種の起源: On The Origin of Species By Means of Natural Selection or The Preservation of Favoured Races in The Struggle for Life 第1章:飼育栽培のもとでの変異
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ここは先祖返り(原文ではreversion:先祖返り:意味としては他に隔世遺伝/atavism)の話。
そもそもダーウィンは飼育栽培品種が人間による人為淘汰でいかに変化し、作られたかを説明し、そしてこれを足掛かりとしてこんどは野生動植物が自然淘汰で変化する(つまり進化する)ことに論をすすめていきます。このようにして種の起源では進化を説明していくのですが、このページで彼はそもそも進化の説明に飼育栽培品種を使うこと、このこと自体の正統性の説明を読者に試みています。
今の私達などからするとなんでまたわざわざそんなことを?って思うのですが、ことはそう単純ではない様子。
彼がいうことからすると、当時、飼育栽培品種は野生生物の説明には使えない、そう考える人たちがいたらしい。なぜなら飼育栽培品種を野放しにすると原種に戻ってしまう。それじゃあ飼育栽培品種で自然の種を語ることなどできないじゃないかっていう理屈。
ようするに飼育栽培品種は自然の品種とは本質的に違うから、飼育栽培品種の観察から自然の品種を語ることはできないってわけです(ちなみにこれと同じ理屈、今でも進化論への攻撃に使われますね。19世紀の疑問がいまでもくり返される理由は単純に観察不足や自然の種が非常に特別なものだっていう思い込みのせいだと思いますが、あとそういう人たちが遺伝学や育種の本を読んでいないせいかもしれません)。
それに対するダーウィンの反論は、
飼育栽培品種が原種に先祖返りするという確実な事実はない
というものです。ダーウィンは飼育栽培品種に祖先のもっていたような特徴が時々あらわれるということは認めているのですが(というかそれは見ればわかる単純な事実であり、実際に後の文章で触れるわけなんだけど)、じゃあ飼育栽培品種が原種に戻ってしまうのか?、というとそれには疑いを抱いているわけですね。
ダーウィンに言わせればそもそも原種が分からない品種があったり(原種に戻ったかどうか確認できない)、栽培条件を畑から自然な状態に戻しても、植物の成長が影響を受けて外見が変わるけど、それで遺伝までが変化したといえるのか?(というか遺伝が同じでも条件で外見が変わることは普通に起こる)。また、そもそもそういうことをして別の外見にかわっても、それは自然淘汰で祖先的な状態に淘汰されただけかもしれない。
ようするに彼のいっていることを要約すると飼育栽培品種が原種に戻るというのを証明する実験は自然淘汰とか栽培条件の変化による表現型の変化の可能性を除外する/区別できるようにしなければいけない。しかしながらそういう実験で証明されたことはない、ということのようです。
それにしてもメンデル遺伝のなかった時代、先祖返りって今とまるで意味が違っていたのではないでしょうか?。今の私達は変異した遺伝子が他の遺伝子に隠されたり、あるいは失われたり、発現をやめたり、あるいは淘汰されたりって考えることができますけど、当時の人たちにとって先祖返りとはいかなるものだったのか?(ちなみに「岩波生物学辞典 第4版」では;先祖返りは、形質の分離・遺伝子の組み換え・不完全表現・突然変異(復帰突然変異)などによって説明される。と解説されています)。
たとえば中世的な科学(というか科学と並立したこともあった自然哲学ですか?)の錬金術ではすべてのものは根源的な唯一の存在から表面的な性質がかわって分化したものだって考えます。逆にいうとそういう哲学に基づいているから錬金術では水銀や硫黄、媒介物の塩から黄金をつくることができる(と考える(らしい))。一方でメンデル遺伝はアトム論に例えられますが、メンデル遺伝以前の人々にとって、先祖返りって何だったのでしょうね?。
