┃サイトTOP┃別館TOP┃コンテンツTOP┃ |
新王国時代 第19王朝
RamessesU
王朝の首都;テーベ
埋葬地;王家の谷KV7
出身地;テーベ
家族構成;父/セティ1世 母/トゥヤ(トゥイ) 妻・息子・娘は大量に…
治世4年目にして早くもレヴァントに軍事遠征、その翌年にはヒッタイト帝国との間で「カデシュの戦い」を起こしている。この戦いを経て、歴史に残る最古の和平条約といわれる協定を結んだ。ヒッタイト王の娘を王女として迎えることで両国は仲直りしたというが、この条約が重要なのは、エジプトとヒッタイト双方の条約本文が現存していることである。エジプト側はルクソール対岸の神殿、ヒッタイト側はヒッタイトの首都だったボガズキョイで発見された粘土板が、現在のトルコ首都イスタンブールの国立博物館で見ることが出来る。なお、エジプト側もヒッタイト側でも「戦争に勝利した」と記録されているが、実際の国境線は変わっておらず、条約後にヒッタイトの王女がエジプトに輿入れしていたりするので、実際は「引き分け」であっただろうと看做されるのが一般的である。条約締結は治世21年目、王女の輿入れが32年目なので、戦争が終わってすぐに仲直りしたわけではなく、その間に色々あった模様。
・ヒッタイト・エジプト間友好条約の結ばれた時代の年表を書いてみた
現在知られている「エジプト神話」、および神々の役割分担は、このあたりの時代に完成されたのではないかと思う。残された物語を見ていると、王家のものと民衆のものとで雰囲気が異なっているのが面白い。なお、ラメセス2世がヒクソス系ではないとかいう説があるる
・セト神信仰の記念碑、ティニス出土「400年記念碑」
アクエンアテンの時代、一時的に衰えた国力を回復させ、以前以上に盛り立てた王。彼により、エジプト王国最後の繁栄が築かれ、国土は過去最高の面積を誇った。ヒッタイトとの戦闘で知られる戦闘王でもあるが、同時に記念碑の建築など現在エジプトで知られる多くの遺跡を作った文化面での功績も大きい人物でもある。
ちなみに、クリスチャン・ジャックの小説「ラメセス2世」では、兄と王位を争っているという設定になっているが、史実によれば兄は早世し、10歳にして王の後継者に指名されていた。王位を継承したのは25歳くらいのときである。
即位した頃には既に妻をめとっており、在位期間中に100人以上の子供をもうけたとされる。子供たちの墓であるKV5は150もの部屋を持つちょっとした迷宮状態。名前が分かっている子供だけでも100人(息子・娘とも50人前後)いるので、古代の乳児死亡率を考えると、実際に生まれた数は伝説の「200人」という数に近かったと思われる。
しかし、親が長生きしすぎたため、最初のころに生まれた子供たちは父より早く死んでしまったという。最終的に王位を継ぐのは、既に高齢であったメルエンプタハである。
・古代エジプト史上最大の子だくさん王 ラメセス2世、その子作りペースを計算してみる
◆建造物
建造マニア王。大量の神殿を建造している。
エジプトには未発掘の遺跡・現存しない神殿もあるので、これで全量というわけではない。
・アブ・シンベル神殿
・アマラ西の神殿
・ベイト・エル=ワリの神殿
・デールの神殿
・ゲルフ・フセインの神殿
(以上がヌビア地域)
・メンフィスの神殿複合体
・ルクソール神殿の塔門・中庭部分
・ルクソール対岸のラメセウム
・アビュドス神殿(父セティ1世が着工)
・カルナック神殿の大列柱
・王家の谷の墓(KV7、KV5)
どうも「じぶんだいすき!」な王様だったらしく、建造した神殿の一番目立つ門の両脇に自分自身の巨像を建てるなど。そこまでしなくてもいいだろうというくらい、巨像が沢山つくられている…王なので誰も文句は言いませんが。
なお、アブシンベル神殿のラメセス2世以外の座像は12体あり、嫁のネフェルトイリx4、娘x5、母x2、息子x1 となっている。このネフェルトイリ推しと、実際に残されている彼女の墓の壮麗さが、「ラメセス2世は嫁大好き」という後世の設定に結びついたものと思われる。ただし、「王の偉大なる妻」という正妻称号を持っていた女性は二人いて、ネフェルトイリのほかにイセトネフェレトという女性がいる。
◆王名
