第四章 事件の終末とその背景

   第三節 背景その二  ─大学当局の意図─

 支配者、権力者が自己の勢力の保持に熱心であるのはいうまでもない。彼らが最もおそれ、且つきらうのは現状を否定しようとする反権力的な存在であり、従ってその存在の抹殺のためには合法的、非合法的を問わず、あらゆる手段を用いる。ところがハサミは使いようのたとえにあるごとく、危険な存在のようにみえても、それが支配者、権力者の懐中にあり彼らにあからさまに反抗しない限り、かえって彼らの権力維持には役立つものなのだ。そこでは危険な存在はいつのまにか安全弁の役割をはたさせられるからである。支配者や権力者が彼らの反対勢力を自らの存在の安全弁にするか、それとも抹殺してしまうかは、その反対勢力のもっている反支配者的、反権力的性格が現実的にどれだけ具象化されているかによって決められてくるのだ。
 読者諸兄はこの「阪大生協事件」をずっと追ってこられて、ここにいたって、支配者、権力者とは国家権力をバックにした大学当局のことであり、その反対勢力とは生協のことであり、あわれにも、その反対勢力の生協の中で小さな内紛がおこっているにすぎないのだ、という風に思われたのにちがいない。日共・民青同、日本人の声・デ学同、それにトロツキスト・労組などと呼ばれる当事者にとれば、自らの遭遇する戦いにうち勝つことは自己の政治的あるいは経済的立場からは重要なことであっただろうが、どっこい、真に権力をもつものはそんな内紛などかまってはいない。自己の権力をおびやかすものである限りは、ひっくるめて抹殺しようとするのである。よく、日共や民青同はトロツキストの暴力的挑発的行為は権力に利用されるだけだと批判する。また新左翼は日共など既成左翼は体制内化し、権力者に利用されているといって批判する。支配者や権力者はそのどちらかを利用するのではなく、利用できる限りその両方を利用するのが本当であろう。ただ利用する仕方がちがうだけである。
 大学生協も形の上からは民主的大衆的組織であるが故に、そしてその理論的特徴から反体制的方向をとりがちであるが故に、いろいろな意味で体制維持側(この場合には文部省、大学当局)によって圧力をかけられてきている。読者諸兄はすでに第一章において、生協が階級的性格をぬかれておれば資本主義体制の一つの働きとしてそれに奉仕しているためにかえって利用されるという側面を理論的にもっていることが述べられていたのを知っておられるだろう。阪大生協も順法精神にみち、大学当局のいいつけをよく守っている間は、大学の福祉政策の一翼をになっているだけに大事にされてきた。その裏では大学当局は常に阪大生協における階級的な牙をぬこうとしてきたのだった。そのためにはデ学同のごとき政治的学生組織、教職員理事のごとき穏健的で世事にうとい専門家、ただ「うまい飯だけくわせてくれるなら歓迎する」程度の認識しかもたぬ日和見の一般生協組合員の存在は、大学当局の政策上、不可欠であった。
 とはいえ一般的にいって、大学生協は大学当局にとって究極的にはやっかいな組織なのである。そして大学は、その意味において、生協がどのような性格をもっているときであれ、常に生協規制の野望をもちつづけ、生協のわずかなスキを見のがさず、攻撃してくるものであるのだ、ということを読者諸兄はよく認識しなければならない。この「阪大生協事件」のさなかにあって阪大生協労組がその大学当局の野望を歴史の流れの中からあきらかにしていた。ここに労組の『阪大生協問題』の中から、それの部分をぬきだして読者諸兄に紹介してみようと思う。

