テーマ「初」
お題「口付け」「1」「お使い(買い物)」「白」「笑う」「夢」「太陽」「音」『卵』


 白と黒の弦を、数度爪弾く。えらく古い形のギター。アコースティックでも、フォークギターでもない、六本弦で柔らかく調律されたそれはフラメンコギターと呼ばれる代物だ。それを見据えて、低く深くため息をつくのは、男。
 くたびれた印象の男だった。着ているジーンズとスタジャンはいい具合に着古されているものだが、それ以上に渋く色落ちしてしまったような、そんな印象がある。二十歳をやや過ぎたくらいの、青年がするには少し遠すぎる眼差しが、その原因かもしれない。

「流道君? 何やってるの?」

 ふと、聞こえた声に振り返る。ゆっくりと首を向けると、そこにはロングの髪を風に揺らした女性が立っていた。年のころは大体18から9。大学に入りたての新人、とでも言うべきだろうか。どこかはかなげな印象があるが、それにしては目の輝きが強い。流道と呼ばれた青年とは、顔のつくりからして好対照を描いていた。
 目のおかげで華やいでいる女性と、目のせいで沈んで見える青年と。

「……い〜や? ちょっくら懐かしかっただけ、さ」

 そうすっとぼける流道に、彼女の追求の目はやじりのように、痛い。一本指を立てて、彼が今まで爪弾いていたギターを、指す。

「……みつけちゃったんでしょ」
「まぁね。捨ててくれって頼んだはずだけどな、由紀」

 流道はそう言って肩をすくめると、ほんの少し懐かしげにギターを見る。何かを捨てたような、諦めたような……。それでいてまだ、諦めきれない。そんな未練の多分にこもった瞳。
 分かっていたのだ。もしこれを見てしまったら、自分の中にあるものが結実してしまうかもしれない、と言うことに。それが怖くて、恐ろしくて、遠ざかっていたのに。

「……やっぱり、捨てるのはもったいなかったから」

 彼女の結論は、ひどくさっぱりしている。他人事なんてのはそんなもんか、と流道はひどく冷めた気分になった。しかし視線はずっと、フラメンコギターに注がれたままだ。
 右手首に、ずきり、と痛みが走った。

「……もう一度、弾いてみたらいいじゃない?」

 由紀の声が響く。自分が捨てたもの。でも、彼女は捨てなかったもの。流道はその言葉に、そっと右手の袖を、まくった。手首には、くっきりとした筋が一本、走っている。手首に刻まれているのは、はっきりとした傷跡。

「……由紀、俺は……」

 いつになく真面目な、流道の声。道化を演じない彼の声は、実は張りがあって綺麗なのだということを、覚えている人はもういないのかもしれない。彼の時間は、あの時に止まっている。由紀はそう、感じていた。

「捨てるためにも、未練たらしく見詰めてるよりは、ね」

 由紀の一言が、流道の心をゆすった。ふう、と強く深くため息を、はく。そのまま視線が数度、ギターと右手の間をさまよってから、意を決したようにギターを掴み、その場にしゃがみこんだ。

「これが、最後だからな……」

 静かに、声を上げて。ゆっくりとフラメンコギターを爪弾き始める。
 予想した痛みは、来なかった。


 夢描いた遠い空は 茜色の雲のまま……♪
 旅人には優しく 続きを魅せてるのだろう……♪

 悲しみとは この胸の痛みさえ 愛すべき者と忘れること…♪
羽根を持った 命さえ千切れ 水の上をやがて漂うのか……♪


 低いバリトンが流れる。かつて、歌手の卵としてギター一本を手に歌い続けていた曲。
 マイナーだからやめなよ、といくら言っても。彼はこの曲を選び続けていた。フラメンコギター一本で、場末のアルバムから引っ張ってきたこの曲を。
 勇気をくれた人の歌、といっていた。