王の名前には5つの種類があるが、生まれた時につけられる「誕生名」と、即位してからつけられる「即位名」以外の3つは、その時々に応じて変更される。この王の場合、建造物によって名前を変更しているため、多数のバリエーションが存在する。
また、固定の名前である「誕生名」や「即位名」には、エピセットと呼ばれる形容辞がつくが、これも種類がいくつもある。
例として以下のようなエピセットが挙げられる。
即位名のエピセット
イワウ・ラー ラーの相続人
メリラー ラーに愛されし者
ネブケペシュ 強き剣を継承する者
誕生名のエピセット
メルティ・マ・アテム アトゥム神の如き愛されし唯一の者
メリアメン アメン神に愛されし者
ネチェリ・ヘカ・イウヌ 神にしてヘリオポリスの街を統べる者
これらを繋げてカルトゥーシュに書くと、たとえば
「ウセルマアトラー(力強きラーの真実)・メリラー(ラーに愛されし者)」
「ラメセス(ラーの生み出せし者)・メリアメン(アメン神に愛されし者)」
のように書かれたものが出来上がる。組み合わせが様々に変わるので、見分けをつけるのがなかなか大変。
◆ギリシャ語名「オジマンディアス」の由来
多くの場合、ファラオのギリシャ語名はプトレマイオス朝時代に生きた神官マネトーの記録した王名表から来ているが、この王の「オジマンディアス」は、プトレマイオス朝末期の紀元前60年から57年までエジプトに住んでいたギリシャの著述家ディオドロスの著書が出所となっている。彼はテーベ郊外に建つアメンホテプ3世の巨大な座像を「メムノンの巨像」と名づけ、さらにラメセス2世の建てた神殿(現代ではラメセウムと呼ばれている)を「これはまさしくオジマンディアスのものである」と書いた。オジマンディアスとは、ラメセス2世の即位名である「ウセルマアトラー」をギリシャ語読みにしたものである。
「我が名はオジマンディアス、王の中の王なり。われがいかに偉大なるかを、しかしてわれがいずこに横たわるかを知る者あらば、その者をしてわれが作りしいかなるものにも優れたるものを作らしめよ」
これがディオドロスが書いた内容だが、神殿の碑文の一部に創作を加えたものである。
さらに、ディオドロスに感銘を受けてイギリスの抒情詩人パーシー・ビシュ・シェリー(1792-1822)が、以下の短評を書いた。
「我が名はオジマンディアス、王の中の王なり。わが作りしものを見よ、なんじ強大なるものよ、しかして絶望せよ!」
このフレーズが人気を博し、今に至る。
…とどのつまり、これ別にラメセス2世本人が言った/書いたわけじゃないんだな。実は。
<オジマンディアス=ウセルマアトラーへの変化>
多分だいたいこんな感じ。言語スキルがないので細かいところはわりとザックリだけど、訛っていく過程の推測で…。
ギリシャ語での最後の「s」は男性名につくお約束みたいなもの。
エジプト語部分も実際は綴りと話し言葉が違ってて、ギリシャ語読みに近く変化していた可能性あり。(日本語でも、平安と現代の言葉は漢字綴りが同じでも音が違っていることがある。それと同じようなことが起こってたかもしれないということ)
エジプト語 | User | maat | re | ||
ウセル | マアト | ラー | <古代エジプト語は死語なので、そもそもここは推測 | ||
↓ | ↓ | ↓ | |||
オサル | メン | ラー | +ス | ||
↓ | ↓ | ↓ | |||
オザマンラース | |||||
↓ | ↓ | ↓ | |||
ギリシャ語 | Ozy | man | dia | s | |
オジマンディアス | <ギリシャ語も古代の発音は不明、綴りからの推測 |
◆ラメセス2世とモーセの関係
事実として、モーセがラメセス2世の時代のエジプトに生きていた実在の人物だという証拠は全く存在しない。
そもそもモーセ自体が実在が怪しい人物である。もちろんエジプトからのエクソダスも、史実であった証拠は存在しない。元ネタとして、精々少数の奴隷が逃げたくらいはあったかもしれない、と考えられている。(イスラエルの考古学者にはこれを認めない人がいたり、政治と宗教がらみで色々ありますが)
モーセはエジプト人であった、という説を唱えたのは、心理学者フロイトである。※詳細は「モーセと一神教」という本を読もう
