伝染病の話

番外編

 

 第3章でダーウィンは

When a species, owing to highly favourable circumstances, increases inordinately in numbers in a small tract, epidemics - at least, this seems generally to occur with our game animals - often ensue : and here We have limiting check independent of the struggle for life. But even some of these so-called epidemics appear to be due to parasitic worms, which have from some cause, possibly in part through facility of diffusion amongst the crowded animals, been disproportionably favoured : and here comes in a sort of struggle between the parasite and its prey.

と述べています。

 この文章が述べられたのは訳書では96〜98ページ。さて、この前後の段落で語られていることとは、生物の個体数は季節や地域による環境の変化で直接抑制されるように見えるが、実際には他種の生物との存続をめぐる争いが効いていることによって、数が増えたり、あるいは逆に減ったり、さらには消滅してしまう、ということであり、ダーウィンはそれらのさまざまな実例を上げてみせました。前に書いた1年生の植物が平均的に残す子孫の数というのもこうした文脈のなかでで語られたものです。さて、そういうことを踏まえつつ、以上の原文を訳すと、これはおおよそこのような内容であるらしい。

 ある種が、非常に好適な環境におかれてせまい区域で異常に数を増やした場合、伝染病が、

 ーすくなくとも、こういうことは私たちの国の狩猟動物(Game-animals のこと)においてしばしば起こるように思われるがー

それがしばしば発生する(注:ensue は後から続いて起こるの意味がある)。

 さて、こうした事柄が存続をめぐる争いと無関係なのかどうか確かめることは難しい。しかしながら、伝染病とされるものの幾つかは寄生性のワームによって引き起こされるものであるらしい、また、これら寄生性のワームは、おそらく、宿主である動物が不釣り合いにまで好適な環境下でごみごみと数を増加させたので、宿主の間を分散しやすくなって数を増やし、伝染病の原因となるのであろう。

 であるから、伝染病も、寄生生物とその餌食となる宿主の間で起きる存続をめぐる争いの一種であるとみなせる。

(注:worms , つまりワームというのは蠢虫のことですね。このように呼ばれる動物には環形動物とか扁形動物、あるいは線形動物なども含まれるかと思いますが、ここでダーウィンがいっている parasitic worms というのが具体的にどのような種類の動物を指しているのかは知りません。扁形動物か線形動物のどっちか、あるいは両方だと思いますけど。)

 

 ダーウィンの文章は神経質と思えるくらい非常に慎重(あるいは正確に描写しよう、しよう、としているように北村には見える)なんですが、いずれにしても彼のいいたいことは、どうも以上のようなことらしい。まあ、各自、原文を訳してくださいな、北村の意訳は信じちゃいけねー。例えばの話、 here We have limiting check independent of the struggle for life. ってどう訳せばいいんでしょうね? 。ちなみに訳書では、「ここでは、生活のための闘争とは無関係な制限的抑圧が行われている。」pp97 となっています(どちらでもまあ文章の大意は変わらないと思うのですが・・・)。

 それにしてもダーウィンが、生物の集団が大きくなると、寄生生物などが伝染の機会を大きくできるので、その数を増やすこと、そしてこうした事柄も存続をめぐる争い(進化の範疇に入る事柄)であると推理していたらしいのはとても印象的だなあと思う次第。

 なぜって人間社会における有名な伝染病ってどうやら比較的最近、人間が都市や国家を作ってから進化してきたらしいからなのですね。北村は直接論文を読んではいませんが、ジャレド・ダイヤモンドさんの著作「銃・病原菌・鉄」(上下)はこうした見解を知る参考文献のひとつになります。

 小規模な集団生活を送る狩猟採集民や離島の住人よりも、都市の住人の方が有害な感染症を持つこと。そしてかつまた都市の住民はそうした伝染病により強い免疫を持っているということは歴史的な事実です。それは考えてみれば当たり前で、あるバクテリアなり寄生虫が伝染力を持っていても、人間が巨大な集団を作らない限り、他の寄生生物との存続をめぐる争いにおいてさほど好都合になんかなるわけがない、だから別にそういう感染症は進化しない(あるいはマイナーなものにとどまる、多分)。