夢のかけら風に揺られるから 逃げないように手を のばす勇気もなく♪
ただ立ちすくむだけの窓 明日はこの風も止むだろう……♪


 静かな曲、しかしいつも以上の情熱がある。右手に傷を負う前の……。あの時よりも。
 そう思っていたとき、まるでテープをはさみか何かで切ったように、曲が止まった。奏で続けていた流道のストロークが止まって、痛そうに顔をしかめている。ぶるぶると震える手を、恨めしげに見詰めていた。

「ここらが、限界かな」

 振るのもつらそうな右手を押さえて、そのまま曲を止めたままで。左手でネックを掴んで、フラメンコギターを振り上げた。腕一本で支えるギターを見詰める目は、悲しげで、辛そうではあったけれど。どこかさっぱりとしたようでも、あった。

「才能って奴さ。限界が見えちまったんだ、俺は」

 そこまで言って、ゆっくりとギターを床に叩きつけようと、思い切り振り下ろそうとして……。

「駄目っ!!」

 そのままスライディングした由紀の手が、ギターを押さえつけた。いかに女の手とは言え、男の手一本に負けるほど華奢ではない。ぐい、と押し込んで、さっきと同じポジションに持ってゆく。左手はあいからわずネックを押さえたままだが、右手はだらりと下がったままだ。

「……まだ、できるよ」
「けど、俺の手は!」

 声を荒げる流道。震え続ける彼の手を見れば、本当に動かない、と言うところではないのだろう。だが、それでも彼は止めてしまったのだ。
 そして、彼女はその理由を知っていた。

「刺されたんだよね、後輩に」

 きっぱりとした、言葉。そっと目を閉じた流道を見、そのまま優しく語り掛けてゆく。

「本当は先生を刺そうとしてたみたいだけど、それを庇って……。そして、ギターを握れなくなった……。でも、まだ見れるよ? 夢は」

 由紀の言葉。じっと待ち続けた彼女の言葉が、沁みるように聞こえる。流道はそのまま目を閉じて、ゆっくりと息を吐いて。ただの一言をつむいでゆく。

「……そして、あいつは……。歌えなくなった」

 きっぱりと、はっきりとした宣言。流道を指した男はそのまま警察に捕まり、刑務所へ行き。そして所内で自殺した。話を全て伺えたのは、自分が被害者だったからだ。黙る由紀に、るどうは静かな声をつむぎ続ける。

「夢は、墓標。叶えられなかったものにのしかかり続ける呪いみたいなもんだ。けれど……。それがあるから、俺はあいつのことを忘れないで、いられる」

 ほろ苦い笑みを浮かべて。そっと言葉をつむぎながら。右手に視線を落としている流道。ふう、と息をはいた彼の手を、そっと温かな両手が包んだ。

「だからこそ、見なくちゃいけない。彼の分まで、夢を背負って」
「夢を、背負う……」

 流道はそのまま、ゆっくりと。右手を下ろし、また上げて、と数度のストロークを繰り返す。何かを形にするかのように、振り切るかのような動作。
 そのままゆっくり、ギターの弦に右手が、触れて。


声を抑えて 泣くような風の中で 愛すべき何かを 手繰り寄せよう…♪
としてももう 何もかも千切れ 水面の蝶に似た 夢のかけら……♪


 ゆっくりとした声、張りのあるテノール。響くたびに何かを揺らすかのごとき、静かで強い声音。そっとそっと、漣のように響き続ける。
 それは、曇り続けた空から、太陽の光が差す様にも似て。
 流道の表情に、わずかづつ張りが戻っていくような、いや、巻き戻っているのだろう。夢を追い続けていたあの頃に。歌い終わるまでの間、何も動かなかった時間が、ゆっくりゆっくり、動き始めて。


 流道兵衛と言う男が、ヒットチャートを静かに、だが確実に揺らし始めるのは。これからおよそ二年後のことである。



あとがきへ
 


書斎トップへ