大学当局の生協規制について
一、その過去と経過

 敗戦直後ほうはいとして起った学園復興斗争に直面して、当時文部省は生協を積極的に援助し育成しようとした。生協は単に厚生活動ばかりでなく、教育的効果をも期待され、さらに教授、職員、学徒を包含したものとして、法人化に際しては生協の自主性を重視し、前三者共同の責任で運営するとともに、厚生省と協力して積極的な指導援助が望まれる旨その立場を鮮明にしていた。(「学校消費生活協同組合の育成について」各大学長宛、文部省大学学術局長発信文書、一九四九年七月八日付)また学徒援護会を設置して生協にも融資斡旋を行なうと同時に、その一部を助成金として中小単協に重点的に配分するなど資金面での援助も行ってきた。
 しかし、戦後の政治過程をみれば明らかなように、50年の朝鮮侵略戦争(独立弾圧戦争)を契機にして再軍備、レッドパージ等の反動化が表面化し、大学においても反イールズ斗争、ポポロ座事件等自治破壊の攻撃がしかけられてきた。生協に対する規制も具体的に強まってきたのである。それ以後、厚生施設に関する予算は狭い枠におしとどめられ、助成金も55年には打切られてしまった。56年には生協課税問題が起り、さらに土地建物使用料請求という形で生協規制がかけられた。(一九五六年三月二六日付、文部省会計課長通知)課税問題に対しては法人格の取得(阪大では62年)で対処し、土地、建物使用料に対しては全国で教育環境整備運動を提起し、諸論争はあったにしても、61年これを撤廃させた。このような動勢と並行して政府文部省は新たな構想で対処してきたのである。特殊法人化構想が即ちそれである。これは59年の中教審(中央教育審議会)「育英奨学及び擁護に関する事業の振興方策についての答申」で述べられている。学内厚生事業の為に国家が特殊法人を設立して、これに出資金、補助金を出すというもので、文部省の管轄下で民主的自主的生協に対抗し、学内に官僚的組織をもち込もうとするものであった。実際には実現しなかったとはいえ、生協規制の基本的な方向として以後も生きつづけているのである。

二、その現実
 特殊法人化構想は、現実に存在する生協を一挙に粉砕することは支配者といえども出来ることではないことから提起された対抗策であった。そして生協規制は現在極めて露骨にかつ系統的、全面的に強化されようとしている。その特徴は次の如きものである生協設立運動に対しては、苛酷な弾圧で臨み、既存の生協に対しては不拡大、援助拒否、競合政策で対処しようとしている。そして最も典型的には、生協設立運動に立ち上がっている大学、あるいは設立間もない生協で現われている。そしてそれを見ていく中で、今阪大で導入されようとしている業者=財団法人学校福祉協会の客観的役割、位置付けも明らかになるだろう。
(イ)千葉大学
 65年に設立される際、大学当局は8項目の規制条項を押しつけて来、それが入れられないかぎり土地建物使用の不許可、法人化も認めないというものである。そして新たに建設された500坪弱の新厚生施設では学校福祉協会に食堂を担当させ、文教協会には売店を、個人業者に理髪店を経営させているのである。その管理者には文部省共済組合があたっている。
(設立認可8条件とは次の通りである。)
(1)政治活動の禁止
(2)教官理事の指導に服すること
(3)施設についての法規上の制約に従うこと
(4)水光費の生協負担
(5)事業内容は当初、創立総会議案書の範囲内で行なうこと
(6)赤字対策については教職員理事が責任の立場にあること
(7)41年4月法人化決議については学校と相談せよ
(8)この問題については、学長を含め教職員理事と話し合いをもつこと
(ロ)長崎大学
 設立運動案に対抗して「共済会」案を出し、食堂喫茶部を学校福祉協会に委託するというもの。これは特殊法人化構想の具体化である。
(ハ)茨城大学
 設立運動が8年にもわたっているが、自民党青年部等の妨害にあっている。そして茨城会館が建設され、その食堂使用をめぐり学校福祉協会を導入するに至って設立運動が頂点に達し、設立総会を獲ち取っている。自民党、右翼の妨害の内容は反共デマ即ち「生協は赤の組織だ、共産党の下部組織だ」というもの、次に暴力、設立運動がいくつか破壊されてきた。大学当局、学校福祉協会導入に際して文部省の圧力に屈したことはいうまでもない。
 この他既に学内で一定の役割を担っている生協に対しては、以上とは違ったやり方で規制がかけられている。
(ニ)お茶の水女子大学
 ここでは前記学校福祉協会を追いだし、食堂問題で臨時総代会を開き民主的運営について討論している。しかし当局は食堂の生協移管に際して「許可条件」をたてにとって規制を強めてきた。
(大学がだしてきた「許可条件」は次の通りである。)
 お茶の水女子大学食堂の給食業務について
 本学は次の場合において、いつでもこの許可の全部または一部を取り消すことがある。このことによって貴組合が損害をこうむることがあっても本学はその責を負わない。
(1)当該建物の使用許可を取り消されたとき
(2)関係法令に違反した行為をし、関係監督機関から処断されたとき
(3)正当な理由がなく、この許可の条件に違反し、又は大学の指示に従わなかったとき(4)給食業務の正常な運営について著しい怠慢があって、本学学生及び教職員の福祉にあきらかに反すると認められたとき
(ホ)近畿大学
 ここでは、生協取りつぶしと「第二生協」づくりの攻撃がしかけられている。この大学では、もともと生協は学生、教職員の厚生施設を大学がつくるのではなく、学生、父兄に直接つくらせる目的で設立された。ところが学生教職員の生活と権利を守る立場に変化してきたため、右翼学生(近畿大学愛校デモクラティック学生同盟─我が阪大のそれも阪大愛校理性と良識のデ学同であることはいうまでもない)等が如上の攻撃をしかけてきたのである。ここでも反共宣伝はくり返し行われている。

