第5章 二タ子織の記憶
高機と投げ杼
トクは、井上伝の作業場を覗いた数日後に、本村庄兵衛の店を訪ねている。間口の広い店の暖簾(のれん)をくぐると、そこには種々の反物が不規則に積み上げられていた。庄兵衛は珍客到来とばかりに、いつもは商談に使う奥の応接室に案内した。
通町にあった本村木綿織物商店
「関東から来たと言うとったない。あちらは、むかしから木綿織が盛んだそうじゃが、生まれたところもそのへんかい?」
庄兵衛がいきなり織物の話を始めた。
「私が生まれたのは、武蔵国(むさしのくに)の宮ヶ谷塔村というところです。それにしても詳しいですね、おじさんは」
「それはそうくさ。こげん見えても、わしは木綿ば売るあきんどじゃけん」
自慢しながら立ち上がった庄兵衛が、棚から商品の反物を取り出してきた。
「きれいですね、どれも。でも・・・」
「でも、何?」
「かすりはきれいですが、あの織り機であの織り方では、1日にいくらも織れないでしょうに?」
トクは、井上伝の作業場で見た、娘たちの窮屈そうな姿勢でのはた織りの感想を述べた。
「織り手はいくらでもおるけん。百姓家では、手間賃稼ぎに嫁さんとか娘さんが織ってくれるとたい」
「それに・・・」
「言いたかことがあるなら、みんな言ってしまわんかい」
このような時の庄兵衛の癖らしく、キザミタバコをキセルに詰め込む動作が早まった。
「杼(ひ)ですよ。あのように大きくて重たいものだったら、持ち上げるだけで疲れてしまいませんか」
「・・・・・・」
また、二人の間に沈黙の間が置かれた。次に言葉を発したのもトクだった。
「私が娘時代に使っていた織り機と投げ杼(なげび)を使えば、こちらの2倍は織れますよ」
「ほほう、武蔵の織り機ちはそげん立派なもんかい」
「第一、腰かけて織りますから、踏木も楽に動かせます」
「それで、トクちゃんが使うとった投げ杼ちは?」
「こちらのより、もっともっと小さくて軽いものです。女でも簡単に送れます」
話し始めたトクは、少しずつ10年前の記憶を引き戻している自分に気がついて、心地よさを覚えていた。
井上伝が愛用した杼(左)と現代の投げ杼(右)
気づかぬうちに、庄兵衛のトクに対する呼び方が「あんた」から「トクちゃん」に変わっている。
「これからの織物は、もっと多くのみなさんに喜んでもらえるものでないと」
トクの口も、ふるさとでの縞織りに話が及ぶと滑らかになった。
「トクちゃんが言う、みんなが喜ぶ反物ちはどげなもんかな?」
庄兵衛も、トクとの縞織り談議に興味が増してきたようだ。
「それは、金持ちだけじゃなく、お百姓さんも職人さんも奥さまも、みなさんが普段着として愛着が持てる生地を織ることです。女の人が着るものは、もっと上品に仕上げなきゃ」
話しながらトクの脳裏では、宮ヶ谷塔での高機(たかばた)や織り上がる縞柄模様の記憶が交錯している。
「江戸の方では、絹糸と唐糸(からいと)(洋糸=輸入綿糸)ば使うた二タ子縞(ふたこしま)ちいうもんが流行(はや)っとるそうじゃなかか」
トクが驚きの声を発しそうになった。
「とくちゃん、二タ子縞がどげんかしたとか」
「私、その縞の端切(はぎ)れを持っています」
「本当かい、どうして? わしも本物を見たかもんたい」
トクは、清吉の母親からお守り代わりに貰った端切れのいきさつを語った。
明治20年代の双子織
「トクちゃん、生まれ故郷で覚えた縞織りばやってみらんか。二タ子縞が久留米でも織れたら、よか商いになるたい」
突然縞織りを商売にしてみろと言われても返事に窮する。
