へと変貌させた。
 庄平の商売の意欲は、養父の思惑を遥かに越えて、次々に工場を広げていくことになった。資本金を倍増して工場を拡大し、新しい技術の導入に走った。
 その時、庄平が導入したのが「経絣速括機(たてかすりそくくくりき)」であり、「本村式吉野機」と「縞足踏み機」と呼ばれたものであった。
「もうわしなんか、何の役にも立たたんごとなった」
「私の縞織りも、大きな工場の機械の前には太刀打ちできないわね」
「これからの時代は、若か連中のもんたいね。庄平も、槌屋(つちや)の雲平も、喜次郎も。あいつらまだ若いと思っておったが、いつの間にか店も町も仕切るごとなっておる」
 本村が走れば国武喜次郎も負けてはいない。国武は、松ヶ枝町にも新しい工場を建てて70数名の織工を雇い入れた。長男の金太郎には、「特許絣合名会社」の工場を持たせ、当時大変珍しがられた石油発動機を導入した。また、売り出されたばかりの「豊田式織機」も導入した。喜次郎は、その後も荘島町に二階建ての洒落(しゃれ)た工場を建て、その場所を「国武丁」と呼ばせるに至ったのである。


明治40年代の久留米絣工場

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