種の起源:第4章

In social animals の訳と

ダーウィンの淘汰の単位に関して

  

 岩波文庫版「種の起原」には第4章、上巻120ページにおいて一カ所、奇妙な訳の部分が存在します。

:社会性動物においては、自然選択は各個体の構造を全社会の利益のために、もしも社会が選択された変化により利益をうけるようになるのなら、適応させるであろう。

[ 八杉龍一訳 改訂版1990年 ]

 この部分、Origin of species 第1版の原文では次のようになっています。

In social animals it will adapt the structure of each individual for the benefit of the community ; if each in consequence profits by the selected change.

[Darwin 1859, PENGIN BOOKS1970, pp135]

これを北村は以下のように訳したのですが、

:社会性の動物においては、それ(自然選択)は個体おのおのの構造をcommunity の利益になるように適応させる。選択によっておのおの(の個体)が利益を得られるのならば、そのようなことが起こる。

なにやら難解、というか翻訳が日本語に成り切っていません。しかしようするにこれは、communityに所属する個体に結果的に利益が還元される状況下にあれば、そのcommunityに所属する個体はcommunityの利益を上げるような適応を進化させる、ということです。あるいは、こういう条件下にあればcommunityの利益を増加させるような変化(chenge)が自然選択によって累積し、利他的な構造(structure of each individual for the benefit of the community )が発達する、と言えばいいでしょうか。

第4章におけるダーウィンのこの文章は、後の第7章で出てくる社会性昆虫の不妊カーストの進化を説明する部分とリンクしていると考えればいいでしょう。あるいはリンクしていると仮定した場合にこそ、この文章はよく理解できると言えばいいかと思います*。また、そう考えた場合、このcommunity という単語は社会というよりはむしろ血縁集団とか、あるいは社会性昆虫のコロニーという意味合いも帯びてきます。

*ある解釈に基づいて理解を試みた場合、その有り様が整合的であれば最初の解釈は妥当であろう、ということですね。ある仮説に沿ってデータを解釈した場合、それが整合的であれば最初の仮説はまあ妥当であると考えても良い、ということ。無心であれとか曇りの無い眼で見つめよとか、そういうことはしばしば言われますが真面目に考えればそれはたわ言。結局のところ人間はなにかしら大前提を置かなければ一時たりとも何も解釈できないので、大前提はかくのごとく必要です。例えば”経験に基づいて判断することは妥当である”という大前提は論理的に正当化できませんが(というかできた人はいない)、しかしこれがないと困りますし、これを捨てるわけにもいきません かくて人は曇った眼で世界を見渡すしかない。さりとて大前提のそのものの妥当性を何らかの方法で確認する必要がおそらくあるでしょう。

 

 さて、ダーウィンの原文を以上のように解釈するのが妥当であるのかどうなのか、それ自体が興味ある問題ですが、そうであってもなくても、少なくとも岩波文庫版「種の起源」におけるこの部分の訳がずいぶん奇妙であることは明らかです。

原文:if each in consequence profits by selected change.

訳文:もしも社会が選択された変化により利益をうけるようになるのなら

 こういうこともあって2009年2月12日に発売された「ダーウィン『種の起源』を読む」84ページで北村は「それは完全な誤訳であろう」と書いたのですが、実はここでひとつ気になることがありました。科学哲学者ヘレナ・クローニンによる著作「性選択と利他行動 クジャクとアリの進化論」、長谷川眞理子訳、工作舎、1994を読んでもしやと思っていたのですが、確認してみたところ、ダーウィンはOrigin of species 第6版の中で以上の該当箇所を次のように書き換えているのです。

In social animals it will adapt the structure of each individual for the benefit of the whole community; if the community profits by the selected change.