「ほんの二月前まで、織物とはまったく無縁の江戸のお屋敷にいたんですよ。それに、つい数日前に筑後川を渡ってきたばかりの、他国の女です。そんな私に、10年もの間触ったこともなかったことをやれと言われても無理です」
「そげなことはなか。今も10年前の話がすらすらと出とるじゃなかか」
言われてトクは、自身の顔が火照(ほて)っていることに気がつき、思わずうつむいた。
「二タ子縞と言われても、見本は田舎のおばさんに貰った端切れが1枚あるだけです。それだけで、江戸で流行っている縞織を再現できるとも思えないし」
正直、トクは迷路に入り込んだ気持ちであった。
「はた織りばしたかとじゃろ、トクちゃんは。武蔵流の縞織も、織り機さえあれば出来るくさ。二タ子織に必要な絹糸もやがて解禁されるじゃろうし、唐糸(輸入糸)だっちゃ探せばどこかにあるはずたい」
「二タ子縞に使っている唐糸って、どのくらいの太さかしら」
「そげなことは、調べりゃすぐわかることたい」
「宮ヶ谷塔で使っていた織り機といっても、頭の中にあるだけで・・・。縞の図柄だって、描けと言われても描けないし・・・」
「慌てんでもよか。じっくり思い出しながらでん・・・」
「私が織ったものを、他人(ひと)さまが着てくれるかしら?」
「おいおいトクちゃん。この庄兵衛さんば軽く見てもらっちゃ困るばい。これでもわしは、ちっとは名の知れたかすり売りじゃけんな」
庄兵衛があきんど仲間から聞いた二タ子織の材料は、唐糸(輸入糸)の20番前後の太糸であることが分かった。
あきんど躍動
トクが久留米に落ち着いて、3年が経過した頃。
「おばあちゃまが大変!」
おモトが別棟のトクの部屋に駆け込んできた。急ぎ座敷に上がった時、摂子の容態は末期(まつご)だった。
「お父さまは、まだお役所なの?」
「知らせは出しましたばってん」
覚左衛門が再婚した相手のかなえが、小さな声で答えた。かなえは商家の出ながら、武家に馴染もうと懸命である。1とき(2時間)ばかりして覚左衛門が帰ってきた。
「母上、しっかりしてください」
息子に抱かれても、摂子に何の反応もない。ウメが連れてきた医者が、力なく首を横に振った。
「これから、母上に孝行をしたいと思っていたのに」
覚左衛門は、冷たくなりかけた母の手を握りしめたまま声を振り絞った。5歳に成長したおモトは、「おばあちゃま、おばあちゃま」と泣き叫ぶばかり。その時、家の外にも新廓の住民が押しかけて、江戸以来の付き合いだった摂子に別れを告げた。
「奥さまには、何も分からない私に、たくさんのことを教えていただきました。堅苦しい武家の世がお嫌いだった奥さまは、これからが本当の幸せをと願っておられたのに・・・」
僧侶が枕経を終えて帰った後、トクは仏に語りかけるように呟(つぶや)いた。その間も、かなえは、台所と座敷を行き来して客のもてなしに大忙しである。
明治4(1871)年7月の廃藩置県で、久留米藩は久留米県に変わり、更に4ヵ月後の11月には、三潴県(みずまけん)に改められた。
「江戸の上屋敷が、政府に召し上げられることになった」
洗濯物を干しているトクに、覚左衛門が声をかけた。
「お殿さまやお住居(すまい)さま(藩主夫人)は、これからどうなさるのかしら」
二十(歳)代のほとんどを江戸の上屋敷で過ごしたトクである。屋敷の主であった藩主夫妻の行方が気になる。
「政府は、これまでの江戸の屋敷を召し上げる代わりに、赤坂の薬研坂(やげんざか)にお屋敷をくださるそうだ。お殿さまは間もなく、お住居さまとご一緒にそこに移られるだろう」