もしかしたら野生動物を飼育環境下におくと、本質の上になにか上塗りされて一見すると別もの、つまり飼育栽培品種になるが、飼育栽培条件からはずすとボヨヨ〜〜〜〜ンと元に戻る(あるいは本質が再びあらわれる/メッキがはがれるようなものか?)、それを先祖返りと考えていたのかなあ・・・と。
以上は北村の感想でしかないんですが^^;)、少なくともこういう考え方に対抗するダーウィンは遺伝、変異、その集積による飼育栽培品種の確立ってことを考えているわけですよね。ようするにダーウィンの考えは粒子的というか原子論的な考えにかなり近いように思えます。いくら彼が遺伝を融合遺伝で考えていたとしても、そうではあるまいか?。そしてそのダーウィンが説得しなければならない”先祖返り”っていうのは何だったのか?。その先祖返りとは今の言葉とは、あるいはダーウィンがいう”祖先的な状態に戻るときがある”、という意味での先祖返りとはまるで異質なように思えます。ちなみに昔、子供であった北村に、ある大人が、飼育されている動物は野生に戻すと原種に戻っちゃうんだよっていったことがあります。それを考えるとこういう発想は根深いのかもしれません。
ダーウィンが説得しなければいけない思想は今でも残っているわけですね。
あと、錬金術に関しては「錬金術」セルジュ・ユタン 白水社 文庫クセジュ1972 を参考にしました。とは言え、北村の錬金術への理解はまだまだですけども・・・。それにしてもこういうアトム論とはまるで違う哲学ってどのていど人間の考え方に影響を与えたんでしょう?。
さて、話を戻すと32ページからはより具体的な飼育栽培品種の話です。
面白いのは当時、飼育栽培品種はそれぞれ異なる原種に由来する。そう考える人たちがいたことです。もちろん、全員が全員そう考えていたわけではない。またダーウィンもすべての家畜品種がそれぞれただ一つの原種から生じたなどと考えていたわけではありません。
例えばダーウィンはイヌは何種類かの原種に由来するのではないか?、と考えていますし。ブライス/Blythという人の情報からインドウシはヨーロッパの家畜ウシとは別の野生品種に由来するのではないかと考えています。インドの家畜ウシは背中の肩の部分にコブ(肩峰:hump)があります。またインドの気候に適した特徴を持っている。でもヨーロッパの家畜ウシはそうではありません。
*ちなみに、「畜産大事典」1978年新著 養賢堂 をちょっと見た限りでは肩峰のある野生ウシがいないこと、狩猟民の絵画にもそのような品種がみつからないこと、ヨーロッパウシとインドウシが容易に交雑することから単一起源説をとっています。Natureの論文には例えば Troy, et al 2001, Genetic evidence for Near-Eastern origin of European cattle, Nature,vol.410., pp1088~1091があるんですが、まだ十分理解していないので参考までに。
しかしダーウィンは飼育栽培品種がぜんぶ違う野生品種から由来したという考えは非現実的だとはっきり反対します。彼の反論は非常にシンプル。もしそのアイデアが正しいのなら原種は品種の数だけ存在しなければならなくなる。野生のウシやヒツジでは20種類くらい、ヤギはヨーロッパだけでも数種類いたことになる。極端な場合、ある学者は「昔のイギリスには固有の野生ヒツジが11種類いたはずだ」と仮定しているのだけど、これはもう非現実的だ。
それはごもっとも。
ちょっと調べればイギリスには何種類もの家畜ヒツジがいます。ソーイ、マンクス・ロフタン、ヤコブ、オークニー、シェトランド、サウスダウン、ハンプシャー・ダウン、サフォーク、オクスフォード・ダウン、ライランド、コツウォルド、ドーセット・ホーン、ウェルシュ・マウンテン、チェビオット、ハードヴィック、スコティッシュ・ブラックフェイス、ロンクなどなどなど。外見、角の形などが全部違う。それにしてもマンクス・ロフタンやヤコブは角が4本あるいはそれ以上ですか・・・、家畜は自然状態の動植物よりも変異が大きいってのは本当っぽいですよねえ。
