ルイ14世が治めたパリは空前の毒殺ブームに沸いていた。そんなブーム、あってたまるかとも思うが、本当に猫も杓子も毒殺に明け暮れていたらしい。
(かなり大袈裟。詳しくはラ・ヴォワザンの項を参照せよ)
そんなイヤな時代のさきがけとなったのが、このブランヴィリエ侯爵夫人である。彼女こそ「ミス毒殺」にふさわしいが、そんなミス、あってたまるか。
(っていうか、ミセスだミセス)
後のブランヴィリエ侯爵夫人、マリー・マドレーヌ・ドーブレーは1630年7月22日、パリの司法官の長女として生まれた。美しい娘に育ったが、宗教心に乏しく、極めて多情だった。早い話がドすけべである。「告白録」によれば弟たちとも肉体関係があったという。21歳で侯爵家に嫁いでからも男漁りはやめなかった。
夫のアントワーヌ・ド・ブランヴィリエ侯爵にも問題があった。博打好きの遊び人で、妻のことなど顧みず、いつもフラフラと遊び歩いていた。夫人が不貞を働くのも無理もない。
夫人はやがてゴーダン・ド・サンクロワという不良将校に首ったけになってしまう。2人で大っぴらに社交界に顔を出すので世間は噂で持ちきりになったが、夫は全くへっちゃらで、相変わらず遊び呆けていた。ところが、司法官のお父上は娘の不貞に激怒して、勅令を出してサンクロワをバスティーユに投獄してしまった。
刑事政策の分野では「短期自由刑の弊害」が古くから指摘されている。つまり、短期間の拘禁は受刑者にとっても社会にとっても有害となる。受刑者は前科者のレッテルを貼られて社会復帰が困難となるばかりか、ムショで悪いことを教わってパワーアップして帰って来ることになりかねないのだ。サンクロワの場合がまさにそれだった。6週間後に釈放されたサンクロワはパワーアップして帰って来た。彼がムショで教わったこととは、毒薬の調合法だった。
色事に水をさされた侯爵夫人はサンクロワと共謀して、父親に死んでもらうことにした。しかし、その前に毒薬の効き目を実験しなければならない。侯爵夫人はパリ市立慈善病院を慰問すると、患者たちに毒入りの果実や菓子を振る舞った。少なくとも50人が犠牲になったとみられている。
以下は、うちの1人の検視報告である。
「死に至るまでの3日間、食欲を失い、痩せ細り、頻繁に嘔吐し、腹部の不快感を訴えていた。解剖したところ、胃と肝臓は壊疽を起こしていた。これは何らかの毒によるものと考えられる」
サンクロワが教わった毒薬の名は「遺産の粉」。乾燥したヒキガエルの粉末と砒素を混ぜ合わせたものである。ヒキガエルは別にいらんだろうと思うが、当時の人の感覚では毒薬とは黒魔術のようなものだったのだろう。とにかく、本番は実行されて、侯爵夫人の父親は苦しみながら死んでいった。
父親を殺した侯爵夫人は「遺産の粉」の名の通りに遺産を独り占めしたくなり、兄弟姉妹を次々と殺した。そして、サンクロワ以外にも愛人を次々と渡り歩いた。
やがて、自然の成り行きで、毒牙は夫にも向けられた。
ところが、ここで奇妙なネジレ現象が起きる。サンクロワはブランヴィリエ侯爵には死んで欲しくなかったのだ。そのワケは友情ゆえとする説もあるし、いや、それ以上の愛情ゆえ、つまり2人は男色関係にあったとする説もある。いずれにしても、侯爵夫人が毒を盛るとサンクロワが解毒する。毒を盛ると解毒する。毒を盛ると解毒する。こんないたちごっこが数年間も続いたというからお笑いだ。
結局、死んだのは侯爵ではなくサンクロワの方だった。毒薬の調合中、うっかりして毒を吸い込んだために死んだのだとも云われているが、侯爵夫人に一服盛られた可能性の方が高い。とにかく、自宅を捜索する警察は、こんな手紙が添えられた小さな木箱を発見した。
「この箱の中身は全てブランヴィリエ侯爵夫人の所有に帰すべきものである」
さて、その中身はというと、侯爵夫人からサンクロワに宛てた殺人計画36通と、前述の「遺産の粉」だった。用心深いサンクロワは、いざという時のためにすべて取って置いたのだ。
1676年7月16日、ブランヴィリエ侯爵夫人は斬首された上に焼却された。当時は死体を焼却することは死者に対する最大の冒涜だった。あのジル・ド・レでさえ焼却されなかったことを考えれば、彼女の存在が如何に背徳的であったかが窺える。
なお、ディクソン・カーはこの事件をモチーフに『火刑法廷』というミステリーを書いている。これを映画化したのが、名匠ジュリアン・デュヴィヴィエの『火刑の部屋』である。
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