藩主の生活の変貌とともに、久留米の町の様相も急変する。翌明治5年には、久留米藩の象徴だったお城や櫓(やぐら)が次々に壊された。町中に点在した家老の屋敷も取り払われ、城下と在(ざい)の境をなした番所(門)も姿を消した。この頃になると、生計のため夜店で声をからして客を呼び込む元藩士の姿を見ることも多くなった。
2000年代の日吉町
明治維新以後新政府は、「百事一新」とか「旧弊打破」を唱えて近代化政策を推し進め、欧米の新しい制度や知識を積極的に取り入れた。こうして、文明開化の風潮が日本国中に浸透していく。
国民が一様に使用する暦が、陰暦から太陽暦に変ったのもその頃である。明治5年12月3日を「明治6年1月1日」に改めて、「新暦」がスタートした。その明治6年は、地方都市久留米にとっても、歴史的な大変貌の年となる。
身近なところでは、住み慣れた新廓(しんくるわ)が侍小路(さむらいしょうじ)の十間屋敷(じゅっけんやしき)と合併して「日吉町」と名前を改めた。祇園神社のお旅所だった山王社が社名を日吉神社と変えたため、新町名もその名に準じたわけである
本村庄兵衛にはた屋開業を勧められて以来、やがて6年も経つのに、何一つ具体化していない。例え店を始めるにしても、何から手をつけてよいものやら見当もつかないでいる。
トクは気晴らしに街に出た。久留米で一番賑やかなところといえば、三本松町から原古賀(はらんこが)にかけての道筋である。三本松では、道の両側から気前のよい客呼びの声が聞こえてきた。町続きの苧扱川(おこんがわ)筋も同様だ。
店先に置かれた8角形の時計に人だかりが出来ている。時計は、大小の針が一時も休むことなく、「チックタック」と時を刻んでいた。
「ただ今は、午後の3時15分たい」
和服に西洋風の帽子を被った紳士が、隣の女性に時計を指差しながら教えた。店の軒先には「御時計師」の看板が。
「ひょっとして、トクさんじゃなかね」
突然店の中から図太い男の声が迫った。この土地で、そんなに親しく声をかけてくれる人などいるはずもないのに。
当時の和時計
「江戸のお屋敷で会うた、ほら、大工の末吉たい」
前掛け姿で草履を突っかけて表に出てきた男の顔を見て、思い出した。
「ああ、水天宮さんでお会いした、あの時の・・・」
「そうたい、あの時の宗野末吉たい」
「大工さんが、なんでまた・・・」
言いかけて、トクは思い出した。あの時末吉は、西洋時計に興味を持つ殿さまから大変可愛がられていると言っていた。参勤交代のお供をして江戸に上がったのも、時計好きの殿さまに言いつけられてのことだとも。
「トクさんと別れた後横浜に行って、西洋人の時計師に弟子入りしたと」
末吉とトクが立ち話をしているところに、店の中から女が出てきた。
「中でゆっくり話しばしなさらんですか」
女房のマツ子だと末吉が紹介した。
「この時計は、アメリカ製の6インチ(約15a)もんたい」
末吉が、8角時計を手にとって、自慢げに説明した。
「大工の棟梁が時計屋さんになるのって、大変だったでしょう?」
トクは、末吉の決断した動機を聞きたかった。
「それほどでもなかよ。運良くと言えばお殿さまに怒られるばってん。時代が変わってお抱え大工も要らんごとなったけん。去年の暮れに、これまでの暦が変わったろう。季節が変わる度に針ば調節する日本式の時計から、ネジだけ回しとれば済む西洋時計に替った今が、時計屋になるよか機会ち思うただけ。お殿さまのお陰で、横浜で習うた技術が役に立つ」
末吉の言葉に澱(よど)みはない。時代を先取りして、新しい商売を興そうと考えた末吉の決断には恐れ入るばかりであった。
「やっぱり男の人は偉いね」
「これからは、何かをやるのに、男もおなごもなかばい。それより、トクさんこそ、なして久留米におると?」