 大単協といわれるところでも不拡大競合政策の具体化がはかられている。安保斗争後、大管法問題でゆれているころ、東大の文部官僚が「生協は必要以上に大きくなった」と広言したことは周知のところである。現在でも、その経営能力では不可能な早朝や夜の営業の条件をおしつけてきており、生協を排除しようとしている。阪大においても、“組合員の声”なる仮象をとって営業時間の延長等苛酷な要求がしばしば行われてきた。職員会館への業者導入がその競合政策であることはいうまでもない。今回の「阪大生協問題」においても、一方では教職員理事をだきこみ、デ学同の無能を利用して学校福祉協会の導入を行おうとしているのも、この問題を契機に、文部省がなみなみならぬ熱意で新たな攻勢をかけようとしている具体的なあらわれなのだ。文部省はすでに65年4月19日に「学内厚生事業の現況について」なる調査を学生部次長会議に間に合うように行なうことを指示しているし、旧七帝大の学生部長会議ではより詳細な生協調査の実施を決定し、かつ行われている。
 我々は当局の生協規制の全面的、系統的攻撃をはっきりと見究め、不退転の斗争に立ち上がらなければならないだろう。このことを全組合員、とりわけ学生諸兄に訴えたいのである。

 以上、阪大生協労組の警告の文章でもあきらかなように、大学当局が生協を敵対視し、この「阪大生協事件」を絶好のチャンスとばかりにしてその抑圧的行為を行おうとしていた事実を賢明な読者諸兄は推察されるのではなかろうか。
 デ学同が理事会で一名の仕入担当者を自己の政治的理由から追放しようとし、攻撃の火ブタをきっておとしてから、大学当局にあって、あらゆる角度から精力的に動いたのはT事務局長とK(学生)課長の二人であった。その中にあって特に力を入れていたのはK課長であり、彼はしばしばT事務局長と連絡をとり、大学独自の力で判断できない場合は、直接文部省に指示をあおぐなど、生協問題には異常と思えるほど熱心であった。彼は一応、生協の業務を正常に戻すことを表むきの理由としてデ学同、理事会、労組に介入して、それぞれの勢力を弱め、あわよくば抹殺してしまおうと画策していた。
 彼の思惑はすべて七〇年安保における大学の治安対策の一環として考えるところからでていた。それによると、デ学同が主導権をにぎる学生自治会にあっては、こと阪大に関していえば、危険な状況が生まれるというような心配をしなくてもよいので、現状以上の勢力にならない程度に注意しさえすれば、かえってそれが学生自治対策にとって好都合になる場合が多いのではあるまいか。ところが労組の方はいろいろな考えの人達が集まっていて本体がつかみにくいが、しかしデ学同が解雇しようとした人間のような新左翼の人間は最終的には阪大からパージしておかなければならない、であった。
 そこで当面の課題として、彼は、最後には、デ学同のいうトロツキスト追放の意図をもちつつも、それまでは力関係において劣っている労組に味方し、デ学同の力を消耗させるために挑発したり労組には有利な情報をながしたりした。(もっとも、後になって、この阪大生協事件の背後には日本共産党が暗躍していることを知った彼は、阪大に日共や民青同をのさばらせないためにデ学同に対して徹底的にタタくようになった。)
 K課長にとって好都合であったのは、デ学同にしても教職員理事にしても一貫して大学の基本的な考えに一致していたことであった。デ学同は個人としてのK課長を「労組と結託する大学自治の破壊者」と批判するし、しまいにはデ学同との密約を反古にされたことから、ペテン師よばわりするのであるが、K課長の実行する「大学の方針」にはすなおであった。たとえば暴力問題に関する総長告示、生協の業務再開を自主管理として非難する考え等を心の底から歓迎するなど、基本的にはデ学同の意図は大学の意図を代弁していた。教職員理事にいたっては、はじめから大学の権力機構の一端であった。労組がストライキをし、業務に混乱をもたらしたといって、短絡的に、<一時施設返上→占拠者追放→学校管理>なる構想をうちたてるなど、大学当局さえ実行するに時期尚早と考える案をかわりに主張してくれている。これほどありがたいことはなかった。
