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美術書の感想を気ままにつづるページの4枚目です。みなさんの参加、乱入も歓迎いたします。
井内佳津恵「田上義也と札幌モダン 若き建築家の交友の軌跡」(北海道新聞社 ミュージアム新書 1100円)
手前みそで恐縮ですが、この、道立近代美術館の編集で毎年1冊ずつ発刊されている「ミュージアム新書」は、すばらしいシリーズだとおもいます。
安い。カラー図版豊富。そして、おもに北海道ゆかりの画家・美術家たちのモノグラフを、平易にまとめていて読みやすい。既刊22冊中、絶版は2冊、品切れは1冊だけで、ほかは、すこしずつ版を重ねるロングセラーです。初版が出て、すぐに書店の店頭から姿を消してしまう本が多い中で、美術書出版、地方出版のひとつの理想的なあり方ではないでしょうか。
このシリーズは、大半が「岩橋英遠」「神田日勝」といった画家の評伝であり、この本はめずらしい部類に属します。つまり、北海道建築界の草分けであった田上(たのうえ)義也(1899−1991年)の一生を、順を追ってしるすのではなく、戦前の道内のさまざまな芸術活動を、彼の活動を基軸に描いていくという形式をとっているのです。
それは、華麗なタペストリーのようです。おもな登場人物だけをみても、アイヌ民族の教育に尽くした伝道師ジョン・バチェラー、有島武郎の友人で、「惜みなく愛は奪う」にも登場する社会主義者の橋浦泰雄、画家・木田金次郎、美術評論家で、北大予科時代に前衛芸術同人誌「さとぽろ」発刊に尽くした外山卯三郎などなど。
また、東京の里見勝蔵宅の設計もてがけています。
順番が逆になりましたが、田上の略歴をこの本によって紹介しておきましょう。
彼は栃木生まれ。陸軍幼年学校を抜け出し、青山学院を経て早大付属早稲田工手学校で建築を学びます。このころ、北村透谷の未亡人・美那の下宿に住みます。また、バイオリンを習得し、キリスト教に入信します。
さらに進学をめざして勉強しますが、それを中断して、「帝国ホテル」を建設中だったフランク・ロイド・ライトの事務所に飛び込み、完成後は北海道に向かいます(その夜行列車の車内で偶然出会ったのがバチェラーであり、彼の家に旅装を解くことになる)。彼は「和製ライト」として、札幌や小樽、旭川などに多くの住宅を手がけるのです。
韓国で大ヒットした中山美穂主演の映画「LOVE LETTER」のロケ地、小樽の坂邸も、彼の作品だそうです。
バイオリンによる音楽人脈や、信仰をとおした交友などが、彼の活躍の場をひろげていったことが、この本では、じつに綿密な資料しらべや、関係者への聞き取りによって明らかにされていきます。その意味で、小さな書物ながらたいへんな労作だとおもいます。
それにしても、キリスト教、西洋音楽、洋画−といった西洋文化の受容に熱心な一定の層の存在が、大正から戦前にかけての札幌を一種独特のハイカラな街にしていた一つの理由だったのではないかとおもいました。それと同時に、美術や音楽、演劇の愛好者層が相互に重なっていたことが、文化に厚みを増していたのでは−と想像は膨らみます。
反対に、戦後しばらくたつと、それぞれの分野の担い手が多くなるとともに、階級差がはっきりしなくなって、それまでの文化人層が解体していったのでしょう。
(1月1日記す)
大西みつぐ「デジカメ時代のスナップショット写真術」(平凡社新書 780円)
写真人口は高齢者を中心に増えているけれど、彼(女)たちの興味・関心は、他人とおなじ写真を撮ることばかりのようにおもえます。そういう「教科書とおりの作例」にとらわれず、もっと気ままにバシャバシャとシャッターを押してみよう−というのが、この本のメッセージです。
したがって、この本は、よくある「写真入門」というより、大西みつぐ作品の背景というかバックボーンを解き明かした本といったほうが正確かもしれません。なかの章のことばにもある「ご近所写真術」ということばがぴったりなのが、大西さんの作品なのですから。木村伊兵衛賞を受けた写真集「遠い夏」も、気取らずに、個人的な、さまざまな風景を写したものでした。