「どうしてこんなに遠いところまでやって来たかって? これまた理由(わけ)あってさ」
江戸から300里も離れた九州での再会である。幼馴染(おさななじみ)のような気がして、トクはその後のことを話した。
「トクさんは、はた織りが好いとるち言いよったね」
「そうなの。通町の松屋のおじさんが応援してくれるって言ってくれるから、もう一度縞織りを始めることにしたわ」
「そんならトクさんに、よか男ば引き合わせるたい」
末吉は、相手の返事も聞かずに立ち上がった。末吉とトクは、先ほど通った三本松の賑やかな場所に戻ってきた。
「あそこに見ゆる大きか呉服屋が荒甚さん。三本松でも一番の老舗ばい」
そんな古い店に混じって、木の香が漂う出来たての店も目立つ。末吉に連れて行かれたところは、三本松町筋から少し入った米屋町の小さな店だった。表の看板には「槌屋(つちや)足袋店(たびてん)」とあり、足袋を作って売る店だとすぐわかった。
「雲平さん、おるかい」
末吉が気安く声をかけると、前掛け姿の男が出てきた。見たところ末吉より5〜6歳年下のようだ。
「こん人は倉田雲平ちいうて、足袋作りば天職ち思うとる男たい。ご維新前にはお城に上がって裁縫師(さいほうし)ばしとったげな。なかなか頭が切れるし、何といってもよう働く」
「それほどでもなかですよ」
末吉に紹介された雲平が、湯飲み茶碗を無造作に差し出した。
「裁縫師がなんで足袋作りを・・・」
男二人の中に割り込みたくて、トクが雲平に尋ねた。
雲平は、自分に向いた仕事を見つけに長崎まで行って修業を積み、7年かかってようやく足袋屋の開業にこぎつけたのだと言う。
創業当時の槌屋の看板
「偉いわね。子供の頃からいろんなことを考えたり、仕事したりしてきたのね。女の私にはとても真似できないわ」
「また女か。トクさんの悪か癖ばい。これからの世は、男もおなごもなかち、先ほど言うたばかりじゃろうが」
末吉が立ち上がりながら、トクの言葉を諌(いさ)めた。
「またお邪魔してもいいかしら。もっとあなたの話が聞きたいわ」
お世辞ではなく、トクは目の前の若者なら、商売人になるための心構えを教えてくれるような気がしていた。
愛娘誕生
シゲがトクに再婚話を持ってきた。相手は吉開徳三で、亭主の同業者だと言う。主人の覚左衛門が再婚したことや、これからの暮らしのことを考えると、ここらが戸田家と距離を置くよい機会だと考えるトクは、結婚話を受けることにした。
結婚した後、トク夫婦は戸田家から目と鼻の先の裏通りに家を借りて新生活を始めた。今井家で女中をしていたウメも前後して結婚し、これまたトクの隣の家に引っ越してきた。
1年たつと、トクに女の子が生まれた。「浅乃(あさの)」と名付けた。徳三もたいそう可愛がったが、生来の大酒飲みが禍(わざわい)して、間もなく他界する。
「よくよくあたしには男運がないんだね」
徳三の四十九日も過ぎた頃、ため息混じりにトクがウメに語ったことである。
「トクさん、これからが人生の本番だよ」
ウメがいつになく声を大きくした。
「あんたには浅乃ちゃんがいるじゃないの。旦那はいなくても、その形見がいれば十分だよ」
現在の日吉町界隈
今では、ウメはかけがえのない隣人であった。
「そうだね、私には浅乃がいるもんね。それに・・・」
「それに?」
「むかし取った杵柄(きねづか)と言うじゃない。縞織りの目途(めど)も少しずつ立ってきたし」
トクは、強がりを言って後ろ向きの自分を隠した。
「お母ちゃんは頑張るからね。お前も早よう大きゅうなって、お母ちゃんのお手伝いをしてね」
片言しかしゃべれない娘に向かって言い含めた。本村庄兵衛に勧められたはた屋開業を直前にした頃である。