ただし、この本に書かれているのは「モーセはアクエンアテンの時代のエジプトで一神教の原型に触れたのではないか?」という推測で、ラメセス2世の話は出てこない。モーセとラメセス2世を結びつけるようになったのは、ラメセス2世の次の代の王メルエンプタハの時代に「イスラエル碑文」と呼ばれる、歴史上はじめてイスラエルという民族名に触れた石碑が出ているからで、「メルエンプタハの時代にイスラエルが存在したなら、それ以前に出エジプトが行われていなければならない」という理由から、ラメセス2世の長い治世の中に出エジプトが組み込まれることになった。つまりエジプト側に出エジプトを示す証拠は何もなく、確実なのはメルエンプタハ王が制圧した民族の中にイスラエルと呼ばれる民族がいた、ということだけである。
尚、ハリウッド映画「エクソダス」では意図的にアクエンアテンとラメセス2世を混同させて、よく分からないエジプト王を作り出している。
現代のモーセ・ラメセス2世の関係は、以下のような複合的な出所を持つ伝説・推測の集合体となっている。
・「モーセはエジプトの王子」という設定=聖書の記述
・「モーセはエジプト人であり、アクエンアテン治世下で一神教を知った」=フロイト「モーセと一神教」
・「モーセがラメセス2世の時代に存在した」=メルエンプタハ王の時代の「イスラエル碑文」からの逆算
・「モーセはラメセス2世の兄弟だった」=ディズニー映画の「プリンス・オブ・エジプト」やハリウッド映画の「エクソダス」
これらのいいとこどりをして、不都合な設定(フロイトの考えた”モーセはエジプト人であった”など)を捨ててたものが現在流布されている新たな伝承である。
直接的な証拠も根拠も何一つないままに確からしい伝説というのが勝手に作られていく過程を目の当たりに出来る、楽しいサンプルとなっている。
・モーセの実在について
・海を割れば海を渡れる、そう思っていた時期が私にもありました。…リアルで考える「モーセの海割り」
★注意事項★
アブ・シンベル神殿に光の入る日はラメセス2世の誕生日ではないので、オジマン生誕祭は出来ません!! エジプト自身がツアー組んで大々的に売りだそうとしてたりしますが、根拠は何もありません。ていうか古代エジプトのファラオ様の中で、誕生日分かってる人は、いないです。
・「アブ・シンベル神殿に光が入るのはラメセス2世の誕生日!」ちょっと待って、その説は怪しいですよ
ただ、歴史上の偉人とかキリスト教の聖人とか、後世の都合で誕生日決められて勝手に祝日とかにされてたりするので、そのノリで「現代人が決めたラメセス2世の誕生日を正として祝いたい」というのであれば、それはそれでアリだと思います。誕生日が分からないと商業的に儲からないとか、不都合だったりしますしねー(世の中は世知辛い)
★注意事項その2★
ラメセス2世が赤毛なのはともかく、「肌が白い」と認識するのはほぼ完全な誤りです。またベルベル人とする説は一般的ではなく、関連性も見いだされないのでご注意ください…
・ラメセス2世は「白い肌」? ここから始まる勘違いへの補足など
・ラメセス2世は「白い肌」という話の出所/ソースの検証
<略歴>
父治世1年目 13歳 パレスティナ遠征(遠征軍にいたかは不明)
父治世8年目 21歳 ヌビア遠征
(父の治世12年目=ラメセス2世即位で計算)
治世0年目 25歳 即位
レバノン遠征
治世4年目 29歳 ヒッタイト戦
治世21年目 46歳 条約締結
ラメセウム建造
ヌビア遠征
治世32年目 57歳 ヒッタイト王女輿入れ
このあたりでアブシンベル内部の装飾を行っている
治世55年目 80歳 皇太子カエムワセト死去
治世62年目 92歳 薨去
次に即位するのは第13王子
●ついでのオマケ
・パスポートを発給された唯一の王、というのは誤りです。ラメセス1世もパスポート持ってます。
・たまにツイッターとかで「ラメセス2世のパスポート」という画像が出回ってることがありますが、それはイメージ画像であって実物ではありません…
古代エジプトファラオ、ラメセス2世のパスポートが公開される→それフェイクです
●ついでのオマケ 2
・「ネフェルタリ王妃のヒザの裏」ラメセス二世の嫁のミイラ、鑑定される
・ギリシャ語文献にヒッタイトが出てこない理由をもう一度考えてみた
・カイロに立っていたラメセス2世オベリスク、New Alameinへ移動。
・【おねショタの波動】ラメセス2世の即位10年目あたりの戦争に彼の息子が参加しているわけだが。
前へ | 時代の索引へ | 次へ |