まあ、アマチュア写真のワンパターンぶりも、相当のものがありますからね。大西さんのおっしゃることはもっともだとおもいます。
ただ「教科書にとらわれずに自由に撮った」はずの「女の子写真」が、あっという間にワンパターンにおちいってしまったように、この本をバイブル視して写真を撮りだすと、たちまち似たような作例が氾濫してしまわないともかぎりません。その意味では、この本は「捨てて」ふらっと街に出る−というのが、ただしい写真愛好家の道ではないかとおもったりもします。
カラー8ページ。
(1月1日記す)
山口裕美「現代アート入門の入門」(光文社新書 750円)
かつて「サッポロアートアワード」の審査員などを務め、スメリーのダンスパフォーマンス(いまは無きギャラリーシードでおこなわれました)とともに来札したこともあるうえ、コミュニティFM「三角山放送局」(札幌市西区)の番組にレギュラー出演するなど、なにかと北海道とは縁の深いアートプロデューサー2冊目の著書。
以前にも書いたのですが、こういう本は貴重です。
西洋美術史の本なら、えらぶのにこまるくらいありますが、80年代以降の、まさにいま現在の現代美術の動向を書いた本というのは、拍子抜けするくらいすくないのです。
その意味では、ことし出た「アート:“芸術”が終わった後の“アート”」(松井みどり著、朝日出版社)は、まさに現代美術の最前線のトレンドの平易な解説をこころみた劃期的な一冊でした。
ただし、この本は米国中心で、日本のことはほとんど触れられていないうえ、やさしく書こうとしてはいますが、けっしてやさしくはありません(それはあたりまえで、現代美術は、やさしくホイホイと理解できるものでは、けっしてない)。
その点、この本は、日本を中心に、現代アートの今を書いていて、その点ではとても便利。とくに、巻末の「自信を持っておススメするアーティストインデックス」は、イマ旬の、しかも山口さん個人の視点でえらんだ25人がリストアップされており、端聡、磯崎道佳、川俣正なーんていう名前も見えます。(索引が無いのは欠点)
まあ、私だったら
「なぜ絵画が廃れてインスタレーションや映像なのか」
とか
「国際美術展ってそもそも何」
みたいなとこも教えてほしいけどね。ま、それはないものねだり、ということで。
ただね、こまかいことを言うと「なんじゃこりゃ」という記述、けっこうあるぞ。
138ページに
「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」これはアメリカ人が肝に銘じている言葉である。
なんて書いてあります。山口さんのお友達のアメリカ人はそういう立派な方が多いのかもしれないけど、京都議定書をめぐるゴタゴタや、国連を無視してあくまでイラクを武力攻撃しようという姿勢を見ていると、あの国のどこがグローバルなんじゃいという思いがつのりますよねえ。
112ページには、こんなことも書いてあります。
九〇年代を語るキーワードは、美術評論家の椹木野衣氏が九八年に出版した「日本・現代・美術」によれば、分裂症の時代、ねじれたスキゾフレニックな時代ということになる。
「スキゾの時代」って、そりゃ浅田彰のフレーズじゃないの? 椹木さんが言っているのは、たんなる「スキゾフレニック」じゃなくて「ねじれたスキゾ」なの。
このへんには「日本人のアイデンティティ」がうんぬん−ということも書いてある。ヤマグチさんが、入門書だからあえて筆を平易なところで止めているのか、あるいはほんとにわかってないのか、そのへんは微妙だけど、「日本人アーティストがアイデンティティを問われる」というような記述は、はっきり言って、オリエンタリズムとして乗り越えられなくてはならないのですよ。
アメリカ人アーティストは、アメリカ人としてのアイデンティティなんて、国際美術展で問われることなんてないんだよ。だったら、どうして東洋人は問われなくてはならないの? 村上隆が
「ルールを変えよう」
といっているのは、まさにそこではないの?