トクは、このところ本村庄兵衛の店を訪ねることが多かった。開業に向けて、準備の手はずを教わるためである。出かける時はいつも浅乃を背負っている。
「庄平の奴、かすり売りに自信ばつけよって。草鞋(わらじ)に脚絆(きゃはん)と照降傘(てれふれがさ)ば持ってっさい。九州から四国、中国方面までも回っとる。今度は京都とか大阪にも乗り込むげな」
庄兵衛が養子息子の話をする時は、額に何本もの皺(しわ)を彫って嬉しそう。トクは、店のために助けあえる身内がいる庄兵衛親子が羨ましかった。
「槌屋の雲平さんって、これからどんな足袋屋さんになるのかしら。それに、時計屋の末吉さんも・・・」
「あの二人ね。魚喜の喜次郎とうちの庄平を加えて、これからの久留米ば背負うていくあきんどたい。トクちゃんも負けんごつ、こうと決めたらすぐ実行に移さにゃ。後のことば心配しとったら何もでけん」
「でもね、仕事がうまくいきかけると、すぐこの子がぐずりだすのよ。やっぱり女が仕事をすることって無理なことですかね」
時計屋の末吉が聞いたら怒られそうな言葉をまた吐いてしまった。
宗野時計店のあった場所(本町)
「そのうち、浅乃ちゃんが仕事ば手伝うようになるくさ。赤ん坊のお守りも,はた屋開業に向けた準備の一つち思えばよか」
庄兵衛も、赤ん坊との二人三脚で行くようにと励ました。
「ご維新後、久留米の町には、徳川さまの世では考えも及ばんかった店がどんどんでけよる。あの人たちは、失敗したらどげんしようなんて考える暇もなかち思うよ」
庄兵衛が言うように、明治5年から6年にかけての久留米の町には、新しい時代の風が吹きまくった。文明開化の波が、東京から遥か離れた九州の久留米にも確実に及んでいる。
原古賀に牛肉店や西洋料理の店が開業。庄屋の息子赤司喜次郎は植木屋「広楽園」を開業し、久留米つつじを世界に向けて普及させていく基礎を築いた。呉服町では中村勝次が写真館を、野村生助は長崎に次いで九州で2番目の活版印刷所を開設した。これまで出番を窺(うかが)っていたあきんどの雛(ひな)っ子たちが、一斉に飛び出した時期である。
「お武家さんの時代が終って、あきんどの世の中が来たちいうことたい」
庄兵衛は、右手の指を折りながら新しい店の一つ一つを数え、間接的にトクの前進を促した。
名大工の亀さん
久留米のあきんどたちは、かすりの販売先を九州全域から全国へと拡大していった。彼らが販路を広げた分、織物に不可欠な原糸が不足する。
「縞織りば急がにゃない」
この時期、久留米で絹糸入りの布着用が許された時期とも重なっている。庄兵衛は、トクが織ろうとする二タ子縞が、木綿の他に絹糸や唐糸(輸入糸)を使うことに注目している。木綿糸しか使わないかすりの生産が需要に追いつかなくなった今こそ、トクの出番だと考えるからだ。
久留米地方の高機(地場産くるめ展示)
あのいざり機では、織り手の疲労だけではなく、片手で投げる杼が使えない。宮ヶ谷塔時代の織り機がどんなものだったか。頭の中には浮かぶのだが、それを口に出して誰かに話すことができない。庄兵衛の前では偉そうなことを言ったものの、娘時代に使っていたあの高機(たかばた)の仕組みがどうしても思い出せないでいる。
トクのイライラは募るばかりであった。
「浅ちゃんは?」
座敷の陽だまりで考え込んでいる時、いつ現れたのか、シゲがそばに座っていた。
「おウメさんに見てもらっているわ」
トクの肩を、シゲが揺すった。
「はた織り機械のことで悩んどるとばいね。そんなの一人で考え込んでもしようがなか。うちに任しとかんね」
