古今東西・北欧神話
炎の爪
この物語は、かなり後の時代になってから語られたものの一つで、実はロキの名前は明記されていない。
舞台は、北欧ではなくオーストリアの首都、ウィーン。ここにある、聖ステファンの聖堂と向き合う、「鉄(くろがね)の柱」と、呼ばれる柱にまつわる物語である。
むかし、ウィーンの町に、鍛冶屋の親方が住んでいた。親方にはドロテアという美しい娘がおり、娘は、父の弟子のラインベルトと恋仲であった。
ある日、若い二人は、町の外で待ち合わせて逢引をしていて、つい長居をしてしまった。
この地方の町はだいたいそうだが、ぐるりと城壁に囲まれ、夜になると門が閉ざされてしまう。中に入るには門番に開けてもらわねばならないが、結婚前の若い男女が夜まで二人きりで出歩いていたことが知られたら、大変なことになる。
婚前密通は大罪として、特に若い娘は、ひどい目に遭うということはゲーテの「ファウスト」でも語られているとうりだ。
二人は真っ青になり、我が身の破滅とばかりに嘆く。
と、そこへ、怪しげな目をした奇妙な身なりの男が現れた。黒い衣に黒い帽子、帽子にはにわとりの羽根を差していたという。
男はラインベルトに言った、もし毎週日曜日、聖ステファンのミサに出席するのなら、この門を開き、お前たちを助けてやろう。
だが、約束をたがえ一度でも出席を怠ったなら、そのときはお前の魂をもらいうける。
よく似た伝説はドイツにも伝わっており、この手の取引を申し出るのは「悪魔」と、されている。
しかし、北欧神話の神々も悪魔扱いされてしまったのであって、それらの悪魔の中には、失われし神々の姿もあったかもしれない。
ラインベルトは、この取引に応じ、ドロテアとともに人に知られず町に戻る。
それから何日かがたった日のこと、ラインベルトのいる鍛冶屋に、あの男が訪ねてきた。見るなりラインベルトは、いやな気持ちがして背筋が寒くなる。
男は何食わぬ顔で鍛冶の親方に、自分の注文する鍵と錠前を作ってほしい、と言い出した。しかもそれは在り来たりのものであってはいけない。自分の注文通りに造らなくてはならない。
しかし、その注文は、あまりに難しかった。
鍛冶屋が困っていると、男は挑発するように言う。それではお前は職人としてみんなの笑いものだ、と。
ドイツなどでは、職人がマイスターと呼ばれ、地位やプライドをかなり大切にしている。職人として注文に応じられないというのは、おそらく、かなりの屈辱だっただろう。
男はラインベルトに、お前なら作れるだろう、と言い、親方は、もし上手く作れたら娘ドロテアを嫁にやってもいい、とまで言う。
迷いつつ、彼は男の注文した難しい鍵作りに挑戦した。するとどうだろう、誰も作れないと思われたこの難題が、自分でも信じられないほどにするすると仕上がっていくではないか。
ラインベルトは、ニヤリと笑う男の顔とともに、花嫁のかざりをつけた美しいドロテアの幻想を見ている。
悪魔の誘惑、というわけだ。ここで誘惑に気がついていれば、彼のその後の運命は変わっていたかもしれないのだが…。
やがて鍵は出来上がり、男は代金を支払うと、例の鉄の柱のもとにやってきた。
そして、柱に鉄の鎖をぐるぐるとまきつけると、錠前をおろし、鍵を持ったまま、いずこへか去っていく。この鍵は、他の誰にも作れない。つまり、あけることは出来ない。多くの鍛冶屋が挑戦するが、どれも失敗に終わった。
ついに政府が、この鍵を開けたものに「名工」の称号という、最高の栄誉を与えると交付するまてに至った。
これを聞き、結婚後も男のことを気にして沈み込んでいたラインベルトはがぜんやる気を見せてきた。そうだ、この鍵を開けてやればいい。そうすれば、自分の、この何かしっくりこない気持ちも収まるかもしれない。
ラインベルトはさっそく、合鍵作りに挑戦する。
何度か失敗を繰り返した後、ようやく鍵ができ、あとは炉に入れて固めるだけ…、ところが、だ。
鋳型を取り出してみると、鍵はあとかたもなく壊されて、形もなくなっているではないか。
何度やっても同じことだ。なぜなのか。
彼は炎の中に目を凝らす。そして、見た。
炎の中から延びてきた爪が、鍵をひっかけ、壊そうとするのを。…その向こうには、あの、気味の悪い男の、ぎらぎら光る目が合った。
そう、炎の中で、鍵を壊していた者がいたのだ。
ラインベルトは大慌てで鍵を炉から引っ張り出す。すると鍵はなんとか出来上がっていたが、爪をひっかけられたせいで柄が少し短くなっていた。――これは、ロキが造るのを邪魔したせいで、トールの槌ミョルニルの柄が短くなったことと無関係ではないだろう。
ラインベルトは鍵を手に、いざ、鉄の柱の前へ。
ところが最後の最後で邪魔が入った。気を抜いていたラインベルトが鍵を空に投げ上げた瞬間、見えない手が伸びてきて、空中で鍵をさらってしまったのだ。
悔しいやら、空しいやら。
ラインベルトはそれ以来、酒びたりの生活になり、賭け事にも手を出すようになった。約束した、日曜日のミサだけは欠かしたことがなかったのだが、ある日曜、ふとしたことから、時間を忘れてミサに遅刻しそうになってしまう。
彼は慌てた。
大急ぎで教会へ走るが、門はかたく閉じられたまま。門の脇には、老婆がひとり座っている。
「ミサはもう終わりましたか」 「ああ。とっくにね。」
この言葉を聞くや否や、彼は真っ青、よろめきつつ先ほどの仲間たちのところへ戻ってきた。
「どうした、そんな青い顔をして。」
「ミサに遅刻してしまった。もう駄目だ。」
すると、仲間たちは笑い出した。
「何を言ってるんだ。ミサはいつも11時半にはじまるじゃないか。今はまだ11時45分だぞ? 急げば間に合うってモンだ。」
ステファンは吃驚仰天。再びお堂を目指して走る。はたして、門は開いていた。間に合った……
ところが。
彼が中に入ると同時に、僧侶が祭壇から離れた。たった今、ミサが終わったところだったのだ。
愕然とするラインベルト。
その後ろには、つつと例の老婆が歩み寄っていた。
「約束だね。魂をいただくよ。」
するどい爪で腕をつかまれたその瞬間、ラインベルトの魂は奪われた。こうして、謎の老婆こと怪しい男は、若者の魂をまんまと手に入れたのである。
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ロキが老婆に変身して人を欺く話は、「スノリのエッダ」にも登場する。フリッグを騙し、バルドルを殺す方法を聞きだす部分だ。
この物語は、スノリの時代にすでに悪魔的な性格を帯び始めていたロキが、さらにその性格を強め、キリスト教の中で完全に悪魔化されたものだと考えられている。
炎の中に潜み、鍵を壊す部分も、また、彼らしい。
人間につくらせた鍵で何を閉ざすつもりだったのか、なぜ魂の交換条件にミサへの出席を選んだのか、など、考察してみると面白いかもしれない。
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