 その意味からK課長はデ学同に対しても裏からは労組内の情報をながし、いかにもデ学同の要望に答えてやっているようなポーズをとった。それでもデ学同が調子にのると、公的機関や大衆の面前でデ学同の行為を非難した。即ち、バランスを考えつつデ学同の勢力の消耗を図ったのである。教職員理事に対しては、彼らが大学機構のメンバーであり、かつ独特のプライドをもっているのを利用して、大学当局の考えの枠内で行動する限りでの保証(大学における地位、名誉保証)を教授会その他の大学内の公的機関でとりつけるよう働きかけたりする一方、生協内で大学当局の方針に反する動きがあったりすると、逆に彼らにおどしをかけ、彼らをしてその動きを妨害するよう働きかけた。それ故に両者はK課長のやり方に対して個人的には嫌ってはいたが、ともにK課長の手の内にあったのである。
 昭和四二年十二月の終り頃、K課長はある生協理事に「この紛争は複雑な政治的背景があって根深い。現在のデ学同系理事や労組幹部がいる限り、生協の解決はのぞめそうもない。一度この現状をつぶし、彼らがともにいなくなり、I主任などの真面目な従業員によってはじめて生協としての正常な運営ができるのだ」と第三者にはもっともだと思われる、だが内実は生協破壊を意味する旨の意向をもらした。それは翌一月になってT事務局長の「生協問題の解決で一切のトリヒキは無用、生協の人事は事務局長案で実施、どの党派の利益になる解決もだめだ」なる発言で裏づけられた。
 特にK課長の面目躍如たるは総代会以後の策謀ではなかっただろうか。読者諸兄は総代会でのデ学同の提案の一つが大学の援助の要請であったのを記憶されているだろう。彼らがあれほど強引に総代会をおしきったのも、「形式的でも公認された最高の議決機関の決定ならば、大学もそれを尊重して協力をおしまない」とのK課長の好意的発言を信じたからであった。ところが総代会が終るや、K課長はその強引さを責めて、「デ学同が教職員理事を辞任表明にまで追いこむほどの強引さで総代会をおしきったのは、自分達には総代会以後の方針の遂行に確固たる自信があったからだろう。大学当局は阪大生協の援助要請があっても、それを拒否するから、ひとつその強引さの自信のほどをしめしてもらいたいものだ」とデ学同に開きなおったのである。たしかにデ学同の自信のほどを支えるもう一つの根拠に大学生協連との共同歩調がとられていたこともあるにはあるが、それも大学が見はなさない限りで意味があるのであり、デ学同はこのK課長の一言に手も足もでなくなってしまったのである。
 さらに総代会以後、労組が戦術転換をした。前述の労組の記録にもあるように「総代会決定の非現実性、反生協的内容を検討した結果、一刻も早い業務再開こそが課題であるとし、教官理事と個別交渉に入り」食堂を再開したのだった。だがこの真相は教官理事であり且つ前理事長であるO教授の「業務を再開するのなら、事態解決のために自分が全責任を負って努力する」との発言に労組が信用したことにある。事実、O教授ととりかわした文書には、現在は業務再開が急務である、業務再開すれば労組のために努力する旨おりこまれていたのである。ところが自らのヘゲモニーで業務再開ができなかったデ学同、学生理事は例のまぼろしの理事会といわれる教職員理事辞意表明中の理事会でもって、その業務再開を労組の「自主管理」であるとして認めなかった。
 同様にこの業務再開は大学当局にとっても都合が悪かったのである。K課長は最初O教授が大学の厚生課に理事会指示で再開した旨の報告をしていたことを知らなかった。従って自分のたまたま出ていなかった生活委員会で、業務再開が理事長指示でなされたということで一応のけりをつけ、理事長を全面的にバックアップすることが決められていたことをあとから知らされたK課長は、業務再開がK課長を先兵とする大学事務当局の今後の生協規制対策にとってマイナスになるとの判断から、教官である生活委員、学生部長、生協理事長に働きかけ、もっともな理由のもとに、自主管理が行われていることを強調した。その結果、彼は生協理事長から次の内容のごとき一札をとりつけたのであった。

