種の起源: On The Origin of Species By Means of Natural Selection or The Preservation of Favoured Races in The Struggle for Life
さて、第2章の続き、76ページから。個体数の多い種はしばしばおおくの変種をもっているという指摘から始まります。ダーウィン自身はこのことは正しいように思えるし、実際に賛成してくれる研究者もいること、しかしこの傾向を明確に示すこと自体はけっこう難しいことなどを説明します。
ともあれ、彼はこの指摘が正しいことに確信をもっているらしい(というか確信がないのならそもそもこういう主張はしないのだけど)。いずれにせよ、
大きな属はたくさんの種を持ち、そしてたくさんの変種を持っている。
そういう傾向がある。
確かにこれは納得のいく指摘であるかなあ、という印象は持てますね。例えばタンポポ(Taraxacum属)は日本中どこにでもいる植物だけど、地域ごとに少しずつ違った種がいます。関東にいるのはカントウタンポポ(T.platycarpum)。西日本、四国、九州にいるのはカンサイタンポポ(T.japonicum)。それに白い花を咲かせるシロバナタンポポ(T.albidum)。シロバナタンポポは関東より西に分布します。さらに他にも幾つか細かい特徴で区別できる種類がいるそうな(「原色日本植物図鑑 草本偏(I)」 保育社)。
他にも私たちの身近に生えているスミレ(Viola属)にもたくさんの種があります。
スミレ V.mamdshurica 乾燥した場所や町中のコンクリートの隙間、アスファルトのわきなどにはえるスミレです タチツボスミレ V.grypoceras こちらは林などで生えるスミレ。この写真のように葉が立ち上がったり、 あるいはスミレのように地面にふせているようなつきかたをしたりします。 さらに、スミレのそれぞれの種は亜種(変種?)を幾つも持っています。例えばタチツボスミレ(V.grypoceras)に限ってみても屋久島とか日本海側などに幾つか少しずつ違う亜種(変種?)がいるそうな。
ダーウィンはこうした傾向を指摘し、この傾向は他の場所でも成り立つであろうこと、そしてこの事実が自分の仮説をサポートする証拠であると考えました。
そもそもダーウィンは自然選択で変異が集積すれば種のなかに変種がうまれ、その変種はやがて種となる、そう考えています。つまり彼の考えに従うと、
1:自然選択で変種がたくさんできる
2:変種はやがてはっきり区別できる種になる
3:1と2から考えると、自然選択で変種がたくさんできる場所では種もおおくできることになる
4:そうしてできた種の集まり、つまりその属は逆にいうとたくさんの種を持つことになる
5:さらにいうとその属はたくさんの変種もまたもっている
6:だからある属が大きい場合、その属はたくさんの種を持ち、また変種も多い
まあだいたいこういうことになります。ようするにダーウィンは、
自分の仮説から考えるとこれこれのようになるし、実際に自然を観察するとそのようになっているようだ
といっているわけですね。つまり彼は、仮説を提案した。そして自然を観察すると自分の提案した仮説にあうような事実を見つけることができる。ようするに、ダーウィンは仮説から予想できる事実を観察によって確認する、という方法で自分の仮説を補強しているわけです。これは科学の基本です。
またその後でダーウィンは、
他方、もしもわれわれがそれぞれの種を創造の特殊行為とみなすならば、なぜ多くの種をふくむ群にはわずかな種をふくむ群よりも多くの変種があるのかについて、明白な理由がもとめられない。pp79
と述べています。ようするに彼は、神が種を創造したという仮説はこのような事実を積極的には説明できない、といっている。
ここで彼がやっていることは2つの仮説の説明能力の違いを指摘して、神が種を創造したという仮説よりも、自然選択による進化でできたという仮説の方が妥当だと結論づけることです。これまた科学で普通に行われている動作というか考え方です。あたりまえといえばあたりまえなのですが、ダーウィンは自分が何をしているのかよく自覚しているし、科学というものがどういうものなのかもよく理解しているようです。
逆にいうと、進化論じたいはこのように典型的な科学であって、ダーウィン自身もそのことを表明しているにも関わらず、どうしてわけのわからない誤解をされたり、科学じゃないとかすっとんきょうなことを言われるのか理解に苦しみます。ダーウィンのやっていることはニュートンがやっていることと基本的には同じなはずなのですが、ニュートンの万有引力に疑いをさしはさむ人は(相対性理論にとって代わられているのだけど)いないのに、ダーウィンの仮説には疑問を差しはさむ人が絶えないのはなぜなのか?。不思議といえば不思議、謎といえば謎ですね。
さて、80ページからダーウィンは大きな属では種の間の違いが小さいらしい、ということを指摘しています。たしかにこれも個人的にはなんとなく実感できる指摘です。スミレ(Viola属)に含まれる幾つもの種には、それぞれお互いに良く似ている種があります。例えばタチツボスミレ V.grypoceras とオオタチツボスミレ V.kusanoana はどうも非常に良く似ている。
またスミレ V.mamdshurica とヒメスミレ V.minor もまたとても良く似ています。
ヒメスミレ V.minor ヒメスミレはスミレによく似ています。特にちいさなスミレとヒメスミレは 区別が難しいですね。葉の形で一応区別はできます。