もしこれらのすべてが異なる原種に由来するならそれだけの原種がかつて存在して、なおかつそれらがぜんぶ痕跡も残さずに消滅したってことを仮定しないといけない。我々はそんな原種を知らないのだからそう仮定しないと説明が成り立たない。こりゃあたしかにダーウィンがいうように無理のある説明/仮説です。そもそもイギリスは植物や動物の種類がとても少ない(氷河期に島がまるごと氷河にごりごりされたためらしい)。にもかかわらず野生のヒツジの原種が何種類もいるなどというのはかなり無茶(たしかに幾つかの品種は外来だという話ですけども。例えばシェトランドはバイキングがスカンジナビアから持ち込んだものだとか。参考:「世界家畜図鑑」S.62 監修:正田陽一 講談社)。
それよりはダーウィンのいうようにもっと少ない原種、2〜3種類とか、あるいは唯一の祖先種しかいなくて、そこから複数の品種が作られたと考える方が無理はない。
またダーウィンは、もしすべての飼育栽培品種に対応する原種がかつて存在したという論法が成り立つのなら、例えばイヌの品種にそれぞれ相当する、あるいはそれぞれの品種を生み出すような原種がいたのか?、と問いかけます。ブルドックとグレイハウンド、これに相当するような原種がいたのかと?。
いなかったでしょうね。少なくともブルドックみたいな野生イヌやグレイハウンドのような野生イヌがいたという証拠はありません。それよりはダーウィンがいうように幾つかの原種のイヌ、まぎれもなく姿かたちは典型的なイヌ型のスタンダードな原種から遺伝的変異を選抜することで、さまざまな形態と性質を持った品種が作り上げられたと考えた方がシンプルで無理がない。しかもダーウィンのアイデアは未知の仮定を必要とはしません。48ページからダーウィンが引用するように品種改良をする人たちは実際に自由自在に生き物のかたちを変えてしまいます。引用によれば育種家であるサー・ジョン・セブライトはハトの育種について「どんな羽も3年あればつくりだせる」といったそうです。
このように生き物のかたちを選抜で変化させることは可能で事実である。ならば幾つかの原種から原種のパターンをはるかにこえるような多様でさまざまでたくさんの飼育栽培品種を創りすことは可能である。ダーウィンのこの説明には、なんら未知の部品がありません。
前後するけれども35ページからはダーウィンがいれこんだというハトの品種と品種改良の話。飼育家と知己になりハトクラブに入会し、インドとペルシャ(イラン)に在留する人から情報をもらい、人間のハトの育種と品種についてダーウィンは記述します。どうもハトの家畜化、あるいは熱心な育種はインドやイランで盛んだったらしい。ところで北村が読んでいて、げげっと思ったのはハトの品種によっては骨格のさまざまな形態が違い、そして尾骨と仙骨の数まで違う場合があるという彼の記述です(原文ではThe number of the caudal and sacral vertebrae vary;)。
まじですか・・・・。
仙骨とは腰の骨と結合する背骨のことです(仙椎/せんつい、ともいいます)。形態で生物の系統を論じる時にはいろいろな情報を使います。仙骨の数や尾骨の数も使います。使えるのなら当たり前。そして解析の結果としてある系統をたばねる特徴に仙骨の数が残る時があります(もちろん尾骨の数もありえますし、実際にあります)。例えば恐竜なんかがそうなんですよね。場合によっては恐竜と呼ばれる系統をたばねる特徴として仙骨の数が3つ以上があらわれる時がある。
じつは恐竜ってグループを一生懸命暗記したい人のなかには、恐竜を定義する特徴は仙骨が3つ以上って一生懸命に覚える人もいます(当たり前だけど研究者はそんなことはしない)。でも人間が人為淘汰を加えたハトの品種どうしで数がかわってしまうようだと、そこんとここだわりどころなんですか?って気になっちゃうんですよね^^)。
ちなみに勘違いしないようにいっておきますけど、北村、だから仙骨は使えない形質だって言っているわけではありませんよ。意外とかわりやすい形質なのかもしれないねって話です。それにこの特徴をまったく使えないとしてデーターから除外しても(<こういう理屈でそういうことをやっていいのかどうかはともかくとして)恐竜の単系統性はべつだんゆらぎません。ついでにいうと定義として暗記した特徴が1個2個消えると、系統がゆらいでいるわけでもないのに、ええっ!!って慌てるのは暗記屋さんの悪い特徴ですよね。