シゲはトクを蛍川(明治6(1873)年に「鉄砲小路」から町名変更)に建つ自宅敷地内の、亭主の作業場に連れて行った。亭主の名前は亀吉。「亀大工」の通称で知られている大工である。
亀吉は、事前に何も聞かされていないらしく、木の香が強烈な角材に腰を下ろした。だがすぐにトクの話を遮った。
「それは、いくら何でも無茶ばい。奥さんの頭の中にある図面どおりに物ば作れるわけがなか」
そこで、シゲの顔面が険しくなった。
「うちの亭主がこげん情けなか男ちゃ知らんかった。話もろくに聞かんで初めから逃げ出すちは、大工の風上にも置けん男ばい」
シゲの大声に、背中の赤ん坊が両手をバタバタさせて泣き出した。
「ほうらね、子供でん、こげん情けなか親父(おやじ)に愛想ば尽かして泣きだしたろうが」
シゲのとばちりは、少々のことでは収まりそうにない。
「あのう、織り機の方は・・・」
トクは待ちきれずに、亀吉に向いた。
「すまん。こげなババでん、出て行かれちゃ困るもんで。しようがなか。それで、俺に何ばどげな風に作って欲しかと?」
「そうこなきゃ」
亀吉が折れると、シゲは何事もなかったように母屋に消えた。それからというもの、トクは浅乃をウメに預けたまま、亀吉の仕事場に通い続けた。
「あっ、そこは違う」の連発に、削ったばかりの木材を台無しにしてしまう亀吉もうんざり顔。
「勘弁してくれんね。俺には奥さんの注文は難しか」
亀吉が弱音を吐くと、シゲが飛んできて睨みつける。10日間の試行錯誤で、高機(たかばた)の試作品が出来上がった。
発明家の近江さん
亀大工に作らせた高機が一応の完成をみたものの、先はまだ長い。次には、太くて不揃いの手紡糸(てびきいと)を管に巻きつけて捻(ひね)る道具が必要となる。久留米の市内を見渡しても参考になるものはどこにも見つからなかった。
「糸ば捻る機械ち言われても・・・」
亀吉の顔が、再びゆがんだ。
「紡いだばかりの糸では太さもばらばらだし、織り機にかけてもすぐに切れてしまうわ。しっかり捻って整った強い糸にしてからでないと、高機にはかけられないの」
「そげなこつば言われても、俺は発明家じゃなかし」
そこでまたシゲが亀吉に噛みついた。
「他の大工ならいざ知らず、出来んことばでくるごとするのが亀大工じゃなかか。この脳なし」
女房にそこまでこき下ろされては亀吉の堪忍袋も限界らしく、持っていた金槌を振り上げた。
「ちょっと待てよ。ここは10丁目の近江さんに相談してみるか」
往年の田中久重夫妻
振り上げた金槌を納めながら、亀吉がトクの顔色を伺った。「10丁目の近江さん」とは、通町で製造所を営む田中久重のことである。幼名を儀右衛門といい、通町10丁目のべっ甲細工屋の息子だった「からくり儀右衛門」のこと。
彼は、十代の頃に井上伝の絵がすり模様を創りだす、板締め機械を考案したことでも知られている。その後大坂から京都に出て、万年時計や無尽燈など数々の発明をなし、「日本第一の細工師」と称された。朝廷からは「田中近江久重」という立派な名前までいただいた。その後に招かれた佐賀藩では、蒸気船を造ったり精巧な大砲(アームストロング砲)も拵(こしら)えた。田中久重は、小川トクのはた織り機器に協力した後、再び東京に出て製作所を興し、現在の東芝の基礎を築いた。
トクは、亀吉に連れられて田中製造所を訪ねた。その時、久重の年齢は既に70歳を過ぎていた。
「捻(ひね)りながら糸を紡ぐ機械を作って欲しいのですが・・・」
流暢(りゅうちょう)な関東弁が気に入ったらしく、久重は早速帳面を取り出して、トクの注文を書きとめていった。
「亀大工の口利きとあっちゃ断れねえな」