[SIGNET CLASSICS 2003, pp93]

これはまさに八杉龍一訳における、

:社会性動物においては、自然選択は各個体の構造を全社会の利益のために、もしも社会が選択された変化により利益をうけるようになるのなら、適応させるであろう。

に対応しています。岩波文庫版「種の起源」はOrigin of species 第1版の訳のはずなのですが、以上のように、どういうわけか少なくともこの部分は第6版の文章に基づいて訳出していることがうかがえます。この意味において、「ダーウィン『種の起源』を読む」の中で北村が「誤訳」と言ったことは正確ではありません。むしろ「これは極めて変則的な訳であろう」と言うのがより正しいのでしょう*。

*もっともそう言った場合、ダーウィンの書き換えと淘汰の単位についても以下のように議論と説明を行う必要が出てきてしまいますが。

 

 さて、問題になるのは、なんで岩波文庫版はここだけ(あるいは少なくともここだけ)第6版の訳なわけ? ということです。理由はよく分かりません。もしかしたら第1版の文章がかなり難解なので、第6版の原文を参考にして訳したとも考えられますが、はっきりしたことは不明です。

 仮にもしそうであるとした場合、八杉龍一という人はダーウィンがここで群淘汰を説明していると考えたのかもしれません。事実、第1版の文章はif each in cosequence profits by selected change. 選択された変化による利益の結果、個体が、というものであり、個体選択の意味合いがはっきり出ているものです。しかしこちらではなくて第6版のif the community profits by the selected change. という原文の方をわざわざ用いた(らしい)のはそういうことのように思われます。

 八杉龍一という人は群淘汰を信じていたのでしょうか。あるいは血縁淘汰や不妊カーストに関するダーウィンの説明をどう理解していたのか、それが議論されるべきかもしれません。

 しかし反対の立場からすればこうも言えます。ダーウィンは血縁淘汰のごく基本的なアイデアを持っていた、このような解釈がそもそも間違っているのではないか。実際、第6版におけるダーウィンの文章は血縁淘汰というよりは群淘汰のように聞こえます。そういう意味では岩波文庫版に見られるこの奇妙な翻訳は”ダーウィン自身は淘汰の単位をどう考えていたのだろう?”という問題ともからみあっています。

 *八杉龍一という人の訳は群淘汰的な立場に立っているように聞こえますし、反対に北村の立ち位置は血縁淘汰寄りというか、例えばクローニン寄りだと言えます(たぶん)。クローニン自身の立場と意見に関して言うと、ここでは次の言葉を引用しておきます。「集団のための利益」論者は、ダーウィン自身の分析よりも後退してしまったのでした。「性選択と利他行動」pp430

 ダーウィン本人はどう考えていたのでしょうか。彼はOrigin of speciesの第1版から第6版の間に個体選択論者から群淘汰論者になったのでしょうか? クローニンの本を読めば分かりますが、そうではないようです。なぜかというとクローニンによればダーウィンはこの問題に関して同じ版の中で集団という単語を個体に書き換えたり、反対に個体を集団に書き換えていたりするのだそうな。そういう意味ではクローニンさんが言うようにダーウィンはcommunityが関わるような淘汰の単位に関して少し無頓着だったようです。死んでから100年以上が過ぎて、こんなことを根掘り葉掘り議論されているなんてことを知ったら彼は驚いたかもしれません。

 しかしダーウィンがでたらめだったというわけではありません。そもそも彼は不妊カーストが進化したことを、その個体は食べられて死んでしまうが、血縁のものが残されることで品種改良が行われてきたウシや野菜に例えて説明しているのです。ハミルトンほど洗練されていないけども、ダーウィンが血縁淘汰にかなり近いところにいたのは間違いないところです。実際、彼が群淘汰論者だったらこんな説明はしないでしょう。「集団のための利益」論者は、ダーウィン自身の分析よりも後退してしまった、クローニンのこの表現は意味深です。

 そういうわけで、ダーウィンの以上の文章は第1版のものであれ、第6版のものであれ、第7章とリンクさせる形で血縁淘汰的に解釈するのが妥当であろうというのが、北村自身の考えです。

 後の章になりますが、ダーウィンはある特徴を共有する生物群(理想的には系統群になるでしょうか)が他の生物を圧倒し、分布を拡大するであろう、このような予想に基づいて生物界の変遷を説明しました。こういう意味で種が種を滅ぼすという表現もしばしば使います。それを考えればcommunityという言葉も血縁を共有しており、それゆえに生物界の現象を説明できる集団という意味で使っている、そう考えるのが自然であるようにやはり思えます。あるいはこの話題に関してダーウィンが淘汰の単位に一見無頓着に見えるのもそのせいでしょうか?

 

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