大阪大学学生部長 滝川春雄殿 
 大阪大学生活協同組合理事長 K 慎一 , 
昭和四十三年一月十八日より再開されております、食堂その他の業務は生協理事長の指示にもとづかず、生協労組の管理の下に行われていることをお知らせ致します。
 昭和四十三年一月二十二日

 K課長が労組の自主管理を強調し強引にそれをおし通したのは、当初は労組による国有財産不法占拠、従って理事会の執行能力なしの判断のもとに生協施設のとりあげを考えたからであったらしい。しかし当時の周囲の状況から判断して、ただちにその考えが思うようにはいかないとみたK課長はデ学同の勢力縮小のために利用しようと考えた。即ちデ学同に対し、あれは諸君の考えどおり労組の自主管理であると教唆し、デ学同をして業務遂行ができないような処置をとらせようとした。案の定、一月二十四日、大学からもおスミ付をもらったデ学同、学生理事は自信をもって「自主管理だからロックアウトするのだ」と生協施設におそいかかり集団リンチ、鍵や帳簿の強奪を行なった。事前にそのことあるを知ったK課長は、デ学同による集団リンチの行われる寸前、労組斗争委員の一人に「デ学同の挑発にのるな。今日一日は絶対にたのむ」なる連絡の電話をかけた。
 翌日になってもK課長の演出はつづいた。彼は午後の授業を休講にしてまで大学主催の集会を開かせ、学生部長をして、暴力の禁止、前日の学生の行為も又暴力である、警察権力の学内導入も場合によってはありうる、大学の自治とは教授会のそれであるなど、いわゆるK課長路線を大衆の前で確認させた。労組の見解によれば、K課長は「1・24には学生を通じて労組を弾圧し(なぜなら業務再開は大学の基本政策と敵対するから)、さらに今度は学生を調子づかせてはマズイ(いかなる党派の利益になってもダメなのだから)というわけで部長見解ということでデ学同に水をかけた」のである。
 さて、生協理事長をして自主管理を宣言させ、デ学同、学生理事をして業務停止にまで追いこんだK課長は、今度は教職員理事にほこ先をむけ、総代会における教職員理事の辞意表明という無責任な態度をなじり、「十八日からの業務再開をめぐって労組とデ学同系学生理事の両方からの圧力に屈するのは当事者能力がないからだと思われてもしかたがない」とのおどしをかけ、大学当局への白紙委任をほのめかし、大学当局のロボットになることによって、生協紛争の解決、従って自らの地位や名誉の保証がえられるのだ、との圧力を理事長をはじめとする教職員理事にかけたのである。
 学生理事、労組、大学当局、債権者、一般生協組合員などありとあらゆるところから突きあげられたK理事長は、O教授理事その他と相談し、ついに二月二日に大学当局へ白紙委任することを決意した。理事長名でだされたその文書の内容を要約すれば次にしるす通りである。