さて、これのなにがダーウィンのアイデアを支持するのか?、あるいはサポートする証拠であるというのか?。
自然選択によってわずかな差異が集積して種から変種が、変種から別種がうまれるのなら、その過程でよく区別できる変種やはっきり区別できない種があらわれると予想される。そして実際にそうでしょ?。大きな属ではあまり区別できない種が見られるでしょ?。
これがダーウィンの指摘ですね。
これまた仮説を支持する証拠を観察によって見つけるという行為。
さて、第2章は短くて、最後の方の83ページで
大きい属では、種はたがいによく似ているが、その似かたは不平等であり、またそれらの種はある種の周囲に小集団となって存在している。他の種に近似しているいろいろの種の分布区域は、限局されているようにみえる。これらのどの点でも、大きな属の種は変種とのいちじるしい相似を示す。種はかつて変種として存在し、そのようにして生じたのであるとするのなら、われわれはこれらの相似を明白に理解することができる。ところが、それぞれの種は独立に創造されたのであるとするのなら、以上の相似はまったく説明されない。
とまとめるような形式で以上の事柄が述べられています。
これはようするに、たとえばスミレを見た目の類似(これが危険なことだというのは百も承知で)からそれぞれまとめると、
スミレ属(viola属)________タチツボスミレ V.grypoceras
| |___オオタチツボスミレ V.kusanoana
|
|______スミレ V.mamdshurica
|___ヒメスミレ V.minor
以上のような近い、遠い関係になるというような観察をひきあいに出している。ようするにタチツボスミレとオオタチツボスミレはお互いに良く似ていて、それらはスミレ、ヒメスミレよりもお互いに似ている。逆もまたしかり。
つまり生物の属とかおおきな属、これに含まれる種や変種はお互いに平等に似ている、とか、またはその逆に、お互いに平等に違っているのではない。そうではなく似たものどうしのまとまりにまとまっている。このような、いわば種や変種どうしが作る構造は、進化論では積極的に説明できる。ようするにダーウィンの進化論の立場からすると、この構造は同じ祖先である種からそれぞれ別々の変種/種が生じたと考えれば積極的に説明できる。
しかし、神が種を創造したというアイデアでは積極的に説明できない 。
このことをダーウィンは指摘しているわけですね。
つまりここでもまたダーウィンは説明能力の違いで、自分の仮説の妥当性を訴えている。ところで、このあたりで見えかくれするように思えるのは、私たちが自然界を見た時に見出せるもの、それは分類体系なわけですけど、それは生物の系統を反映したものだ、というダーウィンの考えです。
これは後ほど別の章でより具体的にでてきます。
おまけ:
ダーウィンのアイデアの誤解について:
ダーウィンのアイデアは確率という考えを含んでいるので、そこで誤解されたり、あるいは理解につまづく、という見解を聞いたことがありますが、たしかにそのせいなのかもしれません。北村も、”でたらめな変異でみなさんが出来上がったという奇妙な考え方、それが進化論なのです”、という分かったような分からん文章を実際に見た事がありますし、やはり確率を導入している部分が進化論を誤解する原因なのかもしれません。というか万有引力と進化論の差異ってそのくらいだと思いますしね・・・・。誤解するとしたらここなんだろうなあ。あとは生気論の考えが根強く残っているように思えます。
属と種などについて:
非常におおざっぱにいうと、属というのは種の集合です。例えばスミレ属(viola属)には幾つかの種(注:ラテン語の読み方は正確である保証はないです^^;)が含まれます。
タチツボスミレ V.grypoceras(グリポケラス種)
オオタチツボスミレ V.kusanoana(クサノアナ種)
スミレ V.mamdshurica(マンジュリア種)
ヒメスミレ V.minor(ミノル種)
その他多数
こういった種の集合体、それが属ですね。ちなみに属も種も恣意的な概念で、明白な定義はありません。もちろん、この見解には反対意見もあります。属や科、目といった分類階級はいずれも恣意的だが、種だけは恣意的ではなく実在である、という意見がある。しかしダーウィンはそうは考えてはいませんでした。このホームページでもその考えを採用します。
種もまた恣意的な概念で存在しているわけではない。
あと、種が存在しないのなら、なんで種とか属とかという言葉を使うのですか?と聞く人もいますが、それは便利だからですね。光の波長は連続しているのに赤とか青とかいう概念を使うのも同様。赤だの青だのそんなものは存在しないのですが(少なくとも北村はそう思う、あるという人、それを示せますか?)、コミュニケーションで便利だから使うわけ。
使っているからといってその実在を信じているわけではありませんし、そもそも光はある波長でかたまってあるわけではありません。
では種や属という言葉が指し示すもの、これもまた存在しないのか?と言われるとそうではない。系統という構造、それはある、というスタンスを北村はとっています。これはダーウィンも同じ。ただ、それを言葉で伝える時に系統を便宜的にカテゴリーや区切りで切って、まとめて、それに種や属って言葉を使うのですな。ただ、種や属という言葉は指し示すもの、そのものを詳しく正確に解説しているわけではありません。じっさい、区切りで切ってまとめているから解像度が悪くなっています。ですから使う時には注意が必要なんでしょうね。
これが分からないと同種なのだから同じ性質なのであるとか妙なことを言い出したりするようです。