 でもひとたび人間が都市を作って巨大な社会を作ったらどうなるか?、人間の集団の間にすみやかに広まる感染症が進化して、今度はそれに耐性を持った人間が現れ、今度はそれでも数を増やそうとする感染症なり病原菌が現れる。こうして巨大な社会に所属する人間と病原体のいたちごっこが始まっていわゆる共進化が起こりはじめる。

 ダイヤモンドさんの著作はユーラシア起原の社会とヨーロッパが世界を征服することができた理由のひとつとして、こうした事柄があることを示してみせました。実際、ヨーロッパ人が新世界にもちこんだ感染症でどれほど多くの現地人が死に、あるいは全滅してしまったのか、それにはものすごくたくさんの残酷な実例がある。ヨーロッパ人は武力を用いる前に多くの現地社会を感染症によって屈服させています。

 そしてこれらは人間と病原菌の進化の結果、引き起こされた出来事なわけです(ちなみに、ではなぜそもそもユーラシアの社会が危険な感染症を持つような巨大社会を、新世界やアフリカ、オーストラリアよりも先に持つことができたのか?、それについての説明は彼の著作を直接読んでください)。

 では、ダーウィン自身はこうした事柄に気づいていたのか?。

 それはよく分かりません。ただ興味深いことにダーウィンはオーストラリア人などがヨーロッパ由来の病気、はしかのような比較的軽い病気でも抵抗力がないために致命的で人口を減少させてしまうことなど、こうした現象自身はよく知っていました。「ビーグル号航海記」のなかでダーウィンが幾つもの文献や証言を引用していることから考えると、そもそもこうした事柄は当時のヨーロッパでは比較的よく知られた事実だったのでしょう(「ビーグル号航海記」(下巻)pp99~102)。

 例えば、

 同じ病気でも異なった風土では、著しく変化することがある。セント ヘレナの小島では、猩紅熱の移入は、ペストのようにおそれられている。ある国では、ある接触性の伝染病に冒され方が、外国人と土人とでは異なっていて、両者はまるで別な動物の種類かと思われるほどである。 同上 pp99

 J ウィリアムス師 Rev.J.Wikkiams はその興味深い著書のうちに、土人とヨーロッパ人とが交渉をはじめると、「必ず熱病、赤痢その他の疾病の移入に伴って、多くの人命が失われる」といっている。また、「余が駐任中、諸島の間に猛威を振った病気は、大部分は船によって、輸入されたものであるのは確実な事実であって、争う余地はない。そして事実を極めて特色のあるものとしたのは、この破壊的の輸入品を運んで来た船の乗組員に病気があらわれないことである」と断言している。同上 pp100

 このようにダーウィンは引用などによって病原体と人間の進化で起きたさまざまな実例、あるいはそれに関係する事柄とその結果を著作で述べているのです。

 とはいえ、ダーウィン自身はこの現象を説明するために、

 一室に幽閉された一群の人間から発散する気体は、他人がこれを吸いこむと、毒となるものらしい。人種が異なるばあいには、それが一そう著しくなり得ると思われる。 同上 pp101

という仮説をビーグル号航海記のなかで語るにとどまったらしい。彼の仮説は後の文章のなかで原因を死体、腐敗などに関連づけてこそいますが、あくまで”発散する気体”で説明したらしく、病原菌そのもので病気を説明することは(少なくともここでは)しませんでした。とはいえ、これにはダーウィンが苦労した当時の遺伝理論と同じように、歴史的な制約があったようです。

 そもそも病原菌が病気の原因であるとはっきりしたのは、もうすこし後の時代らしい。ドイツの細菌学者のコッホ(Koch 1843~1919 ) が炭疽病の病原菌を見つけたのが1876年。ビーグル号航海記はこの画期的な発見の半世紀も前の1830年代に出されているし、種の起原は1859年に出版されている。そしてこうした発見の後に、コッホが微生物病の病因論を確立したというから、病気の原因として微生物を持ってくる仮説をダーウィンが1859年当時に選ばなかったのはそれなりな理由があったか、あるいは当然だったのでしょう(北村は当時の病因の説明仮説などを知らないのでこれ以上はいえませんが・・・)。