久重は、注文を受けるとしばらく考えた末に、トクの頭の中の構想を文字と図面にした。そして出来上がった機械は・・・。
埼玉の八丁撚糸機
8本の管に巻かれた糸が、それぞれに分かれて框(わく)(糸を巻きつける器械)に巻きつき、框は100回まわると、「チーン」と鐘が鳴る。更に100回で、何反分の揚げはたができたかを知らせてくれる。トクが考えていた理想に近い機械が出来上がった。久重は、これを「揚げはた機械」と名づけた。埼玉で記憶している「八丁撚糸機(はっちょうねんしき)」に共通する機械である。
久重はトクに、3円の手間賃を請求した。未だ定まった収入のないトクにとって、3円は高価な投資である。米1石(10斗=180リットル)の値段が3円64銭の時代であった。
死んだ亭主が残したものは何もないし、女中奉公で頂いた給金の蓄えだけでは足りそうにない。そこで覚左衛門に相談した。
「トクに話がある」
覚左衛門は、トクが資金の相談をしたその日に、思いがけないことを言いだした。母摂子が亡くなったのを機に、元の藩主が住む東京に住居を移すと言う。もちろん、家族ぐるみの移動である。
江戸上屋敷以来十数年間、暮らしを共にしてきた覚左衛門やおモトとの別れであった。おモトは母親同然に育ててくれたトクとの別れを、涙を流して寂しがった。
「トクには、言葉では尽くせないほどに世話をかけてしまった。せめてもの報いと言っては何だが、この際近江さんへの手間賃を払わせてもらう」
間もなく、覚左衛門夫婦とおモトは、新廓の屋敷を後にした。トクなど思い出を共有する家族が、櫛原の渡し場まで送っていった。
田中久重の協力で、揚げはた機械が出来上がった夜、トクはなかなか寝付けなかった。何度も起きだしては、機械のあちらを眺めたりこちらを触ったりした。
機械が揃えば、次は縞を織るための糸が必要になる。特に、縞木綿を織るための絹の地糸は、未だ久留米では手に入りそうになかった。
「任しとかんね」
ここでもシゲのカオが役に立つことに。通町1丁目で古手屋(古着屋)を営む中島屋に連れて行かれた。主人の中島屋武助は、地味な店構えとは裏腹に、現在でいう総合商社の社長であった。
「わしも藩の軍艦ば借りて、日本全国に久留米のかすりば売ってまわったあきんどたい。久留米で特産品ば産み出す必要は、誰よりもわかっとるつもり」
中島屋は、太鼓腹を揺すりながら、沿岸貿易の面白話を披露しながら、肥後から絹糸を買い入れてくれた。
「あんたが考えとる手紡糸(ていと)じゃ、大き過ぎてうまくいかんと思うよ」と言い、唐糸(輸入した紡績糸のこと)の32番と22番は大阪から取り寄せてくれた。
織り機と原料の糸が揃ったところで、またもやトクの思考が行き詰った。
「中島屋さんに調達してもらった絹糸に、撚りを掛ける車も要るのよ」
相談されたシゲも、初めて聞くもので見当がつかない。
「任しとかんね、と言いたかとこばってん」
と返事を保留して出ていった。
「あったよ、トクさんが言う撚(よ)り掛(か)け車というもんが」
さすが、久留米を知り尽くしていると自慢するシゲである。早速トクを、町はずれの野中(町)の一軒家に案内した。応対したのは、最近親類筋を頼って京都から移り住んできたという元武家夫人であった。
「私には用のないものですから」と差し出された手紡車(いとぐるま)は、やはりトクの記憶に残るものに近かった。
「このままでは使えないわね」
トクは亀大工に、8本の糸が撚(よ)りながら管に巻きついていくよう指示して、「糸撚(いとよ)り車」を作り上げた。
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