 教職員理事は一月十三日の総代会以後、正式の理事として復帰しないまま、学生理事と労組の説得に努めてきたが、両者の妥協は全く不可能であるという結論に達した。この紛争はデ学同系学生理事の三派系一部従業員の粛清、民青同の最終的生協支配など複雑な学生運動に直結している。具体的には学生理事が一月二十七日に従業員四名に解雇通知を出し、この撤回には絶対応じられない態度を明示し、労組はこの解雇に断固反対している。このような事態のもとで教職員理事はその微力のかぎりをつくしてきたが、遂に解決を見出すことはできなかった。財政状態も約二千万円にのぼる仕入未払金、未払賃金等に対して、支払に充当しうるのは約四百万円にすぎず、再建の見通しのない現在では債権者の了承を得ることは不可能である。以上の諸理由から教職員理事がこれ以上事態の収拾策を講ずることはむしろ一層の事態の悪化を招き、大学による抜本的事態収拾の時期をも逸することになると考え、この際、全てを大学に委任する。

 この教職員理事の白紙委任の秘密文書をうけとったK課長は二月十二日教官によって構成されている生活委員会を開かせた。そのときの議事録には次のように記された末尾の文章があった。

 今後は流動的に問題が発生することが考えられ、その都度、大学側の指示によることを確認し、緊急のものは学生部長の責任で(注・つまりK課長の責任で)処理し、委員会へは事後承認を求めること。又今後は大学側と理事会とによる表裏一体とした密着の方法として、具体的問題が発生しても理事長限りでの即答をせず、すべて学生部次長を窓口として大学側の指示に従ってもらうこと。

 教職員理事を自家薬ろう中のものとしたK課長が最後に演出した大芝居は、二月十六日に出された大阪大学学生生活委員会名いりの理事会宛の「大阪大学生活協同組合再建のための勧告」であった。それは要約すれば次のようになっていた。
(現状における最も重要な問題点)
一、学生のための集団給食業務、購買業務が六十日近く停止している。このことは大学が学生に行っている経済援助、厚生事業に重大な支障を与えており、もはやこれ以上看過することができない。
二、生協業務停止のため現在生協は約二千五百万円の債務を負い、その債務の履行対策が目下のところ全く行き詰まっている。このことは生協の存立そのものをおびやかしている。(全面業務再開による解決)
三、以上のことはただ一つ生協業務の全面再開によってのみ解決の方向が獲られる。
四、理事会と生協労組との正式交渉は十二月十三日以後停止している。生協業務の全面再開のため両者の正式交渉は不可欠であり、即時行なうべきである。両者が正式交渉に入ったその日をもって生協業務の全面再開を行なう。両者の正式交渉においては、生協再建のための協約を結ぶべきである。
(理事会の正常化)
五、一月十三日以降理事会の機能はほとんど停止している。理事会の機能の完全回復なくしては生協労組との正式交渉は成立しない。全理事は直ちに理事会を正常化すべきである。全理事は理事会の機能喪失の現状を深く反省し理事長を中心として業務の処理にあたる。理事会は生協再建のための具体策を速やかに大学当局及び全組合員ならびに全債権者に示すべきである。具体策公示の期限は二月末日を超えるべきではない。
六、総代会の改選、新理事会の選出、生協再建が具体的な軌道にのった最も早い時期において「総代選挙規程」に基づく正式な総代の選出を行ない、新総代会を成立せしめる。
新総代会においては「役員選挙規程」に基づく新理事の選出を行なう。
昭和四十三年以降の業務は新理事会によって行われるべきである。
七、以上の事項が実施されない場合、大学は一般学生の集団給食、厚生事業を確保するため、独自の対象をたてざるを得ない決意があることを留保する。