 弁護するわけではありませんが、説明すればダーウィンの先の仮説には、およそ間違っていたにせよ当時の知識に基づいた根拠と観察がそれなりにあったわけです。科学の仮説はなんでもそうですが、観察を説明するために合理的に導き出したもので、当然ながら現象を説明する能力があります(当たり前)。もちろん、それが実際に確からしいかどうかは適切に実験/検証しないといけません。

 それにしても今から考えれば、ダーウィンもよく知っていたこうした不可解な伝染病のふるまいの背景にあったのは、実際には、人間の免疫や病原体との共進化、つまりダーウィンが生涯をかけておいかけた進化という事柄そのものだったわけですね。ダーウィン自身も寄生性のワームと宿主の間に存続をめぐる争いが起こることを「種の起原」のなかで推理しているのですから、現代世界にすむ私などからすると彼は正しい答えまで、あともう一歩、というところまでせまっていた印象を持ちます。

 しかし彼は伝染病の原因としての病原菌を知らなかったらしいので、ほんの少しのところにまでせまっていながらたどりつけなかった(らしい)。これは当然かもしれません(注:これはあくまで感想です。とはいえ、コッホの業績とその年代からするとやはりこんな感じでしょうか)。

 このあたり、ダーウィンの知識と考えは生涯の最後においてどうなっていたのでしょう?。ダーウィンの没年は1882年ですから、コッホの炭素病菌の発見は知ることができたとは思いますが、今のところ北村はダーウィンの著作、書簡、そのすべてに眼を通したわけではないのでよくは知りません。将来の検討課題ですね。ダーウィン・インダストリーから生まれたあらゆる文献に眼を通さねばなりますまい。

 

 さて、ここで脱線的にひとつお話を。

 最近再び映画化された古典的なSF、「宇宙戦争」。原題 [ The War of The Worlds ] H.G.Wells 1898 。このフィクションはダーウィンが種の起原を書いてから39年後に書かれた本です。つまり種の起原と違って、コッホの業績を踏まえた知識がすでにある時代の作品ですね。ですからこの小説では病原菌の描写がでてきます。

 このフィクションでは火星人が奇襲攻撃でイングランドに突如着陸、わずかな人員しかいない彼らですが、英国政府と軍隊が状況を把握するより前に脚を持って高速移動する戦車と熱線、毒ガスを使って電撃戦さながらに首都ロンドンへむかって進軍。火星人は大英帝国をわずか数日で壊滅させてしまいます。しかし彼らは地球の病原菌に対して抵抗力を持たず、地球の病気に感染して体力をじょじょに失い、そして全滅します。

 先に引用したダイヤモンドさんのノンフィクション、「銃・病原菌・鉄」はヨーロッパ人が長い闘争の歴史で手に入れた軍事力、巨大都市を作ることで手にした悪性の病原菌とそれに対する抵抗力、そして巨大に組織化された社会機構を持っていた点に注目して、世界を、とりわけ新世界のさまざまな帝国をほとんど一方的に征服してみせたという歴史的な事実を説明してみせました。

 かたやフィクションである宇宙戦争では、火星人は熱線、毒ガス、戦車、アルミ素材(当時、アルミ素材は先端技術ですね)を持っていたのだが、ヨーロッパ人と違って病原菌と抵抗力を持っていなかったために敗北するわけです。さながらダイヤモンドさん風に言い換えれば「熱線・アルミ・しかし病原菌はなし」、ゆえに失敗といったところ。

 ウエルズは小説中でヨーロッパ人が征服して、さらには絶滅までさせてしまったタスマニア島の住人を引用していますから、火星人の大英帝国の侵略というのは、これはヨーロッパ人や自分達の帝国がこれまでしてきたことに対するいわば皮肉なわけです。ただ彼は医学の進歩で地球より進んだ社会では病原菌などないだろう、つまり火星人は病気に対して免疫がない、と推論したためなのか、あるいはフィクションとしてオチをつけるためなのか、火星人とヨーロッパ人の間にたったひとつ大きな違いをつけた。それが病原菌とそれに対する抵抗力を持たない、という点。