じっさい新しい資料やデーターで解析すると”仙骨3つ以上”は消えてしまう場合があります。参考:Sereno & Novas 1992, The Complete Skull and Skeleton of an Early Dinosaur Science, Vol.258, pp1137~1140 Sereno 1999, The Evolution of Dinosaurs , Science,vol.284, pp2137~2147 。
おかしな話なんですが北村は、系統や系統解析は不安定だって声高にさけぶ人が仙骨の数が恐竜を定義する特徴なのであるとかなんとか熱心に主張しているのに出くわしたことがあります。一体全体どうしてこういうチンチクリンなことになるんでしょう?。系統は不安定だと叫びながら、その系統よりもはるかに不安定な定義に知ってか知らずか、しがみつく。これいかに?。
それにだ、そもそも定義って何ね?。それにカテゴリー全部に共通する定義がありうるってのは単純すぎませんかね。数学の図形ならいざしらず、相手は進化して特徴を変ぼうさせ変化しつづける生物なんだから。
閑話休題
ダーウィンが興味をいだいたハトの品種間の違いはあらゆるところに及びます。胸骨とその穴の形、鎖骨の形態、口、まぶた、鼻孔、舌、内臓、羽の長さ、数、ウロコの数、羽毛の状態、成長過程、卵、とび方などなどなど。雌雄差のあるものもいるそうな(<それにしてもこれ全部調べたですか、ダーウィン・・・・)。
そしてその品種の数々
English carrier:イングリッシュ・キャリアー(イギリス伝書鳩):特に雄で発達した頭部の肉ダレ、巨大な外鼻孔(very large external orifices to the nostrils)
short-faced tumbler:ショート・フェイスト・タンブラー:ハトの仲間にしては異常なフィンチのようなくちばし
commom tumbler:コモン・タンブラー:密集して高く飛び、空中でとんぼ返りをする
runt:ラント:大きな身体・長くて太いくちばしと足・亜品種にさまざまなものあり
barb:バーブ:伝書鳩に似るが短くて幅が広いくちばし
pouter:パウター:身体、翼、足が長く、素嚢が巨大
turbit:タービット:短く円錐形のくちばし、胸のさかだった羽毛
jacobin:ジャコビン:くびの背後のさかだったエリマキのような羽毛・長い翼と尾羽
trumpeter:トランペッター:特徴的な泣き声
laugher:ラッファー:特徴的な泣き声(ラッファーとは笑うの意味)
fantail:ファンテール:クジャクのように広がった数の多い尾羽と特徴的な姿勢
ダーウィンの主張は明らかです。これだけ違うハトの品種がいるにもかかわらず彼らの原種は1つだけだ。だとしたらひとつの種からこれだけたくさんの異なるものをつくり出すことが可能だということだ。
だとしたら、
もしもこれらが単一の種の子孫であることが証明されるなら、このような事実は、世界のいろいろ違った地に住む多くのごく近似した自然種ー中略ーが不変のものだということに疑いをいだかせるのに、大きな力をもつであろう。31ページ
ということになります。今ここで引用したダーウィンの文章自体はイヌの品種から自然環境における近似した種、たとえばさまざまなキツネの品種の進化を説明できるだろうという内容なのですが、いわんとすることは主語をイヌ科にしようがハトにしようが同じですね。
つまりひとつの原種から人間がまるで性質の違う品種を幾つもつくれるのなら、自然界でも同じことが起きるのではないか?。そして(ここから先はおいおい本文で語られるのですが)実際に似てはいるが少しづつ違う品種や種が自然界にあるではないか。人間の飼育栽培品種と育種の歴史は、自然界の似た種同士の起源を説明できるに違いない。そういうことなのです。
ダーウィンの論理は極めて明解。