 この勧告は学生理事と労組がまっこうから対決する中で、はじめからうけいれられないことを前提として出されていた。と同時に大学当局に白紙委任をした教職員理事、なかんずく理事長をして大学当局の一員として真剣に事にあたらせるための踏絵でもあった。とはいってもK課長にとっては勧告がうけいれられてもうけいれられなくてもよかった。うけいれられれば業務再開がなったというので大学当局の大義名分はたつし、うけいれられなかった場合、従来の生協規制の政策にのっとって、業務再開をしないあらゆる施設をとりあげればよかった。業務再開ができなかったということで白紙委任をした教職員理事の名誉を奪うほどの責任をとらせればそれでよいのである。2・28団交が解雇対象者四人の就労の是非の問題で決裂しそうになったとき、K課長が「私がクビになってもいいのか」と興奮しスゴンダといわれるのも、理事長自身がこのような背景を察知したからである。
 とにもかくにもそのときの理事長への至上命令は「業務再開」以外のなにものでもなかった。だから理事長が団交の合い間に行なわれた労組役員との裏交渉で、当初の理事会決定に反してまでも就労してもとがめない旨の発言をしたのもうなづけよう。K課長にすれば、どちらかといえば団交が決裂した方がよかったが、「業務再開」がなされたとしても大学の基本方針は貫徹できると判断していた。即ち、この頃デ学同はいいかげん力を消耗してしまっており、これで勘弁してやろうとの気持になっていたし、「業務再開」といっても労組は第三者機関にまかせることで実質上の斗争放棄をしているし、ここ阪大内ではどの第三者機関にまかせたとしても、念願の「トロツキストの追放」ができる見通しが充分できていたからである。
 四月になり新年度をむかえ、K課長は長年の功績が認められ、神戸大学によりよき地位をえて栄転した。K課長の栄転後の大学当局はK課長の残した課題を追求した。いやすでにK課長が神戸大学でいみじくもいった言葉「阪大生協をつぶしてきてやった」は牙をぬかれ(生活委員会の勧告案までも無視され)総代選出さえ行なうことのできぬ現在の阪大生協の姿を皮肉にも物語っていた。
 然り、阪大生協は形だけが残されたのである。しかも大学当局の枠にぴったりとはめこまれている。事実、この年の六月、大学当局は突如、生協の一食堂施設をとりあげ、学校福祉協会という文部省管轄といってもよい実体の委託をうけた業者にかえる旨の発表を行なったのである。それは阪大生協が大学の政策に従順であるかどうかを知る試金石であった。このときにあたり大学当局は事を慎重かつ確実にはこぶために六月三日のある会議において「去る二月十六日付の勧告中に示した留保事項を生かし、大学としてそれを実行せざるを得ないと判断し、給食および売店の業務を大学独自の立場から考慮する」なる意志の統一を図り、導入した業者に対しては「営業可能の確証、営業後、万一不利用運動の起こった際の大学の保証、長期営業の確認」など大学の全面的援助のもとに実行することを決定したといわれる。そして売店業務に関しては大学当局も教科書問題で慎重になったのか時期尚早ということで実施を保留にしたが、食堂施設に関しては七月の休みになって一つの施設をとりあげることになんなく成功したのであった。このときデ学同と理事会はなんら反対運動を提起しなかったばかりか、K理事長、O教官理事等はその食堂施設から生協の所有する備品、物品を撤去させるに自ら買ってでて、業者導入に積極的な役割をはたしたのである。