 しかし、社会と病原菌の共進化を考えるとその結論はどうでしょうか?。真面目に考えると火星人の方が長く文明生活を送っていることを考えれば、いろいろと考える余地があるにせよ、実際にはあちらの病気がはるかに悪性でこっちに伝染するというのが現実なように思えます(もちろん淘汰によると一概にそうとはいえないことも当然ありうるでしょうけど)。いずれにしてもダーウィンから150年。ウエルズから100年。現代の我々は抗生物質を投与すればそうした強烈な淘汰圧によって新たな病原菌が進化するのを目の当たりにしています。そうした現代の視点から考えると、今となっては火星人が病原菌や抵抗力をもたないなんてことは考えにくい設定ですね。もしかしたら宇宙戦争というフィクションには淘汰と進化という視点が欠けていたのかもしれません。考えてみれば火星人がなにゆえにあのような奇怪な姿になったのかという作中における火星人の進化史の描写は、ダーウィンのいうアルゴリズムでもなんでもなくて、むしろ、昔なつかしの用不用説に近いように思えます。

 逆にいえば現代の現実世界においてダーウィン医学が発展しようとしていることは、ウエルズの時代と未来予想からはるかに越えて、隔世の感があるといっていいのかもしれません。

 不思議なものでSFというのは、しばしば非演繹的な科学のジャンルのことになると、とたんに描写がへにょへにょになるように思えますが(一部のSFマニア(なんだそれ?)が歴史科学は科学じゃないって発言したのも、逆にいうとそのせいなのかな?)、ひるがえって考えるにウエルズの場合はどうだったのでしょう?、もしかしたら彼の進化の描写の背景にはダーウィニズムや自然淘汰説が19世紀の終わりから20世紀の前半にかけて低調になったという歴史的な事実もあったのでしょうか?。

 注:ちなみに、演繹的な科学って具体的にはどれだ?というのはここでは問いません。あと、科学は厳密に演繹であるべきだっていう人はデーターからグラフをどう描くんでしょうね?。

 いずれにせよ、ダーウィンが見たり聞いたり、考えたことなどから宇宙戦争をもう少しリアルっぽく考えると、ヨーロッパがかつてやったことを忠実に再現するように、ドーバー海峡を越えて大陸に逃れたイギリス難民からスペイン風邪ならぬ火星風邪でもまん延するのでしょう。ヨーロッパの征服者がやってくる前に新世界の帝国が弱体化していたように、火星人が海を越えてフランスやドイツ帝国を侵略するころには地球の社会はとっくに足腰立たぬ状態になっていて、反撃らしい反撃もできぬままに征服されること必死です。

 それにしても脱線がてらに話すと宇宙戦争にはなんか妙にリアルな光景がけっこうある。火星人の熱線を最初見た時、主人公は目の前でばたばた人が殺されていくのに、それが危険なのかどうか理解できない。これ、ビーグル号航海記でフィッツ・ロイ大佐がせまってくるフエゴの人々を威嚇するために拳銃を発砲する場面を思い起こさせるものです。発砲されたのだが、それは威嚇発砲であるし、そもそもそんな技術や武器を知らないから相手は何が起きたか分からない。フエゴの人々はその音が単なる音なのか打撃なのかすら分からないまま、なにかされたのか?と自分の頭をなでるのですが、それとよく似ている(「ビーグル号航海記」(中)pp72~73)。

 技術の差があまりに大きいと相手が与える脅威が分からないという生々しい現実を、ウエルズはどうやって知ったのでしょうか?。帝国と他の社会との数々の接触に由来するダーウィンのような伝聞からでしょうか?。それとも作家の想像力でしょうか?。

 後、火星人の熱線の話を聞いた工兵が、

 「じゃあ塹壕を掘ろう」

 「塹壕、塹壕って、お前はウサギかっ!!」

というような言い合いをしたり、戦車に騎兵が突撃して全滅させられたりするなど、小説が書かれた16年後に起きる第一次世界大戦を思い起こさせる描写があったり、また火星の遠征軍がトラブルのため後続部隊の到着が遅れたり、思わぬ反撃にあって、進軍するべきところを火星人たちが思いとどまってしまうのはリアルな描写だなあと思ったりします。

 

←前のメモに戻る 次ぎのメモに進む→

 第3章のおまけ→

 種の起源を読むトップに戻る→ 

 

 系統トップへ→  

 このHPのトップへはこちら→