著者のウェブサイト「tokyotrash」はこちら。
(12月29日記す)
松木 寛「蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者」(講談社学芸文庫 960円)
最近はだいぶ様子が変わってきたとはいえ、それでも芸術の歴史を考える時にまずわたしたちの頭にうかんでくるのは画家や作家たちの名前であり、天才をとりまく裏方ではありません。でも、偉大な芸術の影には、プロデューサー的な役割を果たした人がいるはず。この本で取り上げた蔦屋重三郎(じゅうざぶろう、1750−98)もそんなひとり。新興の書店としてめきめき頭角をあらわしてきた彼は、山東京伝らを育てて「黄表紙」と呼ばれる本の新分野を育て、狂歌ブームをまきおこし、歌麿や写楽の才能を見出した、江戸文化きっての“目利き”であり、編集者だったのです。
この本は、彼の生涯と、多彩な親交を、読みやすい文章で追ったもの。とりわけ、写楽の突然の登場と衰微のあとをたどり、従来彼の作とされてきた相撲絵を他人の代作と断定する部分は、じつにスリリングです。
それにしても、江戸の出版業が上方のそれを追い越すのは18世紀半ば−といった指摘には、あらためて江戸文化が江戸時代後半の所産であったということを考えさせます。17世紀には、芭蕉らによる元禄文化もありましたが、江戸はまだまだ京都・大坂の後塵を拝していたということができそうです。
(11月28日記す)
宮下誠「逸脱する絵画 20世紀芸術学講義 T」(法律文化社 3600円)
20世紀西洋美術の歴史を、講義形式で再構成するという、とても意欲的な試み。脱線は多いものの、語り口は軽快で、読みやすいうえに、印象主義の「現象学的」世界観−つまり、対象が「在る」のではなく「見える」さまを描くことがどれほど大きな世界観の転換であったか、とか、、ゴッホが「主観」を描くことによっていかに20世紀の絵画に大きな呪縛をあたえたか−など、目からウロコの落ちる指摘がつづき、一読絶対損はしません。
ただ、全18講義中、第6講義と9−14講義は論文の再録で、生きの良さはかなりダウンします。とりわけ、パウル・クレーと音楽(同時代の西洋音楽)のかかわりについて述べたふたつの論文など、あるいは「芸術学だから、美術以外の分野の記述もあったほうがいい」と考えたのかもしれないけれど、小生には蛇足以外の何者にもおもえなかった。というか、クレーの専門家か、20世紀前半の西洋音楽の専門家以外には、なんの関係もない話だと思う。
最後の3つの講義で、20世紀後半を駆け足でたどる。登場するのはデュビュッフェ、ポロック、ロスコ、ポップアート、フォンタナ、コンセプチュアルアート、アースワーク、クリスト、ボイス、そして大団円はキーファーで、こんなに簡単でいいの? と思いつつも、けっこうツボは押さえられており、モダニスムがいかに絵画を「解体」に追い込んだかがわかるようになっています。
巻頭の「極私的文献案内」も、非常に便利。
(11月21日記す)
「かもめのももちゃん げいじゅつかんへいく」(ほっかいどうりつくしろげいじゅつかん)
はがき大、わずか10ページの、子供向けとおぼしき小冊子。芸術館で無料でもらえるはずです。
でも、ほんとにたのしくてかわいいいんだな、これが。お役所くさいところはまったくありません。学芸員がキャラクターをデザインしたそうです。
釧路川にすむかもめの「ももちゃん」が、入り口にある「ポポちゃん」(イタリアの彫刻家ポモドーロの「球」なので、ポポちゃんということらしい)にあいさつしたり、テラスにのぼったり、閲覧コーナーで「うつくしいさんま」という本を見たりします(こんな本、あるのか!?)。
「ももちゃんのおさんぽコース」と題された、周辺の地図もたいへんわかりやすいです。
この地図によると、ももちゃんには、ニューオリンズにいとこがいるそうです。
北海道はひろいので、道立美術館が、札幌の近代美術館と三岸好太郎美術館、それに旭川、函館、帯広にもあります。
これは、性格付けのことなる三岸はべつにして、道央、道北、道南、道東に1館ずつという道の方針によるものでした。
釧路の人たちは
「道東なら、当然釧路にできるだろう」
と構えていたら、帯広側が猛然と誘致運動をおこない、道東の美術館は帯広につくられました。
その後「やはり釧路にも」という声は消えず、道東に「美術館」ふたつというわけにもいかないので、美術だけではなく芸術全般をあつかう「芸術館」ができたのです。たしか、98年です。
常設展示室はありませんが、アートホールでは、音楽会や、映画上映会がおこなわれています(本年度は、小津安二郎の「お早よう」など、しぶいラインナップです)。
釧路の名所フィッシャーマンズワーフMOO(ムー)にも近く、なかなか旅情をさそわれる一帯にありますので、ぜひお出かけください。
(11月8日記す)