 このような状態であったから、労組にとっては、解雇問題に関しても、仮に第三者機関にまかせていたとはいえ、その将来は絶望的であったと推察されるであろう。大学当局はK課長のうちたてた労組内トロツキスト排除のスケジュールにしたがって、「現時点での生協対策」なる名の排除計画をうちたて、第三者機関、職員組合の生協問題合同委員会、ならびに理事会に圧力をかけ、「第三者機関の決定までの暫定措置として解雇処分対象者の処分執行を留保し、あらためて休戦扱いとする、この場合の休職者は従業員の身分を保有するが職務に従事しないものとして休職期間中は給与は支給しない」なる内容をおしつけ、解雇対象者をして生協施設にたちいらせないための効果的措置をとらせた。その具体的行為としては、七月二十日に豊中地区部長と生協教職員理事との懇談会で、解雇対象者を学内から退去させる方法を検討するなど、大学当局はK課長の政策を追いつづけた。阪大生協労組が少しの妥協も許さず、あくまでも白紙撤回を主張しつづけたのは、大学当局の色に染められたデ学同、理事会、大学当局に反抗しきれないで呻吟している職員組合、飼いならされ従順を美徳とする一般組合員などの大阪大学特有のものといってもよい諸偏見にとりかこまれて、少しの妥協が労組にとっての死を意味する非圧迫者の生きんがための行動からだったのである。
 読者諸兄はすでに前々節で解雇対象者がどうなっているかは知らされている。S及びMの両専従理事は解任され、K(仕入係)、N(仕入係)、K(主任)、S(労組委員長)は解雇され路頭にほうりだされた。労組を離脱した八人も辞職し、その他の労組員の中にも辞職する者が数多く出た。理事会はむしろそれらを歓迎せざるをえず、退職金さえも出しえない状態となっていたのである。常に支配される者の末路、労働力を売る以外に生活の道のない人間の末路とは悲惨なものである。
 いずれにしてもK課長の二つの基本的な方針は大学当局の具体的方針として実を結んだのである。しかしながらK課長にも見落としていたことがあった。たしかにK課長は阪大生協における七○年安保対策として考えられる必要な措置、デ学同の勢力縮小とトロツキスト勢力の物理的排除を考え、そしてそれなりに処理したのであるが、しかし彼は阪大にもそれを補ってあまりある変化の息吹がまきおこっているということを軽くみていたので、後におこった「大学紛争」まで考えていなかったことである。実際のところ、第三章でも間接的に示されているように、この阪大生協事件が契機となり、あのヒツジのごとき阪大の学生の中にもデ学同、民青同のような左翼組織のもつ考え方に不満を覚え、反発を感じる者がでてきたのである。彼らは阪大生協事件を通じて、極端な場合、デ学同や民青同から出される理論や政策にある種の非戦斗性、支配者的イデオロギーをさえ感じとり、彼らに批判的になってきていたのである。
 かくて、阪大生協事件はそれ自体は労働争議であったとはいえ、大学内におこった争議であるという特殊性から、学生運動へとうけつがれていき、生協刷新委員会のごとき一般組合員、学生の下からの動きの胎頭、それを権力でおさえつけようとする大学当局の圧殺的行為、再びそれへの抵抗運動ないしは解放運動へと発展するなかで、いわゆる阪大における「学園斗争」へと変容していったのであった。

 だが、それ以後の経過については、すでに読者諸兄のより多く知るところであり、もはや、ここにいたっては、筆者の役目は終わったと考えてよいだろう。阪大生協事件という学内におこった波紋が、大学の改革、大学の発展につながる布石になったと歴史的評価が下されるとするならば、労働者にとって死刑に値する懲戒解雇を受けた数名の人間の屈辱は償われるかもしれない。しかしながらこの事件の教訓が生かされることなく、大阪大学内であいかわらず惰眠がむさぼりつづけられるのであれば、それは不本意にも去っていった人達に対する冒涜であろう。すべての大阪大学の勇気ある人達による解放された「大学づくり」こそ、「阪大ナショナリズム」の犠牲となり、言いたくても言うことのできなかった彼らの怒りの鎮魂歌になるのである。
 最後に、筆者は次の終章において、この阪大生協事件で理事会から解任された「M専従理事の手記」を紹介して、筆をおきたいと思う。M専従理事の存在は今回の事件では、きわめて特異であったので、彼から何らかの真相があきらかにされるかもしれないと期待して、筆者が彼に「心境を聞かせてもらえないか」と頼んだところ、それを手記の形で筆者に知らせてくれたのである。


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