展覧会の紹介
北海道立体表現展 | 北海道立近代美術館(札幌市中央区北1西17) 9月1日〜9日 |
いやー、楽しかった。
最近の美術館の展覧会って、がんばって楽しくしようとしたり、あるいは反対に、キュレーターがむずかしめの述語を使っていろんな作品をくくったりするじゃない。
これは貸し館だから、まあ美術館の展覧会とはいえないかもしれないけどさ、ほんとうにただ28人の立体作品が並んでるだけなんだ。それも具象の彫刻はほとんどなし。でも楽しい。べつにわかんなくても楽しい。これって、何なんだろうって思う。
道内の彫刻家や立体作家が集まった展覧会の第1回。
28人もいるわりには、けっこう広々としてるし。大作が多い一方で、案外小さな作品を出してきた作家も多く、つりあいが取れている。
で、これは答えになってないと思うけど、作品の特徴として、インスタレーションとまではいかないけどさ、内側に入ったり、横から見たり、自由な角度から鑑賞できるのが多い。これは作品が、そういう自由な鑑賞をこっちに促すんだな。
藤本和彦「思慮」は、この冬芸術の森美術館で開かれた「北の創造者たち」展の出品作をさらにでかくしたような格子状の作品なんだけど、風通しはぐっと良くなってるんだよな。内側と外側、ということを考えさせるんだったら、芸術の森のときよりこっちの方がいいと思う。檻って感じとも違うし。
阿部典英の「ネエダンナサンあるいは壇」も、ひな壇の周りをついぐるぐる回ってしまう。
ワインの樽片をバランスよく組み合わせて、実に見事に動きを表現している中江紀洋の「湿(略奪された時間)」もしかり。
もう一ついいこと。あんまりよく知らない作家の作品を知ることができたこと。
会場でちょうど仕掛け人の阿部典英さんに会ったから聞いてみた。どういうきっかけで始めたんですか?
「オレたちが若いころは、本田明二さんとか本郷新さんとかから話を聞く機会があったりして勉強になったけど、最近は『個』の時代だからあんまりそういうことってないじゃない。でも、いろんな世代の人間が会ってみる場は、あっていいと思うわけ。実際、この展覧会で初めて会って『いやー、作品を見て前から会いたいと思ってたんです』なんて例もあるしね」
そうなんだ。たとえば渡辺潤。筆者はぜんぜん知らなかったぞ。道内ではほとんど発表してないみたいだ。松井茂樹も、「でんそん展」くらいでしか見た覚えがない。若手なんだけど、いい仕事をしている。野村裕之、伊藤隆弘も、全道展で入賞してるクラスの若い作家だ。
あるいは、大滝憲二。近年はほとんど平面の仕事をしているが、昔はこういう仕事をしていたのだ。ふむふむ。
ほかに記憶に残った作品をいくつか挙げると、小石巧「ゆたかな海」は木の質感を生かした造形もさることながら、木のにおいがとてもいい。製材所の前を通ったときみたいに、いい気分だ。
主に埋もれ木を用いてきた岡沼淳一「ホールディング」は、作品表面を黒く塗っている。これは筆者の知る限り初めてのことであり、今後どうなってゆくのかなあ。
山田吉泰「記憶の標2001」は、レリーフ状の作品を二つ組み合わせた大作。ほとんど抽象なのだが、風の通った跡を思わせる造形が、なにやら鎮魂の歌のように、見る者に響いてくる。
願わくば、今後二度三度開くにしても、出品者が固定して、堅苦しい展覧会にならないことを祈りたい。ゆるーい集まりであってほしいのです。
出品者は次の通り。
阿部典英、荒井善則「11脚の椅子へのソフトランディング」、板津邦夫「風化された記憶」、泉修次「九つのエレメントによる均衡」、伊藤隆弘「存在の考察」、大滝憲二「放材」、岡沼淳一、柿崎煕「林縁から-祝祭」、川上りえ「転換」、小石巧、佐々木けいし「掻」、鈴木武子「Woman2001 可能性を秘めている」、高橋昭五郎「響水」、中江紀洋、中嶋貴将「「熱変」より」、楢原武正「大地/開墾2001-9」、韮沢淳一「石脳ネット」、野又圭司「天国ブロック506ピース」、野村裕之「箱庭」、平田まどか「秋場所・2001」、藤井忠行「相似T」、藤本和彦、堀木淳平「ドロシーのカタパルト」、松井茂樹「触覚」、山田吉泰、吉田茂「階段のゆくえは」、渡辺潤「静」、渡辺行夫「意の庵」